それは賑やかに鳴きわめいていた蝉の声が、徐々に落ち着き始めた時期だった。

「あらあら、もう八月が終わるのですね」

 この本丸の主である審神者が日付を確認しようと、執務室の壁に掛かったカレンダーへ包帯越しの視線を向け、いつものおっとりした口調に驚いたような音をまぜて言った。
 あらかた事務作業を終えた近侍の長谷部も、つられてカレンダーへ目を向ける。
 一目見て暦の分かるカレンダーの機能性に当初は感嘆の声をもらしたものだが、今ではすっかり見慣れてしまったものだ。 八月は葉月とも呼ばれ、木の葉が紅葉して落ちる秋の始まりを意味するらしいが本丸の庭の葉はまだ青く落ちそうにもなく、真夏の暑さも目立って引いた気もしない。 いまも事務作業を片す合間、額に汗がうっすらと浮かぶほどには暑さは残っている。

(九月…長月も暑くなりそうだな)

 内心でそう辟易しながら、額の汗を手袋の甲で軽くぬぐう長谷部に背を向けた彼女は、手近にあった小棚の引き出しを開けて何やら探し始めている。

 「主。 いかがいたしましたか」
 「ええ、残暑お見舞いを出し忘れていたことを思い出して…確か葉書がここに…ああ、ありました」

 そうして分厚い束で取り出したのは、文と同じ用途で使われる葉書だった。
 しかし長谷部がよく見る真っ白で無地のそれではない。
 優しく淡い白と青の色が入り混じった和紙に朝顔と金魚の絵が添えられている。 なんとなく彼女らしい色合いに「きれいな紙ですね」と他の刀剣たちには見せない穏やかな表情を浮かべて手渡された一枚の葉書に見惚れる彼に「ひとめぼれでした」と鈴を転がしたような声で彼女も笑った。

「これが残暑お見舞いですか」
「葉書はなんでも良いですが、お世話になった方にご挨拶や近況を知らせる意味でお手紙を出すのです」

 他にも暑中お見舞いやクリスマスカード、年賀状などもありますよ。
 と、様々な文化が入り交じる日本のそれに長谷部はなるほどと相づちをうつちながら、もとが刀剣であったことと戦国の世にうまれた彼には彼女の語る風習はなんとも無縁すぎて、いまいちピンと来ない表情だ。 そもそも自分たちはただの刀だった。 審神者の力を借りて人の身を得るまでは筆をもつことすらできなかったし、刀としてうっすら覚えている記憶でも密書での不穏なやり取りでしかない。

「では、主はどなたに送られるのですか」
「そうですね。 私のお師様や、演練や会議で良くしていただいた審神者様にお出ししようかと思っています…長谷部さん、今日の仕事はほぼ終わっていますか?」
「はい。 滞りなく」
「良かった。 残暑お見舞いにも出す時期というものがありますから…。
 では今日はこれで終わりにいたしましょう。 長谷部さん、今日もありがとうございました。 あとは自由にしてくださって大丈夫ですよ」

 豊かな黒髪を揺らして長谷部へと向き合った彼女が居住まいを正す。
 あまやかな唇にやさしい笑みを浮かべ、ゆるりと畳みに指をつき深々と頭を下げて長谷部に礼をとる。 美しい所作だ。 仕事の始まりと終わりの礼を欠かさぬそれにならい長谷部も座したまま一礼をしたが、その際に彼女に顔が見えなくなったことをいいことに――内心でため息をついた。

(文を書くとき、人は送る相手を想うというが…)

 それが肉親だろうが恋人だろうが、憎い敵や仇だろうが。
 人が筆をとり紙に言葉をのせる行為は、必ず相手を想う。
 遥か昔にも使われた手法は2205年と時が過ぎても廃れることなく続いているのだから、人はこれからもその手法を愛していくのだろう――純粋な人ですらない自分がそれを、羨ましいなどと見当違いもいいところなのだ。

(…俺も腑抜けたな)

