「えー…って、ことで。
この宿の保護者兼大人を代表して俺がシンゲンに一言物申す。 いいな?」
―――いや、いいな?とか言われても困るんですけど。
そんなシンゲンの返事は、何事もなかったかのようにグラッドに素通りされるのだった。
それは、昼下がりの食堂にて突如発生した。
昼飯をとろうとしていたシンゲンを囲うようにして立ちはだかるのは、うんざりとした顔の御使い3名、この状況に呆れているらしい顔の駐在軍人1名と女召喚師1名……今ここに、【忘れじの面影亭】を訪れる主な大人たちが勢ぞろいしている。
揃いも揃って、しかもこんな天気の良い日に。
ただの旅客に過ぎないしがない侍を囲い込むなど不穏な絵面このうえない。 そのうえ昼飯時に襲撃だなんと卑怯か。 好物の白ご飯と味噌汁、魚の煮付けとたくあんという純和風定食を置いて逃げられない…。
(ああでも、なんだか面倒ごとっぽい感じですなぁ…)
――こうなったら彼らに止めてもらうしか他あるまい。
と、つい先ほどまでそこにいたはずのフェアとライの姿を目で探しても、二人の姿は何故か見えない。
(しまった、先手を打たれたか…)
おそらく大人たちに”店番はまかせろ”や”たまには息抜きしてこい”などとなんだかんだ言いくるめられて買い物に出て行ったに違いない。
これは、確実に何かが起こる予兆だ。
面倒事的な何かが今これから、確実に起こる……しかし囲まれたからといってシンゲンが動揺するはずもなく、芳ばしい色のたくあんをぽりぽりと食しながら、呆れた表情も隠さないでしれっととぼけてみせた。
「なんなんですか、皆さんおそろいで」
「まったく…何でこんな事になったか分かってるくせに反省もしてないみたいだな…」
「反省も何も、自分はなーんにも悪いことはしてませんよ」
「……頼むから少しは反省の色を見せてくれ……お前が原因で、御使いたちが駐在所まで駆け込んで苦情を言ってくるんだよ……」
頭痛がするのかこめかみを押さえてグラッドが言う。
駐在軍人もなかなか大変そうだ…いや、今大変なのは自分か。
孤立無援。 四面楚歌。 背水の陣…思い浮かぶのはどれもこれも後がないものばかりで助けは来ない空気が漂う。 しかし、なんでまた御使いたちが出てくるのかいまいち分からない。 セイロンの仇討ちか?
(好奇心で龍の若様に関わるんじゃなかった……)
自分でこの状況を招いておきながらこんな事を言うのもなんだが、心からそう思う。
「と、いうか…まぁだ解決してないんですか?」
「それどころか悪化しているらしいぞ…周囲の状況が」
周囲?とシンゲンは不思議そうに首を傾げるのだった。
―――例の<逆鱗>の件から早くも3日目が経過した。
シンゲンの知る限りでははいまだにセイロンから逃げ続け、セイロンはを追い続けるという構図が続いているらしい。 セイロンほどの者ならばなどあっけなく捕まえられるのだろうに、それをしないのは罪悪感か後悔の念か……どっちにしろ、あれから何も解決していないらしい。
”自分なら、惚れた女をいつまでも放ってなんかおきませんけどねぇ”と、店主不在のため自分で白ご飯のおかわりをよそうシンゲンに、クラウレとアロエリ兄妹(苦情その1)から冷ややかな視線が投げられた。 二人とも、心なしかうんざりとした顔色だ。
「あいつらの問題だったので放っておこうと思ったが……とうとう無関係でいられなくなった。 セイロンの様子が変だ何だと、ラウスブルグの同胞たちも大騒ぎで対処に困っている」
「兄上が不在の時はあいつが同胞たちのまとめ役でもあったからな……あんな腑抜けた姿を見せては皆が不安がる。 貴様が原因ならどうにかしろ、飯を食うな!」
「いやぁ、自分にとっては他人の痴話喧嘩より飯のほうが大事なもんで」
”しかし、ついに腑抜けたか”と笑うと、事の流れを見守っていたミント(苦情・その2)が深いため息を吐いた。
