肺に滑り込む熱気。 照りつく太陽。
いつもより濃い青の空には、目眩を覚えてしまうけれど。
今年も変わらず、宿場町トレイユに活気ある夏が訪れる。
今年も夏がやって来た。
窓の向こう――青と白の濃淡が浮かぶ空の太陽に目を細めながら、ミントは頬に浮かぶ汗を軽く拭う。
その拍子に艶やかなブロンドの髪がさらり流れ落ちていくが、それは彼女の可憐な美しさをただ惹きたたせるだけに過ぎない。
実際、彼女の患者でもある若い男性はぼんやりと見惚れてしまっている。 そんな彼にとどめを刺すかのごとくミントはにこりと微笑んで、薬の入った袋をそっと手渡した。
「はい、今日のお薬です。 忘れずちゃんと飲んでくださいね」
「あ、ありがとうございます、ミントさん…」
「本当に気をつけてくださいね? 今は暑さも厳しいですから…」
「ええ、今年は特に暑いですね…」
しかし、罪作りな笑顔というものがまさかこの世に存在するとは…。
熱中症の症状とはまた違う熱に浮かされつつある頭を振りながら、男は窓の外を見やる。
ミントの家には緑が溢れ、花壇には様々な色を植物が花を開いている。 それは老若男女問わず訪れる者の心を和ませてくれる――男にとって、ミントはそれよりも和ませてくれる存在だったが。
「本当にありがとうございます、ミントさん」
「こちらこそ。 また来週お待ちしておりますね」
にこりと微笑む、美しい女性。
その足元で彼女の護衛獣であるオヤカタが何か不満そうにムイムイ言っているが、男の眼中には入らない。 向けられる可憐な微笑みにただ、思考も全て埋め尽くされていく…。
「…み、ミントさん!」
「はい?」
男が、ミントの両手を握り締めて押し迫る。
夏の暑さのせいもある。 いや寧ろ、この暑さのせいだ。 毎年この暑さのせいで倒れる人間も出てくるが、男の恋心を触発させるにも充分な暑さ。
足元のオヤカタの一撃必殺の技を醸し出す気配すらも読めぬまま、男は一代決心を言葉にして告げようと口を開く。
「お、俺、ミントさんのことを――!」
「すまないが、取り込み中失礼する」
―――唐突に現れた第三者の声に、男の熱が一気に冷めた。
脱力のあまりガクーッ!と膝を折りたくなる衝動が込み上げる。
しかしミントの目の前でそんな醜態をさらすわけいはいかない…意地でそれを堪え、ミントの手を握り締めたまま男は睨むように振り返る。 血の涙を流せるのではないかと思うほど怒りに血走るその目には、「空気の読めない奴め!」と罵りが浮かんでいた。
だが、その目に第三者の青年は怯むことはなかった。
逆に、睨む男を怪訝そうに見返しつつ「失礼」と一言断ったあとで、ただならぬ男女の光景を思わせるその空間に無遠慮に踏み込んでくる。
しかし不思議だ。 強引に割り込むような立ち振る舞いなのに、そこから気品のようなものを感じるのは気のせいだろうか。
(うぐ…しかも、男前…)
上辺だけではない、真の知性が浮かぶ端整な横顔。
着ている服も華美な装飾もなく落ち着いたものだが、左手の薬指にある指輪や衣類の布地の質の良さは、彼の家柄の良さを現している。
一目見て分かる――この青年は金持ちだ。
自分との違いのあまり敗北感に打ちのめされる男…しかしその姿すら、眼鏡越しの黒瞳に映っていないようだ。 唖然としている男を無視し、第三者の青年の登場に不思議そうな顔をしているミントを目指して真っ直ぐ足を進め、彼女の前に立った。(ミントとの身長の差がより際立つのがまた悔しい)
司書のように落ちついた空気を纏う彼の雰囲気に、厳しい教師に見下ろされているような錯覚も起こる。
思わず逃げ出したくなる、威圧感めいたものを感じる。 だがしかし、それはミントの前に立つと一変し、彼はわずかに口元を綻ばせて彼女を見下ろした。
