「――す、スバルさま?! 一体、どうされたんですか?!」
背後でキュウマの、悲鳴のような声が聞こえる。
彼が、こんな狼狽めいた声をあげるのは珍しい。 だから、つい、スバルはキュウマの腕を掴んで走る足を止めないまま、にやりと笑って父親代わりの青年を見上げた。
庭も同然の森なので前を見ずとも方角を見失うことはないから、スバルは十分に彼の慌てた様を堪能できた。
「いーからキュウマ、こっちこっち! 母上もも待ちくたびれるぞ!」
「ミスミさまと…、殿? ま、まさか、またあの得体の知れない女人を郷に招いたのですか?! あれほど私が忠告をしたというのに…ッ」
「はオレと母上の友達だぞ! そんなこと言うなよーっ」
「しかし!」
キュウマは昔から頭が固い。
時々、頑ななそれにはうんざりするときもあるが、それは自分たちを守るため、郷を守るためだと知っている。 だからスバルは、キュウマのそれが嫌いじゃない。
ただ時々でいいから、肩の力を抜いて休んでほしいとは思う――けれど彼を休ませるには、ミスミやスバル、郷の者では無理なのだ。 命令しても、お願いしても、彼は忍者で常に周囲を警戒してしまう。
きっと、休んだことなんて一度もない――スバルは、キュウマのそこだけが嫌だったが。
二人は森を抜け、<風雷の郷>に戻る。
青い空の下で田畑を耕す住人たちに手を振りながら細い道を駆け抜け、ひときわ大きな屋敷を目指した。
キュウマはまだ、背後で何か言っているが聞かないふりだ。
絶対驚くぞぉっと込み上げる昂揚感にスバルは思わず顔が緩むのを抑えられない。
「スバルさま! 手を、お放しください! 自分で走れますから!」
「そうだな、ひとまずここでいいか」
屋敷の門の前で立ち止まり、スバルはキュウマの腕を放してやる。
互いに息を切ることはないがそれでもすでに、キュウマは疲れたような顔をしていた。 忍者が叫び疲れてどうすんだ、とキュウマの腹を小突くと、盛大なため息を吐かれた。
「スバルさま…一体、何を企んでおいでですか」
「キュウマ! オレは常々思ってたことがある!」
「……はい?」
仁王立ちして胸を張って主張するスバルに、キュウマはぽかんとした表情になる。
しかしスバルはわざと小難しい顔をして、腕を組み、うんうんと一人頷きながら続けた。
「キュウマは働き過ぎだ! たまには休むべきだ!
任務だか使命だか知らないけどな、友達と遊んで息抜きしてもいいんだぞ!」
「はぁ…お心遣いは感謝いたしますが、忍者に休みなど必要ありませんし、私自身も休む気は毛頭ございません。 ただでさえ今は帝国軍や遭難者やらで人間たちの出入りが多くなっているというのに、ミスミさまやスバルさま、そして郷から離れるわけにはいきません」
それに友人などおりませんし、いりません。
さらりと告げられたそれに、スバルはむぅっと頬を膨らませた。
「だから! オレも母上も、キュウマが心配なんだ!
この間は悪い奴らと戦って、傷だらけになって帰ってきただろ? まだ傷も治ってないのに、偵察なんかに行っちゃうし…母上は仕方がない、キュウマはそういう男なんだって言ってたけど、オレは嫌なんだ!」
「スバルさま……」
「オレはキュウマの友達にはなれないって知ってるから、ワガママは言わない。
でも友達がいないっていうのも嫌だ、いなくてもいいなんていうキュウマも嫌だ!」
不意に、さびしそうな色が幼い顔に浮かぶ。
自分の言葉に少しだけ傷ついた少年の頭に思わず触れようと手を伸ばすが、それは力強く掴まれた。
「え」
「――だから、オレなりに考えて考えて、三日三晩考えた」
びしぃっ!と指を三本立ててキュウマに突き出す。
それにやや気圧されたキュウマだったが、スバルはにんまり笑って言った。
「と友達になるんだ! キュウマ!」
「……………は?!」
「確かには人間だけど、いいやつだぞ? 変わったお菓子くれるし、遊んでくれるし、蓮渡りさせるとすぐ池に落ちたりして、何より面白い! キュウマだってのことを気にしてたんだから、そんなに知らないわけじゃないだろ?」
「いやあの…気にしていたというか警戒していたのですが…」
きらきらとした眼差しで力説するスバルを見て、頭が痛い、とでも言いたげにキュウマが額を抑える。
どうすれば止まってくれるのだろうか。 忠実なる忍びの青年はそれを必死に考えているのだろうが解決策がまったく思い浮かばない。
「でもキュウマは俺たちがいないと心配するだろ?