「それだけじゃないんです。 セイロンさんもちゃんも元気ないって、フェアちゃんやライくん…それに子供たちも心配しているんですよ」
ぎこちなくなった理由が理由だけに、そう詳しく話すわけにもいかないし。
と、心配顔のミントの隣で「俺が解決してみますよミントさん!」と息巻くグラッドだが、自分の色恋沙汰もスムーズに進んでいない彼がどうにかできるとはとても思えない。(おっと、これは禁句だったか)
――確かに、キッカケを作ってしまったのは自分ではあるが。
しかし結局のところこういうのは当人同士の問題なのではないか。 特に、男女の仲なんてどこの世界でももつれやすいものだし、他人がどうこう言うまでもないと思うが。
「はぁー…あのですね、さんをそそのかした自分ももちろん悪いでしょうが、でもそれは龍人族の若様にも言えることじゃあないですか? 惚れた女のたった一言で暴走してちゃあ、まだまだ修行が足りないってことですよ」
初恋でも童貞でもあるまいし。 と、たくあんを白飯に乗せて口の中にかっ込む。
リビエルとアロエリは意味が分からなかったのか「どーてい?」と不思議そうに首を傾げる。
しかし「わー! お前、女性の前でなんてこと言うんだ!」と顔を真っ赤にしたグラッドに対し、ミントは「それって、セイロンさんも悪いってことですか?」と意外と冷静に切り替えしてきた。(これじゃあグラッドの友人関係脱出は無理でしょうなぁ)
「疑いもなくすぐに押し倒したって聞いて、誰が一番驚いたかってそれはまさに自分ですよ」
「それほどちゃんが好きだったって事でしょう? それなら好奇心だけで女の子を傷つけて反省しない誰かさんよりは、ずっーとマシだと思いますけど」
反省しない誰かさんってのは自分の事ですかぃ…などなど、最後の抵抗のつもりでなんとか言い返してみるもあっさり無視されてしまった。
…………どうやら、これ以上の抵抗は無駄らしい。
グラッドはともかく、笑顔で辛辣な言葉を突き刺してくるミントには逆らうまいと判断して、シンゲンは彼女の笑顔に降参するように両手をあげた。
「……あんた、自分にどーしろって言うんですかぃ…」
「もちろん、私たちの願いはたった一つです。 二人が仲良くなってくれればもう何でも」
にっこりと微笑みながらも有無を言わさぬ迫力が伝わる。
この笑顔の前に「何でもいいのか」などという突っ込みも迂闊にできない。
さてどうしたものか…と、本来美味いはずの茶を不味そうな顔ですすっていれば、食堂の出入り口の扉が開いた。
「―――ああ、皆、揃っているのか…」
現れたのは、目に見えて覇気のない顔のセイロンだった。
いつものように背筋をピンと伸ばし、足音小さく歩く様は変わらないが目に力がない。
もともとが端整な顔なだけに憂いを帯びた横顔は美しいのだが、普段のセイロンを知っていると逆に不気味だ。 高笑いしないセイロンはセイロンじゃない…と、この場にいる誰もが(ただし、シンゲンを除く)その光景にごくりと息を呑んだ。
「せ、セイロン…大丈夫か?」
「うむ…どうにもいまいち、気力が湧かぬ。 心配かけてすまんな」
グラッドの言葉を一応は受け取っているのだろうが、いつもの不敵な笑みすらない姿はあまりにもセイロンらしくない。
ぼんやりとした顔のままシンゲンたちから離れたテーブルについて、またぼんやり。
なんと、まさか本当に腑抜けになっていたとは――シンゲンにボディブローをくらわせた人物とは思えないほどの腑抜けぶりだ――この男のせいで茶が不味くなってしまう状況なのかとおもうと、さすがのシンゲンも苛立ちが込み上げてきた。
「セイロン、いい加減にしてくれませんかねェ。 こっちはあんたのせいで無理難題を押し付けられて困ってんですよ」
「知るか。 貴様など、眼鏡が割れて路頭にさ迷うがいいわ」
「…(…コノヤロウ…)…へえぇ惚れた女に避けられてるからまだメソメソしてるんですねぇ。
