今日の【 忘れられた島 】はずいぶんと蒸し暑い一日になった。
4日ほど続いた激しい雷雨がようやく明け、その後訪れる湿度の高さといったら。
日中の日差しの厳しさが収まる夜でさえも熱帯のようなそれだった。
この島に住み慣れた者としても、この暑さには不快感を覚えずにはいられない――なので、部外者である彼女にとって不快感どころではすまないだろう。
裸に近い薄着のまま、ヤッファが寝そべるハンモックの足元の床で死んだように仰向けに転がったまま身動きすらしない。 薄い掛け布も彼女足元にまとわりついて乱れており、すでに何の意味もなかった。
「オマエなぁ、そんなに暑ィならカイルたちの船に戻りゃいーだろうが。
あそこは海辺だし、ここよりはよっぽど涼しいだろ」
「……なんでヤッファは平気なワケ…? 毛皮、着てるのに…」
「あー、暑いっちゃ暑いけどよ。 まあ慣れっつぅか。 寒い時期よりは毛、ないしな」
「……換毛期ってやつね……環境に適した温度調節…ウラヤマシイ……」
今、コイツの頭の中は確実に犬猫のそれを考えただろう。
だが幻獣界メイトルパでは動物の比率がはるかに高いもので、環境に適応するための生態は亜人といえど動物とよく似ている。 特に毛皮を持つ者は、寒い季節がやってくれば寒さをしのぐために毛皮の仕様も変わるというもの。
毎年、妖精マルルゥが花の咲く季節になるまでヤッファやパナシェの毛皮から離れないほど、寒い時期にはとても良い防寒なる。 しかしその分、付きまとわれてああだこうだと口うるさくいわれる。
この暑さであれば誰も寄り付くこともないので、この時期は暑ささえ我慢すれば、いつでもどこでも、のびのびとできて怠け…いや、ヤッファの心の安寧が保たれる――はず、だったのだが。
(…寝てられねえ…)
今回は心が安らぐどころじゃない。
目を閉じていつものように寝入ろうとしても、暑さに喘ぐの息遣いとか、匂いとか、そういうものがやたらヤッファの感覚に引っかかる。
もともと不思議な匂いをさせる人間ではあったが、レックスたちを通じて彼女と心を通わせるようになってから特に酷くなっているような。
こういった暑い日はさっさと寝るに限るのに、今日に限ってヤッファが寝つけないのは、定期的に泊まりにやってくる彼女のせいでもあった。 カイルの船を拠点に、集落をぐるぐると回るように寝泊りするのは彼女の楽しみでもあるのだとか――楽しそうに話をするの顔を見ていれば彼女がどれほど召喚獣が好きであるのかよくわかって、不意に、心が緩むときがある。 彼女がもたらす温かさがヤッファは好きだった。
(…しかし、コイツの匂いは一体何だってえんだ?
やたら鼻につくっていうか…フレイズがコイツの魂の輝きが強すぎてナントカって言ってたけどよ、それに関係してんのか…?)