「お久しぶりです、ミントさん」
「え…と、」
「ラウル・バスクの息子のネスティです。 昨年は父の誕生日に贈り物を頂き、感謝します」
恭しく頭を下げるそれに、ミントの青い瞳がぱちぱちと瞬いた。
男に握られていた両手をぱっと放し、「ああ!」と合点がいったように手を叩いて驚きの声をこぼすと、とても懐かしいものを見るように微笑んだ。
「ネスティくん?!」
「はい、…お変わりないようで安心しました」
「わあ、すごく大きくなったね! 私があなたと最後に会ったのは…えっと」
「僕がまだ見習い頃です」
「そうそう、本当に素敵な男の人になったね! マグナくんやトリスちゃんは元気? ラウル様の手紙やミモザ先輩からすっかり一人前の召喚師になったって聞いたけど」
「………」
盛り上がる二人の前では、男の存在は空気以外の何者でもない。
夏だというのに心に吹き抜けていく秋風のような虚しさを抱えながら、男はそっと扉を押して外に出て行く――俺もいつかあんな男前になってやる――そんな哀しい、決意さえも秘めて。
音をたてず扉を閉めようとした、その時。
「すみません、ミントさん。 昔の話はまた後に…」
「…どうしたの?」
「僕がやって来た目的は、父から頼まれた手紙を貴女に直接お渡しすることです。 ですが、その…いきなりで申し訳ないのですが貴女の力をお借りしたいのです」
ネスティの声に、苦渋混じりの厳しさが浮かぶ。
どこか彼らしからぬ様子にミントの眉をひそめられると、ネスティは、頭痛を堪えるようにこめかみを抑えて。
「僕の連れを、探すのを手伝ってほしいのです…町について早々、はぐれてしまって…」
それは今までの固いイメージを覆すほどの、ほとほと困り果てた様子のネスティだった。
「んーーー、やっと終わったぁ…」
ぎい、と軋む椅子の音が溜息と重なる。
この町に配属されてから毎年のことではあるが、じりじりと照りつく太陽の熱気は解放された扉から容赦なく入り込んでくるから 、熱気立ち込めるこの空間の中で書類を書くものなかなか根気がいる。
コップの中の氷はとっくの昔に溶けてしまった。
すっかり生ぬるくなったそれを口にしながら、精悍な顔ちに浮かぶ汗は拭っても頬を伝うばかりで、うだるような暑さにさすがのグラッドもお手上げだった。
「しかし今日は特に暑いな…」
外に目をやる。
空の青は春よりも濃厚に染まり、雲の白さがより際立つ。 山岳地帯に位置するトレイユは他の土地より空に近いためこの時期になると気候の変化がなかなか厳しい。
体力のない者や身体の弱い老人は夏負けして倒れてしまうことが毎年あった。
「んー、腹も減ってきたなー」
書類にも飽き、時計の針が丁度正午を指し示しているのを見ると、空腹感を自覚する。
空腹に思い浮かぶのはあの姉弟の顔と、<忘れじの面影亭>だ。
「よし、飯食ってから見回りにでもいってくるか」
腹が減っては戦は出来ぬとも言うし、倒れている人間がいるならそれを救うにもまず体力だ。
夏の暑さに負けぬ使命感に気合をいれてグラッドが立ち上がり―――。
「すみません! 助けてくださぁい!!」
「?!」
瞬間。 血相を変えた女が駐在所に駆け込んできた。
まさに転がり込むように、だ。
気を緩めていたところに突如現れたそれにぎょっと顔を強張らせるも、地面に手をついて乱れた呼吸を整えている女に駆け寄る…その身体に衣服の乱れがあることから、それがただならぬ事態だと告げていた。
「大丈夫ですか?!」
「はぁ、はぁ、すみませ…助けて…」
「一体誰にこんなことを…」
トレイユの治安は比較的平和なほうだというのに、こんな真昼間から女性が襲われるなどという事件が起きるとは。
(こうしちゃおれん!)