だから今日は、オレと母上と、ゲンジ爺ちゃんととキュウマとで、鍋をするんだ! が貝とか魚とかいっぱい獲れたって持ってきてくれたから、美味しくなるって」
「……………す、スバルさま…私のことはどうぞおかまいなく……」
スバルの勢いと元気さにすっかり気力を奪われたのか、力のない声がキュウマから出る。
少年は主の愛息子だ。 ずるずるとキュウマを引っ張る手にすら下手に抵抗はできず、奥の間へと連れていかれてしまう。
「スバルさま、私は」
「母上ーー! ーー! 連れてきたぞー!」
襖(ふすま)がスパーンッと開け放たれる。
ああどうしたものか…と、まるで見たくないものがそこにあるかのように、そろりと顔を上げたキュウマが見たものは。
「あ、スバル、キュウマ、おっかえりー」
「これ、。 まだ紅を引いておらんぞ」
――藍色の美しい着物をまとったが、そこにいた。
髪を結いあげて簪(かんざし)をで飾り、薄化粧と白粉(おしろい)をほどこし、最後の仕上げと言わんばかりに目を輝かせるミスミが紅筆をもって、の頤(おとがい)を上げさせる。 少し薄い色の紅を引いた途端に甘く色づく口唇が、ふわりとした笑みに緩んだ。
「ありがとうございます、ミスミさま。 食事に招いていただいたのに、こんなに綺麗にしてもらっちゃって」
「いやいや、これも長年苦労をかけた部下のためならば…」
「はい?」
「なんでもないぞ。 さぁ、食事の支度もできているだろうから行くとしよう」
首を傾げるの手を引こうとして、ミスミは思いとどまる。
呆然と突っ立ったままのキュウマをちらりと見、次にスバルを見、目があった愛息子に麗しき口唇をゆるりと緩めて――「キュウマ」と忠実なる部下の名を呼んだ。
「客人であるを”藤の間”まで案内せい。
わらわとスバルはゲンジ殿を出迎えるから、あとで揃ってから参る」
「み、ミスミさま! ゲンジ殿は私が…」
「よいな? ――これは命令ぞ」
手を振るスバルと優雅に去りゆくミスミの姿が、襖の向こうに消えていった。
残されたのはキュウマとだ。
しばし、しんとした沈黙が落ちる。 しかしそれを打ち破るのは、申し訳なさそうな顔のだった。
「えっと…場所さえ教えてくれたら、一人でも大丈夫だけど」
「……いえ、命令ですので。 ご案内いたします」
は、キュウマが彼女のことを快く思っていないことを知っている。
出会った時から最悪だった。
悪魔と仙狐の召喚獣を連れて現れたを、キュウマは殺そうとしたのだ。 だからスバルが期待するような関係などになれるはずがない。 もとより”友人”など必要ない。 そんなものより大切なものが、果たさねばならぬ使命が自分にはある――いつもの冷静さを取り戻すように一呼吸し、キュウマがさっと背を翻して襖に手をかけた、そのとき。
「待って、キュウマ!」
切羽詰まったの声が、キュウマの冷静な部分を揺さぶった。
襖の取っ手に手をかけた指がびくっと震える。 一瞬の動揺。 何事かと彼女に目を向ければ――が、悶絶していた。
「……何をしているのですか、貴女は」
「ちが…っ、足、しびれた〜っ」
「…………………………………」
「ごめん、すぐ立つのは無理そう…ちょっと待ってもらってもいい?」
「………………………………………………、ご自由に」
思わず、冷ややかな目でを見下ろしてしまう。
次いで”動揺したのが馬鹿馬鹿しい”と胸中に毒づきながら、その場に腰を下ろす。 視点を置く場所がないので目を伏せての動く気配を探っていれば、「はぁーぁ」と大きく息を吐いたのが聞こえた。
「や、ごめんねぇ〜。 ミスミさまの手前お行儀よくって思って、お化粧の間なんとか正座してたんだけど…」
「そうですか」
「…そうなんです、ハイ…」
突き放したような返答で、の声に力がなくなる。
――傷つけただろうか。
ふと、そんな思考がよぎる。 けれど振り払うように顔をしかめて目を伏せたままでいれば、の気配が動いた。
「もう大丈夫そう、うん、立てる」
「…では参りましょう」
「あはは、お願いします」
