これは、いささか不味い状況ではないだろうか。
まるで他人事のように、そんな感想がキールの胸に落ちる。
寝起きでぼぅっとした頭の動きが鈍いせいもあるだろう。 何故こんなことになっているのか、いまいち理解が追い付かない。 思考にまとわりつく眠気を首を振ることで多少でも払いのけられたらいいのだろうが、今はそれすらもできない――彼女が、起きてしまうからだ。
それはキールの本意ではないから、自分はこの状況に対して何の打開策も打ち立てられないどころか身動きの一つもとれやしなかった。
「…すー、…」
キールがひそかに身を強張らせている間にも、小さな寝息がキールの耳に触れる。
それは、すぐそばで。 温かな体温を孕んで触れるそれに思わず少しだけ困ったように眉を下げ、視線だけを動かしてみるとの寝顔が視界を占めた。 かつてないほど近い距離。 伏せられて影を落とす睫毛も、寝息をこぼす口唇も、普段よりずっと近い距離。
なんて無防備な。 と、そんな言葉が脳裏を過ぎる。
この人は自分が男だということを分かってくれているのだろうか。 本を読みながらうたた寝をしてしまったキールの身体に寄り添うようにして眠る彼女に、キールは静かに息を吐いて自分の前髪を掻き上げた。
(…何でこんな事に…いや、それよりいつの間に来ていたんだ…?)
フラットの自室にある二段ベッドの下段が、キールのベッドだ。
上段ベッドの持ち主であるソルはいない。 フラットの仲間たちは、リプレに連れられて夕飯の買い物に出ているから今この家にはキールが一人で留守番をしているようなものだ。
久しぶりに味わう一人の静けさが心地よくてつい眠ってしまったが、しかし、彼女の来訪をまったく気づきもしないなんて気を抜きすぎている――こんなこと、【 無色の派閥 】にいた頃には有り得ないことだ――しかし、聖王都ゼラムで暮らすが今日サイジェントに来るなんて話はひとつも聞いていない。 何故、連絡もないままここに来たんだ。 教えてくれさえすればいつだって出迎えに行ったのに……と、ようやく回り始めた思考をめぐらせていれば、がキールのすぐ隣でもぞもぞと身じろいで、彼女の柔らかい感触に思わずびくっと肩が跳ねた。
「…、っ」
「んー…」
「………、はぁ…」
どうしたものか、とキールは嘆くように目元を抑える。
キールは確かにが好きで、も自分を好きでいてくれるからこの距離にがいることには何の問題もない。 だが、まだ口唇にも触れたことのない恋人に不意打ちで添い寝されて平気でいられるわけでもない。
パートナーのナツミに「キールって何考えてんのか分かんない」とバッサリ言われてしまうほど感情が表に出るほうではないが、そんな自分でも、こんな風に恋人に寄り添われて、身を委ねられることがある意味での毒だということは知っている――がこうして、教えてくれる。
(これは僕だけなのか? それとも、他の人間もこうなるのか…?)
キールは今まで、<心>がもたらす様々なものを知らずに生きてきた。
【 無色の派閥 】にはなかった、鮮やかで、目も眩むほどの、他人への想い。
家族の温もりは仲間たちが。 焦がれるような苦しい想いや、気持ちを伝える喜びはが教えてくれた。
(時々、君って人は本当にすごいなと思うよ)
それは今もそう。
今回は不意打ちではあるもののやはり彼女は身をもって教えてくれた――そのことが嬉しいような、困るような。 少し複雑でもある。 何せこんな気持ちは初めてなのだ。
自ら、キールがどれだけ彼女を想っているのかを教えてくれるのは一向に構わないのだが、せめてこの行き場のない感情を鎮めてくれる対処法も知りたかったと、そう思うのは自分勝手すぎるだろうか。
にこのことを話したなら、彼女はきっと変な顔をするに違いないなと想像して、思わず苦笑がもれた。
「…しかし…参ったな…」
どれだけ思考をめぐらせても、自分の心臓の音がいつもよりうるさくて落ち着かない。
眠気なんてとうに吹っ飛んで、服越しに伝わるの温もりと柔らかさに自然と体温があがる。
この人をぎゅっと抱きしめたくなるこの衝動は、実に自分らしくない―――だが、心を許せる他人と寄り添って眠ることがこんなにも心地よかったなんて、キールは本当に知らなかったのだ。
仲間たちと野宿で眠るのとまた違う心地よさだが、それでも、が傍にいてくれると嬉しい。
キールは目を閉じて、の髪に頬を寄せる。
彼女からは花のような香りがした。
「…まあ、いいか」
落ち着かなかった胸のざわめきが、時間が経つにつれ静まり。
穏やかな睡魔がゆるりとキールに忍び寄るもそれに抗う理由もない。
ブランケットをに寄せてから、仲間たちの賑やかな声で目覚めるまでだと言い聞かせて、キールは再び目を閉じる。
これもまた、彼女と紡ぐ愛しい日常のひとつ。