まだ見ぬ犯人を捕まえに行こうと、武器を片手に立ち上がるグラッド。
その耳に、犯人と思われる声がしっかり届いた。
「あそこにいたぞーーーーーーーーーー!!!」
「おねえちゃーーーーーーーーん!!!」
「…発見…」
―――ものすごく知った声と知った姿に思わず、思考が止まるグラッド。
「ひい!来たー!」とその背中に隠れる女だったが、無邪気な笑顔を浮かべた<犯人>はグラッドをすり抜け、容赦ない突進と共に女の足や腰に抱きついた。
子供とはいえ、三人重なると重い。
女は、重力に乗った子供三人の体重に「ぎゃふ!」とくぐもった悲鳴をあげて地面に倒れ込んでしまう。 どうやら散々追いかけられていたようだ。 倒れてしまった衝撃で意識が飛んだのか、白目をむいて気絶した。
「リューム! ミルリーフ! コーラルまで!? 何やってるんだお前たち!」
「あ、グラッドだ」
「グラッドだー、じゃない! 何で、この人を追いかけているんだ」
「だって、あまーい匂いがするんだもの…」
「…懐かしい、匂い…」
…意味が分からん…。
彼女の匂いが懐かしくて甘い匂いで、それが好きだから追いかけているということか…?
「とにかく、ほら、散った散った! 困っているだろうっ」
「あ! 何すんだよー!」
「ぶー…グラッドお兄ちゃんひどーい」
「…残酷」
「そこまで酷いことを言っているのか俺は?!」
とにかく女に擦り寄っている竜の子たちを追い払ってから、ぐったりとしている肩を抱き起こす。
しかしなるほど。 衣服の乱れも、元気いっぱいの竜の子三人に抱きつかれてできたものだったのか…子供は元気があっていいというが、元気が有りすぎるのもなかなか問題だ…。
「しっかりしてください、もう大丈夫ですよ」
「う…ぁ、ありがとうございます…えっと、」
「この町の駐在のグラッドです。 町の子供が大変失礼を…旅の人ですか?」
女の顔は、グラッドには見慣れぬものだ。
国境唯一の宿場町のトレイユには毎年多くの旅人が訪れて来るものの、今は多くの犯罪が起こるご時世だ。
険しい山岳地帯でもあるこの地域で、女一人で旅をしてもいい場所ではない。
それは女も分かっているのか。 ”一応、二人連れなんですけど”と苦笑して。
「旅…というか、連れの恩師のお弟子さんを尋ねて来たんです。 でも到着して早々はぐれてしまって……さ迷っていたところをこの子たちに追いかけられ、さらに迷う破目に…」
「……う、申し訳ない…」
「いえいえ、何でか召喚獣に気に入られる体質みたいで」
この子たちの親である姉弟と親しいので、こちらまでも申し訳ない気持ちになる。
乱れた服を直す女に思わず謝って視線を下げ――左手の薬指の指輪に気がつく。
美しい細工の指輪だ。 銀の光沢に惹き立たせられた小さな石は装飾関係に疎いグラッドでも美しいと感じるし、正直、グラッドの数か月分の給金でも買えないほどとても高そうに見える。
(貴族…と言ったわけでもなさそうだが…)
貴族というには、彼女は気さく過ぎる。
指輪以外は服装も質素だし、どちらかといえば気品というより快活な印象が強い。
なにより、普通の子供の外見ではない竜の子たちの姿に驚くことはもないあたりタダ者ではない。 叱るグラッドに懲りずまだぴっとりとくっついてくる彼らに「おーよしよし」と諦めたように苦笑していることから、召喚獣にも相当慣れているようだ。
召喚獣に気に入られてしまう体質だということを聞いたが、そもそもそんな体質が存在するだなんて聞いたこともない……。
(何者だ…?)
「あ、ここ、汚れてます」
「ぁ、どうもすみません〜」
何者だろうか。
それを考えても、グラッドの頭では答えが出る訳がない。
しかしここまで竜の子に懐かれるとなると、何かがあるのは確かだろう。 何とか誘導して、彼女を御使いたちの元へ連れて行くことは出来ないだろうか――。
(いやでも、こんなに懐くということは悪い人間ではないということか?
それに、助けを求めに来た人を騙すようなことするなんて軍人の風上にもおけん…!)