がぺこり、と頭を下げると簪の珠がしゃらりと細い音をたてた。
繊細な音だ。 彼女がそっとキュウマの後に続くと浅葱(あさぎ)の香が鼻腔に触れた。 ずいぶんとめかしこんだなと、主の戯れに内心で呆れていれば「あっ」とが声を上げた。
「……今度は何ですか」
「キュウマ、それ、大変よ」
「何が」
「これ」
郷にいるから気を緩め過ぎていたのか。
それともこんな少女にキュウマをどうにかできるわけがないと思っていたのか。
の細い指先が目の前に現れたことに激しい衝撃が走って、呼吸を忘れた。 呼吸を忘れると身体機能が正常でなくなることは分かっているのに、触れた箇所に意識が集中してしまって、息ができない。
(なっ)
「眉間のシワ、くせになるのってよくないわよ?」
衝撃、なのか。 これは。
自分でも理解できない心のざわめきのようなそれに、今度は動くことを忘れた。 急に接近してきたものに対し刀を握るべきだ、苦無を握るべきだと染みついた戦の本能が告げているのに、白い指先がトンと額に触れて、ぐりぐりと解される。
ぶしつけなそれに込み上げるのは、からかわれた怒りと、不快感と――言葉にできない、何か。
「! 何をするのですか!」
「……迷惑かけてるの知ってるから、解しちゃおうかなって」
「大きなお世話です! 貴女にそんな心配をして頂かなくても結構! さぁ、早くこちらに来てください」
「ああもう怒らないでよっ、キュウマはちょっと短気すぎなんじゃないの?」
「短…っ?!」
女人にここまで侮辱されたのは初めてだ。
自分の態度も悪かっただろうが思わず、本気で殺意のようなものを抱きそうになる。 しかし、睨みつけてくるキュウマには深いため息を吐く。 ため息を吐きたいのはこっちだというのに、彼女の言動がやけに気に障った。
「あーもーもういいよ、一人で行くから」
「……それはなりません、ミスミさまのご命令です」
「そんな顔して案内されても嬉しくない。 ミスミさまには言っておくからキュウマはゲンジさんを迎えに行ってきたらいい」
長く伸びる通路をすたすたと歩き出すそれに、キュウマはぐっと息を呑んだ。
ミスミの命令は絶対だというのに何をしているんだ。 ただ案内するだけの命だというのに、何故こんなに冷静でいられないのだ。
「あたしのことを疑う気持ちは、分からないでもないけど」
何を言っている。
この人に分かるはずがない。
――この島に植えつけられた、哀しい、血濡れた想いを、分かるものか。
偵察をしていて人間の後姿を見かけるたび背筋が凍るような思いになることも、理解されてたまるものか。
「人間全部を信用してほしいなんて言わないし。
愛想よくしてほしいとか、もっと優しくしてくれればいいのにとか、この辺りは言っても無理そうだから思ってても言わないけど」
「……っ、人を怒らせるために来たのですか貴女は」
「違うよ。 あたしは、あなたと仲良くなりたかっただけ」
だから今日はここに来たの、と。
どこか寂しい音を混ぜ、静かに告げては通路を歩き出す。
淀みなく歩く彼女の行き先はミスミが命じた”藤の間”とは見当違いの方向だった。 だが、キュウマがいなくとも女中がいる。 食事の支度に動く者を誰かしら捕まえて聞くことができるはずだから、そう迷うこともない。
(仲良くなりたい、などと)
そんなものは必要ない。
だから、スバルが顔を曇らせる必要も、ミスミがキュウマを案じる必要も、が歩み寄ろうとすることも必要がない。 しなくていいのに、彼らはどうしてそうしたいと願うのか。
他人を頼れ。 許せ。 分かり合いたいと、キュウマに願うのか。
(…分かっている)
(本当は、もう、分かっているのです。 彼女が、彼女たちが、そういう人間ではないと)
それでも疑わずにはいられない。
ミスミやスバルに疑うことはさせられない。 させたくない。
だからキュウマが疑って、疑って疑って、疑い続ける。 何が何でも、同じことを繰り返してはならないのだ。