龍人族の若君とあろう者が、たかが一人のオンナに翻弄されてちゃあ、あんたの一族もこの先さぞかし不安でしょうなぁ。 またオンナにかどわかされるんじゃないかってね」
「――たかが、だと?」
セイロンの頬が、ぴくりと引きつるのが見えた。
ゆらりと立ち上がる彼の目は、射殺さんばかりにシンゲンを睨めつける。
力強く揺らめくように浮かぶ瞳の光が彼の怒りを饒舌に伝えるが、そんな視線を何ともない風に受け止め、刀の鞘を鳴らして同じく立ち上がるシンゲンに”あーもうこの二人なんでこんなに相性悪いんだ!”とグラッドが頭を抱えた。
その横で、クラウレは溜息を吐いて目を閉じる。
「無駄だな、ああなったセイロンは止められん」
「っていうか…正直、止められる気がしないぞ俺は…」
”関わらないほうが身のためだぞ”と呆れを含んだ戦士の忠告に、しかし、グラッドはそのまま頷くわけにはいかなかった。
彼らが殴り合おうがどうこうしようがある程度までは許容できる。
だがその余波で食器の一つでも割れるとなるとそうはいかない。 フェアとライの二人が、魔王よりも恐ろしい形相でグラッドを追いかけてくるに違いない。
だめだ、怖すぎる。 留守番はまかせろとか言うんじゃなかった。
(誰か、助けてくれー!)
龍と虎のごとき戦いが繰り広げられようとする展開に、グラッドの心中に悲鳴が上がった。
―――そのとき。
バタバタと慌しい足音が聞こえてきたかと思いきや、食堂の扉がバンっと勢い良く開くと、焦った様子のが食堂に飛び込んできた。
手に黒板と教材を抱えているのは、セクターの塾で子供たちの勉強を教える手伝いをしていた帰りだからだろう。 腰に手を当て、キッと目をつり上げて立った様はいかにも子供同士の喧嘩を叱る先生の余韻が残っている。
「ちょっと! 皆が喧嘩してるってミルリーフが泣きついてきたんだけど…って、ウソやだ。 マジで喧嘩っていうか何この空気」
「…止めてくれるな。 我らは一度決着をつけるべきらしい」
「女子供の出る幕じゃないってもんです。 怪我するから下がってなさい」
刀を抜いて。 拳を構えて。
じりっと地面を擦って互いに距離をとり、間合いを計る。
彼らをどう止めようが確実に血を見る展開が繰り広げられるであろう、その瞬間――はぁ、とが深く深い溜息を吐いた。
そして躊躇なく、持っていた黒板へと垂直に爪を立て。
「いい加減にしなさーーーーーいッッ!!!!」
キギィィーーー!!と鳴り響く奇音が、その場にいる者全てを戦闘不能にさせた。
―――ふわり、と揺らめく白い湯気は、温まった浴室と自分の身体から立ち昇る。
それらをまとうまま浴室から一歩足を踏み出して、脱衣所へ。
お風呂上りの独特の疲労感は心地良かったけれど、 時季が時季なだけに脱衣所は肌寒く、自然と気が引き締まって身体を拭く動きが手早くなる。 こういうときこそ電気ストーブとかあればいいんだけどなぁと思うも残念ながらリィンバウムにそれはない。
「もうちょっと温まってから出ればよかった……んー、うぅ、耳もまだヘンな感じ…」
体を拭くその間にも、鼓膜の奥で響くキンとした耳鳴りに苛まれた。
いつまでも耳に残るそれに”あー”と顔をしかめてしまう。
黒板に爪をたてるって後遺症が酷い。 ”さすがにやりすぎたかな”と耳をトントンと叩いてごまかそうとするもあまり効果はなくて、やっぱりキンと残って響くのだった……うぉぉ、やるんじゃなかった。 自分が辛くてしょうがないってどうなのコレ。
(……でも、放っておいたら本気でやりあってたしなぁ…)
瞬時に感知できるほどの険悪な空気に、口で言っても効かないとは分かっていた。
――ので、手に持っていた黒板を使ってみたのだけれどそれが予想以上によく効いたという……止めたかった二人だけでなくその場にいた全員が声なき声で悲鳴をあげ、耳を押さえて蹲ってしまったという結果は予想外だった。
特に耳のいいクラウレやアロエリなんて地面に伏せたままぴくりともしないもんだから本気でどうしようかと……いやもう、ほんとにごめんねクラウレ、アロエリ。
