「メイメーイ、頼まれてたお酒持ってきたわよー」
さわやかな風が吹く、昼の青い空の下。 シルターン仕立ての赤い扉をぎこちない動きでノックする。
こん、こん、と扉が小さく音をたてる――しかしノックの音もぎこちないものになるのは、あたしの両腕いっぱいに瓶の詰まった紙袋を抱えているからだった。
あ、重いから手がぷるぷるしてくる…してくるわー!
「っと、…あれ? メイメイ?」
赤い扉から返ってくるであろうと予想していた返事はなく、はて?と首を傾ける。
「……、いない?」
「…気配、ないよ…?」
右隣からの小さな呟きにつられるように、視線を下げる。
そこに立つのは女の子だ。 青い着物に白い肌を持った愛らしいその子は、真っ黒な髪の隙間から伸びた白い耳をぴんとたてて、無垢な黒瞳で占い師の家を見上げた。
気配に聡い彼女が言うなら、本当に無人なんだろう。
あたしはそこで、聖王国を震撼させた大規模な戦争――人々はこれを<傀儡戦争>と名づけた――の真っ只中でも何も変わらなかったへべれけ占い師の酔っ払った顔を思い出す。
シルタ−ンの衣装に身を包む彼女の存在は、この戦争の結末を知っていたあたしにさえ謎だらけの存在だった。
「留守ってこと?」
ハサハは、あたしの言葉にこくん。と頷く。
頷きにふぅんと納得をしてから、あたしは改めてハサハを見つめた……その姿に、メイメイ不在の理由よいも彼女への愛しさがぐっと込み上げてしまうのは仕方が無いと思う。
ああ神様。
今なら分かる。
あたしには分かる…小脇に抱えて連れて帰りたいと思う人のその心理が…!
(ハサハは…何度見ても可愛いな〜)
たまらず、でれっと緩んだ顔になる。
何度も一緒に寝たりとかしてるけどそのかわいい仕草には本当、免疫がつかない。
ある意味兵器。 この少女はあたしを(別の意味で)狂わせる…!
そのとき、あたし達の背後にいた少年が、呆れた風に呟いた。
「気持ち悪ィ顔してんじゃねえよ」
「あああああんたそんなストレートに言わなくても! でも悶絶せずにいられない自分にとりあえずごめんなさい」
「それより留守たァどういう了見だ? 俺らをコキ使ったことも忘れて出掛けてやがって」
少年が、不愉快そうに舌をうつ。
幼い外見からそれは反抗期の少年を思わせるが、チンピラの空気が見事マッチしている彼の、腰から生える一対の翼は彼が悪魔という種族を現していた。
使いっぱしりにされた彼の、あまりの剣呑な空気に怯えたハサハがあたしの服の袖を掴んで隠れてしまう。
「こらバルレル、ハサハを怖がらせちゃだめでしょ。 メッ!」
「アホか」
「うう、ハサハ…最近バルレルの放置プレイ率が上がってる気がする…!」
お酒を抱えたまましくしくと泣き出すあたしに、ハサハがよしよしと頭を撫でる。
…この子…本当いい子だよ…と、たまらずひしっとハサハを抱きしめてしまうあたしを変なモノを見るような目で見て)、バルレルは再度、聖王都ゼラムの一角にぽつりと店をかまえる占い師の家を見上げた。
「でもほんと、さっき頼まれたばっかりなのにどこに行ったのかしら」
「鍵、開いてるから勝手に入れってことだろ」
なんて都合の良い思考回路してるんだアンタ。
そんな突っ込みを入れるあたしに構わず、遠慮なしにバルレルが踏み込んでしまった。
しかしあたしの腕も限界だったので、勝手知ったる何とやらの原理で両腕に抱えた酒瓶を持って室内に踏み込むと、赤を基調とした無人の部屋の中央のテーブルで、透明な水晶玉が不思議な光を浮かべてあたし達を出迎えてくれた。
「ちょっとメイメイー? いないのー?」
「…いない、ね…」
お酒を頼んだのはメイメイ本人だというのに、買いに行っている間に出掛けてしまうとは、何か緊急の用事でも入ったのだろうか。
首を傾げながらテーブルにお酒の袋を置くと、そのうちの一本に手を出そうとしていたバルレルの手がお酒に伸びる。
「こら!」
「イテッ!」
ベチンっ! とはたき落としてやると、不満そうな目があたしを見返してきた。
子供の姿なので何ら迫力もなく、あたしはツンとそっぽ向く。 全然怖くありませんよ、子バルレルなんて!
