――まただ。 と、呆れにも似た感想が脳裏を過ぎる。
少し離れた場所からきこえてくる、溜息。
それはもう何度目かと数えるのも馬鹿らしくなってきて、クラウレはついにそれを数えるのをやめた。 溜息を吐くと幸せが逃げるとも言われるが、あれの溜息では幸せどころかこちらの気力まで吸い取られそうだ。 正直、うっとうしいことこの上ない。
(あの男が悩もうがどうしようが、俺には知ったことではない)
そう見切りをつけると共に一呼吸をした後、脳裏に過ぎた雑念を振り払う。
次いで、ピンと真っ直ぐに伸びた細い弦に指をかけ、慣れた所作でそれを引く。
軋む音をたててしなやかにしなるのは幼少の頃から握り続けてきた弓だ。 つがえた矢は強い力に引き絞られ、彼の鋭い黒瞳が睨むようにして前方を見据え、かすかに目を細めた次の瞬間に矢は的(まと)へと――放たれた。
ヒュンッと疾走(はし)る音が、空気を裂いて的を突く。
残されたのは震える弦と、矢を失った彼の指と、射止められた的。
その的の中心よりもやや左に外れて刺さった結果に彼は何を思ったのか。 クラウレはかすかに顔をしかめた後に息吐いて弓を下ろし、肩を慣らすように太い腕を回して気を取り直すと再び矢をつがえる。
しかし。
「まこと、現実とはままならぬものだな…そうは思わぬか? クラウレ」
世を儚むような音をもって呟かれたそれにとうとう、クラウレの眉間にシワが増えた。
「―――さっきから、何が言いたいのだお前は」
苛立たし気に呟かれた声は、完全に集中が切れた合図でもあった。
引きかけていた弓を降ろして、クラウレは不快だと言わんばかりに顔を歪めて息を吐く。
そのまま胡乱気な眼差しを、少し離れた場所にある木の幹にもたれかかるようにして立った青年に向けた――朝特有の、薄い青空の下に広がるトレイユの森の中に立つ青年がまとう赤い衣はなんと鮮やかなことか。
「この世がままならぬだと? そんなこと、俺はとうに思い知っている。 お前はいまさら気がついたのか」
「気付いてはいたが、改めて痛感したからこうして反省をしているのだよ」
「……お前の頭に<反省>などという殊勝な言葉があったのだな」
クラウレの率直な感想に、”失敬な”と眉をひそめるこの男の存在はとにかく目立った。
男の名はセイロン。
先代の至竜に請われて御使いとなった龍人族の青年だ。
燃えるような赤髪からのぞく金色の角の形はメイトルパでもそう見ることはなく、シルターンでは最も高貴なる存在とされているらしい。 <竜>という繋がりを頼りに目的を持って先代を訪ねてきた客人であったのだが、縁あって今でも新しい御子の使いを続けてくれている。
端整な顔立ちと涼やかな目元には、洗練された気品と培われた知性がうかがえる。
口元に浮かぶ笑みにも品を見せるそれらはこの男が高貴な出自であることを物語り、出自ゆえに形成された尊大な態度に加え、人をからかうようにひょうひょうとした姿はラウスブルグの城の客人として迎えられた頃から相変わらずだ。
生真面目な性格の御使いしかいないメンバーのなかで唯一場を和ませるのが上手く、”よくそんな風に舌がまわるな”と変に感心したことも多々あった。
だがしかし、今は重いため息を繰り返すばかりで妙に調子が狂う。
この様子からして、この男が憂うほどの面倒事があったのは間違いない……が、一向に話が見えない。 こちらから促すべきなのだろうか?
「それで、」
「ん?」
「俺とギアンがラウスブルグに行っている間、何かやらかしたのか」
放っておけばよいものの、どうにも視界に入ってくるのが我慢ならないのは腐れ縁からか自分の性格か。
憮然とした表情でセイロンを見返すクラウレだったが、セイロンは1、2回瞬きをしたあと”世話焼きも大変だな”と他人事のようにからから笑った。(誰のせいだと)
「まあ確かに、ある意味やらかしたと言えるがな」
「なに? まさか御子たちに何かしたのではあるまいな」
疑いに、鷲のように鋭い黒瞳の視線でセイロンを刺す。
――まったく、我をどういう目で見ているんだか。 と、セイロンは彼の問いにどう説明したものかと空を仰いで、しばし考えあぐねた後。
「御子殿たちは無関係だ。 それよりも――侍にしてやられた、といったところか」
「サムライ? …ああ、シンゲンか」
胡散臭い風体の眼鏡男がクラウレの脳裏に浮かぶ。
セイロンも彼の姿を思い浮かべてしまったようだ。 しかし、彼らしくもなく顔をしかめて不快感を露にした。 まるで見たくもないものを思い出ししまったとでもいうように。
「そうだ。 あやつ、をたぶらかして我を陥れたのだ。 侍の風上にも置けん男よ」
「…勘のいいお前が珍しいな」
セイロンが憤慨する姿がよほど可笑しかったのだろう。
クラウレも珍しく口元を緩めて笑ったが、セイロンはそれどころではない。
「むぅ…何度蹴り飛ばしても気がすまぬわ」
(…何をやったんだあの男は…)
シンゲンへの恨み言なら、今なら吐いて捨てるほど言えるだろう。
何故ならセイロンは今、彼のせいでこの世界に来て以来最悪の危機を迎えているのだ。
状況は現在進行形だ。 問題はいまだ未解決で、あの<事件>からもう二日も経とうとしているのに何の進展もない――解決しようにも<彼女>に避けられてばかりで、まさしく身も心も引き裂かれそうな二日間だったのだ。
愛している女に触れられないなど地獄のようだ。
「そういえばお前はを好いていたな。 シンゲンにはめられて喧嘩でもしたか?」
「喧嘩ならまだ良い。 謝れば済むことだ…だが今回はそうはいかん、謝って済む問題ではない。 我はに取り返しのつかないことをしてしまった」
「……?」
セイロンがにしたこと――それは、クラウレには想像もつかない事だろう。
これを告げてしまえばきっと、勇猛なる戦士の彼に”馬鹿者”のレッテルを貼られてしまうに違いない。 だが、悔しいことにまさしくその通りなのだ。
自分はどうしようもない馬鹿者だ。
「…、た」
「なんだと?」
「だから―――処女を奪った。 嫌がるを抱いたのだ」
…………。
…………………。
朝もやが薄れつつある森の中に、なんともいえぬ微妙な沈黙が落ちた。
しかしセイロンはその沈黙を気にもとめない。
”まんまとやられたわ”といつもの品の良さをかなぐり捨て、がりがりと乱暴に頭を掻いて毒吐くセイロンだったがクラウレは翼をぴくりとも動かす事ができないまま硬直している。
――あのセイロンが。
――仲間を。 しかも己が好いている女を、無理やり抱いたと?
