花の香りが空を過ぎて。
緑が青を取り戻したら。
宿場町トレイユは、やさしい春をつれてくる。
トレイユの町に春がきた。
それは、賑わう町の外れにあるこの宿も例外ではない。 風に種子を運んでもらった植物たちもここでようやく花を咲かせ、しっかり者の姉弟が切り盛りする<忘れじの面影亭>の周囲を鮮やかに彩ってくれるから、冬を乗り越えた新しい命の鼓動はこうして日向ぼっこをしているだけでも充分に届いてくる。
「…あったかい…」
陽春の空に浮かぶ、太陽に似た金色の髪をきらきらと照らしてコーラルは空を仰ぐ。
座り込んだ草の地面は快晴な天候のおかげで充分に暖まり、まるで干したてのシーツのよう。 ふわふわとした草の感触を楽しみながら、のんびりと飛翔する親子鳥を目で追いかけるようにそのままころんと寝転んだ。
昼食に賑わう宿の喧騒を遠くに聞きつつ、そよぐ風の春の香りに気持ち良さそうに目を伏せた。
「…、?」
ふと、幼い顔の小さな鼻に何かが触れた。
ほんの少しだけ目を開けてみる。 と、白翅(しろはね)の蝶と目があった。
紋白蝶(もんしろちょう)だ。
宿の周囲に咲く花の香りに誘われてきたのだろうか…夏の時期の成虫のほうが翅が白いとも聞いたことがあるが、春の時期に出てきたこれも、白い翅が日の光に透けてとてもキレイだ。
「…ちょうちょ…」
コーラルの鼻の頭に立ち止まり、翅を休める紋白蝶。
ゆっくりと翅を揺らめかせるそれが、何だか嬉しい。
穏やかな太陽を思わせるコーラルの金瞳が、蝶を驚かせないように小さく笑った――その時。
「―――ねえ、ちょっといいかしら?」
見知らぬ男女の旅人が、春風をつれて現れた。
「――…ライ、フェア」
「あ、お帰りコーラル!」
昼食時から少しだけ落ち着いた頃合に、散歩に出ていたコーラルがお客をつれて帰ってきた。
話を聞くと、二人は国境を越えてきた旅人で、町の人のお勧めでこの宿に来てくれたとのこと。 旅人に勧めてくれた町の人も嬉しかったけれど、こんな外れにある場所まで足を運んでくれた旅人にも嬉しい気持ちが込み上げてくる。
フェアは調理場の影で「よし!」と気合を入れてから、メニューを持って彼らが座ったテーブルへ向かった。
「いらっしゃいませ! ご注文を承ります!」
「わー、ちょっと待って待って! どれも美味しそうだからすごく悩む…!」
旅人は男性と女性。
先に荷物を下ろして座った女性が、食い入るようにメニューを見つめている。 目が真剣だ。
「どれにしよう…お肉もいいけど、オムレツって気分もあるしなあ…」
「俺は魚って気分だから、白魚の香味グリル!」
「そっちも美味しそう…それじゃあたしは………………………、うーーーん…」
「…はこういうとき長いよなぁ」
なおも悩む旅人の女性…の姿に、連れの青年が可笑しそうに笑った。
青年は二十歳を越えているだろうが、屈託のない笑顔はちょっとだけ幼く見える。
少し伸びた毛先が邪魔だったのかクセのある紫紺色の髪を細いしっぽのように結わえ、服の下に浮かぶしなやかに鍛えられた体や、外套と共に手の届く範囲に剣を置いていることから彼が剣士だということが理解出来た。
(…あれ?)