「一本くらいいいじゃねえかっ」
「ダーメ、メイメイのお酒への情熱を知らないワケじゃないでしょ」
それこそ何をされるのか分からないから、寧ろメイメイのほうが怖い気がする。
なんか、占いと名のつくもの全てを使って復讐されてしまう気が……にゃはは〜と笑いながら色んな術を駆使する彼女の姿が思い浮かんで、ぶるっと体が震えた。
「任務も果たしたし、さっさと逃げるわよ」と嫌がるバルレル襟首を掴み、ハサハの手を握ってその部屋を出ようと、出口へと足を向ける。
「――、ん?」
それは、ほんの微かなものであったけれど。
どこか懐かしい感覚に、くん、と意識の裾を引っ張られた気がした。
部屋を出ようとしていたあたしの足をぴたりと止めて、無意識に、自分の意識と感覚が部屋の隅々にまで、違和感を探そうと手を広げている――これは、何?
「…、なんだろ」
何もない、部屋。
しかし確かに、惹かれるものがそこにはあった――ふらりと、誘われるように足が動く。
「おねえちゃん…?」
近くにいるはずの、ハサハの声が遠い。
どこかに置き去りにされたみたいに、日常という感覚がとても、とても遠くなる。
惹きつけるそれは、懐かしいと思う力の名残。
ああそれは、<界の意志(エルゴ)>の力にもよく似ていた――ただ、わずかに引っかかりを覚える部分もあるが、けれどそれは確かに<界の意志>に近かった。
傀儡戦争が終わってからずっと続いていた平穏に、ざわりと波紋を浮かべるよう。
途端に、メイメイも何かに巻き込まれたのだろうか、と急に彼女が心配になる。
原因である大元を探すため、自分の意識をもっと深く、強く、その名残に触れようと集中して――しかしそれは、あっけなくすぐに見つかった。
「…水晶?」
自分の呟きも遠い。
けれど、ぼんやりとした目であたしが見つめる先で不思議な光を放っていたメイメイの水晶玉が、最初に目にしたときよりも、強く、柔らかな光をじわりと帯びていた。
それは静かに部屋中に拡がりを見せ、日の当たらない場所にまで柔らかな光で包んでいく。
(どうして)
自然と、指先が水晶に伸ばされる。
バルレルの制止の声が聴こえた気がするけど、あたしの意識は何も捉えなくて、それを幻聴だと置き換えた。 あんなに近くにいる声が聴こえないだなんて有り得ない――あたしの全てが、異常でない限りは。
指先が、水晶に触れる。
「―――ぃたっ?!」
瞬間、バチィ! と弾けるように電光が迸った。
しかしそれだけではとどまらず、弾けた光は鋭さを帯びて天井へと放たれ、宙をナイフで捻じ切るように切り裂いた。 裂かれた空間の中でぽかりと浮かぶのは、空虚な闇。 その中はどんなに強い光で照らされようとも見通すことが出来ない、深い闇が見える――。
(何これ…!)
