今日という日が持つ意味に、気付かなければよかった。
そう、理解した時にはすでに遅し。
彼は間に合わなかった。
―――気付いてしまった後では、それは頭の片隅に残り、彼を最大限に苛立たせるのだ。
「あ、バルレルおにいちゃんだぁ! おにーちゃーーーーん!」
《 忘れじの面影亭 》の扉を押したところで、無邪気で明るい声が飛んできた。
知らない声ではない。 もちろん、聞き覚えのある子供の声だ。
しかしバルレルはあえて、声の主に一瞥することなくそのまま外へ出る―――なんというかもう、振り向くのも面倒臭かったのだ。
小走りで駆け寄ってくる気配に捕まるまいと、赤衣の裾を揺らしながら大股になって歩き出す。
本音を言えば、朝から子供の相手をするのも嫌だった。
とある事情によりと共に聖王国を出て、ようやく口やかましいお人好したちと離れストレスもなくのびのびと過ごせるかと思ったのに、たどり着いた宿先にはまさか竜の子供が三人もいて。
しかも大して相手もしていないはずなのに異様に懐かれてしまうなんて、最悪だ。 気に入られて、懐かれて、事あるごとにまとわりつかれるようになるなんて本当に最悪な展開だ。
”これならまだ聖王国にいたほうがマシだった”と考えるくらいに最悪だと思う。
「おにーちゃーん! 待ってーぇ!」
(待ってたまるかっての…)
「むぅぅう…、待ってってばぁ!!」
”やーッ!!”と勇敢なかけ声とともに、背後から飛び付くように腰に抱きつかれた。
どすっ! と鈍い音がするほどの重い一撃に、らしくもなく、低いうめき声がこぼれる。
子供の体重とはいえ勢いがつけば害をもたらす兵器に変わるのだ……その事を、子供たち本人は知りもしないのだから余計に殺意に似た感情が芽生える。
”腰が使いモンにならなくなったらどうしてくれんだゴラァ”と不機嫌を全面に浮かべて竜の子供を睨みつけるも、腰にぶらーんとぶら下がった少女は喜びの声を無邪気にあげるだけ。
<暴力と争乱を司る悪魔王>、<狂嵐の魔公子>と同じ悪魔ですら恐れおののくバルレルの鋭い眼光をものともせず、むんずとえり首を掴まれて持ち上げられても、大喜びの、大はしゃぎだ。
「くっそ、このガキ…いきなり何しやがんだ!」
「見て見て! ミルリーフ、ママに結んでもらったの!」
「…はぁ?」
そこで初めて、バルレルはミルリーフの変化に目を止めた。
彼女の長い髪はいつもきれいに結い上げられているのだが、今日ばかりは少し違った。 まるで蝶がとまっているように、大きく真っ赤なリボンがちょこんとのっている。
それが嬉しくてたまらないのか、地面に着地したミルリーフはバルレルの前でくるくるとまわって見せた。 妖精のように幼く愛らしいダンスに合わせて青みのかかった竜の尻尾やスカートも、ふんわりと小さな弧を描く。
「パパとママにもらったの! …似合う、かなぁ??」
頬をぽんやり染めながら、期待を込めた目でバルレルを見上げる。
周囲に彼らを知る者の姿があれば”聞く相手を間違っている…”と溜息を吐いたところだろう。
しかし今、外には彼ら二人の姿しかなく、ミルリーフはいつものようにあしらわれることは間違いないはずなのだが………意外なことにバルレルは、ミルリーフの赤いリボンをじっと見つめるだけだった。
「…おにいちゃん?」
バルレルは、首を傾げて不思議そうな表情を浮かべる少女の眼差しに気付かない。
彼が所有する、三つの魔眼がひたすら見つめる先は<赤いリボン>。
真っ赤なリボン、リボン――その色が、その道具が何やら記憶の片隅に引っかかって、バルレルを思考に耽らせる。
(…なんだ?)
