「すみまっせーん!」
隅々まで青を広げている空に、あたしの声が大きく響いた。
しかし、声を張り上げた先は青い空だけではない。
白い飛沫を底に受け、ずんと大きな存在感を持ちながら藍青色の海の上に船が停泊している。
帆がたたまれたそれは海賊船だった。
どの部分よりも一番抜き出ている中枢の柱の頂上には、黒地に白髑髏マークの旗がのんびりとした穏やかな風にあおられて、ぱたぱたとなびいている――その旗は本来なら恐怖の象徴のはずなのに、怖いと思わないのはうららかな午後の陽気のせいだけじゃないだろう。
おそらく、この船に乗る陽気でさっぱりとした船員の存在も大きい。 実際、彼らの向日葵のような笑顔は本当、見ていてとても心地よいのだ。
あー癒されるわーと、 海賊で癒されてしまうあたしもどうかと思うけど、あれだけ人の良い海賊には恐怖より親しみばかりを覚えてしまう。
「 こーんにーちはー! ヤードさんいらっしゃいますかー?!」
ずっしりとした黒い鞄を手に持って、あたしは再び船に向かって声を上げる。
そこでようやく現れたのは、黒い服を着た長身の男の姿だ。 深みのあるグレーの髪を潮風に遊ばせながら船を見上げるあたしの姿を見つけ、酷く驚いた表情を浮かべて手摺から身を乗り出した。
「さん? どうしたんですか、一体」
「小生意気な子供たちに復讐したいから手伝ってください」
―――はい? とこぼれた呟きは見事、波音に掻き消されていった。
「えぇと、急にどうしたんですか」
「小生意気な子供たちに復讐をしたいので手伝ってください」
―――…それは、先ほども聞きました。
案内された彼の私室にて。
脱力するように肩を落としながら弱弱しく呟かれた言葉に、あたしはうんと真顔で頷いてから鞄を開けた。
床に固定されたテーブルにどさどさと積み重なってゆくものは、分厚い辞書。 本。 辞書。 教科書。 辞書。 ノート……次々に取り出されてゆくそれらに、ヤードがぽかんと口を開けてあたしを見つめている。
「…さん?」
「ウッス師匠! ご指導よろしくお願いしまッス!」
「いや、あの、さん。 取りあえずですね」
「ウッス師匠! 取りあえずリィンバウムの文字から教えてもらいたいと思いまッス!」
両手で握り拳を作って体育会系のノリでヤードに応答するあたし。
そんなあたしの応答に、元・無色の派閥の召喚師の顔に困惑が浮かび上がるのを発見する。
―――今日のトリビア。
ヤードに体育会系ノリで応答するとドン引きされる。 (へぇ〜)
「―――と、まぁ色々と出てきた冗談は置いといてですね」
本格的なドン引きになる前に切り替えたそれに、心の底からの安堵のため息がヤードからこぼれる。
「えーと。 まず、どうしていきなりこんなことを頼むのかといいますと、あたしにはリィンバムの娯楽常識というものがごっそり欠けているそうです」
一般常識はそこそこ。
けれど有名人の名前や子供の遊びはさっぱりわからない。
それを告げると、ヤードはああ、と頷いて。
「まあ、あなたはゲンジさんと同じく四世界のうちから召喚された方ではないですからね」
お気に入りの急須に湯を注ぎ、着々とお茶の準備を整えるヤード。
緑茶の香りにほっと安堵しながらも、あたしは辞書を広げて横文字の羅列のそれを指でさす。
「特に遊び方をよく知って、コツくらい学んでおかないとこの島では危機です」
「コツ…? 何故ですか?」
「現代人のもやしっ子体力と成り果てた我が身では、将来軍人を目指すお坊ちゃまとお嬢様、卓越した運動能力を持つ子供達についていくのは至難のわざです。
だってもう何アレ蓮ジャンプ。 あのジャンプ力があったらあんた、怪盗にもなれるわ…! レックスやアティなんて眼鏡怪盗だわ…!」
「…はぁ…」
額を抑えて”眼鏡怪盗も素敵だわ…!”と身悶えるあたしについていけないヤードが、不思議そうに首を傾げた。
とういか、ついてこれたらそれこそドン引きなので、是非、ヤードはそのままのヤードでいてください。
