「――山伏さん、これからお出掛けですか?」
「おお主殿。 左様、近くに滝があるので滝行に参ろうかと思ってな」
「…ああ。 あそこですね。 私もよく御祓に行きますよ。
 周囲も静かですし気持ちを静めるにはとても良い場所ですね」
「うむ、まことその通り。 身が引き締まるからどうだと兄弟を誘ったが全く興味も示さなかったな」
「ふふふ。 では、お風呂と温かい汁物をご用意してお帰りをお待ちしております」
「カッカッカ! 主殿よ、そこまで快適にされては修行にならんな! だが楽しみにしておこう。 拙僧は行ってくる故、主殿も身辺には気を付けられよ」
「はい、ありがとうございます。 お気をつけていってらっしゃいませ」




 そんな会話を交わしたのは数日前のことである。
 山伏国広はその後何度か滝行に赴き修行に精を出してしたのだが、ある日、夜明け前に目覚めた彼はまるで温泉に向かうような足取りで森の奥にある滝へ向かった。

 周囲に立ち込める静かな空気は昼の頃とはまた違う。
 ”たまにはこんな時間も良いか”と彼は満足げに頷くと、着ていた装束を脱いで滝へ向かう。 勢いよく流れ落ちる水流は屈強な体を容赦なく打つが彼はまったく動じず、ただひたすら目を伏せてじっと耐え続ける。やがて己の気がすんだところで滝の下から抜け出し、かるく体と髪を拭って顔をあげた精悍な顔立ちには変わらず眠気の欠片もなく、冷水に打たれさっぱりしたことで清々しささえあった。

 とうに夜が明けた時刻になっていたよう空は明るい。
 周囲で鳥たちが目を覚まし活動している気配もする。 朝日に染まってゆく木々や泉の水面に目を細めながら「今帰ってもさすがに主殿のつくる汁物は望めんな」と、心も腹も満たす食事をつくる温かな人の立ち姿を脳裏に思い浮かべ愉快そうに笑うと、山伏は内番ジャージを羽織った。

 そしていつものようにその場を去ろうとしたところで。

「…? 拙僧以外にこの滝に来る者がいたとは珍しいな」

 ――わずかな人の気配につい足を止めてしまった。
 だが仲間の刀剣男士に山伏のように滝行をする者がいるとは聞いたことがない。
 彼は好奇心を抑えきれずに来た道を引き返し、草葉を分けて滝壺から離れた穏やかな水面へと目を向けると、豊かな黒髪の女が泉を覗きこんでいる背姿が見えた。

「おお、ある…じ…」

 声をかけようとして――山伏の言葉は珍しく尻すぼみとなって消えていく。

 何故なら、彼女の羽織がしゅるりと細い音をたてて肩から落ちたからだ。
 羽織の下にはきゃしゃな輪廓を浮かべた薄い衣だけになり、やがてそれすらも落ちていくと白い肌が露になる。 すべらかな肌は傷のひとつもなく、着物や羽織のせいであまり見えないめりはりのある曲線や艶やかな陰影を浮かべる背中が無防備にさらされたところで――山伏国広はぐるんっと背を向けた。

(う、うむ。 これは…)

 背を向けたとしても彼の耳はその心情にかまうことなく音を拾う。
 パサリと衣が落ちる音のあと、足から何か引き抜かれていったのか妙に薄くて軽い音を耳がとらえると、固まった表情のまま山伏はガッ!と己の両耳を押さえて強引に聴覚を遮断した。
 普段は誰が全裸になろうが気にしないが、これは、さすがにどういう状況か理解できた。 自分は今、見てはいけないものを見てしまっているということも。
 男女の違いなど、そういった常識はこんのすけから教わっているもののいざその現場に遭遇し目の当たりにしたところで肝心の対処法をまったく思い出せず、山伏は珍しく混乱してしまう。人は些細なことで信頼を失う。 彼女の意に添わぬことをしてまで自分は彼女の信頼を裏切りたくはないし、失うことも嫌だった。

(と、取りあえず、ここから離れるか)

 ぱしゃん、と水の跳ねる音に彼女が御祓や沐浴のため訪れたのだろうと知る。
 以前彼女と会話したとおり、ここは確かに水温も環境もとても良い場所だ。
 しかし護衛の刀剣男士もこんのすけさえも連れていないようで、人気のない場所に彼女を置いて帰るわけにもいかない。
 ……ああ、そうか。 御祓なのだから、彼女にとってはこれが普通なのか。
 しかしひとりで。 こんな森の奥に行き来しているなど、何かあったらどうするつもりなのか。 と、ぐっと顔をしかめながらも目頭をつよく揉んで、山伏は低く唸る。他ごとに意識を持って行っても己の視界に妙にちらつく白い肌の残像がなかなか消えてくれず、さてどうしたものかと悩み果ててもここから立ち去る選択だけは浮かばない。今は静かに見守る…いや、背を向けたまま静かに護衛の役目を務めるべきではなかろうか。

