ニオイがする。
何かが燃えて、焦げるニオイ。
――とても悲しいことを思い出してしまうから、このニオイは、キライ。
「……、?」
嫌な臭いにふと、目が覚めた。
まだ重い瞼を持ち上げて隣を見る。 けれど大好きな人の姿はなく、ハサハはゆるりと小首を傾げ、見慣れない天井や見たこともない造りの室内をきょとりと見渡す。
隣のバルレルは大口をあけて眠りを貪っている。
少年に戻っているその寝姿は眺めるだけでも微笑ましいが、見回してもの姿はどこにもない。 気配を探っても見当たらず、ハサハはしょんぼりと項垂れた……緑の匂いが心地よく、滑り込む日差しのぬくもりはとても優しいのだが、彼女がいないのはどうしてだろうか。
「おねえちゃん…?」
の姿がない。
掛けられていた美しい染め布の中からごそごそと這い出し、水晶玉を持って外に出る。
明るい日差しに目を細めながらも純粋な眼に広がる景色は空の青だ――しかし途端に、燃える臭いが濃度を増して鼻につき、思わず、着物の袖で鼻を覆って咳き込んでしまう。
……何かが燃えている。
原因を確かめようと臭いを辿り首をめぐらせると、離れた位置に根を下ろしている巨大な大木が見えた。 そのあまりの大きさから眼前にそびえ立つように映り、驚き混じりに緑豊かな緑頭を眺めていれば――ぶわりと、木々の隙間から吹き出るように湧き出た一筋の黒い煙が巨木を覆った。
「あ…」
それを見てようやく察する――緑豊かな森が燃えている。
禍々しい赤黒い炎はその手をあの巨木に伸び、周りを木々を巻き込みながら食らい突こうと迫っている。
ばちばちと爆ぜる音は樹の悲鳴だ。
離れた場所からでも聴き取れるそれにとても悲しい気持ちになって、長い耳がくたりと下がってしまう。
「…どうして…」
悲鳴をあげる木々がハサハに伝える。
声が音を通して聴こえる――危険が迫っている、逃げなさい――今にも掻き消えそうな木々の声に、ぶんぶんと首を振って否定した。 身を翻し、高いびきで眠りに落ちている少年の肩を揺さぶる。
「おにいちゃん…、おにいちゃん…っ」
「んがっ――あ? 何だ、オマエかよ」
「森が、森がもえてるよ…」
今にも泣き出してしまいそうな少女の声に、バルレルは仕方なしに、緩慢な動きでのろのろと体を起こす。
早くこの異常事態を見て欲しいのかハサハがぐいぐいとその背中を押して出口に連れていくが、立ち昇る不気味な黒煙に、少年悪魔は大きな欠伸をするだけだった。
興味はまるでないと言わんばかりで、ハサハの眉が垂れ下がる。
「おー、景気良く燃えてんなァ」
「…け、消さない、と」
「こんだけ燃えてたらどうしようもねえよ、諦めろ」
「でも、おねえちゃんも…」
が炎に巻き込まれているかもしれない。
それを考えるととても不安になって、水晶玉を抱きしめる手に力がこもる。 しかしバルレルはそれにはしっかりと首を横に振って否定した。
「アイツの気配は燃えてねえところにあるから、心配ねェよ」
「でも、でも…」
耳に、木々の悲鳴が途切れない。
炎に怯える知らない誰かの声がたくさん届いてくる――これは、この森に住む住人たちの悲鳴だ。 か弱い妖精の声も、水晶を通して伝わってくる。
―――チカリ、と瞬く水晶が映像を映し出した。
住人が、長剣を携えて鎧を身にまとった何者かに襲われている。
それは個ではなく、集団だ。 リーダーを思わしき男の顔面に刻まれた不気味な刺青が炎の赤を得てよりその不気味さを増している。 破壊する喜びに魅入られた歪んだ笑みに、ハサハは背筋がぞっと逆立つのを自覚した。
しかしバルレルは面倒臭そうに顔を歪めるだけで、つまらなさそうに燃えさかる森に目をやり。
「アイツらがどうなろうと知ったこっちゃねえな」
「!」
「白いオッサンは話が分かる奴だが、もともと俺らは無関係だ。 わざわざ関わりにいくモンでもねえよ」
バルレルなりに、この島で次々に起きたトラブルを今も根に持っているようだ。
完全に突き放す言葉にハサハの眉がきゅっと寄せられ、この少女にしては珍しくも露になる怒りの感情に、少年の片眉も不愉快そうに吊り上がる。
――たとえ少年の姿であっても、真の姿は誓約のない悪魔王だ。