「お前…そこまで堕ちたのか…堕竜になるぞ」
「誤解だ。 シンゲンにしてやられたと言っておるだろうに……まあ、も同じ想いだったのかと浮かれて歯止めが利かなかった我も悪かった。 確かに、待てだの駄目だの言っていたので何かおかしいとは思ったが…」
「………そこで気付け」
「照れているのかと思ったのだ」
”あんな風に焦らされて途中でやめるなど、男が廃るわ”と真顔で言い放つセイロンに、クラウレは溜息を吐かずにはいられなかった。
……そこは男を廃らせてでも止めるべきだったのではないかという突っ込みは今となっては無意味だ。 変に突っ込んでセイロンに絡まれるのはこちらも迷惑この上ない。
そっとしておくのが賢明だろう。
しかしさて、そのような事があったとすれば問題はだ。
セイロンが言うには、その事件が起こってからずっとセイロンを避けているとのこと……ん? いや、待て。 なんだか話が妙な流れになっていないか?
との問題を解決したいのであれば、ならば何故この男はさっきからクラウレの後をついてくるのだろうか。
「…セイロン。 何を企んでいる…?」
「企むなどと人聞きの悪い。、 我はただ待っているだけよ」
待っている? 何をだ?
何を考えているのか読めない涼しい横顔を見せるそれにクラウレが眉をひそめたとき、不意に、退屈そうに扇子を弄っていたセイロンが顔をあげた。
同時に森の鳥たちは驚くように羽ばたいて、静寂をたたえた森の空気がにわかにざわめき出す。
「やっと来たか」
「…なに?」
「―――クラウレー! どこー?!」
静かな空気を鮮やかに染め上げるように、明るい声が森の中に響き渡る。
道なき道を進んできたのか、ガサガサと茂みを揺らし葉を散らしながら現れたのはだ。
彼女の大きな目がクラウレの姿を視界に捉えると(セイロンの姿は木の陰で見えなかったようだ)、「やっと見つかったー」と安堵の息を吐いて笑顔になった。
「やー無事に見つかって良かったわクラウレ。 アロエリが呼んでたよ?」
「……そ、そうか」
「なんか薬草の煎じる組み合わせを聞きたいって言ってたけど……ん? クラウレどしたの。 珍しいわね、額に汗が……」
がしっ。
「きゃあああぁぁぁあぁぁッッなに何なに何っっ?!!! なに? クラウレなに!? あたしの後ろに誰かいるの!??」
背後から突然両肩をつかまれたが飛び上がらんばかりにパニックを起こす。
しかしクラウレはそんなに助け舟を出すことはできなかった……背後に忍び寄ってを捕らえるセイロンの目が、本気だったからだ。
「はっはっは、やっと捕まえたぞ」
「せ、セイロン?! なんでここに」
「アロエリがクラウレを探しているのは知っていたからな。
クラウレの所にいればいずれはやってくるであろうと踏んでおったのだよ…まったく、いい加減に話を聞けと言っている。 今日という今日は――」
ふと、セイロンの言葉が止まる。
どうしたのかとその様子を見守るクラウレもまた、俯いたを見ると。
「………あの、手…はなして……」
今にも消えそうな、震える声でそう呟いて。
セイロンの顔を恥ずかしそうにしてちらりと見上げるそれは、セイロンに衝撃を与えたようだ。
おそらく、ズガーンやらドガーンやら、そんな擬音が彼の中に響いているのだろう。(口が開いているぞセイロン)
「…痛いから…お願いセイロン…」
「――む、そ、それはすまぬ。 つい…」
こんなことを言うのもなんだが、それはらしくない可憐な反応だ。
演技か素なのかは図りかねるもののセイロンには充分効いている。 今までになかった反応を返されてしまいセイロンは戸惑っている風で、常に堂々とした彼らしくなくしどろもどろに謝ってぱっと手を離してしまった。
解放されて、ふらりと離れるの身体―――しかしその次の瞬間、彼女の行動は早かった。
獲物を狙う狩人(ハンター)のような目で逃げ道を確保し、ダッと駆け出したかと思いきや駿馬(しゅんめ)のごとくものすごい勢いと速さで来た道を引き返し始めたのだ。
「それじゃっ、またねクラウレ! 確かに伝えたからー!!」
「むっ、また騙したのか! 待てといっておろうに…!!」
俊敏な動きで逃げ出した小動物()と、それを追いかける龍(セイロン)。
その光景を、どこか遠い目で眺めていたクラウレは。
(……当分、彼らに関わるのをやめておくべきだな)
心にそう誓ったあと、酷く重たげな溜息を吐いて大空へと羽ばたいたのだった。