人としてか軍人としてかの葛藤に頭を抱え、悶絶しそうになったそのとき。
「―――グラッドさーん、こんにちはー」
――――聞き間違いか。
否、危機間違いではない――憧れの女性の声にがばっとグラッドの顔が上がる。
「ミントさん!」
「あ、お話中でしたか? ごめんなさい…」
「いえいえいえいえ! そんな、全然気にしないでください!」
ミントだ。
入り口には間違いなく、照りつく太陽よりも眩しいミントが笑顔で立っていた。
いつものように可憐で優しい微笑を浮かべ、青い瞳でグラッド(たち)を見つめている…たったそれだけで熱中症になりそうだ。 色んな意味で頭がくらくらする。
しかし、その隣にいる男はこの町では見ない顔だ。
眼鏡の向こうの目に、とてつもない怒気と殺気を感じるのは何故だろうか――。
「み、ミントさん、その人は」
ものすごく敵意を感じるのですが…という言葉は、どうにか飲み込むグラッド。
ミントはにっこり笑ったまま、隣の男をグラッドに紹介してくれた。
「あ、この人は私の恩師の息子さんのネスティくん。 この町に来てお連れさんとはぐれたみたいだから、グラッドさんにも手伝ってもらおうと思って」
「み、ミントさんの為ならいくらでも!」
頼りにされて完全に浮かれあがる駐在軍人グラッド。
しかしグラッドの背後から顔を出した女が、ミントの隣にいるネスティの姿にあっと声を上げる。
「ネス!?」
「…」
それが男の愛称か。
名を呼ばれ、そこで初めて女の姿を視界に認めたと思ったら、ネスティが無言でこちらに歩み寄って来た。
外が相当暑かったのか。 端整な面に浮かぶ汗は白い肌と相まって、どこか具合が悪そうだ。
しかしその無言の威圧は、なかなか薄ら寒いものがあった。
彼が持つそれは、厳しい教師に叱られるその寸前の空気にとてもよく似ており…やはり、その空気をしっかりと感じ取った女は、怯えたように後ずさりする。
すっかり逃げ腰だ。
「ちょ、ネス、何で無言? せめて無事だったのかとかそういうセリフの一つくらい…」
「…………」
「ネス…? ちょ、…わっ?!」
――男の身体が傾いた。
芯を失ったようにがくりと膝を折って、の方に倒れ込む。
それを受け止めるが男の重みに悲鳴を上げるも、すぐに異常を察したのだろう。 対格差にも負けず、しっかりと腕に抱えながら汗が浮かぶ端整な顔を覗き込み、額に張り付く髪を掻きあげてその熱を測り―――ただならぬ熱さに、反射的に手を放してしまう。
「ネス?! やだ、しっかりして!」
「ネスティくん! 大変、熱中症になってる…涼しいところに運んであげなきゃ」
「俺が運びます! さん、宿に案内しますから一緒に来て下さい」
今にも泣き出しそうな顔が、手を差し出すグラッドの目に映った。
思わぬそれに戸惑いを覚えるも、しかし、ぐたりと動かぬネスティの体をしっかりと抱きしめる腕がわずかに震えているのを見て、グラッドは表情を引き締めた。
「きっと、大丈夫ですから」
グラッドの言葉に、は一度唇を噛み締めて俯く――しかし、次に顔をあげると、泣き出しそうな顔ではなくなっていた。
「お願い、します!」
「グラッドさん、私も道具を取ってすぐに行きます!」
「わかりました、それでは後で<忘れじの面影亭>へ―――!」
「で、何でウチなの…?」
<忘れじの面影亭>の主の一人、フェアは呆れをまったく隠さず呟いた。
「すまんすまん。 ここだったら静かだし、落ち着くことが出来るだろ?」
「――静か、か…?」
「これを静かと言えるだなんて、そのお耳はプニムよりも大物ですわね」
ネスティの介抱を手伝ったリビエルと、昼食をとりにきたアロエリが、グラッドの言葉に疑問を持って周囲に目をやる。
時間帯は正午過ぎ。 <忘れじの面影亭>の評判を聞いて活気付いた室内は、お世辞でも静かと言えるものではない。 どちらかといえば普段よりも賑やかだ。
病人を休ませるに最適な環境は言い難い。
殺到していたオーダーを全て終えたところなのか、一息ついたフェアが肩を竦ませて苦笑する。
「そうなの、ライの新作料理に人気が出て。 嬉しいけど、もー大変」
「氷菓子つきの新しい料理ですわよね♪ あれは本当に美味しかったですわっ」
「…うむ、まあ、あれは認めてやらんことも…」
天使の羽をぱたぱたと揺らしながら、リビエルはうっとりと手を組み合わせる。
彼女が甘党(というかデザート好き)なのは周知の事実だが、その隣に座ったアロエリも、どこか気恥ずかしそうに褐色の頬を朱に染めながら肯定するのには、フェアとグラッドもさすがに驚いてしまった。
(アロエリって意外と)
(…甘い物好きなのか…?)