 彼女が長谷部をこの本丸に招いてくれたことで、前の主ではとても得られなかった充実感や歓びをほぼ毎日のように噛み締めている。

 長谷部を顕現した審神者は別の本丸の人間だった。
 そして顕現した瞬間に、自分は必要とされていないのだと知った。
 <へし切長谷部>は他にもいて、自分が望みを持っても無駄なのだと思い知らされた。

 けれど――それでも。と、己が望まれることを願わずにはいられなくて。

 せめて、目を合わせてくれるだけでも。
 違うへし切長谷部の名でも呼ばれたなら、それこそ天にも昇る気持ちにさえなれた。
 気まぐれだったとしても主が必要としてくれるならそれだけで、この身が砕けて折れたとしても構わなかったというのに――ある意味飢えていたであろう長谷部の前に現れた彼女から与えられる、暖かで、やさしいその温もりに触れてしまえば、本当はそんなものを望んでいなかったのだと今になって思い知らされるばかり。

 自分を必要としてほしかった。
 自分が主の助けになっているのだと、言葉で褒めてほしかった。 感じていたかった。
 喉から手が出るほど欲していたものそれらのものを、今の主は惜しむことなく与えてくれる。
 それこそ、充分すぎるほどに。 
 なのにこれ以上さらに欲しがるなど臣下としてあるまじきことではないか。
 名も顔も知らぬうつくしいこの人に――誰より想ってもらいたい、など。

「…っ、それでは、失礼させていただきます」

 奥歯を噛み締めてから吐いた声を察することもその理由も、彼女は知る由もない。
 己の女々しさにただひたすら恥じ入る青年が、静かな執務室を出ようとしたところで「長谷部さん」とやわらかな声が引き留めた。
 己の欲望が彼女を穢してしまいそうで長谷部は一刻も早くこの場を立ち去りたかったが、鈴のような声で名を呼ばれてしまえば身動きできなくなる。

「…主?」
「すこしだけ待っていただけますか」
「は、…何か入り用が」
「ふふ。 そうです、お渡ししたいものがありますから」

 報告書か新たな指令書か何かだろうか。
 首をかしげる彼の様子を見た審神者は楽しそうに笑み、そうして文机に向かった彼女の細い背を長谷部が真っ直ぐな姿勢で座したまま見守る。
 彼女は右肩でまとめたつややかな黒髪からこぼれる一房を耳にかけ、ええと… と何かを思案するように包帯越しの視線を宙にやった。 すこし間が空く。 物思いに耽る姿すらきれいで、長谷部はその姿を目に焼き付けるように魅入った。

 やがて細い腕がすらすらと筆を走らせたのち。
 振り返った彼女は「お待たせしました」と長谷部に両手を差し出した。
 その手には――淡く美しい色合いの朝顔と金魚が踊る、一枚の葉書が。

「…これは」
「ふふ、表の宛先をみてください」

 慌てて焦点をあわせて文面を見やる。
 朱色の線でふちどられた小さな四角が七つ並んだ模様の意味はよくわからなかったが、葉書の中央に<へし切長谷部様>と流麗な墨の文字が添えられている。
 何度見返しても、それは自分の名前だった。
 今度は裏返してよくみるとこちらにも言葉が綴られており、濃厚な墨の文字がつづる言葉に長谷部は呼吸の仕方を忘れて、息をとめる。


 ――へし切長谷部様
 残暑お見舞い申し上げます
 暑い日が続いておりますが、体調など崩されていませんでしょうか
 おかげさまで、私どももつつがなく過ごしております
 まだしばらくは厳しい暑さが続きますが、お体にはくれぐれもお気をつけ下さいませ


「あまり字が上手ではありませんけれど…」
「あ、主。 その…」
「葉書が少し足りないので他の人には内緒にしてくださいね。 長谷部さんだけですよ」

 ただでさえ歓びのあまり呼吸が止まったというのに。
 この本丸で送るのは自分だけだと彼女は悪戯っぽく笑う。 その仕草に、成人しているはずの彼女が幼い少女のようにも見えて、初めてみる表情に心臓が大きく脈打つのを聴いた。
 このまま胸を刺し貫かれて死んでも良いと、本気で考える彼の心の内など、このうつくしい人は知りもしないだろう。 それでも。

