「……バルレルって、悪魔なのに爪が短いよなぁ」
芳醇な葡萄酒の香りがもたらす心地良い酔いが、のんびりとした声によって現実に引き戻された。
燃えるような赤髪と同じ色の瞳が三つ、睨むように隣人へと向けられる。
許可したわけでもないのに同じテーブルに座り込んでチキンにかぶりつく青年はそんな視線を物ともせず、骨付き肉を豪快に噛み千切りながらバルレルの手をじっと見つめていた。
好奇心が映り込んだ目は彼が持つ人の良い部分を充分ににじませており――バルレルは無意識に、顔をしかめた。 こういった人間の扱いづらさはかつての旅で身にしみている。 できれば関わりたくはない。 まとわりつく犬猫をあしらうようにシッシッと手を払ってみても無視されて、バルレルの苛立ちが5割増した。 かなりイラっときた。
「…なんでオマエがここに来んだよ。
テーブルは他にも空いてるだろーが」
「いいじゃないか。 一人で食う飯なんて味気ないだろ?」
「野郎のツラ見ながら飲む酒のほうが味気ねェ。
失せろニンゲン」
「そんな固いこというなって。
別にいいだろー」
青年…グラッドはバルレルの心境などお構いなしに椅子を寄せると、その手元を覗き込む。
ワイングラスを片手に持つそれは子供の姿の時とは違い、今の姿に相応しい大きな手をしていた。 注目すべきは骨ばった指の、爪である。
「悪魔って爪がギラッとのびてる感じがしてたんだが…手だけ見るとバルレルも普通の人間と変わらないなぁ」
何気なく呟かれた最後の言葉に、バルレルはむっと口元をゆがめる。
グラッドが言った言葉。
これは、悪魔王とも恐れられるバルレルにとってかなり屈辱的なものだ。
しかもよりによって自分が最も忌み嫌うニンゲンと同じに見られるとは…どれほど笑えない冗談か。 相手にする価値もないとは分かっているが、ここまで爽やかに喧嘩を売られてしまっていたら買うしかない。
釣りが出ないほど買うしかない。
「よーく分かった。
オマエそんなに屋根から吊るされてェか…」
「いやいや! 待て待て! 素直な感想なんだって! そんな、本気で怒るなよっ」
「―――そうともそうとも。
短気を起こすのはよくないぞ魔公子殿」
滑り込むように割り込んだ声に、バルレルとグラッドの動きはぴたりと止まる。
客のいない、しんと静まった食堂に響くのは静かに歩み寄る男の靴音。
靴音の主は赤い法衣を揺らしながら、ごくごく自然に。
最初から招かれていたかのように違和感もなく着席すると、着席を見守ることしかできなかった彼らに目を向けた。
鮮やかな赤髪の合間から覗く角は、青年が<人>ではないことを示しており――セイロンは、ぱちりと小さな音をたてて扇子と閉じると、愉快気に口角を持ち上げた。
「だが当然、爪を長く見せることも出来るのであろう?
霊界サプレスは精神生命体…つまり魂のみで生きられる世界。
そなたほどの高位の悪魔であれば姿形を多少変えることなど造作もないことなのでは?」
「ええっ、魂だけって…本当なのか?!」
セイロンが言った事は本当だ。
精神生命体だけが生きる世界に姿形がもたらす意味はほとんどない―――が、これ以上、会話に付き合う義理もない。
徹底的に無視を決め込んで酒をあおれば、笑みを崩さぬまま「気を悪くしてしまったか?」などとぬけぬけとセイロンが言い放つ。 正直言ってグラッドよりもコイツを吊るしあげたいが、この手の輩はのらりくらりと交わす術に長けているのだ。
相手にするとまたややこしい事になるのは目に見えて、これ以上関わりをもたないためにも無視が一番の安全策だ。
本気で関わりたくないといった表情を露にするバルレルに、セイロンがくつくつと喉奥で笑う。
すると今度は「サプレスってすごいな」とのん気に感心しているグラッドへと、面白がるように目を向けた。
「まあ、冗談はさておき。
グラッド、魔公子殿が爪を短くしている理由など一目瞭然ではないか」
「おっ、セイロンは分かるのか?」
「あっはっはっは、もちろんだとも」
戯れにぱらりと開かれた扇子は、ぱちん、と澄んだ音をたてて閉じられた。
含み笑いを浮かべるそれは明らかにこの話の流れを面白がっており、すでに、バルレルの舌はせっかくの酒の旨さを感じなくなっていた。
その間にも、二人の会話はまだ続く。
「人間の身体はひどく傷つきやすいからな。
彼は、彼女の肌を傷つけるのが嫌なのだろう…まったく、魔公子殿にもかわいいところがあるものだ」
「なるほど! ああそっか、そっか。 そういうことか!
って、あれ、バルレル。 そのロープは一体どこから………」
その後、<忘れじの面影亭>の屋根に二つの塊が吊るされた光景が目撃される。