彼が着た服に、見知ったボタンがついている。
弟のライと同じくフェアにとっても姉のような存在である、ミントの服についているボタンと同じものだ。 思わずじっとそれを見つめてしまうと、フェアの視線に気がついた青年が笑って答えた。
「このボタン知ってる?」
「あ、すみません。 もしかして…蒼の派閥の召喚師の方ですか?」
「うん、俺はマグナ・クレスメント。 派閥の任務で帝国領域をぐるっと回ってるんだ」
ぐるっと回る、と言いながら指先で宙に輪を描く、蒼の派閥の召喚師・マグナ。
――クレスメント。
聞き慣れぬ家名だが、それでも家名を持つ召喚師は立派なお家柄だと人に聞いたことがある。 家名を持つということはその家の家宝や秘術、魔力と知識を受け継ぐという証明だ。
召喚師にとって家名はその召喚師の立場や強さを示す証でもある。 栄えれば栄えるほど、名前の持つ意味は深い。
もそうなのだろうかと(まだ悩んでいるみたい…)彼女の服に目を向けるも、襟にも胸元にも彼と同じ装飾はない。
はて?と首を傾げてしまうと、マグナは笑って手を振った。
「あはは、は派閥の人間じゃないんだ。 …で、、決まった?」
「決まった! お肉と野菜、魚と卵と一通り悩んだけど…ピリ辛オムレツにする!」
他の品物への未練を断ち切るかのように、は勢いよく顔を上げてメニューを閉じた。
こうも悩んでくれるとなると、料理人として一生懸命に選んでくれた彼女のために腕を振るわねばならない。
思わず浮かぶ笑顔のまま「かしこまりました」と一礼してからその場を離れようとすると、「あ、ちょっと待って」とマグナに呼び止められた。
「ここって宿屋でもあるんだよな? 俺たち、しばらくここに泊めてもらいたいんだけど」
「あ、ありがとうございますっ。 それで、えーと、お部屋は…」
多少口ごもりつつ、じっと、二人の顔を眺める。
………この二人は恋人なのだろうか。 互いへの気さくな雰囲気から赤の他人ということはないだろうが、宿を預かる者としてはお客様を困らせる発言は控えなければならない。
フェアの言いたいことを察したのだろう。 マグナはやっぱり笑って、一本だけ指を立て。
「一部屋でよろしく♪」
「………」
は黙って、コップの水を飲み干していた。(耳が赤いって言ったら怒られそうだ…)
しかしマグナがそう言うからにはそうなのだろう。 了解した風に頷くと、マグナはあちこちに視線を彷徨わせるが可笑しいのか、また笑う。
「いい加減、慣れればいいのに」
「…マグナがやたら笑顔で言うから恥ずかしいの」
「そう?」
目を丸くしてを見返す。
しかしまだぶつぶつと不満そうに呟いているに、今までになく破顔して。
「まあ、一緒に寝られるから俺は嬉しいけど…って、ちょ、冗談! 冗談だよ! ちょっと言ってみたかっただけ…」
「馬鹿! マグナの大馬鹿ーー!!」
――昼食時から少しだけ落ち着いた頃合の食堂に、顔を真っ赤にしたの怒号が響き渡る。
明らかに劣勢であるマグナに一度合掌してから ”ご、ごゆっくりどうぞー”とフェアはその場から逃げだした。 夫婦喧嘩は犬も食わないとはまさにこの事だ。
調理場に戻ると、の声に驚いた様子でライが顔を出していた。
「姉ちゃん、何? 今のでっけぇ声」
「あー、気にしない気にしない。 それより白魚の香味グリルと、ピリ辛オムレツで」
ライに彼らの昼食のメニューを告げ、彼らの名前を宿帳に記帳してからフェアは食堂を出た。
冬の間冷え冷えとしていたこの宿も今ではすっかり春気候だ。 温かい日差しが窓辺を照らし、雲が悠々と流れていく光景に目を細めて、軽い足取りで宿泊部屋の準備に向かう。
「…、フェア」
向かう途中で、頭に紋白蝶を乗せて黄色い花束を抱えたコーラルと出会う。(何で蝶…?)