魔王とはその強大な魔力を持って<王>と称えられているのだ。 剣呑な光を帯びる三つの魔眼を向けられれば体が竦み、言い様もない恐れを彼から感じ取るだろう。
しかし少女は、それに怯えることなく細い腕を伸ばし。
その手は―――。
ぺちっ。
そんな、可愛らしい音をたててバルレルの頬に当たった。
…………もしや今のは、この少女なりの平手打ちのつもりだったのか。 と、呆然と考えるバルレルを余所に、ハサハは青い着物の袖を翻し、庵を抜け出して黒煙が立ち昇る大木に向かって駆け出している。
「オイ!」
「…おにいちゃんの、バカ!」
ハサハにしては珍しい音量で発せられた、バルレルへの抗議。
それを一度だけ言い放ってから、白い尻尾を揺らしながら少女の姿は森の中へ消えていった――その場にぽつりと残されたバルレルは、緑の中に消えていった小さな姿に顔を歪め。
「ッケ、の悪影響が移ってやがる…」
八つ当たりに、ここにはいない少女に毒づくのだった。
―――誰か、たすけて。
絶望から引き上げて欲しいと願う懇願の声が、忙しなく鼓動を打つ音をより大きくする。
木々に隠れるように身を潜める小さな身体は震え、耳は伏せられ、白い尻尾は完全に怯えて丸まり、大きな瞳は燃えて広がっていく炎の赤から目を背けることも出来ず目尻に涙が蓄積されていくばかりだ。
今瞬きをすれば、それはほろりと大粒の涙を零すだろう。
(ど、どうしよう…)
いつもの日課の散歩をしていただけなのに、恐ろしい集団に遭遇してしまった。
大柄な体格の人間の集まり。 白い外套の下に鋼の鎧で身体を覆っているというのに、その動きはとても身軽だ。 切れ味の良さを試すように灰となって朽ちかけた木々を切り裂く音は、荒々しい突風が通り過ぎたよう。
炎の赤に彩られ、甲高い笑い声を響かせては地面を踏みしめて前進していく影はこのうえなく不気味だった。
(どうしようどうしよう)
あれは数日前から姿を現すようになった帝国軍だ。
ユクレス村よりもほんの少し離れた場所にいることが幸いなのか不幸なのか判断がつかないが、今のパナシェにとっては不幸以外の何者でもない。 見つかればすぐに殺される。
少し向こうで、パナシェのように村を出て狩りをしていた仲間達が皆、血を流して倒れている。
死んでいるのか生きているのか、確かめる術も勇気もない。
鉄錆びた臭いを放ちながら流れていく赤に体が竦み、足を動かすことすら困難で。 幼い少年の心は今にも粉々に砕けてしまいそうだった。
(や、ヤッファさん…)
雄々しく大柄な白い獣人の名を呼ぶも、彼はここにはいない。
昨夜に起こった出来事を海にいる人たちに説明をするため海岸に向かってしまった。 この炎と爆発に気がついても、今から駆けつけたとしてもこの集団がユクレス村に到着するほうが早いだろう。
(キュウマさん、アルディラさん、ファルゼンさん……)
島のまとめ役たちの名前が浮かぶ。
しかしそれでも、彼らの耳には届かない。 彼らが治める土地は離れた場所にある――彼らも、間に合わない。
(――先生…!)
温かい微笑を浮かべる人に、すがりつきたくなる。
助けてくれと、救ってくれと泣き出したい。
――しかしこうしている間にも、村が焼かれるのは時間の問題だ。 震えていてもやがては見つかり、殺される。
……自分が、どうにかしなければ。
今から、自分がしようと思うことを考えると恐怖に目が回る。
それでも大切な人たちがあの炎に焼かれていくのは許す訳にはいかず、砂粒のような勇気を奮い、幹にすがりながら震えてまともに動かない足を叱咤して立ち上がって、駆け出した。
その拍子に、足元の草葉の音をたててしまったのは失敗だった。
駆け出す子供の存在に気がついた兵士の目が一斉に、小さな背中に突き刺さる。
「おい、ガキが逃げるぞ!」
「捕まえて殺せ!」
背後から響く怒号と殺意に、足が絡まりそうになる。
乱れる呼吸にも構わず精一杯に足を動かし、パナシェは村へと駆けて行く。
森が燃えていることには誰もが気がついているはずだ。 炎の影で侵攻する彼らの存在を村の入り口で叫んで伝えれば―――!