っていうか黒板恐るべし。 セルファン族の屈強な戦士を二人も倒してしまっただなんてとんだリーサルウェポンだよ。
(――それに…)
(皆がああして集まってたのも、セイロンとシンゲンの喧嘩の原因もあたしにあるんだろうな…)
セイロンとあたしの間にある、ぎくしゃくとした空気。
それは隠しようがないほどまで、周囲に伝わってしまっている――みんな、心配してくれているのだ。 そのことを思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「…、でも」
ぽつり、と落ちたものは躊躇いの塊。
あたしは湿った髪もそのままに、羽織ったシャツのボタンをひとつひとつかけていく。 そうしてふと顔を上げた先の――洗面台の鏡には、いつもと違って元気のない表情の自分がいた。
それがなんとも情けないやら滑稽やら。 三日もセイロンと話さないだけでこんな顔になるなんて相当重症だ。 普段の自分はセイロンからどれほどの元気をもらってるんだろう。
「………顔、…合わせらんないよ…」
避けるだなんて、いい加減に子供じみた事をやめるべきなのは分かってる。
頭は充分に理解しているのに心だけがモダモダして体がついていかない。 セイロンの姿を目にしただけで、衝動的に逃げたくなるのだ。
(――だって、)
あたしは、セイロンにとんでもない事をしてしまった。
3日経った今でも後悔がいっぱいで、ぐるぐるとめぐって胸を締め付ける。
知らなかったとはいえ今回のカルチャーショックは半端じゃない。
まさか龍人族にとって<逆鱗>にはそんな意味があったなんて――伴侶となる相手にしか見せられない代物だったなんて――知らなかった。 でも、”知らなかった”ですむ問題ではないのだ。
広い背中の中心の、小さく赤い鱗の群集。
その中のたったひとつの逆さ鱗――<逆鱗>が、彼らにとって重要なものであることは直接目にして、触れてみてよく分かった。
あれはただの逆さ鱗じゃない。 セイロンも言っていたじゃないか。 あれは彼らにとってただの鱗なんかじゃなくて本当に…本当に、心を許せる人以外にしか見せてはいけない大切なものなんだって。
――全てを終えてから話を聞いたセイロンの、驚いた顔が脳裏に浮かぶ。
『まさか…何も知らなかったというのか?』
(……あんな顔、させるつもりなんてなかったのに…!)
落胆が混じった、呆然とするセイロンの表情がすごく悲しくて。
――そこまで思い出すとなんだかまた悲しくなってきた。 ぎゅっ、と唇を噛み締めて俯く。 セイロンはあたしにたくさんの言葉をくれたけど、あたしはそれを裏切ってしまったんじゃないかっていう気持ちに苛まれてばかり。
――それがすごく苦しくて、悲しくてたまらない。
せっかく気持ちが通じ合ったと思ったのに、どうしてこんなことに――――。
「…あーだめだ、気が滅入ってきた…も一回、顔、洗お……っ?!」
洗面所の鏡に映ったのは半裸姿の自分の姿。
その姿に”あるもの”を見つけて、今度は火が噴き出そうなほど顔が熱くなった。
誰かに見られたわけでもないのに慌ててシャツの前を掻き集めて周囲を見渡した――やだやだどうしよう誰かに見られたりなんかしてないよね――充分に混乱したあと、恐る恐る、自分の裸の胸にそっと指を這わせてみた。
(…ま、まだ残ってる…)
―――湿った肌の上に咲く、赤い彩り。
これは、あの夜にセイロンにつけられたモノだ。
今はもう大分薄くなってしまったが、あの夜のあとはもっと色濃かった。 それを洗面所でも風呂場でも、着替えの時でもとにかく肌をさらすたびに見せつけられて何度頭の中が羞恥で爆発しそうになったことか。
どうしよう、薄くなったから消えたんだと油断していた。 今日はちょっとシャツっぽい服だったからまさかセクターさんや子供たちに見られたんじゃ…!?