「どうしたの?」
「…あの人たちの…部屋に」
そう言えば、マグナとはコーラルが連れてきてくれたのだ。
抱えた花は彼らのためのものだろう。 「ありがとうね、コーラル」とエプロンから取り出した飴玉をご褒美にあげると、その代わりにと抱えていた花束を差し出される。
「うんうん♪ やっぱりお花があると部屋の空気も変わるよね」
何せコーラルがご案内したお客様だ。
この子なり彼らが気になるのだろう…コーラルは人見知りだが案外、人懐っこいミルリーフやリュームよりも商売に向いているのかもしれない。 小さいとはいえしっかり者だ。
「よーし! それじゃコーラル、お部屋の準備手伝って!」
「…了解!」
春真っ最中の気候に包まれたこの町の名前は、宿場町トレイユ。
口コミでとても美味しい宿屋があると聞いて町外れに行ってみると、そこで出会った小さな男の子(いや…お、女の子?)の案内でつれられた先は少々こじんまりとした一軒の宿。
でも、旅をするあたし達にとってはこれぐらいがちょうどいい。
評判通りご飯も美味しかったし、町の外れにあるおかげか心地よい静けさと穏やかさがあって過ごしやすく、用意された部屋もきれいであたし的には大満足だ。
ここまで至れり尽くせりであの値段はなんと良心的なのかしら…目から鱗だわ。
「〜そろそろ機嫌直してくれよ〜」
横から、ほとほとお手上げ状態だと言いた気なマグナの声が耳に入る。
その声の主に、ネスに負けないほど冷ややかな視線を一度送ってから歩き疲れた体をベッドに投げ出して、そのままごろりと寝転がった。
お日様の匂いがするシーツと、ベッドサイドに飾られた黄色い花の甘い香りにすっかりリラックスしてしまうあたしに、荷物を床に置いたマグナが溜息を吐く。
ものすごく何か言いたそうだ。
「嘘は言ってないのになぁ…」
「…何か言った?」
「イエ、何デモ」
苦笑いを浮かべ、荷物から取り出した包帯と水で濡らしたガーゼを手に、ベッドに座り込んだあたしの前にマグナがしゃがみ込む。
意図が読めないその行動に、思わず首を傾げてしまう。
「どうしたの?」
「足見せて。 歩き方ぎこちなかったから…痛かったんだろ?」
む、大正解。
山岳地帯と言うだけあって、道中に緩やかな上り坂が目立つ。 あたしのモヤシのような体力では休み休みに進んでいかなければ危うかったほど国境越えはなかなか大変だったのだ。
…こうも見抜かれてしまうとは、マグナもすっかり冒険者になっちゃったなぁ。
しかし、こういう時は意地を張らずにプロの指示に従った方がいい。
ブーツを脱いで足を綺麗に拭いて、わずかに赤く腫れあがった足をマグナに差し出すと、笑顔が多いマグナの顔の眉がしかめられた。
「まったく、はすぐに無理するなぁ。 もっと早く言ってくれればいいのに」
「…、もうちょっとだと思ってたもの」
「その頑固さはネスに匹敵するよ、ホント」
マグナは笑いながら、てきぱきとテーピングをしていく。
上手く反論も出来ないままそれをぼんやりと眺めていると、赤い紐で適当に結われたマグナの紫紺色の髪に目がいって。
「…結構伸びたね」
テーピングに俯く頬から垂れ下がるそれを、撫でるようにそっと触った。
少しクセのある髪質は柔らかくて、犬猫を撫でているみたいに気持ちがいい。
「が切ってくれる?」
「え゛、そ、それはどうかな〜…。
とんでもない奇跡(と、いう名の事故)が起こって、マグナがハゲになったらどうしようかと」
「……さすがにハゲは勘弁してほしいかも」
いつもは背が高いマグナだけど、屈んでいるから今だけは低い。
こういう時は何故か母性本能がくすぐられる。 やっぱり犬猫感覚でよしよしと髪を撫でていれば、髪と同色の瞳がくすぐったそうにあたしを見上げてきた。
…二十歳を越えた男がワンコに見えるとか、あたしの目は相当腐っている。(ヒー!)