ちらりと視線をあわせる二人だが、どちらも口に出さないのは激怒した彼女の矢に貫かれるのは御免だったからだ。
怪訝そうにこちらを見てくるセルファン族の少女の目をそれとなく避けながら、グラッドはふと、一人の女性が歩み寄ってくるのを目に止めて、笑顔を浮かべて立ち上がった。
「ミントさん、こっちです!」
「ミントお姉ちゃん、あの人大丈夫?」
「うん、水分も取らせたし、あとはゆっくり身体を休ませてあげればいいよ。 フェアちゃんもありがとう」
「いいよいいよ、病人さんだもの。 部屋だって余ってるんだからいくらでも使って」
ミントは目を細め、少女の優しい銀色の髪を撫でてやる。
それをくすぐったそうに身を竦ませるフェアを見て「ちょっといいなぁ」と羨むグラッドだったが、シャーベットを頬張っていたリビエルが首を傾げた。
「そういえば、あの方たちは何者なんですの?」
「私のお師匠様の息子さんのネスティくんと、ちゃんよ」
「つまり…あの男は召喚師か?」
アロエリの瞳に、わずかながら警戒心がにじむ。
それを見て取ったミントがくすくすと笑い声をこぼすと、その場にいた全員が首を傾げた。
「な、何で笑うんだ」
「警戒する必要は全然ないってことだよ。 お師匠様は召喚師だけどとっても優しいし、それに、ネスティくんはもともとあなた達と同じだったんだよ」
「え、ど、どういうことですの?」
リビエルの問いに、ミントは昔を思い馳せるようわずかに目を伏せた。
――ミントが最後に見たネスティは、見習いの頃。
既にその頃から大人びて、子供のようにあどけない笑顔を浮かべることはなく、父親に寄り添っている姿しか見たことがなかった。 交わす言葉も、自分のことを何一つ語ることなく社交辞令だけで繰り返される会話が多かった気がする。
ネスティがいた場所は、召喚師として最高の環境だ。
かの有名な召喚師ラウル・バスクの後継者として迎えられ、家名を与えられた。
派閥の本部にいることから貴重な蔵書は山のようにすぐ傍にある。 学ぶにはあまりにも美味しい環境の中にいた彼を羨む者もいたが、その反面、哀れむ者や蔑む者がいたのは事実だ。
フリップ・グレイメンの言いなりにならなければ、ネスティ・バスクは死ぬのだと――そんな噂が流れていたことをミントは知っている。
<蒼の派閥>の本部にあまりいることがなかったミントすらもそれを知ったのだ。
噂されている当の本人はもちろん、その父親のラウルの耳にも入っていただろう。 それに異を唱えられない理由があったから彼らはただただ、耐えてきた――。
「彼ね、融機人だったんだって」
「え…」
「私も知ったのは、傀儡戦争が終わってから季節が2巡りした後なんだけど…」
「だけど、普通の人間の身体でしたわ! 融機人は、手や足や首、いたるところに機械と交じり合った証が浮かぶはずなのに」
リビエルの言葉に、グラッドが息を呑む。
――今はその証がなかったが、それが他の人間に見られていていればどうなるか。
想像しなくても理解出来てしまう。
蔑まれるか、迫害されるか、実験体にされるか…それこそ、ギアンたちを追い込んだ人間たちそのものに、好奇と侮蔑の目で睨まれる――生き物ではなく、それ以下の価値として生きなければならなくなる。
「奇跡が起こったって、お師匠様は言ってたけど」
「き、奇跡って…」
奇跡が身近なもののはずの天使が、理解不能と頭を抱えた。
それでもにこにこと嬉しそうな笑顔を浮かべるミントを不思議に思ったフェアが、白衣の袖をくいと引っ張る。
「ねえ、ミントお姉ちゃん」
「なぁに?」
「…どうしてそんなに嬉しそうなの?」
口数の少ない少年だった――彼の、わずかに綻んだ口元。
感情の希薄な黒瞳が――ミントにさえ優しさを混じった眼差しを向けて。
