冷たい空気。 冷たい風。
それは身を震わせるだけでなく、心にわずかな寂しさをもたらして。
宿場町トレイユは、冬の静寂に沈み込む。
「――わあ、すっごい雪ですねえ」
のんびりとした声が、不意に、そんなこと言った。
喫茶店の四角い窓の向こう側の有様は、感嘆と呟かれた言葉どおりだ。
彼女の赤い瞳に映り込む宿場町トレイユの大通りは、まだ降り始めて間もないというのにすでに真白に染め上げられていた。 屋根も塀も植物も、ありとあらゆる物の全てが化粧を施されたように薄っすらと白く、天から降り注ぐ雪はひたすら量を増すばかりでまだまだ止みそうにもない。
今夜は積もりそうですねえ、と、メイドの彼女にも充分に予想できた。
「雨かと思ってお屋敷にお迎えを頼んでおりましたけれど…でも、ちょうど良かったですわ。
この雪じゃ、外に出た途端あっという間に埋まっちゃいますもの」
自分の判断は間違いではなかった。
それが嬉しくて、ポムニットはうんうんと満足そうに頷くのだった。
今日は本当に、朝から天気がぐずついてた。
冬至間近ということもあるが、重圧な雲が圧し掛かったせいで今日は一日中薄暗かった。
太陽らしい太陽も拝めず結局は夜を迎えてしまった訳なのだが、それでも”宿場町”の名は伊達ではない。 外からの旅人の数は減ることもなく人波を作り、彼ら相手に商売に精を出す商人は大勢いたおかげでいつもの活気は失われなかった。
そのおかげで一日中の薄暗さもあまり意識はしなかったのだが、雪が降り出したとなれば皆の事情も変わるようだ。
特に、露店を開いていた商人は対応が早かった。
夕闇の中にちらり、と雪の姿を見かけたその瞬間にテキパキと荷物をまとめ始めたと思えば、今のように本格的に降り出す寸前に荷物を抱えて足早に去っていってしまい、大通りは瞬く間にガランと人が少なくなった。
メイドもびっくりの、実に鮮やかな手際だった。
それに変わり、出遅れたのはトレイユの住人や旅人だ。
ポムニットが眺めている間にも、煌々と灯る家々の明かりを頼りに彼らも早足に過ぎていくのも見える―――目的はもちろん、雪を避けるためだろう。
トレイユの住民は自分の家に駆け込めばいいのだが、別国からやってきた旅人は宿屋、もしくは手近な店に飛び込んだりしなければいけないのだから、その慌てぶりは住民よりも目立っていた。
慌てすぎて転んだりする旅人もいて、思い出すと笑いが込み上げた。
同じ窓から外を眺めていた少年も、その光景を目にしたようだ。
白くなる世界にどこか嬉しそうに目を細めつつ、「転んじゃったね」と屈託なく笑う表情はあどけなくて子供らしい。
その笑顔はポムニットが大好きな笑顔なので、ついつい、返す微笑もいつもより緩いものとなってしまう。
「ルシアンお坊ちゃまも、お気をつけてくださいましね? お坊ちゃまにお怪我でもされてしまったら、私、シルターン式にお腹を切って旦那様にお詫びしなければいけませんわ」
「あはは、それってシンゲンさんから聞いた話?」
「ええ! ”さむらい”ってメイド以上に過酷な職業なんですよ…身が引き締まる思いです」
メイドと侍――主に仕えるという点では同じだが、「無礼を働けば切腹」という侍の過酷な労働環境には同じ身分の人間として同情を禁じえない。
「えうぅ…可哀想な”さむらい”さんです…」
レースのハンカチを目元にあて、ヨヨヨ…と涙するポムニット。
しかしそんな彼女に、ルシアンと同じテーブルに座った少女から呆れたような視線が向けられた。
色素が薄くも鮮やかな髪色と同じ大きな瞳は今や、彼女がかぶっているピンクの帽子にくっついたウサギの人形と同じ目になっている……せっかく愛らしい顔立ちをしているのに台無しだ。
「でもシンゲンだって侍なのに、のらくら歌いまくってるじゃない」
「あ、シンゲンさんは違うんですって。 あの人は”ご主人様を持たないさむらいさん”、らしいですから――それに、シンゲンさんだったらお腹を切るより、逆に切られそうな感じが…」
彼らの脳裏に、刀で敵をぶった切る一人の侍の姿が思い浮かぶ。
笑った顔はとても気さくなのに、その腕前には背筋が逆立つほどの鋭さが確かにあった。 心根は真面目な感じがするので、悪を働く主人は容赦なく切り捨てそうだ。
ひどいイメージしか沸かない。
「まあ、温和に見えて危ないところあるもんねぇあの人……あ、ポムニット、お茶ちょーだい」
「はい、お嬢さま」
分厚い本から顔を上げた少女と少年にポムニットは微笑んだ。
上品かつ優雅に、手慣れた動作で赤薔薇の模様をあしらった白磁のティーカップにアッサムの紅茶をゆっくりと注ぎ込むと、ミルクや粉砂糖を添えて物音一つなく少女と少年の前に差し出す。
白い湯気がふわりと揺れ、仄かな甘い香りにルシアンは嬉しそうに笑って傍らのメイドを見上げた。
「ポムニットさんありがとう。 すごく美味しいよ」
「それはこのお店の茶葉が美味しいからですわ。 私は道具をお借りして、お注ぎしただけですから」
「ん〜でもほんと美味しい〜。 勉強に疲れた身にしみるわね」
うっとりとした表情の呟きに、ポムニットはじとりとリシェルを見やった。
「…お嬢さまはさっきまで休憩中とか言って、テーブルに突っ伏してらしたじゃないですか…」
「う、うるさいわね。 この分厚さを見ただけでも目眩しそうなのに、雪のせいで迎えの馬車が遅れて帰れないからずーーーっと睨めっこしてるのよ? 精神的にもぼろぼろよ!