「――おやおや、3日も経つのにまだ残ってるんですかい。 本人みたいにしつこいですなあ」
「ひょぉわぁぁぁッッッ!!?」
びっくりしたびっくりしたビックリしたーーぁぁッ!!
突然かけられた声に心底驚いて口に出てきた以上に心の中は大絶叫なのに、ひょっこり覗いてきたシンゲンはなにやら感心した風だ。
その場で飛び上がらんばかりのあたしの反応に「そこまで驚かなくても」と和やかに笑っている……もうやだ何でこの人空気読まなさ過ぎるの……って、いやいやいやいやいや、待って待って。
その前に、あたし鍵をかけたはずよね?
「何でシンゲンがいるの?!」
「いやあ、あはは」
「あはは〜じゃないっ! なんでそんなのん気な顔で笑ってんのよ全然笑い事なんかじゃないんだからーっ!」
半裸のままひとりで悶々としていたが、確かにノックも何も聞こえなかった。
まさか合鍵? …いや、それはない。 フェアたちが宿泊客でもあるあたしの許可なく他人に合鍵を渡すはずもない。 つまりはどうやってかは知らないけどこの男は、鍵がかかっていたはずの部屋にあっさり侵入してきたわけで。
……もしかしてドアノブ、壊されたのかな……だとすれば今夜はどこで寝ろと……あああぁもうそれよりあたしのことはそっとしておいてほしいんだけど……などなど、胸のうちから込み上げる色んな思いと願いをこめ、あたしはノックもなく入ってきたシンゲンを追い返そうと睨んだ。
「シンゲン! とにかく出て――」
「おや、さんいい脚してますねぇ」
どこか嬉しそうな笑顔での指摘に、自分の格好がどんなものだったかと気がついて今度は怒りが一気にしぼんで絶叫した。
ちょっ、あたし今、すっごい格好…! ズボンとかはいてないー!!
「いやー! 出てって! 今すぐ出てってよ!!」
「いやいや、そういう訳にもいかんのですよこれがまた」
慌ててシャツの前を引き寄せて胸元を隠すも、シャツの裾から剥き出しの足は隠せない。
今日も頭の中が羞恥で爆発しそうだ。 「ぎゃー!」と色気もない悲鳴をあげてしゃがみ込み、立ち上がることもできないせいで面と向かってシンゲンを怒ることもできない。
しかし目の前の不法侵入者は「いやー、声をかけたら開けてもらえないだろうなぁと思いまして」などとぬけぬけと言って、あたしからゴゴゴッと立ちのぼる負の念をあっさりスルー……ああそうね! 開けるどころか居留守使ってやったわよコンチクショウ…!
