「ごっそさん、また来るよー」
「はーい、ありがとうございました−!」
満たされて、明るい声で交わされた言葉の後。
室内に明々と灯るランプの光は、扉が軋んだ音をたてて開かれた事により外へ零れた。
出て行く男の影に伴い、零れた光を上書きするように混ざり合うのは晴れた雲間から除く月光だ。 湿った土と雨の匂いを漂わせた夜空の中で、それは青白い光を放ちながら宿場町トレイユ全体を照らして浮かんでいる。
「足元ぬかるんでるから、転ばないように帰ってくださいよー」
「あいよー」
泥酔に頬を赤らめたまま、男はひらひらと手を振って帰路につく。
頼りない千鳥足で去り行く広い背中を見送りながら、フェアの青い瞳は周囲をぐるりと見渡した――それにしても、本当に強い雨だった。
勢いよく降ってあっという間に晴れる通り雨のようだが、生命力の強い野花でさえ項垂れるようにしおれており、いつになく良く降った気がする。
「明日は晴れるかな〜」
月は出ているし、立ち込めていた雨雲は既に遠い。
この様子なら明日は晴れると思うのだけれど…過ぎ去った跡を示す濃厚な雨の匂いを肺一杯に吸い込みながら、”晴れたら一気に洗濯してしまおう”なんて、思考をめぐらせたそのとき。
「あ、フェア。 ちょっといい?」
食事に訪れた最後の客の背中を見送っていた少女の背に、そんな言葉が投げられた。
ぱちぱちと、青い瞳を不思議そうに瞬かせながらフェアは振り返る。
こちらを目指して歩いてくるのは<忘れじの面影亭>宿泊客の一人である、だ。 彼女は就寝前だったのか、薄着の肩にストールを羽織っている姿で――どうやら風呂上りでもあったらしい。 彼女が傍に立つだけで優しい花のような香りが鼻腔をくすぐって、薄布越しに浮かぶ体の線は恋人を持つ女性らしさを感じさせた。
「お仕事お疲れ様〜、ところでネス見なかった?」
「ネスティさん? うーん」
黒髪黒瞳、眼鏡をかけた生真面目な青年の面立ちを脳裏に浮かべ、記憶を辿った。
――そうだ、確か、慌しくなり始めた夕方の時刻。
ここで夕食をすませたグラッドと共に出て行く彼を見かけたような気がする。 それを伝えると、はほっと胸を撫で下ろして「なんだー」と笑った。 少し湿った髪が、ゆっくりとその肩の上を滑るように揺れる。
「グラッドのところにいるならいいんだ、あの二人は意外と仲がいいみたいだし」
「知的なネスティさんと、体力馬鹿のグラッド兄ちゃんじゃまるでタイプが違うのにねぇ」
グラッドがネスティを振り回してなければいいのだが…それを思うと、またもため息が出る。
”迷惑かけてたらすみません”とフェアがあまりにも呆れ顔になっていたからか、は可笑しそうに笑った。 その顔がどことなく嬉しそうなのは、自分の気のせいだろうか。
「タイプが違うからこそ、仲良くなれるってこともあるんじゃない?」
「そういうものかなあ?」
「そういうものだよ、多分ね!」
そこでお互いが笑い合ったとき、時計が音をたてて日付が変わったことを知らせた。
食堂の片付けが残っていたので彼女たちはそこで話を打ち切り、も欠伸を噛み殺しながら「おやすみー」と部屋に戻っていくのだった―――。
「おぉー、いい飲みっぷり。 お前って意外とイケる口なんだな〜」
「そんなに飲めるほうでもないさ」
深夜に近い時間帯だというのに活気に溢れた喧騒が、耳に障る。
いや、耳に障るというより、こんなに賑やかな場所に出るのは久しぶりだから耳が慣れないだけか。
静かな場所を好むネスティだが、本当は賑やかな場所もそれほど嫌いではない――今の自分がいる場所に多少の戸惑いを覚えながら、持て余すように手の中でグラスを回し注がれた琥珀色の液体に口をつけると、それは喉を焼きながら体内へ滑り落ちていく。
その様子をぼんやりと眺めていたのは、トレイユの駐在軍人であるグラッドだ。
「一緒に飲みに行かないか?」とネスティをこの酒場に誘ったのも彼だ。
年が近いせいもあるのか、彼自身が持つ気さくな性格のおかげなのか彼とはすぐに打ち解けて、帝国の軍学校に所属し聖王国と違う文化の中で生きてきた彼の話はなかなか興味深かった。
「…? グラッド、どうしたんだ?」
「はぁぁぁぁ…いいよなぁ、ネスティは〜」
…いきなり何なんだ。
カウンターテーブルに突っ伏して呟かれた言葉の意味がいまいち掴み切れず、ネスティの顔に渋面が浮かぶ。
しかしグラッドは頬をアルコールの朱に染めて、どこか虚ろな視線でグラスの琥珀を見つめていた――意識を失うほど酔ってはないと思うが、そろそろ危ういかもしれない。
暴走の前兆が見える。
「あああ、俺も彼女欲しい〜! ミントさ〜〜〜ん!!!」