ね、ルシアン!」
「……あははは」
ルシアンといえば、どうとも言えず苦々しく笑うしかないようだ。
髪を逆立てながらポムニットにきいきいと言い返している姉から目を逸らし、自主勉強のつもりでやってきたのに雪宿り場へとなってしまった喫茶店の、四角い窓を再び見上げる。
仰いだ夜空は重々しく立ち込める雪雲に覆われて、月が見えるほどの晴れる気配は全くない。
「今夜は本格的に降り出すかも……、あ」
眺めているうち、ルシアンの目に一人の女の姿が映りこんだ。
それはたまたま目に入っただけだが、”誰も彼もが慌てて宿に帰っていった雪の中、外で立ったままいる”というその一点だけで、彼の興味をひくには充分だった。
―――それは、旅人の若い女だ。
土に汚れくたびれた外套に身を包み、わずかにせり出した雑貨屋の屋根の下でぽつんと佇んだまま、頬や耳、鼻の頭を真っ赤にしながら手に息を吹きかけている。
指先までもま赤くなっていて、ふうふうと一生懸命に吹きかける様には思わず、手袋を貸してやりたくなる。
「ん? どーしたのよルシアン」
「うん、あの女の人…」
声をあげたルシアンに興味をもったリシェルとポムニットが、その視線を追いかけた。
住人も旅人も家々に駆け込んで人通りも少なくなってきたその空間に、いつまでもその場所を動かない女の旅人の姿がある。
「誰か待ってるのかな…」
「でも何で外で待ってるのよ。 雑貨屋の中で待ってればいいじゃない」
「そ、そうだけど」
「…ですが確かに、少し危ないですね。 私たちは迎えの馬車がありますから平気ですけど、この雪のせいで人通りも減って大分暗くなってきましたし、女性一人でいるのはちょっと…」
そこで、顔なじみの喫茶店の店主がポムニットを呼んだ。
どうやら彼女の主人であるテイラー氏に注文を受けていた紅茶の茶葉を一緒に持って帰って欲しいらしく、様々な銘柄の茶葉缶をガサガサと袋にまとめている。
「お嬢さま、私も手伝ってきますね」
「うん」
返事をしつつも姉弟の視線は、旅人に向けられたままだった。
何故、彼女はあそこで立ったままなのだろう。
すぐ傍には明々と蝋燭の灯りが満ちる雑貨屋が開いている。 しかしそれには目もくれず、旅人は息を吹きかけながら――やはり誰かを待っているのだろう――ちらほらと白雪が舞うなか、東の大通りをしきりに気にしている。
「ね、誰が来るか賭けない?」
どこか意地悪い、にやりとした笑みでリシェルが言う。
それにええっと驚きの声をあげるルシアンだったが、「あたしは家族かな!」とうきうきと旅人を見つめる姉はルシアンを見やしない。 こうなったリシェルは誰にも止められないのだ。
「んー…と、僕は、好きな人、かなあ」
「む、弟のくせにあたしより女っぽいこと言ってる…」
「えええ、姉さんむちゃくちゃだよっ」
(いつものことだが)横暴にも程がある。
けれど雪は降り続いたままで、旅人は相変わらず動きもしない。
肩に雪が積もっても動かず、じっと立ったままで……なんだか、このまま放っておくのも嫌になってきた。
ルシアンは持ってきていた傘を持って席を立つと、その様子にリシェルが不思議そうに見返して来た。 ルシアンよりも少し明るい色の瞳がぱちぱちと大きく瞬いている。
「どうしたの?」
「うん、あのままだと…風邪引いちゃうし、雪に埋もれちゃいそうだから」
なんとなくだが、彼女はいつまでもあそこで待っていそうな気がする。
夜になり雪に埋もれつつある世界の中にいる彼女の存在はどこか希薄に思えて、雪と一緒に溶けてしまいそうだ。
いらぬおせっかいかもしれないが、自分の青い傘が彼女の助けになればいいのにと思う……せめて、彼女が待つ人がやって来るまでに。
「そうねー…まあ、ほっとくのも、ね」
ポムニットがいれてくれた紅茶をぐっと飲み干してから、リシェルも立ち上がった。
