あの瞬間は、誰もが何かを失った。
「―――兄さん!」
遺跡の深き最奥で、少女の声が響き渡る。
黒い煙を吐き出しながら、煙を巻き上げて歪む炎が照らすその内部はどこまでも異様。
それらを見上げる菫色の瞳は今にも途切れてそうな意識をどうにか保とうと弱く揺れ 、映し出すものは彼女の眼前にある、おぞましいとまでに思える未知の<何か>に呑み込まれた、兄の姿だった。
少女は、何度も呼び続けた。
時折、痙攣するように咳き込むのは、喉奥からこみあげる血液を吐き出したからだ。 凶悪な炎に巻き込まれ、肉体の半分以上が焼け爛れた少女の身体は、不吉な臭いと血に染まっていた。
―――死が、少女に歩み寄るように足音をたてる。
しかしそれでも、雪のように白い唇を鮮血に染めながら、少女は兄を呼び続けた。
「ハイネル、兄さん…!」
少女と同じ白髪を持つ男は、呼びかけにぴくりとも動かなかった。
知性を感じさせるその顔はうつむいたままで、両手と、両足と下半身は囚われたように機械の束に飲まれ、壁と一体化してしまっている。
召喚師である彼の力なら強引に引き剥がすことも出来るだろう。
だが彼は自らを、この遺跡に捧げた。
捧げたことで意識はすでに奪われて、自力で抜け出すことはもはや不可能。
事切れた人間を思わせるそれに、血まみれの少女が咽び泣く。
「兄さん、…にい、さん…」
遠のく意識。
死が歩み寄る。
――けれどそれでも生きなければと、思う。 生きたいと思う。
(死にたくない)
死にたくない。
しにたくない。
遺跡に囚われた兄を遺して。
この島の住人たちがどうなったのかも分からないまま死んで逝くなんて、そんなことだけはしたくなかった。
最後の最期まで、この島を守りきるまでは死にたくなかった。
「ファリエル様!」
死への孤独に押し潰される彼女の元に、美しい天使が慌しく舞い降りた。
白い羽が炎の黒い煙に汚れる。 けれど長い髪の毛先まで美しい金が広がり、碧眼にはファリエルを案ずる色だけが浮かんでいた。
彼の瞳に半身が焼け爛れた自分の姿を映し見て、もう、助からないのだと確信をした。
血に染まる唇が、護衛獣である天使の名を呼ぶ。
「フレイズ…」
「あれは、ハイネル様…! そうですか…彼が、この遺跡に身を捧げたから、あの人間たちは身を退いたのですね…」
身体が血に染まるのも厭わず少女の血まみれの身体を抱き上げる天使が、驚愕と恐怖に唇を震わせながら告げた言葉にファリエルは安堵した。
……―――そう。 あの人たちはもう、この島にはいないのね。 と、意識がさらに暗い世界へと傾く。
「フレイズ…。 ほかの、みんなは」
「負傷者の救助にあたっています。 不思議なことに、この島だけに豪雨が降り森全体に広がった炎は鎮火されていますが…」
「…にいさんが、助けてくれたのね…」
侵略者からも。 炎からも。
身を捧げることによって彼は、全てを守りきってしまった。
自分たちを残して、彼は全てを捧げてしまった―――。
「ファリエル様…」
「…わたしたち、この島の人たちを傷つけちゃったね…」
地面に落ちたファリエルの大剣が、血を浴びて打ち捨てられている。
――生きるために、派閥のために、何度も振り上げて命を奪ってきたもの。
しかし最後に、派閥に叛(そむ)いて剣を振り上げ、表向き仲間と呼んでいた人間の命を奪うことになるなんて、誰が思っただろう。
けれどそれほどまでに、世界に忘れられたこの島が愛しくなってしまった。
「―――わたし、ぜんぶ、なくしちゃった…」
この島に来て、初めて友達が出来た。
兄に好きな人が出来た。
心から笑うことができた。
実験のために訪れただけのこの島は、血を忘れさせてくれる唯一の居場所となっていた。
なのに。
炎に照らされた刀身の赤い揺らめきに、穏やかなあの日々に戻れないのだと思い知らされる。
「ぜん、ぶ」
「ファリエル様…」
涙を流す少女の言葉が、そこで途切れた。
彼女の意識は深い場所まで落ちたのか。 彼女はこのまま死に抱かれ、その魂はこの島の不可解な力に弄ばれるように、島を彷徨う亡霊となって島の住人を襲うだろう。
フレイズの青い瞳に、黒い煙を吹く赤い炎が映し出される。
「…ハイネル様…」
フレイズは見上げる。
そこには遺跡と一体化を果たし、島の全てを守ろうとした召喚師の姿。
この島の全てを守ろうと、己の命を捧げた人間。
「…ファリエル、様」
<この島の全てを守ろうと、己の命を捧げた人間>。
彼がもたらしたその事実が、フレイズに人間への絶望を押さえ込んでくれた。
何としてでも彼女を生かそうと、フレイズに堕ちることを決意させてくれた。
黒い煙を吐き出して、不気味な模様を描く赤い炎が満ちる中。
「生きましょう―――あなたたちが愛したこの島を護るために」
フレイズは少女の身体を抱えたまま、言いようもない悲しみを堪えた。