鋭い光が、生き物のようにうねった。
それはメイメイの家具を、天井の屋根を、布のように切り裂く。 物でも空間でもお構いなしに。 床が、地面が、あたしの周囲にあるもの全てが激しい音をたてて無残に粉砕されていくさまに、とんでもない物のスイッチを押したのだと理解した。
「ちょ、ヤバ」
家が崩壊していくという事態に慌てた途端、突如、あたしの足元が砕けた。
呆気にとられるあたしを襲うのは浮遊感。 その後圧し掛かるのは落下感。 ずん、と暗闇に沈む自分の身体を自覚しながら成すすべもなく落ちていくあたしの腕を、か細い声であたしを呼んだ、ハサハの小さな手が掴む。
「ハサ――!」
唐突の事態についていけないあたしの、彼女の名を呼ぶ声が途切れた。
世界が真っ暗になる。 それでも掴まれた腕に残る温もりは繋がったままということは、ハサハも一緒に落ちていることか。
寒いとも暑いとも感じず、どこが北でどこが南すらも分からないほど暗闇に閉じ込められ、訳が分からないまま暗闇の中に落ちていく感覚に苛まれながら繋がった温もりを決して見失うまいと、今にも引き離されそうな手に力を込めた。
「っ…!」
「…おねえ、ちゃ…!」
落下の勢いに言葉が出ないハサハの身体を引き寄せて、強引に抱きしめた。
このまま頭から落ちていくのはさすがにまずい。 と、頭からの墜落を避けようと足を振り上げると、身体がぐるっと回転した。
途端にどこから吹くのか分からない強い風圧に頬を叩かれて痛みが襲う。 それを無視ししてハサハを抱えながら底を見ると、暗闇の中に見えた遠い奥底に、出口と思われる小さな光を発見した。
星の瞬きのように小さなそれ。
暗いこの世界では夜空に浮かぶ星の瞬きそのものだ。
しかし次の瞬間に、その瞬きが大きな出口となってあたしたちをぐわりと飲み込み、白い世界へと招き入れた。
次には、間抜けな声があたしの口から飛び出した。
「――――へっ?」
暗い世界は消え去って、眩しい世界が広がった。
突然放り出されたように現れた眩しさに目を細めながら、あたしたちの落下は続いていた。
すぐ傍にある太陽の光が目に焼きついて、眼前に広がるものは青い空と青い海。 淀みのない真っ白なちぎれ雲がのんびりと漂う中で、ハサハを抱えたあたしの身体は風圧に弄ばれてぐるぐると回転するばかり。
酔う。 ものすごく酔う―――吐きそう。
「ひ、ええああああああああああああああああああああああっっっ!!」
足先から頭のてっぺんまで突き抜けるようなあたしの叫びが、青い世界に響き渡った。
落ちてる落ちてる落ちてるうううううううっと内心で悲鳴が上がる中、白い翼の海カモメが真横でゆるりと飛来する。
目は涙目で半泣き。 髪は風に乱雑に揉まれ、視覚的に思い知らされる落下に全身の血の気が完全に引いてしまって、ハサハの温もりがこの腕になければ完全に気絶していたと思う――って何この状況ぉぉぉうぉぉ!!!
錯乱しかけるあたしの目に、島の姿を発見した。
(ああ、島だー…って島ァァァッッ?! )
なんてことなの。
次から次へと襲いくる最悪かつ危機的な状況に意識の半分が吹っ飛んだ。
真下に見えるものが海ならばまだ生き残れる可能性はあったというのに、真下にあるものは緑溢るる森である―――いかん。 だめだ。 もうだめだ。 死ぬ。―――アシストもナビゲーターもいないなかで行われた、人生初のスカイダイビングを経験した後、本気でそれを覚悟した。
グッバイマイライフ。 外国人も真っ青な酷いアクセントでそれを呟く。
「ひえぁぁあああああああああああああーーーーーー!!!」
急速に近づく緑。
その合間を縫って茶色い地面が見える――あああああそこが到着ポイントというか墜落ポイントなのは間違いなさそうです神様。
いやこの際神様でも仏様でも悪魔でも魔王でもいいから誰かぁああたあすけてええええ!!!
「――――、!!」
滅多にあたしの名前を呼ばない彼の声が聴こえた。
同時に地面衝突するその寸前、がくん、と圧し掛かる重い衝撃に舌を噛む。
しかし噛んだことに痛みを覚えている暇もなく、あたしの腕を掴んだモノを見ると、赤い瞳と目が合った――それは三つの、赤い魔眼。
「バ」
「掴まってろ!」
鋭い忠告のあとハサハごと抱きしめられ、息苦しさを感じる間もなく襲う激しい振動があたしの全身を揺さぶった。
すごい音が聴覚を叩きつける。
地面に足を踏ん張っているバルレルの身体ごと地面が沈むようにえぐられ、砕かれた地面の欠片が頬を掠める。 高度の高い空から落下した衝撃を強引に打ち消す代償とはいえその激しさにまた舌を噛みそうになって、それでも広い胸に顔を埋めることでなんとか堪えた。