匂いで雄を誘う雌もいるがヤッファにとって今のはそれに近い。
獣の発情期があればその勢いに乗ってしまえるのだろうが、自分もそれなりに年は食ったほうだから自制はできる。 しかし、かといって無視をすることはできないほどに自分の中での存在は大きくなっているのだ。
――いつの間にハマっちまったんだか、と諦めたように深く息を吐いてヤッファはハンモックから身を起こす。
巨体を支える寝床はぎしりと大きくきしみ、その音に、仰向けになったが虚ろな瞳をのろのろとヤッファに向けた。
「どしたのー…?」
「…だから、船に帰れって。 このクソ暑い中、湿気だらけの森の庵にわざわざ泊まりに来ることねえだろ。 風が吹けばまだ涼しいが今夜は無風だからな、ずっと暑いだけだぞ」
「んー…」
肌に汗を浮かべたの肢体は、妙に艶めかしく目に映る。
暑さで頭が回らない彼女の気怠い眼差しにぎくりとしたのは、彼女はそういうつもりではないのに今のでヤッファが一方的に煽られたから。
(一体、どうなっちまったんだ俺ァ…)
甘い匂いが、どうしても本能を惹きつける。
以前は平気だった。 だが、共に戦う仲間として彼女と心を通わせ、いつからかその笑顔が好ましいものだと思い始めるようになってから、匂いは誘うように甘くなった気がする。
ざわざわと背筋が逆立つそれに「くそ」と毒づいてから目をそらせば、がゆるりと立ち上がる気配がした。
「あたしがいると眠れないかな…」
「…ああ、目が冴えちまう」
「うーん、さすがにこの暑さではあたしもじっとしてられないっていうか…うん、分かった。 しょうがないよね…」
きし、と庵の床が音をたてる。
「また来るね」の言葉を残して離れてゆく気配に、腕が勝手に動いた。
が帰るのはありがたいことのはずなのに、意思に反する行動のこれは本能だろうか。
人とは違う大きな手がの肩を掴み、腕の中に閉じ込めるよう胸に抱くと「えぇっ」と驚いた声がヤッファの耳をうつ。
それに今さら言い訳などもできるはずもなく、言い訳するのも面倒臭く、彼女の小さな頭の髪に頬を寄せれば、やはり――甘い匂い。
「あ、れ? 帰れって言ってたんじゃ…」
「帰そうと思ってたが、ヤメた」
「っ……か、えらなくて、いい?」
ヤッファの背に流れる黒髪をぎゅ、と掴み、は小さな声でそう言った。
彼女の早い鼓動の音がヤッファの胸に伝わってくる。 しかし、ガラにもなく自分も同じように早いのではないだろうか。
こういった感情の波は久しぶりだな――主のハイネルが死んでから拍車がかかった怠け癖は、こんな感情さえ覚えることすら放棄した。 しかも相手は人間で、召喚師…この島の住民たちがもっとも憎むべきものなのに。
「帰るな」
「!」
「ここにいろ…そうすりゃ、守ってやれる」
<あの時>、親友を守れなかったから人間の召喚師を憎んだ。
だが、変えてくれたのもまた、憎む人間の召喚師たちで。
生きていりゃあどうなるか分からねえモンだな、とそのことにくっと喉を鳴らして苦笑して、結い上げられたの髪をさらりと解く。
解かれた髪の意味を理解しているのかが俯いて頬を染め上げる様に、らしくもないことを言いそうになってヤッファは思わず口を噤んだが、視線をさまよわせたあと、観念したようにの顎を引いて額を合わせた。
「それに、もうこんなに遅ぇんだ。 今さら一人で帰せるか」
「…ヤッファが送ってくれたら問題ないけど?」
「それは怠け者にするお願いじゃあねーな」
「ですよねー」
お互いに頬を擦り寄せて、笑う。
それは心地よく。 彼女に対するいとおしさも募るというもの。
薄い口唇が掠めるようにを求めれば、彼女はバッ!とヤッファの顔を押さえつけた。
その力は全力だ。 ヤッファにしてみれば何とでもない非力なものではあるが、その抵抗には少しむっとしてしまう。
「……オイ、何のつもりだ」
「ち、ちがっ、あたし、いますっごく汗かいてて! それに、暑いし!」
「もっと熱くなるようなコトでもしてりゃあ、気にならねえよ。
ほら、こっちこい…どうせ汗だってかくんだから、最後に水浴びでもしてりゃ終いだろ」
「うわ、うわうわうわーッ!」
言葉にならない悲鳴をあげる小さな体をひょいと抱き上げて、ヤッファの足は庵の奥まった場所にある寝所へと向かう。
「や、や、ヤッファ…」
「ん?」
「…ヤッファも、あ、あたしのこと…?」
そういえば伝えていなかったかと、いまになってそのことに気づく。
流れるようにこんな展開になってしまった。 いつものように面倒臭いとは思わないが、しかし、素面で真正面から伝えるのもなんだか、と。
「――あとで何度でも言ってやるよ」
そうして巻き上げていた寝所の幕を下した後のことを知るのは、彼らだけになる。