「いいから帰って! あたしまだ怒ってるんだから…シンゲンなんかしばらく顔も見たくないっ」
「まあまあそう言わずに。 自分の白ご飯のために、あんた達にゃぁく元通り仲良くなってもらわないと困るんですよ」
「白ご飯ってなによバカァァ! だ、っだいたい、シンゲンのせいでこんな…ッ」
ああだめだ。 頭の中がぐっしゃぐしゃ。
シンゲンの前でなんか泣きたくないのに、いっぱいいっぱいでなんだか泣けてきた。
「あらら…そんなに無体な抱き方されたんですかぃ?」
「違う! セイロンは、ごっ、強引だったけど…やさしくしてくれた…っ」
「なら良かったじゃないですか。 あんた、あの龍の若様を好いてたんでしょう?」
良かったって、何が良かったというのか。
何も良くない。 好きだって言ってくれたセイロンを騙して、ひどいことをしてしまったのに。
あたしは、きっと、セイロンの誇りを傷つけた――。
「そうよ。 セイロンが好きよ。 でもだからって、あんな、騙したみたいに」
「初めてが惚れた男なら良かったじゃあないですか。
後々のことを考えたら、これを機会にスッパリサッパリ諦めるっていうのもいいんじゃないですかねぇ?」
「…え…」
シンゲンの言葉の意味を理解しかねて、あたしは言葉をなくしてしまう。
なにそれ。 一体、どういうこと……?
「だって、最終的には実らない恋じゃないですか。
あの若様は高貴なお人。 あんたに本気だろうが本気じゃなかろうが、どうせ嫁さんを迎えるとしても女一人だけには収まらないのが遥か昔から続く高潔な血筋の掟というものでしょう」
何てことはない風に、あっさりとそう言い放つシンゲン。
彼の声は物語を語る詩人のようで、けれどそれは、セイロンに恋をしていつかは直面するであろう要素を含んだ予言でもあった。
――シンゲンは、鬼妖界シルターンの生まれだ。
高貴な身分がどんな暮らしをしてどんな掟をもって血族を絶やさずにいられたかなどの知識は、別世界から呼ばれたあたしなんかよりはずっと詳しいんじゃないか――それはすなわち。
(……、そっか)
新たなカルチャーショックに、くらりと目眩がした。
(セイロンには、たくさんの奥さんが必要かもしれないんだ…)
この世には知らない文化。 知らない世界がたくさんある。
シルターンは昔ながらの日本に似ている。
なら、大奥みたいな、一夫多妻制みたいなものがないなどと言い切れない。
あたしは、セイロンが他の女の人と一緒にいるところを見るのは耐えられるだろうか…?
「――――できない…」
無意識に、ぽろりと零れ落ちる涙がどんな意味の涙なのか自分でも分からない。
でも、あたしはできない。
少なくとも今は、セイロンが好きすぎて気持ちを割り切ることなんてできない。
セイロンを独占したいとか、あたしだけのセイロンでいてほしいとか、そんなことばかり考えてしまうあたしには、無理な話だった。
「…うっ…セイロン……ッ」
なんだか、色々と限界だったらしい。
子供みたいに泣きじゃくって、ほろほろと涙をこぼすばかりのあたしにシンゲンがうっと呻く声が聞こえた。 「あー、ちょいと言い過ぎたか」とほとほとまいったように頭を掻いて、あたしの目の前にしゃがみこみ顔を覗き込んでくる。
珍しく、困り顔のシンゲンだ。
「あー、あー、その、自分も、無責任過ぎました。 本当にすみません、さん。
でも、こういう風習もあるんだって事だけなんで、若様がどういうつもりだったかは直接聞いてみないことには、ほら、分からないじゃあないですか? ね?」
「め、夫婦になれって、い、言われたけど…っ、でも」
「ええええぇッあんたに夫婦になれって言ったんですかあの若様?! あれ? もしかして、これって本気? 本気の本気であんたを娶るつもり……」
「――ほう、本気だとすれば何か不都合なことでもあるのか?」
一瞬、あたしの息が止まる。
それは、とてもよく知る声。
泣き出したあたしにわたわたと慌てるシンゲンの大きな身体の向こうから聞こえてきた、ひどく落ち着いた声につられ驚きのあまり涙を拭うことも忘れて顔を上げると、にじんだ視界にも鮮やかな赤い衣が見えた。
これは、セイロンの色。
彼の目や逆鱗と同じ、きれいな赤色。
「…セイ、ロン…」