「お、落ち着くんだグラッド…」
「落ち着けるかぁー! 隣で幸せを見せ付けられる一人身の俺の気持ちを考えろよ!」
「……わ、悪かった…?」
何だかよくわからないが怒られてしまった。
しかし酔っ払いに何を言っても無駄なうえ、下手に何かを言うと余計暴走する恐れがある。 自分が責められているみたいなのでとりあえず謝ってみれば、グラッドも落ち着いたようだ。
目が据わったままだが、「よろしい」と何度も頷いて酒を瓶ごと煽る。 軍人であることを示す陣羽織を脱いでラフな格好になった彼の喉がごくごくと大きく音をたてて、大量の酒がその体内に流れ込んでいくのをネスティは呆然と見守るしかない。
「ぷっはー! よし、今日はとことん飲むぞネスティ!」
「いや、そろそろ帰ろうかと思ってるんだが、(このままでは絡み倒される…!)」
「なんだよ、もうちょっと付き合えよ〜」
「―――そうだぜ兄ちゃん、酒は飲んで飲んで呑まれるもんだぜぇ」
突如、声がしたかと思えば背後に衝撃が走った。
何者かに、グラッド共々背後からがっしりと肩を抱かれた。
突然の事態にネスティはぎょっと顔を強張らせ、ぼんやりとしたグラッドと同じタイミングで振り向けば、そこには陽気な笑顔をたたえた赤ら顔の男がいた。
ネスティには見覚えのない人間だ。 服装や腰に差した剣から見て冒険者や傭兵ではないかということは読み取れるが、何故、自分たちの間に割り込んできたのかネスティにはさっぱり分からない。
にやにやと笑うその顔には、面白そうな玩具を見つけた色が浮かんでいる……いやまて、まさか、玩具とは自分たちのことなのだろうか。
「な、何なんですか貴方は」
「おおー、アナタだってよ! 随分礼儀正しい兄ちゃんだなぁ。 着てるモンも質がいいし、キレーなお顔してるってことは貴族サマかよ、グラッド?」
「おいおいやめろよ、ネスティが困ってるだろ〜」
赤ら顔の傭兵に、赤ら顔の軍人が笑って応答する。
……どうやら彼らは顔見知りであるようだが、互いが泥酔しているためまともな会話が成立するはずもなく、肩を抱く腕を振り払おうにも逞しい腕はそれを許さなかった。
男は酒息を撒き散らして豪快に笑いながら、ネスティのグラスに琥珀の液体を注いでいく。
「まぁ飲め飲め、酒場に来たからには潰れるまで飲まなきゃ失礼ってモンだ」
「…そうなのか?」
それを尋ねること事態が自分でも馬鹿らしいとは思うが、実を言えば、ネスティは酒場を訪れたのは初めてだ。
自分が知らない、酒場独特の”礼儀”といったものが存在するのかもしれない。
胡散臭そうに乱入者を見ながらもグラッドに疑問を振れば、「そうなんじゃないかぁ?」と何とものん気な返答が返って来る。 ものすごく適当な感じだ。
どうやらこの”礼儀”とやらは、酒場客全員に当てはめられる物ではなさそうだ。
ならば断っても大丈夫だろう。
ネスティは顔をしかめ、眼鏡の奥の黒瞳で傭兵を睨みやる。
「結構だ、潰れるまでは飲めない」
「だよな〜が心配するかもしれないしな〜いいよな〜心配してくれる恋人がいて」
グラッドが横から、余計な一言を投下した。
今一番気にかけている人間の存在を的確に指摘されてぎょっと身体を強張らせれば、傭兵がますます力を込めてネスティの肩を抱いて目を輝かせる。
「お、何だ兄ちゃん、女がいんのか! どこまでいってるんだ? ヤッたのか?」
「どっ…?!」
危うく噴出しそうになった。
酒とは違う熱で耳まで真っ赤にしてしまえば、傭兵の男はげらげら笑いながらグラッドの肩を叩いて身体を揺らしている。 グラッドはやはり「いいよな〜」と椅子に大きくもたれたまま飲み続けて、更なる爆弾を投下してくれた。
「しかも、同じ宿に同じ部屋とって、婚約した子と結婚前提のお付き合いなんだよな〜」
「グラッド! 余計な事は」
「おお〜奥手そうに見えてなかなかやるじゃねえか兄ちゃん! 結婚祝いだ結婚祝い! この酒は俺のオゴリな、グラッドも早く彼女見つけろよー」
「余計なお世話だー!」
何故か周囲から歓声と拍手が沸き起こり、グラスから溢れるほど注がれたそれにネスティは別の意味で目眩がした―――面白がられている。 確実に、面白がられている。
背後から鳴り止まぬ歓声や拍手、ドンチャン騒ぎに項垂れるように両手で火照った顔を覆い、脱力したように、賑わう酒場の光景に笑っている軍人に呟いた。
「グラッド…帰っていいか…」
「それは無理だと思うぞー、あそこまで盛り上がられたら帰しちゃもらえないだろー」
全然頼りにならない返答に、かつてないほどの頭痛を覚え。
(…帰りたい…)
ネスティは心の奥底でに助けを求めるのだった……。