服の裾を引っ張る子供を無視して、バルレルは記憶の紐をゆるりと解き始める。
自分は数えられないほどの長い時間を生きてはいるが、必要なのはそれほど古い記憶ではない。 まだ新しい方に分類される記憶だ……思い出す事への面倒臭さと小難しさに顔をぐっと歪めると、がしがしと頭を掻きながら、あのお人好しにリィンバウムに呼ばれ、たちと出会った旅の記憶を掘り返す。
そう。
バルレルは何度だって、あの赤いリボンを見てきたはずだ。
そしてそこには。
この世界の誰よりもバルレルと近しい位置にいるであろう、の――――…。
「おにいちゃーん?」
「……げ、」
”余計な事を思いだしてしまった”と言わんばかりに。
ミルリーフが見上げた先のバルレルは、かつてないほどの渋面を浮かべるのだった。
―――その日は、朝から良い匂いがした。
アメルが朝から台所に立って料理の腕をふるっているのだろう。
芳ばしく肉が焼ける匂い。 甘い蜂蜜の香り。 バターの匂い……大所帯分の朝食を作るにしてはいつもと何かが違っていて、匂いを嗅ぎつけたユエルが目を輝かせながらそわそわしていた姿を覚えている。
仲間たちの何人かは出かけていた。
もちろん、仲間たちにさりげなく外に誘われたを連れて、だ。
がいない間に女性陣や子供たちは部屋の飾り付けを始めて、あれがいいやら、これがいいやら、楽しげに会話していたのも知っている。 危うく手伝いとして捕まりそうになったからジラール邸の地下書庫に逃げ込み、うとうとと眠気を誘われつつも頭上で響く黄色い声に妨げられて、結局眠れなかったからだ。
迷惑以外の何者でもない。
『今日はの誕生日なのよね! バルレルは何をあげるの?』
そんな事をミニスに聞かれたが、当然、そんなものを用意しているはずがない。
―――誕生日?
生まれてから一年経過したことをどうして喜ぶ必要がある?
―――プレゼント?
生まれてから一年経過したことを喜ぶだけでなく、どうして物をやらなければいけない?
サプレスの精霊や天使たちも生物の誕生には歌を唄ったり祝福の光を与えたりするが、なぜリィンバウムにまで似たような事をする風習があるのだ。 天使と同じ事をしているだけでも不愉快だというのに自分まで巻き込むのはやめてほしい。
『、お誕生日おめでとう!』
『おめでとうさん、これ、あたしたちからプレゼント!』
誰もが口にする祝言。
誰もが手に持つ、リボンがかった贈り物。
唐突に開かれたパーティーにただただ唖然としていたが、それらにぱっと頬を染めて。
『ぁ、ありがとう! すごく、うれしい……』
「―――フン、どーでもいいコトまで思い出しちまった…」
そこで、普段の自分らしくもない悪態に気付いて、バルレルはむっと顔をしかめた。
どうとでもない日常を思い出すような行為なんて彼女たちに出会うまでなかったというのに………そんな自分の変化はあまり心地良いものではなく、端正な顔立ちに不快の歪みが濃厚に刻まれた。
(…ムカつくぜ)
今日という日が持つ意味に、気付かなければよかったのだ。
ミルリーフのリボンのせいだ。
赤い色のリボン。
それはかつて聖王国にいた時に、何度だって見せつけられたもの……バルレルは手の中にある、ミルリーフから取り上げたリボンを指先に弄びながら(盛大に泣かれたが、無視した)、険しい表情のまま宿の通路を進んだ。
窓の外は憎らしいほどの晴天だった。
誰もが気持ちの良い一日を迎えられる天候だというのに、険ある表情の悪魔の姿に宿客の誰もがぎょっとした顔で避けて、道を譲るを繰り返す。 しかしそんな通行人の姿さえバルレルの眼中には入らない。
……そうだ。 散々考え込んでしまってはいたが、結論は”どうでもいい”という事なのだ。
生まれた日を祝う。
それは、数えきれない年月を生き続けてきた自分には無関係な風習で、好きなだけ飲み食い出来ることを除けばどうでもいい話。