「ぅあ…っ!」
出っ張った木の根に足をとられ、宙に放り出された小さな身体はごろごろと地面を転がる。
しかしその勢いを殺すことなく起き上がり、もう一度走ろうと顔を上げたその途端、言い様もない冷たい感覚の背に落ちて本能的に真横に転がった。
――刹那、身を捻る少年の頬の毛を鋭い突風が切り捨てる。
「ッチ、外したか…!」
「う、うわああ!」
不気味な刺青の男が炎の赤に染められながら、苛立たしそうに顔を歪める。
右手に掴んだ刀の刃が今度こそ外すまいとパナシェに狙いを定め、獲物に襲い掛かる蛇のごとく、その切っ先を少年の身体に食い込ませる―――。
「―――!」
少年の柔らかな毛に食い込む刃。
しかし肉と刃が触れ合うその寸前――不可視の力に弾かれて男の凶器が宙に投げられた。
ギィン、と空に呼応する甲高い悲鳴をあげた刀は宙を舞い、土を抉るように地面に突き立てられる。
弾かれた凶器の行方を見届けたパナシェの思考は、そこで、動きを止めた。
黒目がちの少年の目は、不愉快な色を濃厚に振り向く男が見たものと同じものを見たからだ。
…それは何時の間に、そこに佇んでいたのだろう。
この場にいる人間も、誰も気づかなかったのか動揺の気配が広がってゆく。
「―――その子から、離れて」
――凛とした声。
可憐な唇からこぼれた言葉はただの一言。
しかし、強烈な殺意を煽るには充分で、刺青の男の瞳に剣呑な光がぎらつくのをパナシェは見た。
その場にいる人間が全員、声の主の存在を目視する。
木々の陰から現れたのは――美しい女だった。
濡れ羽色の長い髪は男を誘うように艶やかなのに、白い肌と淡く色づく頬と唇は男を知らぬあどけない少女そのもので、強く抱きしめれば崩れ落ちてしまいそうなほっそりとした身体が醸し出す色香は危ういバランスを持って存在していた。
見えない風に煽られて、踊るように揺れる青い着物の袖。
紅葉の紋様を描かれた袖から伸びる白い両手は、真白の光を放つ水晶を手にしている…突如現れた女は大変美しかったが、人間ではないことは彼女の外見が示していた。
長い耳と柔らかな動きを見せる尾は、人に在らざるもの。
かつてない美しさに、ぼうっと魅せられた少年に、女の物静かな瞳がひたを向けられる。
「――、離れて」
瞬間、女の言霊に呼応して男と少年の狭間で閃光が炸裂した。
電撃にも近い鮮烈なそれに男が悲鳴を上げて身を引くと、男が離れたその隙にパナシェは女の下へと転がるように駆け込んだ――何が何だか分からないが、彼女は助けようとしてくれて、結果、助けてくれた。
今にも泣き出しそうな心細さを補うように青い着物の袖を掴むと、優しい眼差しが降り注がれる。
「…怪我、ない?」
「は、はい」
「…うん、よかった」
心から安堵するように、ふわりと甘い微笑み。
それに耳がカア、と熱くなる感覚を覚えて身を強張らせれば、女の目が刺青の男へ向けられた。 警戒する光にまだ安心は出来ないのだと、幼い少年の心を引き締める。
「舐めんなよ化け物どもォオオ!!」
刺青の男が吼えた。
獣のように姿勢を低くし、歓喜が混じる殺意を撒き散らしながら刀を手に迫る。
白い外套が大きく揺れる動きを目で追いながら、女は水晶を胸の前に掲げた ――刹那、真白い透明な膜が二人を覆ったかと思いきや、襲い掛かる凶器は再度、硬い鎧に弾かれたように甲高い悲鳴を上げて身を震わせた。
「――ッチィ!」
強固な結界に男は飛び退いて体勢を整えるその一方、女の顔色はますます青白くなっていく。
人間の男たちに四方を囲むそれを息を荒げて見届けながらも、その瞳の意志の強さは一つも揺らぐことはない。
「お、お姉さん…」
「…」
応答する気力もないのか。 目に見えて弱っていくのがパナシェにも分かる。
そしてそれは刺青の男にも。 にやりと愉快な笑みを浮かべて、とうとう膝をつく美しい女の有様に口笛を吹き、弱りながらも失われない、苦痛に歪まれた美貌を堪能するように眺め下ろす。
「何だか知らんが、弱ってるみてえだなぁ」
「っ…はぁ、はぁ…」
「まあ、ここで持ち堪えてもしょうがねえけどな。
別の行動部隊が村に向かってるんだ。 化け物共の村は皆殺しさ」
「そ、そんな…!」
女を支える少年の小さな心が、絶望という感情に黒く塗り潰される。
それは幼い顔にも浮かぶと刺青の男はよりいっそう笑みを深めた――しかし。
「――!!」
