「うーん…」
「………」
「ううーーん…」
「…………、どこが分からないんだ」
「ぇ? あぁ、うん。 この名前が何だったか分からなくて…どのページに載ってたかな?」
放っておくと延々と繰り返されそうな唸り声に、ネスティは思わず声をかけてしまった。
本当は彼女の気が済むまで考えさせて最終的に降参するまで、声をかけるべきではないと分かっている。 これはただ、ネスティが彼女に甘いだけなのだ。
マグナとトリスに勉強を教える分には甘えも優しさも捨てて厳しく接することができるのにには出来ないだなんて、おかしいだろうと思うよりむしろ贔屓だ。 彼らがこのことを耳にしたなら確実に「ずるい!」とわめきたてるに違いない――そんな、頭が痛くなるような光景を想像しながらも、ネスティはへと身を寄せて、聖王国の細々とした歴史を語る文字を指でなぞる。
「これは王の臣下の階級だ。 似たような名前の位があるのは、これが基本となって今の階位が出来上がったからな。 元となる名前を覚えてさえしまえば、あとはそこから連想していけば意外と覚えやすい」
「なるほど〜確か、王家関連はこっちに載ってたから…」
は積み重なった本の山から青い背表紙の本を抜き取って、ぱらぱらとページをめくって思考に没頭する。
その横顔は真剣だった。 集中するのが苦手だと言っておきながらそこそこの集中力を維持している。 しかし。
(……教える側の僕のほうが集中できていないだなんてどういうことだ……)
さっきからの横顔ばかり眺めて、開いたままの術書にまったく目を通していない。
それもこれも二人きりという状況もだが場所も悪かった。
ジラール邸のネスティの自室で、小さな机を二人並んで使っているから少し手を伸ばせば届く距離にはいる。 ほんの少し指をのばすだけで、触れられる位置――それは悪魔の誘惑がごとく、ネスティからじわじわと冷静な思考を奪っていった。
「あ、答え分かった」と嬉しそうに綻ぶ、柔らかそうな彼女の口唇ばかりに目がいくなんてどうかしている。
(触れたい、とか)
(僕は馬鹿か、そんなことできるわけが…)
そんなことをして許されるわけが…なかった、はずだったのだ。
しかし今では、それは許されてしまう。
人ではない肉体を持つネスティを友人だと受け入れてこの人が、自分の恋人になったなんて今でも信じられない。 デグレアことも、レイムのこともフリップのこともまだ何も解決していないのに、嘘を吐いてでも彼女を振り払えなかったのは自分の弱さか。
けれどもう、この人を手放せない。
想いが通じ合い、こうして傍にいられることがこんなにも幸福だったなんて知らなかった。 まだ仲間たちにも秘密にしている二人の関係だが、それでも、こうして二人でいられることが嬉しいことに変わりはない。
らしくないと自覚しながら、心が弾む。 浮かれてしまう。 だから、つい、彼女を甘やかしてしまうのは仕方がないと思うのだが――いや、仕方がなくない。
惚気(のろけ)てどうする。 こういうときこそ気を引き締めていなければ、ネスティを苦しめるためにフリップや【 蒼の派閥 】に引き離されるかもしれない。
それはネスティが最も望まぬ結果だ。
(…、にはちゃんと言っておいたほうがいいだろう)
この恋が期限付きであるものだと。
今は外に出ることを許されているが、本当は派閥に飼われる身なのだ。
いつまでもこうしていられるはずがない……だが、そのことを伝えて彼女にどう思われるのか考えると、怖くもあって――。
「……、ん?」
気が付けば、頬杖をついたはペンをすべらせる手をとめてネスティを見ていた。
ずっと見つめていたのだろうか。
ネスティが思考の淵から我に返ってと視線を重ねると、それに気付いたはにんまりと笑った。
「やっと気付いた。 どうしたの? 珍しくぼーっとしちゃって」
「ああ、…何でもないさ」
「そう? すっごく見られてるなぁって思ってたけど、あたしの勘違いだった?」
楽しそうな声での指摘に、気付かれていたのかとぎくりとした。
確かに、思考に沈む前は本を読むのも忘れて彼女の横顔を見つめていた。
そのことをは知っていて、あえて言わなかったのか。 思わず責めるような視線で彼女を見るが「そんな目をしても顔赤いから怖くないんだけど」とまた楽しげに笑われてネスティは黙るしかなかった。 言い負かすこともごまかすこともできない。 惨敗だ。
「あたしに見惚れてた?」
「違う、そんなことではなくてだな…」
「あたしはネスに見惚れてたよ。 ぼーっとしててもカッコイイから」
「!?」
さらりと出てきた殺し文句のようなそれに、絶句する。
どんな反応を返せばいいのか分からずただただたを凝視するしかないネスティに、はやはり、嬉しそうだった。 「ちょっと休憩ね」と呟いてから、ただでさえ近い距離にいる彼女はそっと身を寄せてきて小さな机の下で膝が触れ合う。