「そなたがの部屋に入るのを見たとリュームから聞いて、心配になって駆けつけてみればよくもまあ好き放題に言ってくれるではないか」
コツ、と靴底を鳴らしてセイロンが歩み寄ってくる。
彼の赤い目が、ポカンとしているあたしの姿に目を留めると驚いたように目を見張り、昼に干してから椅子にかけたままだったブランケットを掴むとあたしめがけて放り投げた。
ぶわっと広がるそれに視界が一気にブランケットで埋まっていく。
「わっ!」
「…何という格好をしておるのだ、そなたは」
セイロンにしては少し雑な物振る舞いと、呆れたような溜息。
けれど頭にかぶさったブランケットにモダモダしているあたしを丁寧に包む仕草は、やさしくて。
白い布にくるまるようにして顔を出したあたしの姿にぐっと唇を噛み締めて、ぎゅうっと抱きしめてくれた。
「せ、セイロン…」
「――――その肌を、他の男に見せてくれるな…」
耳元で、セイロンのこえがする。
それが鼓膜を通して体の奥に染み入り、あたしの心を甘く震わせる。
セリフが恥ずかしい。 シンゲンの前でそんな。 などなど突っ込みたい気持ちよりも嬉しさが勝ってしまい、セイロンの背中の服をきゅっと掴みこくりと頷くことしかできなかった。
なんかもう、別の意味で泣きそうだった。
「で、でもセイロン。 あたし…」
「――確かに、龍人族が住まう里それぞれに掟はある。
一人の夫が妻を多くもつところもあるだろうが…それは、我らもそなたたち人間と同じ、個人の自由だ。
加えて 我ら龍人族は、伴侶一人だとそのぶん交わりは濃厚となり、より強い血をもった子が産まれやすくなるものなのだ………それに、」
そこでセイロンは言葉を区切って、こほんとひとつ咳払い。
なんだか頬が赤くなっているように見えるのはあたしの気のせいだろうか。 思わずじっと見つめていると、「そんなに見るな」とまたも咳払いを繰り返して。
「――…それでなくとも、我の伴侶は一人で充分だ」
そうして、ここ最近では見られなかったやさしい笑顔を見せてくれたセイロン。
その笑顔にやっぱり胸がどきどきしてしかたがない。
笑顔がかわいいとか、低音の声が心地いいとか、あたしはどれだけセイロンに夢中なんだろう。
さっきまでの憂うつな気分はなんだったのかと思うほど塵もなく吹っ飛んで、衝動的と呼ぶには相応しい喜びのあまりセイロンの首に腕を回して抱きついた。
「セイロンごめんね、ごめんなさい、っずっと、避けてて…っ」
「いや――我のほうこそすまなかった。 何も知らぬそなたを抱いてしまった。
もっと冷静になって話を聞いてやればよかったのだがどうにも、思った以上に浮かれてしまっていてな……、面目ない」
う、浮かれてしまっていたって。
それは、どういう意味で? だなんて、聞かなくても分かる。
だってセイロンはあのときに色んな言葉をあたしにくれたのだ。
「…そなたを好いているのだ、」
「――っ」
「妻として娶りたいのも本当だ。 我がリィンバウムにやってきた目的でもある龍姫さまを見つけ次第、すぐにでもシルターンにそなたを連れて戻り祝言を挙げたい」
し、信じらんない。
さっきよりもすぐ近く、耳たぶに触れられそうな距離で、セイロンの、こえがする。
熱のこもった低い声に心臓が痛いくらいに騒ぎ出して、爆発しそう。(もう何度目だろう…)
すごく嬉しいのにすごく恥ずかしいせいで顔を上げられなくて、戸惑った声でしか返事ができないあたしにセイロンが額をすり寄せてくる。 ふわりと香るセイロンの匂いで熱に浮かされたように、くらっと目眩がした。
「セイ…ロン…っ」
「――…」
「あのーちょいとあんたたち、自分のこと忘れてませんー??」
―― 一気に夢から覚めた気分だ。
なんだかたいそうガッカリした風にシンゲンを見やれば、「ちょ、その顔なんなんですか」とものすごく傷ついた風にシンゲンが眉を下げる。
「ああもうハイハイ、じゃあ邪魔者はさっさと退散しますよ。 はーやれやれ、これで落ち着いて飯が食える…」
「うむ。 馬に蹴られて眼鏡が割れるといいな、シンゲン」
「あ、やっぱりドアノブ壊してる。 しかも綺麗な切り口でまた職人技を……あとで修理代請求するからよろしく〜」
(……この二人に関わるとロクなことがない……!!)