【 無色の派閥 】がまたこの島に来る懸念は一生消えないのだ――遺跡に眠る【 喚起の門 】を用いて、シルターンの世界に戻らない限りは。
(あの方たちを、故郷に返す)
(私は、そのためだけに生きているのだ――)
「こら」
「!」
眉間をツンと突かれて、思考に沈んだ意識が引き戻る。
いつの間に戻ってきたのか。 それを問う前に、知らぬ間に呼吸を止めてしまっていたのか妙に息苦しくて慌てて息を吸った。 咽(む)そうになるキュウマをがじっと見上げ、彼女の瞳に自分の姿が映りこんでいるのを見ると、なぜか動悸が早くなって顔に血がのぼる。
「な、な」
「また小難しい顔してる」
「な、何なのですか、貴女はさっきから」
「……途中で誰にも会わないし、お屋敷が広すぎてやっぱり場所が分かりません。 口案内だけでもいいから、教えてください。 お願いします」
は渋々と、またもぺこりと頭を下げる。
馬鹿な、とそんな言葉が口から出そうになった。
途中で誰にも会わないはずがない。 現に、屋敷中に人の気配があるのをキュウマは感じ取れる。 どこでも部屋に顔を出せば、通路を行けば誰かしら出会うはずだ――なのに、何故。
(…まさか)
(…わざわざ戻ってきて、くれたのだろうか…)
曰く、”小難しい顔”をしていたから。
ミスミの命令のことで困らせてしまったのではないかと、案じてくれたのだろうか――正直に言うと、少し助かったと、思う。 今回のことはミスミとスバルが、キュウマのためを想って計画してくれたのだ。(と友達になれ、という云々は置いといてだ)
が一度いなくなってから、少し時間を経った。
その間にもゲンジを案内したミスミとスバルが、到着しない自分たちが共に現れることを楽しみに待っているに違いない。 別々に現れたとなれば、さぞかし落胆した様子を隠さないまま食事が始まるのだろうが――それは、キュウマが望むことではない。
”守ってやってくれ”。
今は亡き主にそう託されたのだ――彼らの心も体も、その笑顔もすべて守ってくれと。
(…申し訳ありません、リクトさま)
今の生き方は変えられないが、それでも彼らに心配をかけてしまっていたのは確か。
記憶のなかでも豪快に笑う主に一度だけ詫びてから、キュウマはそっとの背に触れ、行く先を促す。
は驚いていたが、キュウマは少し穏やかな心地で触れられたことに、安堵した。
「…殿。 先ほどは失礼しました。 ご案内します」
「ぇ、えっと、…ううん、あたしこそごめんね。 もうからかったりしないから」
やはりからかわれていたのか…。
思わず、胡乱(うろん)な眼差しで彼女を振り返ると、違う違う!と慌てて手を振る姿が見えた。
「だってキュウマ。 レックスたちにはちょっと笑うのに、あたしには全然笑ってくれないんだもの」
「それがなんだと言うのですか…どうでもいいことでしょうに」
「重要よ! すっごく重要! 警戒心むき出してものすごく見られるよりは、キュウマと笑って話がしたいもの。 しかもせっかくきれいになったのに褒めてもくれないし」
「なっ…そ、それは」
褒めてほしかったと言われても、かなり厳しい注文だ。
確かに、一目見たときは目を奪われはしたが――いやいやそうではない。 そういう問題ではなくて、そんなことをキュウマが言えるわけがないのだ。
ミスミが着飾ってそれを褒め称えるのは自然に出てくるのだが、何故か、彼女にそれを告げるのは――どうしようもない羞恥に駆られて、言葉が詰まる。
それは、どうして。
「…キュウマ、どうしたの?」
「っ、なんでも、ないです…」
「あれ? なんか顔赤くない? も、もしかして具合悪い?」
「大丈夫ですから! 大丈夫ですからあまりこちらを見ないでください!」
「…やはりキュウマは奥手じゃのう、ゲンジ殿」
「あれはそういう男です、仕方がなかろう。 ミスミさま」
「だが、警戒しているといいながら見過ぎるのは、少しどうかとも思うのじゃが…」
「……キュウマにはそれが精いっぱいなのじゃろう。 とりあえず、ワシらは見守るだけにしておきましょう」
「母上ー! お腹がすいたぞー!」