焦燥に駆られるほど――大切な人の姿を探す、その姿。
――崩れ落ちる体を恐れることなく、抱きしめて受け入れる、人。
それらが今の彼にあって、そんな人が彼の傍にいる。
人と関わることを諦めた彼を、心配してくれる人がいる。
―――そう考えると、笑顔になるのが止められない。
「ふふ、恋って素敵だなあって、思って」
「???」
「お、ということはつまり…あの二人は」
グラッドの言葉に、ミントの笑顔はさらに深まる。
白衣のポケットから立派な印が押された一通の手紙を取り出す。 ネスティからもらった手紙だ。
「彼が届けてくれた手紙のラウル様が言ってたわ。
――この間、ようやく婚約出来たんですって。 だから、様子を見に行って今の二人の邪魔をしちゃだめだよ?」
その意味を真に理解したグラッドだけが、顔を真っ赤にして慌てるのだった。
「…、ん」
「あ、ネス、気がついた?」
震える睫に思わず、椅子から腰を浮かせる。
顔を覗き込むあたしに気がついたのか、ネスがはっと息を呑んで……顔を歪めた。(なんといきなり!?)
「何で、着いた早々こんな事になるんだ」
「いや、はぐれたのはあたしも予想外よ。 人がすごかったんだし、しょうがないじゃない」
「……しかも、妙な男にあんなに接近を許して…無防備すぎだ」
妙とか、グラッドさんに失礼な。
いやそれよりも、目覚めて早々そんな不満や文句をたらたら聞かされるとは思っていなかったわ。
あたしはお互いの無事を大喜びをしたかったというのに!
「もう! そんな細かいこと気にしてる場合じゃないでしょ! …大丈夫なの?」
枕に頭をつけたままネスが、小さく頷く。
それに心底安堵して、へたりと椅子に座り込んで脱力するあたしの手をネスが握り締めてきた。
まだ熱を持っているのかいつもより高い体温だ。
ネスの薬指に光る指輪をぼんやりと見つめたまま、あたしは盛大な溜息を吐く。
「…心配させないでよ…」
「…、すまない」
「ほんと、びっくり、した…ぅ」
唐突に熱いものが込み上げて、喉奥に詰まる。
倒れた時の衝撃と驚きがまた戻ってきてしまったようだ。 俯いたまま嗚咽をこぼすあたしの肩を、身体を起こしたネスが強く掴んで引き寄せる――衣服を通しても、高い体温。
熱中症の名残だとは分かっているけれど、冷たいよりはずっとマシだ。
耳元の髪を掻きあげる指に安堵を覚えながら、ネスの声があたしの鼓膜をやさしく撫でる。
「今の身体なら大丈夫だ」
「…うん」
「それに、ようやく君と婚約できたんだ。 今更死ねない」
「…馬鹿じゃないの…」
ネスにしては珍しいジョークに泣き笑いが広がる。
彼はあたしの笑った顔に安堵したように口元を綻ばせると、そのまま目尻に唇を寄せた。 滲む涙はそろりとこぼれ出たネスの舌先に拭われて、唐突なそれにびくっと身体が震え、耳にまで血が昇るのを自覚してしまう。
「い、いや、ちょ」
「…どうした?」
「……あんた、ワザと聞いてるでしょ…」
”病人は寝なさい!”と本気の力でネスの胸を押し返すと、ネスが珍しく声に出して笑った。
年齢が年齢なので子供のようにあどけない…とまではいかないが、眼鏡もなく本当に楽しそうに笑った顔は、ちょっとだけ幼い気がする。 また、あたしはその笑顔にとてつもなく弱いのだ。
怒りはすっかりしぼんでしまう。
「ほら…お水もしっかり飲んで。 水分とらなきゃ」
「ほう、飲ませてくれないのか?」
――どういう意味で、だなんて聞くだけ野暮だ。
思わず呆気に取られるあたしが面白いのかネスが肩を揺らして笑うと、あたしの顎に指先を持っていってくすぐってくる。
「ゃ、ちょ…」
「飲めと言ったのは君だろう」
「すみまっせーん! さっきから色々と開き直ってないですかー?!」
「ああ、正直に生きることに決めたんだ」
(開き直り過ぎだそれは!!)