「――ッッ!!!」
声にならない悲鳴が、あたしの胸の中で響く。
それでも墜落は一瞬だったかのように、地鳴りはすぐに収まって、周囲はとても静かになった。
――しばらくしてから、すぐ近くに彼の鼓動が聴こえるようになると、あたしはそろりと目をあけて、茫然自失に呟いた。
「い…いきてる…?」
「そうらしいな」
半ばヤケクソ気味の返答が、あたしの頭上に降ってきた。
顔を上げると精悍な顔立ちの青年があたしたちを抱えたまま地面に立っていて、三つの目があたしとハサハを見下ろしている――そこに安堵ではなく怒りにも近い感情があるのは、この状況を招いたらしいあたしを責めているように見えて、あたしは慌てて首を横に振った。
「いや、違う。 違うわバルレル。 あ、あたしは何もしてないわよ!」
「んな事はわかってる。 どうせあの酔っ払いが原因だろうよ」
少年とは違う低い声で呟かれた言葉に、あたしの頭はようやく冷静さを取り戻した。
誓約が解かれた状態のバルレルは緩やかにその大きな翼を広げ、あたしとハサハを抱えたままふわりと舞うと、ゆっくり地面に降り立った。
無事にまともな足場を確保できたあたしはがっくりとその場に座り込み、あたしの隣にちょこんとしゃがみこむハサハを再度抱きしめる。
「は、ハサハ、怪我、ない?」
「…(こくん)」
ぼさぼさになってしまった頭を振って頷く少女に、ようやく安堵の笑みがこぼれた。
きれいな黒髪をよしよしと撫で付けてから立ち上がり、周囲を見渡す。
―――広がるものは、誰の手も加えられていない青い森だった。
それは、レルム村の森にも似て清浄な空気が立ち込めていた。
初めてこの世界に来たときのことを思い出しながら、耳は鳥のさえずりを聴く。
青々とした木々は風に揺れ、先ほどの振動をなかったことのように、とても静かな世界を保っている。―――ここは、リィンバウムであることは確かなんだろうけれど。
「…ここどこ?」
「どっかの島っつーことは確かだろうな」
「島、ねぇ…」
落下の間に見た光景では、周りに何の島も大陸も見当たらなかった。
青い空と青い海に囲まれて、他には何も存在しない。 どこにだってある無人島と言えばいいかもしれないけれど、メイメイの部屋からこんなところにまで吹っ飛ぶということは、何か、召喚術の影響にも思えた。
「召喚されたかもって思ったけど、召喚主いないね」
「テメエを召喚できる人間なんかいるのかよ」
吐き捨てるように呟くバルレルに、あたしは苦笑するしかなかった。
傀儡戦争でも色々とあったが、こうした事態がただ事ではないのだろうと彼は思っているのだろう。
鋭い目は絶えず周りに警戒を向け、襲撃者がいるかどうか目を光らせている。
「…この島、変だよ…」
「変なの?」
聞き返すあたしにハサハはこくんと頷いた。
彼女はそのまま目を閉じて、胸に抱えた水晶玉に淡い光を灯らせる。 彼女が抱く透明なそれは薄く島の全景を映し出し、ハサハは不思議そうに首を傾げた。
「四つの世界の…強い力を感じる…」
「四つの世界って、サプレスとかシルターンとかそういうの?」
またも、こくんと頷く。
「強い力っていうより……空気というか…ちょっと、わかんない…」
「ここからだとサプレスの力が近いな」
「ふーん…」
何が起こるのかわからない。
けれど確かに、あたしの中でむくむくとわきあがるものは隠し切れない好奇心だった。
何事も平穏が一番ということはわかってるけど、やっぱりたまには、こういうのもいい。
「それじゃ、順番に回ってみましょうか。 何かあったら全力疾走の方向で」
「…お前な…」
「ここならバルレルとハサハと旅が出来るっていう願い、叶いそうじゃない?」
彼らはトリスとマグナの護衛獣だ。
過去はそうでもなくとも、今は確かにそうなのだ。 本当ならこれは叶うはずのない願いだけれど、今は緊急事態で仕方が無いし、本当にささやかなでも十分に<旅>と呼べるものだろう。
にっこり笑ってそう言えば、ハサハは嬉しそうに頷いて、バルレルはとても不満そうな顔をして口を噤んだ。
”それを言うのは卑怯だ”と言いたげな顔に、あたしはまた笑う。
―――この願いは、ずっと昔に交わされたある人の望み。
「よっし、それじゃ行くわよー! あ、もちろん先頭はバルレルね。 何かあったらまかせた!」
「…まかせた…」
「〜〜〜〜わぁってるよ! 行けばいいんだろーが、行けば!」
完全にヤケクソ気味になって森の奥へと進む、<凶嵐の魔公子>。
そんな広い背中にあたしとハサハは顔を見合わせて笑ってから手を繋いで、彼のあとに続くのだった