「あ、…ありがとうございます。 主」
「こちらこそ、いつもありがとうございます。 長谷部さんにはいつも助けていただいて、私のような者が主ではなんだか申し訳ないですけれど…」
「そんなことは!」

 思わず立ち上がって否定する彼の頭上に突如、ぶわぁっと桜の花弁が舞った。
 それはただの桜ではない。 付喪神である刀剣男士がもたらす現象だ。
 幻の類でありながら触れることもできるという、青い夏の空によく映えた季節外れの桜は淡く美しく、呆気にとられる彼に構わずひらひらと降って彼女の手のひらへ落ちていくと、「まあ、きれい」ととても大切そうに、うれしそうに花びらを受け止めたうつくしい人が長谷部に微笑んで。

「夏の桜もきれいですね。 私、この桜がとても好きなんです」
「―――ッ!」

 優しい微笑みを向けられて何故か、涙がでそうになる。
 慌てて眉間に力を入れたがもちそうになかった。
 こぼれそうな嗚咽を、こみ上げる熱の塊と共に飲み込むことにいっぱいいっぱいになる。 だがそれでもどうにか「ありがとうございます、失礼致します!」とみっともなく礼をして立ち去るのが精一杯で、そんな情けない姿を彼女が不思議そうに見送っていたことを気に掛ける余裕もなく、へし切長谷部はあてがわれた自室に駆け込んだ。

「はぁっ…はぁっ…」

 戦以上に全速力で駆けたせいか肺がちぎれそうだ。
 それに構わず息切れに上下する肩を整えることもせず、部屋の隅に収まった文机に向かう。 その片隅に置いていた、刀剣男士ひとりひとりに用意された黒艶と金藤で彩られた漆塗りの文箱を開ける。
 中には重要な書類が何枚か入っていたが長谷部はそれらを全て放り出し、一枚の葉書だけをそっとしまいこんで蓋を閉じた。
 そこでようやく息を整えることを思い出し、脳へと酸素を送り込むことに集中する。
 やがて糸が切れたようにしばし呆然ときらびやかな金藤の模様を見つめていたが、指先で蓋の表面を撫で、そっと蓋を開けてみると美しい色合いの朝顔と金魚がそこにいて、美しい墨文字が長谷部の名を唄っている。

 他のへし切長谷部の名ではない。
 これは自分のために。
 あの人が自分の名を呼ぶのと同じように綴られて、それが形となったのだ。

 幸福に溺れる、とはこんな気持ちのことを言うのだろうか。

「…っ」

 声にならない声をもらし、箱を抱えるようにして長谷部はうずくまる。
 その耳がかつてないほど赤いのは、全速力で駆けたせいだけではなく。
 ぎゅっと目をつむった瞼裏に、あのうつくしい人の姿ばかりが焼き付いて離れないことも。

「―――あるじ、主…俺の、…」

 その声に熱が帯びたのも、彼がかつてのただの刀ではなくなったからだろう。
 頭上でちらちらと降り続ける桜の花びらは、少しだけ涼しい夕方になってもやむことはなかった。





 その後。
 感極まって放心していた姿と葉書を、偶然通りがかった鯰尾藤四郎に見つかってしまった。
 そこから話が瞬く間に広がって「長谷部さんだけずるい!」と大変羨ましがった複数の声により、彼女が全員に残暑お見舞いを出すことになったのはまた別の話である。

へし切長谷部と残暑の便り

長谷部ほど片恋の似合う男はいねえよな…と思いながら書きました。
なにこの人すごい書きやすい…こじらせ男子…。
これで想いが実ったらこの人爆発するんじゃないかってイメージなんですが、
そういうお話もいつか書きたいです。長谷部好き!!
2015.11.21