幸いにもこの地は聖王国から遠い位置にある、帝国領トレイユの町だ。
バルレルとがこの町にやってきてからは日も浅く、ここにはの誕生日などというものを知る人間はいない。 恐らく、今の時点で彼女のソレを知っているのはバルレルだけだ。
つまり今年は、バルレルを不愉快にさせるあのパーティーはない、ということになる。
素晴らしい。 なんと喜ばしいことか。
面倒事がなく今日も一日終えるのだ。
なのに―――過去に見た光景は頭の片隅に残り、彼を最大限に苛立たせるばかりで。
「……あ゛ー、クッソ…」
言葉では表現できない苛立ちが、腹の奥底に溜まっていくようだ。
それを振り払うように早足で通路を進み、ノックもなく半ば乱暴に自室の扉を開いた。
今日は夜まで遊んでやろうと思って朝早くから出かけたというのに、数刻もしないうちに帰って来たことにますます損した気分になる。
そこで、ふと目をやった部屋の片隅…隣同士に並んだベッドにはいまだに眠るがいた。
もぞもぞと寝がえりを打っては気持ちよさそうな寝息をたてており、バルレルは彼女が目を覚ますのも構わずベッドの端にどかりと腰を降ろすも、ベッドが軋む音に少女は睫毛すら震わせない。
”ピクリともしやがらねえ…”と幸せそうに眠るその顔を、不満げな表情で覗き込んだ。
これでうなされていれば気分も良いのだが、残念なことにむかつくほど幸福感に溢れた寝顔だった。 鼻をつまんで、見ている夢を悪夢に変えてやろうか…魔眼に悪戯めいた光を灯らせ、少年の姿の時と同じように口元をニヤリと歪めて彼女の鼻に手を伸ばす―――。
「……ん、バル…」
空気に溶けてしまいそうなほど小さく零れ落ちたのは、彼の名前。
名を呼ばれた事で伸ばしかけた腕の動きは止まり、バルレルの赤い目はほんの少しの驚きに見開く。
しかしは起きてはいないようで、目許に睫毛の影を落としたまま、ゆるやかな呼吸を繰り返すだけだった。
彼女の安らかな寝息が静かな朝の空気に混じり、室内に満ちていく。
「――、チッ…」
長く細い尾を苛立たしげに揺らして毒づくと、バルレルはその手を引っ込めた。
優しく、やわらかで、安らぎで満ちた空気を肌に感じて、彼の表情は憮然としたものに変わっていく。 こんな空気は嫌いだ。 もっと激しく、騒々しい、闘争の本能を呼び起こすような、そんな殺伐とした空気の満ちる場所が相応しいはずなのに、なぜ、の傍にいようと思うのだろうか。
彼女の魂の輝きに惹かれてしまった、という理由だけでは片付かない。
ならばなぜ、六年も経った今も、彼女の魂だけでなくその身体をも自分のものにしたいなどと、彼女求め続けてしまうのか。
「…くだらねえ…」
一つの魂に執着するなんてくだらない―――なのに今、思い出すものはの笑顔ばかり。
仲間たちの贈り物を両手いっぱいに抱え、どこか泣きそうな顔で笑った、。
とても、とても幸せそうに目を伏せて、何度も「ありがとう」と呟いて笑っていた、。
―――なぜ、あのときの、の表情が頭から離れない?
今日が彼女の誕生日だから?
本当は祝いたいと思っているのか?…そんな馬鹿な。 悪魔に祝福などできるはずがない。
「ホントにくだらねえ、サイテーな気分だ」
吐き捨てるように呟いて、目にかかったの前髪を粗雑に払いやる。
ただ穏やかに眠り続けるその表情をしばらくの間、見つめたあとで、バルレルは苦虫を噛み潰したように渋面を浮かべた。
やはり無理だ。
悪魔の自分が、天使と同じことをするなんて死んでも御免だ。
だから。
「――――起きろ。
今日だけは、テメエの気が済むまで”愛してる”って言ってやる」
彼女が生まれたこの日を、彼女になら告げても良い言葉で満たそうではないか。
「ヒヒヒッ、もっと言ってやろうか?」
「……も、もう勘弁して…ッ…(バルレルからの”愛してる”連発って、嬉しすぎて死ぬ…!!)」