突如、木の葉を散らし黒い影が頭上から降る。
目に追えぬ落下の残像の中に鋼の輝きを認めると、男は手の中で刀を握り替え、利き手とは逆の手でそれを掲げた。
振り下ろされる刃と掲げられた刃は火花を散らし、ガギィンと濁った悲鳴をあげる。
危機を察知した刺青の男の本能が見せた、反射的な防衛本能。
女と子供をいたぶることに気を取られすぎていたのか。 ここまでの接近を許した自分の迂闊さに忌々しく顔を歪め、刺青の醜悪さを濃厚にする。
だが、襲撃者の鮮やかな赤を見て、憎しみは驚きに、そして悦びに塗り変わる。
「よぉ、やっとお出ましかァ!」
「――ビジュ!」
軽薄な声に構わず、赤髪の襲撃者は再び地面を蹴って猛撃を返す。
首元を覆う黒い布は襲撃者の影のように尾を引いて流れ、赤髪の男が握る剣は緩やかな流水のように美しい軌跡を描きながら風を切り、刺青の男――ビジュの凶器に狙いを定める。
殺意の薄い攻撃。
その狙いはビジュから武器を引き離そうという魂胆か。
襲撃者とは違い確実な殺意を持ってそれを迎え撃つのは、確実に息の根を止めようと繰り出される鋼――しかし、赤髪の襲撃者は息を殺して深く間を詰め、繰り出されたそれを紙一重で避けると剣を手放し硬く握り込んだ拳打を放つ。
「ぐがっ!」
顎に叩き込まれた打撃に、くぐもった悲鳴が口内か洩れる。
脳を揺さぶることを目的とした一打を真正面から受け、屈強な体が大きく仰け反るも襲撃者の追撃はない。
――彼はすぐさま身を翻し、女と子供に駆け寄ったからだ。
「パナシェ! 無事か?!」
「せ、せんせえー!」
心を許せる存在にようやく出会え、パナシェは尻尾を揺らしながら男にしがみついた。
愛らしい顔は泣き顔でくしゃくしゃになり、ぶるぶると身体を震わせる少年の肩をしっかりと抱きしめて安堵の溜息を吐くと、男――レックスの出現にほんの少し驚いた表情を浮かべる女に、手を差し伸べた。
――温かいその笑顔は、向けられただけでほっとするものがある。
「君も、立てるかい?」
「…(こくん)」
そろりと、伸びる白い手。
それを握り締めようとした瞬間、腰にしがみついていたパナシェが叫ぶ。
「先生! 後ろ!」
「っ!」
気を抜きすぎた。 敵は一人ではない。
白い外套の下にまとう鎧の軍人…ビジュの部下だろう。 卑下た笑みを浮かべ体勢を整えることの出来ないレックスに容赦なく鋼を振り下ろそうとして腕を掲げる――。
「させるかコノヤローーー!!」
しかし突如として真横から放たれた投物が、兵士の顔でべしゃりと潰れた。
それは果実だ。 顔面にまとわりつくように粘り、芳ばしくも甘ったるい蜜を滴らせるそれに怯んだ隙をレックスは見逃さない。
腰のベルトから短剣を抜き放ち、鋭い突きを凶器の刃に突きたてる。
瞬間的に走る硬い痺れに手放さずにはいられなくなった剣を足で蹴り、果実の汁に目をやられた男の眉間に拳を打つ。 ぱぁん、と乾いた音をたてる衝撃は頭蓋骨の通り抜け、脳に響かせ意識を混濁させるには充分だった。
「ありがとう!」
「いやいやどういたしまして …っじゃない! ハサハ!!」
果実を放り、草陰から飛び出し駆けよって来るの姿に、ハサハの顔に安堵の色が広がる。
レックスの時のようにそろりと伸ばされる腕…ではなく、両手を広げるに応えるように、ハサハの両腕も大きく広げられた――そこに見えるものは、確かな愛情と信頼だった。
「おねえ、ちゃ…」
「怪我は?! ない…みたいだけど、う、だいぶ消耗してる…でも、よく頑張ったね」
崩れ落ちる女の身体を抱きとめるがとても嬉しいように、ハサハはあどけない微笑みを浮かべた。
けれど次には力尽きたように瞼を伏せる彼女の身体は赤い光に包まれて、小柄な少女の肉体に姿を変える…それを目撃したパナシェは”ええ?!”と驚きのあまり毛を逆立てたが、レックスに腕を引っ張られた。
「、こっちだ!」
「了解! ハサハ、ちょっと揺れるけど我慢してね!」
ぎらついた目で襲い掛かる軍人に怯むことなく、ハサハを背負ったとレックスは駆け出した。
行く先はユクレス村だ。
この人数で戦うには分が悪いという理由もあるが、何よりも村の様子が気にかかる。
「先生、先生、む、村の皆が…!」
「大丈夫だ! そっちにはアティがいる!」
(っていうかバルレル、どこにいるのよー!)
それぞれの心配を胸に、彼らはユクレスの大木を目指し森を駆けていった。