妙に意地の悪い笑顔に切り替わり、色んな意味でげんなりしてしまうあたし。
どうしよう。 今更だけど、ネスって絶対隠れドSだよね。
昔はこうじゃなかったはずなんだけどなぁと諦めのため息を吐きながら、しかしどうにも逆らえず(これが惚れた弱み…?)、込み上げる羞恥を押し殺して横になったネスの体の上に乗り上げた。
端から見れば、あたしがネスに襲い掛かっている構図にしか見えないだろう。
なんかもう、切腹して師範にお詫びたい。 息子さんを婿にもらう前に、こんなことしてて本当にすみません。
「嫌だわ…何でこんな羞恥プレイを…」
「ぷれい?」
「いーーーーーえ、何でも! …絶対零すわよ、これ」
まだ熱の残るネスの頬を撫でて、諦めたように溜息。
コップを口につけてそのままネスの唇にぶつけるように唇を合わせ、そっと、小さく隙間を作る。
「ん…」
口内の水が流れていく。 それに、今更ながら自分のしていることに羞恥が込み上げる。
けれどもう、逃げ出すことは不可能だ。 ネスの大きな手があたしの後頭部を押さえつけて、自ら水分を求めるように角度を変えて重なってきた。
驚いて身を引くなんてことも無理。
口移しという名目で始まった口づけに夢中になってしまうと、顎を伝う水の冷ややかさや、夏の暑苦しさも全て遠ざかって、お互いの熱と感触しか見えなくなる。
「ん、ン…っ」
「はぁ…」
くぐもった互いの声が吐息となって、二人の間で交じり合う。
宿の喧騒も、何もかもが遠くなって思考が鈍る。
そうなると、ネスの何もかもが大切なものに思えてきて。 込み上げる愛しさに自分からもっと、とねだるように唇を寄せると、水もない口内に構わず求めるようにネスがあたしの全てを奪っていく。
「ふ、…、ぁ、ちょ、ちょっと待ってっ」
キスで気が緩んだ隙に、ネスの手がするりとスカートに滑り込む。
びくっと体を跳ねさせながら太腿をなで上げる手を止めようとすると、ネスは身体を起こして、あたしの胸に顔をうずめながら体を抱きしめた。
「わ、ネスっ」
「もっと、君をくれないか…?」
熱に浮かされたみたいにそんなことを囁きながら、背中をなぞるように撫でられて。
体がびくっと、浅くのけぞる。
その拍子にさらされた喉にネスの唇が触れて、そのまま、あたしの喉に落ちた水の痕を這うようにゆっくりと降りていく…その感触に酷い目眩と熱を引き起こされて、くらくらする。 逆にあたしが熱中症になってしまったよう。 自覚するほど自分の身体が熱い。 でも、ネスの身体も負けじと熱くて。
「ネ、ス…ん、熱…」
「君がいるんだ…熱も上がる」
だとすればあたしはとんでもない病原体だ。
衣服の裾から滑り込む手に身体を震わせてネスにすがり、言葉だけの抗議をこぼす。 それはまさしく言葉だけ。 ネスも承知しているのか上着をたくし上げる手を止めず、外気にさらされてぞわりと粟立つ胸の肌にやさしく吸いついた。
そのまま甘く噛みつかれて、全身にじんと走る痺れのようなものに堪らず、胸にあるネスの頭をぎゅっと抱きしめてぶるっと身を震わせる。
「ぁ…っ、ネス…、…あっ、ぁ、ぅ」
「そんなに声出したら、他の部屋に響く…んっ、…」
でも、止まらない。
止まらない。 目の前のこの人への愛しさが。
ゆるやかに暴かれていく感覚に思考が白んで、声が溢れ出す。
もっと、この人が欲しい…全身でそんなことを叫んでいるように、体温が狂ったように上がっていって。
膝立ちになっている足が震えて今にもくずれそうだけれど、それでもネスをもっと抱きしめていたい。 はぁっと息を弾ませて、ネスの黒髪をまさぐって頬を寄せると、乳房への愛撫をやめたネスが、隙間なく密着していた体をわずかに離してあたしの唇を奪う。 夢中で口づけを返すと、どちらのほうが唇が熱いのか分からなくなった。