***
数日後。
「……あの、セイロン」
「ん、何だ?」
「さっきから視線が痛いんだけど…あたし、何かおかしなことしてる…?」
いつものように仕事で、セイロンの部屋のベッドシーツを整えているだけなんだけど。
と、不思議顔で振り返って尋ねるあたしにセイロンは「あっはっはっは、問題ないぞ」と笑っていつものように扇子をひらひら振るだけだった。
……うーん、毎度のことながら何考えているのか全く読めないわ……っていうか、会話のキャッチボールにすらならないとはこれいかに。
「気にするな。 ただ、そなたに感心しておったのだよ」
「え…か、感心って…」
それは、もしかしなくても褒めてくれているのだろうか…。
わ、わ、わ、なんか、自分の仕事姿勢を褒めてもらえるなんてちょっと感動かも。 仕事頑張ってて良かったなぁ! テンション上がった!
「ぁ、あはは、その、あの、ありがとセイロン…すごくうれし――」
「うむ。 常々良いモノを持っていると思ってはいたが、実際に触ってみて確信がいった」
――あれ? 触るってなに?
何を言っているのか分からなくて思わずセイロンを変な目で見てしまうんだけれど、セイロンはまったく気にしていない。
にやりと笑んだ口元を扇子で隠しながら、誇らしげにうんうんと頷くと。
「そなたの良い部分は強い魂の輝きだけではない。
困難に立ち向かう勇気と度胸があり、気立てもよくて働き者。 そのうえ抱き心地もよく安産型となると我が一族の将来も安泰だ。 ああだこうだうるさい爺やたちもそなたをきっと気に入るだろう」
「うわー爺やとか本当に存在するんだ…っていうか、安産型って……」
そこで、シーツの端をそろえていた動きを止めた。
安産型って…まさか……と自分の体勢にようやく気付く。
後ろのほうであたしの仕事を見守っていたセイロンからすれば、あたしは彼に腰を突き出すような姿勢になっていて(これは仕方がない! 不可抗力だ!)、ずっとそんな目で見られていたのかと知ると一瞬で顔に血が上った。
ばっ!と、お尻を隠すようにして振り返ってもセイロンは満足げに笑うだけで……うわぁぁぁっなにこれなんであんな満足そうな顔で笑ってんの、怖いよ!
「どっ、どこ見てるのよスケベ!」
「む、何を言う。 我も男なのだから好いた女の尻についつい目がいくのは仕方がなかろう。
それに尻の形も重要だ。 どのような尻だろうがそなたを愛していることには変わらんが、安産型と知っていれば我も安心して子を生ませられるというものよ」
あのセイロンが尻、尻と連呼するのを聞く日がこようとは……なんかショックだ……いや待って。 なんか、すっごい事言ってないですかこの人。
「な、な、な……って、こ…ッ子供?!」
「だが、龍姫さまをお探しできぬ限りそなたを里へ連れ帰れぬのも問題だ。
あんまりにも待たせるとそなたに愛想つかされてもおかしくはない…よし、少しシャオメイという娘のもとへ行って来る。 何か情報が入っているやもしれぬしな」
セイロンは一人で高速自己完結をした後、呆然としたままのあたしを残して部屋を出ようと彼は出口を目指す。
けれど不意に、「む、そうだ」と思い出したようにあたしに振り返った。
そこには先日までの憂うつさは影も形もなく、晴れ晴れとして、それこそ太陽みたいに眩しく明るい笑顔でセイロンが笑っていた。
「やっとそなたが手に入ったのだ。
―――今宵もよく可愛がってやるから、覚悟しておくがよい」