「勉強なんかより、誰を待ってるかのほうが興味あるもの」とあっさり言ってのけた姉の将来をちょっと不安に思うルシアンだったが、あえて考える事をやめた……そう、きっと、姉は後々にビッグな人間になると言われる大器晩成型なのだと信じることにしたのだった。
―――ルシアンの後に続いてリシェルが店を出れば、途端に暖かさが掻き消えた。
屋外と屋内の差は歴然だ。
肌を刺すように全身に触れる冷たい空気はかなり厳しい。
二人は揃ってぶるりと身を震わせたあとで、屋根に守られた喫茶店の床から雪積もる歩道へと飛び降りた――薄化粧かと思いきやなかなかの厚みが足裏に伝わってきて、こんな中であの人は誰かを待ち続けているのかとひどく驚いてしまった。
「さむー! さむーい!」
「ううううう、ゃ、やっぱり、傘よりも中で待ってたほうがいいですよって伝えるべきかも」
宿場町トレイユの治安はそれほど悪くはない。
だが、色々な地域からの旅人が訪れるだけあって、その中にはガラの悪い連中がいるのも確かだ。
良い旅人だっているが、召喚獣や人間を商売道具として売買する商人もいるし、酔っ払って住民に絡む旅人だっている。 その逆ももちろんある。
旅人同士の諍いが起こることも多々あって、その度に駐在軍人のグラッドが駆けつけたり、あまりにも騒ぎが大きくなればリシェルたちの父親、この町の管轄者でもあるテイラー・ブロンクスが仲裁に当たることもある―――ともあれ、雪で人気が少なくなったこの通りに<女性一人>というのは危ない。
リシェルたちでもそれが悪人たちの”格好の獲物”だということは充分に理解できる。
この町の住人として、それをちょっと伝えておくだけでもいいだろう。
ざくざくと雪を踏みしめながら旅人の女がいる雑貨屋に向かおうとした―――、その時。
「ちょ―――誰よ、あんた達は!」
女の悲鳴が、風に乗って二人に届いた。
思わず顔を見合わせたあと慌てて旅人へと視線を投げれば、いつの間にか三人の男に囲まれているではないか。 しかも、揃いも揃って悪人面でただならぬ空気を纏っていることや、腕をつかまれている彼女の剣幕からしてそれが仲間同士ではないことが理解できた。
…え、もうナニゴトかに巻き込まれてる…?
「ネエちゃん、こんなところで一人でいるなんて危ないよ?」
「働く場所がないのかい? それとも宿が見つからないのかい?」
「俺たちがイイ店を紹介してやるよ…ほら、こっちに来いよ」
「イダダダ! 触んないでよ!」
強引に連れ出そうとするそれにどうにか踏ん張って彼女なりに抗っているようだが、寒空の下でいたせいか体のあちらこちらに力が入らないようだ。
雪の滑りも手伝ってずるずると屋根の下から連れ出される。
バランスを崩しかけたところで腕を引っ張っていた男が女を軽々と抱え上げて肩に担ぐと、女も事態の深刻さをようやく理解したようだ。
いやらしく撫でる手に「ぎゃあああッ」と悲鳴をあげながら、肩を担ぐ男の頭を手加減無用でガスガスと拳で殴り、反撃に出た。
「気安く触んな人さらい! 放せ、放してってば!」
「イデ! おぶっ! んが! …お、おい、こいつかなり凶暴だぞ…!」
「裏路地連れ込んでじまえばこっちのモンだ! ズラかるぞ!」
「――ちょっと待ちなさいよ!!」
さすがに、これ以上は見ていられない。
男たちの逃げ道を塞ぐようにリシェルとルシアンが立ち塞がる。
突然現れた子供二人にその場の全員が目を丸くしたが、三人のうちの一人の男は安堵したように息を吐いた。
「ナンだよガキかよ…驚かせんじゃねーよ、あのうるせえ駐在ヤローかと思ったじゃねえか」
「お黙り! 今すぐその人を放しなさい…さもないとその寂し〜い頭の上に鋼の鉄拳をお見舞いしちゃうわよ? あたしの鉄拳はグラッドのよりも、頭がカチ割れるほど痛いんだからね!」
鋼色のサモナイト石をビシッ!と掲げて、リシェルは不敵に言い放つ。