それだけでは終わらず、机の上に置いた手がそっと重なって指が絡まり合い、ネスティの肩にの額が擦りつけられた。 他人の体温が服越しに伝わって、思わず肩が跳ねる。
「なっ、」
「…好きだよ」
囁くように紡ぐ想いの言葉に、衝撃のようなものが体中を駆け抜けた。
心臓が痛いほどに騒いで、白む思考は彼女の名前以外の言葉が出てこない。
足のつま先から頭の天辺まで自分の体温が上がったことを自覚する。 上がる体温に、脳裏に浮かんだ浅ましい考えがに伝わってはまずいと彼女から離れようとしたが、「ネス」と静かに呼んだ彼女の声に動けなくなってしまった。
「…その、だな。 少し…近すぎないか」
「んー、もうちょっとこのまま…」
それは妙に甘く聞こえて、服の下にある肌がざわりと粟立った。
本人は自覚しているのかいないのか、まるで誘惑するようなそれ。
彼女の匂いに、理性を越えて反応してしまう本能は融機人と人間の男もそう変わらぬのかと思い知らされる。
「ネスはこういうの嫌い? こうやって手をつないで、くっつかれるのは嫌?」
「そんなことは、ないが」
「あたしは…好きみたい。 本当にネスの隣にいるんだなって、実感する」
ネスティの隣にいる自分の姿を、今まで想像したことがなかったから。
まるで、そんなことを言っているようにも聞こえて。
ネスティはつい、不思議そうにを見下ろす。
だが正直なところ「あー、ネスの匂いがする〜」と幸せそうに頬をくっつけられてはこちらも我慢というか理性というかそれ系統の紐が切れそうだった。
それらを繋ぎ止めるため意識のすべてを総動員しているから彼女の言葉の意図を知ろうとするまで頭が回らない。 彼女は分かってやっているのか?
「…」
「んー?」
「君も分かっているとは思うが、一応…確認させてくれないか」
心を落ち着かせる時間稼ぎのつもりで、の両肩を掴んで一度体を引き離す。
柔らかな感触を名残惜しいと思うがその前に、余裕を取り戻すことを優先すべきだ。 このまま自分を抑えられる自信がない。
「気を許してくれるのは嬉しいが、…僕は男で、君は女の子だ」
「ん? まあ、そうだけど」
「だから、二人きりのときに…こういうことはやめたほうが、いいと思うのだが」
「そう? だってこんな時じゃないとネスに触れないもの」
「さわ……っ、いや、そういう問題では」
さっきから頭が痛い。
それはいつもの偏頭痛とは全く違う頭痛だ。 の一句一言が、ネスティの理性を叩き壊そうとしているんじゃないかと疑いたくなるほどの破壊力があって処理が追いつかない。
(…そういう、問題じゃないんだ…)
ネスティは他人に心を荒らされたことがあっても、心を掻き乱されたことはなかった。
荒らすのと掻き乱すのとでは全然違う。
荒らされるなら荒らし終わるまで待てばいい。 だが掻き乱されるのは、いつまでも終わりがない――がいる限りネスティの心は乱される。 自分で自分が制御できなくなってしまうのだ。 目もくらむほどの鮮やかな感情に心が塗りつぶされていくのがはっきり分かる。
(、君は)
(――なんで、そう…愛しい、んだ)
愛しいと想う、心なんて。
そんなもの、一生持つことはないと思っていたのに――ふわりと浮かんだ想いにどうしようもなく羞恥がこみ上げて、の両肩に手を置いたまま顔を俯かせてしまう。 きっと、酷い顔をしているだろう。 にはとても見せられない。
「ネス、大丈夫?」
「……君は…僕が好きか」
「ん? うん、好き」
「っ……恋人、でいいんだな」
「??、うん。 あたしはそのつもりだけど…」
違った?と首を傾げて見上げてくるそれに思わず、肩を掴む手に力がこもった。
時間稼ぎのつもりが、逆方向の効果をもたらしてしまったことに気づく。 何をしてるんだ自分は…と、呆れたようにため息を吐いてしまえば、の笑った声が聞こえた。
「ネス、なんか悶々としてるねぇ」
「…誰のせいだと…」
「でもあたしだってネスのせいで悶々としてるからお互い様よ。 本当はもっと、人前でも人前じゃなくてもネスをぎゅってしたいくらいなんだから」
「だから、そういうことを簡単に言うんじゃない…っ」
「ちょ、なんで逆切れ?!」
――本当は。
こんなに愛しく穏やかな世界を知らなければ良かったと、後悔さえもしたことがあった。
を知れば知るほどに、別れはもっと辛くなる。
【 蒼の派閥 】はいつまでこの旅を許してくれるのだろう。 彼らが生成する薬がなければ生きていけないことは分かっていても、今のネスティにはがいない世界は考えられない。
彼女と出会う前の自分がどうやって生きていたのか、もう思い出せなくなってしまった。
何を感じ、何を想い、どうやって心を殺していただろうか。
――思い出せない。
彼女への想いに塗りつぶされた心は「と生きたい」と叫ぶばかりで、手に負えなくなった。
けれど、今は。
今だけは、それを忘れよう。
融機人も人間も何も関係ない。
恋をした一人の男として、心のままに君と生きる。