「…―――きゃっ」
「!」

 驚いたようなちいさな悲鳴がきこえた瞬間、山伏は太刀を抜き放って草葉の影から立ち上がっていた。
 戦いに赴く者に相応しい剣呑な光を奥に浮かべた男が見たものは、黒髪を肩や首筋にまとわりつかせ、やわらかにふくらんだ胸を腕で隠した彼女の姿と。
 その彼女が見ている、突然に草葉から顔を出した鹿だった。
 大きく黒い無垢な瞳が彼女をしばし見つめたあと、構わず水面に口を突っ込む。 …どうやら水を飲みに来ただけらしい。 それにほっと肩の力を抜いた彼女は「お邪魔してごめんなさい」と来訪者に侘びたあと、沐浴を切り上げようとこちらに振りかえる――彼女の包帯越しの目と、呆然と立ち尽くす山伏の目がしかと絡んだ。

「…山伏さん?」
「……う、む」

 その瞬間。 何が起ころうともカッカッカと笑って受け流してしまう男の端正な顔に、冷や汗のようなものがぶわっと噴き出した。
 青い髪に雫を残し、猛然とした勢いで刀を構えて現れた姿は何事かと思われるだろうが、間違いなく覗いていたのだから言い訳のしようもなく、さすがの山伏も二の句が告げられなかった。
 しかし、誘うようにくぼんだ鎖骨をあらわにし、たわわな胸のふくらみを細腕で隠し、下腹部は水に浸かっていたが濁り湯ではなく澄んだ清流であることからほぼ隠せていないに等しい彼女の有り様は――男の身には毒なのだと彼は初めて痛感して、無意識に喉を鳴らしてしまう。

 さらに下へと視線が降りかけるのを「ぬん!」と声をあげて阻止した山伏は己の着ていたジャージの上着を神業のごとく脱ぎ払い、ばしゃんっと派手な飛沫をあげて泉に飛び込むといまだ無防備な姿でいる彼女の頭ごと己の着ていたものでその身をくるんだ。
 普段はあまり使わないファスナーもこのときばかりは光の速さのごとく閉じられ、目にも追えないあまりの素早さに「あら?」と首を傾げる彼女の身体の小ささは脆い花びらのようでもあって、何とも言えない感情に息を呑む山伏は彼女の目を見ることができなかった。

「山伏さん、どうしてここに…」
「すまぬ。 拙僧も滝行に来て戻るところだったのだが主殿を一人にするわけには行かず…」
「まあ、それはすみませんでした。 それにお見苦しいものをお見せしてしまって」
「いやそれはないのだが…んんっ、ではなくてだ。 とにかく風邪をひいてはいかん。早く水から上がられよ」
「はい。 では、ジャージもお借りします」
「うむ」

 ほっそりとした彼女の手を引いて水から上がると、サイズの合わないジャージの裾からすらりとした脚が水の滴をまとって現れる。
 いつも緋袴をはいているので彼女の脚の白さなどまったく気にならなかったが、柔い肉のついた腿は男の物とまるで違う。 そのことに何故か動揺している己に気づき(…修行が足りんな)と無意味に顎を撫でさすって彼女の着替えを待っていると、草葉の影で支度を整えて戻ってきた彼女の「お待たせしました」との声が山伏の意識を引き戻した。

「すみません。 お手を煩わせてしまって」
「いや、良いのだ。 それよりちゃんと着替えた方がよかろう、髪も濡れたままでは――」

 しっとりと濡れた黒髪をつい救い上げると、すべるように手のひらからこぼれ落ちて行く。
 まるで彼女に逃げられたような気がして反射的にその一房だけ捕らえてしまうと、頬にこぼれる己の髪にくすぐられたのかわずかに竦まる細い肩に――ぐらりと、眩暈がした。


 そうか、彼女は女なのだ。
 男とはまるで違う体のつくりをした、やわらかで、奥底の本能を惑わす、自分が惹かれ求めてやまない美しい女――。


 見つめ合う二人の間に穏やかな沈黙が流れたところで、水気の残る髪や冷えた身体のままの彼女が小さくくしゃみをしたことで我に返り、「部屋まで送ろう」と何かをこらえるように硬い声で告げた青年の声に何かを感じ取ったのか「…はい」と答えた彼女の頬はわずかに赤く染まっていた。

山伏国広と泉の誘い

山伏さんめっっっっちゃ好きです……。
脳筋でも修行オタクでもほんと好きです……。
全てを包容してくれるあのイノセントさ尊い。
2016.01.23