「…」
そのまま二人で、ゆっくりと寝台に沈み込んでいく。
見慣れぬ天井を覆い隠すようにネスの顔が見えた。 熱中症とは別に熱に浮かされた目に見下ろされて、歓喜に唇が震える。 でも震えごと唇を吸われ、震えごと心を溶かされた。
全部溶けていきそうだ。 ただただ、胸の奥が熱くなってここがどこなのかも忘れてしまいそう。
「ん…ねぇ、ネス…?」
「…何だ」
今もきっちりと閉じられた襟が緩められて、露になるネスの白い首筋をあたしの指がするりと撫でた。
それだけでネスの体温が上がったことを理解しながらも、融機人の証も何もなくなってしまったその場所から指が離れない――数年前の、首や身体を覆い隠して生きてきたこの人の姿ばかりが、瞼の裏に浮かぶ。
ああ、その姿さえも、あたしには。
「あたし、融機人のままでも…ネスが好きだったよ」
「…」
「本当よ。 …”ネスティ”が、好き」
その姿さえも、いとおしかった。
これは本当だった。
あたしは全て知っていたから、あんなにも重い物を背負うこの人を、好きになるはずがないと思っていたのに。
必死に生きているこの人を見ていたら、いつの間にか―――。
”すごいなあ”と自分を褒めたくなって笑えば、ネスが…自分の顔を抑えた。
「ネス?」
「…卑怯だ」
「は?」
「不意打ちだ……やられた、今のは…卑怯だ」
もしかして、照れているのかこの男。
いや、照れているんだろうなぁと冷静な思考のままネスの耳を見る。 真っ赤だ。 耳まで染めるほど照れるなんて、ネスにはものすごく珍しい。
「ネスさん、耳、真っ赤ですけど?」
「…、見るんじゃない」
ネスが起き上がって、あたしから顔をそむけて寝台の端に座り込む。
そこまで見られるのが嫌なのだろうか。 でも、ネスがああやって嫌がる姿もまた珍しい。
なんだか嬉しい。 向けられた背中にぴたりとくっついて、その耳元に唇を寄せて笑ってやる。
「そんなに恥ずかしかったかな?」
「君は、無意味に大胆過ぎる…」
「そ、そこまで言うか…」
「――だが、嬉しい」
目元を押さえたまま、ネスが口端を持ち上げて言う。
まるで、あたしの言葉を心に染み渡らせて、味わうように、”うれしい”と繰り返す。
うれしい、と。
喜びの感情を、強く、噛み締める。
「ネス?」
「君が、…””が、リィンバウムにきてくれて良かった」
………イカン、今度はあたしが恥ずかしくなってきた。
もう何年も一緒にいるのに、今更こんなので恥ずかしがるなんて一体どうなっているんだか。
慌てて寝台から降りようとすれば、その途中でネスの腕に身体をさらわれる。
後ろから抱き込むように捕まえる腕に内心悲鳴をあげつつも、すぐに落ち着きを取り戻し、耳裏に落とされる口づけを素直に受け取った。
――こうして触れられるのは、好きだ。
今まで人に触れることを許さなかった人に許された気になって、嫌われていないのだと安堵する。
でも。
「…なんか、恥で死ねそう」
窓の向こうに見える青空を半眼に見やり、ぼそりと呟いた。
そんなあたしの呟きに、ネスはうんざりとした顔で同意して。
「さっきの僕の気持ちが、分かったか」
「ものすごく」
「…理解してくれて何よりだ」
ああ、こんなやり取りも昔から変わらないなぁなんて。
同じことを思ったのか、「結婚するのに変わらないな、お互い」と苦笑混じりのネスの声が心地よい。
そうしてようやく絡まった視線はそのまま伏せられて、今度は唇が重なった。
熱はもう、互いが熱すぎて何も感じなくなった。
さっきまで見ていた青空も、意識の外。
うだるような夏だということも忘れて、ただお互いの温もりだけを理解しながら、それを喜びに、悦びに変えてゆく。
青と白のコントラストが美しい、夏。
宿場町トレイユに訪れた恋人たちの夏は、まだ始まったばかり。