強気な眼差しには並々ならぬ威圧のようなものが垣間見えるものの、男たちもただの馬鹿ではなかった。
「ナメてんじゃねえぞ!!」
彼らも、険しい山岳地帯を旅して町に辿りついた旅人だったのだ。
召喚術に対してやや閉鎖的だった聖王国とは違い、帝国領域は召喚術そのものを一般学問として取り入れている地域が多い。 それ故に彼らはリシェルの持つ石が何であるかを瞬時に理解出来ていた。
男の一人が一息に間合いを詰め、石を掲げる少女の細腕を喰らいつくように掴むと加減のない強い力で締め付けた。
痛みに小さな悲鳴をあげてサモナイト石が白雪の中に落ちると、すかさずそれを蹴り飛ばす。
鋼色が雪と共に舞い上がり、低い弧を描いて遠くに落ちて埋まってしまった。
何が起こったのか戸惑いを見せるリシェルに男はにやりと笑みを深めると、その体すらも軽々と抱え上げてしまった。
――― 一瞬何をされたのか理解出来なかったのだろう。
リシェルの呆然とした呟きが、雪降る空間にこぼれ落ちる。
「――え」
「ね、姉さんを放せ!!」
奮い立たせるように声をあげ、少年の剣が白い残像を描いてリシェルを抱えた男に迫る。
躊躇のない踏み込みと迫る気迫に男はわずかに怯んだものの、それに慌てることなく一歩分の間合いを空け、少女を抱えたまま剣を抜くと、迫る一撃を受け止めてあっさりと弾き返した。
それだけで思い知らされる―――体格も力も、踏んできた場数も殺意の強さも違うのだ、と。
あっけなく転がって倒れた少年の姿に青ざめたリシェルの、泣きそうな悲鳴が響き渡る。
「る、ルシアン!」
「やめて! その子、まだ子供なのよ!?」
「あーあー、キーキーうるせえったらねえな…おい、ヤローのガキも連れてくのか?」
何も抱えていない男が、倒れたルシアンの顎を掴んで引き寄せた。
それは人間を見る目をしていない…商品を、品定めする商人の目だ。
痛みに顔をしかめる表情に「ふむふむ」と納得するように頷いたあと、その胸倉を掴んで引き上げると、小さな体は大柄な男の手によってあっさりと持ち上がってしまった。
「男はあまり金にはならんだろうがな…まあ、ないよりマシか。 俺が持っていく」
「あたしの弟に何すんのよ! 放しなさい!!」
「おい、行くぞ。 これ以上騒ぎになったらマズイ」
男が、ルシアンの体を肩に抱えようと腰を屈める。
少年もどうにか抗おうと力の限り手足をばたつかせるも、男たちは笑いながらその抵抗を楽しんでいるだけだ。 卑下た笑い声が、美しい雪の世界を濁すように広がっていく。
「よし、お前も行くぞ」
「やだあ!! ライ、フェアー! ポムニットー!!」
たまりかねたように叫ぶリシェルに、旅人の女の唇が震えた。
まるで誰かの名前を呼びたいように、ぱくぱくと。
何度も開閉を繰り返して――けれど堪えるように、血が滲むほど唇を噛んだ。
「…っ」
いつの間にか、ほんの少しだけ風が出ていた。
冷気は刺すように気温を下げ、雪は彼らの足跡を全て埋め尽くして隠滅してしまうだろう。
名前を呼びたい。
でもその声は<彼>を知らないこの場にいる人間だけにしか届かなくて。
肝心要の本人には、空耳にすらも届いてくれないかもしれない。
けれど―――…ぎゅうっと目を瞑って、彼女もまた、すがるようにその名を呼んだ。
…とても大切な名前を。
「――――――っ、リューグ!!」
「――――――ぐはぁっ!!」
名前が世界に響いた瞬間、苦しげな悲鳴が響き渡った。
それが誰の物であるか。
その場の誰もが理解出来なかっただろう。
だが、ルシアンを抱えようとしていた男のすぐ真後ろに現れた、目も覚めるほど鮮やかな赤色が、誰の目にも瞬間的に焼きついた――――ついでに、男の頭を鷲掴みにしている、手も。
「――――テメエら、人の連れに何してやがる」
そして、赤髪の青年の。
酷く落ち着いた声音にただならぬ感情が込められていることも、誰もが感じ取っていた。