「? …何で顔を抑えてるの?」
「い、いや何でも…(ちょっと自己嫌悪に…)」
色んな意味で思い知らされてドン底なあたしを、マグナの瞳がじっと見上げてくる。
それを不思議そうに見返せば、彼は傍の花瓶に添えられた黄色い花を一輪取り出して、それをそのままあたしの耳元にかけた――まるで髪飾りみたいに。
「うん、にはやっぱり春が似合う」
マグナは何故か嬉しそうに笑って、明るい花の色に目を細めた。
触れた指はそのままするりとあたしの髪を撫でていく。 それが妙に照れくさくて上手く返事が出来なくて、ぎこちなく笑うしかない。 何でこんな恥ずかしいこと言えるんだ彼は…。
「…そいえばこの花、珍しい形してるよな」
山岳地帯、という特殊な地域の副産物か。
珍しい花びらの形を眺めながら”ラウル師範が喜びそうだなあ”と呟くマグナ。
「ゼラムじゃ見たことのない花よね、そう思ったら結構遠くまで来たなぁと思うわ〜」
「うん―― 大変な旅に、一緒に来てくれてありがとう」
マグナの視線が、包帯に包まれた足へ痛まし気に落ちる。
唐突なお礼に思わずぽかんとしてしまったけれど、彼が何を気にしているのか察して肩で溜息を吐いてから、髪を撫でていた手で更にわしゃわしゃと撫でた。
沈んだ顔は彼には似合わないのだ。
「?」
「あたしがマグナと一緒にいたかったんだから、気にしない!」
そうなのだ。
これはあたしが決めたこと。
マグナの傍にいたかったから。
マグナと同じ景色が見たかったから、足の痛みだって我慢できたんだから。
「これからもっと大変な旅路になるかもしれないんだし、そう簡単に根をあげていられないわよっ」
「…―――、うん」
安堵にも似た穏やかな笑顔が、彼の表情に浮かぶ。
それは出会った時から変わらぬ、彼が持つ本来の優しさをにじませる微笑だ。 笑ってくれたことが嬉しくてあたしも目を細めて笑い返す。
―――と、頬に大きな手が添えられた。
きょとんと見返すあたしの顔は、相当間抜けなものになっているんじゃないだろうか。
「ぇ」
「…目、閉じて」
わずかに腰を浮かせたマグナの顔が、下から覗き込むように近づいてくる。
何をされるのかを頭の片隅に理解しつつもまともに思考が追いつかない。 ただ、言われたままに目を伏せると柔らかい感触が唇に重なって、行為への羞恥に頬に血が昇る。
「…、ふ」
啄ばむように触れてくるそれに、わずかに呼吸が弾む。
膝に置かれたままの自分の両手をどこに持っていけばいいのか分からず、自分の服を握り締めていたらマグナの両手が強張りを解すように絡まった。
その間にも続く口づけ。 それ以上深くなることはなくただ愛しむように音をたてて繰り返され、身体の奥の熱を上手に引き出されていく。 マグナは、こうしてあたしの熱を煽るのが本当に上手い。
「っ、…マグ、ナ…」
「――俺の生まれ故郷は、さ」
唇が名残惜し気に離れて、マグナが言葉を紡ぎだす。
それに意識を引き戻した瞬間、身体が後ろに倒された――今度はあたしが、覆いかぶさるマグナを見上げる状態になって目を白黒させる。
そんなあたしにマグナが小さく笑って、言葉を続けた。
「…寒くて…、なんか、春に嫌われてるのかと思うくらい、…やっぱり寒くて」
――故郷にはそれだけのイメージしかないと、言いたいのか。
何が言いたいのか分からないから、あたしは黙って言葉に耳を傾ける。
あたしの髪を彩る黄色い花をマグナが撫でているのも止めず、ただ目の前の青年を見上げる。
普段の陽気さの裏に潜む…青年が持つ陰の姿から目をそらさない。
「俺まで春に嫌われてるんじゃないかって、思ってたけど」
「でも」
「俺は、春が好きだよ―――春みたいな君が好きだ」
瞳の中の陰が消えて、やっと、いつものマグナの笑顔になった。
そのことにちょっと安心する。
しかし彼の過去話に何か言うべきなのか、それとも恥ずかしいセリフに突っ込みをいれるべきなのか一瞬迷っていれば、そのままゆっくりと降ってくるキスと服の中に滑り込んでくる手に息が乱されかけて、思わず息を詰める―――。
「わっ、ちょ…ま、マグナ?」
「…ごめん、ちょっと、我慢できそうにない」
「エエエェェエエッあのほんと、今日くらい、ゆっくり休ん――…ンンッ、…!」
最後は言葉にならなかった。
いつの間にか髪から外れた花が、軋むベッドからぽとりと落ちる。
けれどすぐに、花があったことすらもあたし達の間からすっかり消えてなくなってしまう。
窓から差し込む陽光は、春。
今年の宿場町トレイユは、やさしい春ではなく甘い春の恋人たちをつれてきてしまったようだ。