「で、現代もやしっ子があのお子様達についていくには、ルールと理論を理解してから体力つけて練習するしかないという結論に至ったわけよ」
拳を硬く握るあたしの手前に、ヤードが湯飲みをことんと置いた。
それに”どうも”とお礼を言ってから口をつけ、大変お久しぶりの和の心に和みながらテーブルに戻し。
「んで、レックスやアティに色々と本を借りて学んでみようと思ったわけなんですが」
「はい」
「ところどころで読めない字があって一向に進みません、ということです」
「…なるほど」
苦笑交じりの”なるほど”に頷きながら、あたしの眉間に皺が刻まれた。
「子供相手にそこまで負けず嫌いを発揮しなくてもいいんじゃないですかって思ったでしょ?」
「いえ、何だかんだといってる割にあの子たちと遊ぶさんはとても楽しそうだったので」
「―――楽しいわよ。 あの子たちが好きだし」
空を飛ぶように軽々と宙を舞う小柄な身体が、瞼裏に焼きつく。
空の青と雲の白の中を突っ切るように高く跳び、白い飛沫をあげて跳躍するその遊び。 あたしにとっては蓮の上に立つというだけでも十分神業的で、さらにはあそこまで高く跳ぶなんて出来るはずがないとはわかっているのだけれど―――ほら、一度は渡りきってみたいというか、興味と好奇心というか。
「置いてかれるのは悔しいのよね」
頬杖をついてぼんやりとそんなことを呟くと、ヤードは、また苦笑した。
まだ知り合って間もないけれど、湯飲み片手に穏やかな笑みを返されてなんだか気恥ずかしくなる………というか、彼らと遊ぶあたしの姿が楽しそうに見えたということは、全速力で蓮に向かってジャンプして、そのまま池に突っ込んだシーンをばっちり見られていたというわけでしょうか。
そりゃないわ神様。
「ま、まあとにかく、この際だから色んなこと勉強しようかと思って。
あたしが前にいたとこでも文字は教えてもらえてたけど、まだ全部は覚えられてないし」
そう。
以前はネス達に教えてもらってはいたけれど、それでも知らないものはまだまだたくさんある。
「レックスさんとアティさんに教わらないんですか?」
「坊ちゃん嬢ちゃんの四人と島っ子たちにも教えてるのよ? さすがに遠慮しちゃうわよ」
”ということでよろしく”と深々と頭を下げるあたしに、ヤードが小さく微笑んだ。
…なんというか、この、人生悟りきった表情がまたこの上なく頼もしいわね。(誉め言葉です)
「拙い教え方でよければ、喜んで」
「さすがヤード! ありがと! バルレルもハサハもそれぞれ集落に遊びに行ってるし、集中が途切れない今のうちにみっちり教えてちょうだい」
「はい、それでは彼らにも秘密ということで―――え?」
ふと、納得するように頷いていたヤードがきょとんとした顔であたしを見る。
テーブルの上に教科書を広げ、臨戦体勢をとるあたしはそんな彼を不思議そうに見返す。
ヤードは室内に視線をめぐらせて、潮騒が響く静かな部屋に、やがて身動きもしなくなってしまった。
ヤードが硬直すること、約十秒。
彼は、慌てたように席を立つ。
「お、お茶をいれてきます」
「あ、あたし別にこれでもいいけど」
「いえ、その、…私に、必要なので」
「あ、そう?」
あたしの視線にぎこちない動きで答え、”その…落ち着かせるために”と、お茶の入った急須を持って部屋を出てしまった。
物腰穏やかないつもの彼らしくないそれに、部屋に一人ぽつりと残されたあたしは”何が何だか?”と首を傾げ、そのまま分厚い辞書の目次を目で追いながら<先生>の到着を待つことにした。
……一方、給湯室に向かったヤードはというと。
(…――さっきから妙に落ち着かないのは何故でしょうか…)
「おーい、ヤード。 急須の茶の葉が山盛りになってんぞー」
「…どれだけ渋いお茶を飲むつもりなのアンタは…」
自分の落ち着きの無さに困惑しながら、カイルとスカーレルにドン引きされていた。