ああ、なんということでしょう。
分厚いこの壁の向こうには、眩しいほどの蒼空が広がる世界があって。
その下を、緑と白亜で彩った街並みがあり。
さらにはここから10分ばかし進んだところに美味しいケーキ屋さんがあって。
他にも可愛い春物洋服がずらっと並んだお店とか。
他にもオープンしたばかりの雑貨店とか。
他にも蕎麦屋とか。
蕎麦屋とか。
蕎麦屋とか。
蕎麦屋とか。
寧ろシオン大将とか。
そんな、色々と、あったりしちゃったりなんかしたりで。
久しぶりの骨休めにと、偶然出会った相方を連れて振り回すつもりだったのに。
「―――いやはや、ほんと参ったわ。
世の中っていつどこで何が起きるかわかんないものねー」
「…同感だ」
相方…もとい、ネスティ・バスクがうんざりとした顔で同意した。
この世界の名前はリィンバウム。
それは地球と何ら変わりなく、酸素があって、自然があって、生き物がいて、人が生きて、じっくりと時間をかけて繁栄しちゃってて、まぁ、基本的には本当に、何ら変わりはないのです。
ただ、剣と魔法の世界であったり。
召喚術という摩訶不思議ナリーな術が使える人々がいたり。
車ではなく馬が多用されていたり。
飛行機などの鉄の塊で空を飛ぶのではなく、人々が空を夢見て生きる世界でもあったり。
(あ、召喚術を使える人によってはとっくに空を飛んでいたりもするわね)
―――それでもやっぱり、基本は地球となんら変わらないわけなのですが。
「やばいわね」
「ああ、思ってもみなかった展開だ」
基本は、なんら変わりはない。
そう。
地球の世の中が物騒であるように、リィンバウムもまた物騒で。
中央エルバレスタ地方の王都なんて特に、代々の王家と臣下が<蒼の派閥>と頑張って栄えに栄えさせたもんだから、その領地はこの世界では稀に見るほど広大で人口も多く、自然と街を守る騎士団の目も、都市の隅々までには行き届きにくいものとなって。
おまけに高級住宅街などという立派な建物が立ち並ぶ地区もあるから、お貴族さまのご子息ご令嬢の誘拐なんて、たまにあることなのですよ。
……はい。
あたし達、貴族じゃないのに誘拐されました。
「<蒼の派閥>は政治に関与しないことが原則だから政権はないが、高名な召喚師の家系になるとそれなりの権力もあれば金もあるからな…」
「アッフォーーーーー!(裏声) な、なななな何冷静に分析なんかしてんのよっ。 誘拐よ! これは立派な誘拐よ! そして誘拐されちゃったのよあたし達!」
「バスク家の跡継ぎである僕を狙ったんだろうが……君は見事に巻き添えをくらったな」
端整で、神経質そうな面に浮かぶその感情は呆れだった。
――なんて不幸なのだろう君って人は。
口にも出していないのにそんな呟きが聴こえる気がする。
「一緒にいたのがマグナあたりなら、捕まる前に撃退できたんだが」
「あ、いや、ほんと、戦力外で大変申し訳ない……」
渋るネス(どうやら用事があったらしい)を”遊びに行こう”とジラール邸から連れ出して、近道がてらに人気の少ない道を通ろうと提案するあたしに、これまたやはり渋るネス(どうやら良くない道らしい)を無視して小道に入った途端に、複数の男に襲われた。
その後の展開はトントン拍子で進んでいく。
唐突の出来事に全く対応できなかったあたしはフォルテ並の大男に担がれたかと思えば、荷物のごとく麻袋に詰め込まれた。
術を使って撃退しようとしていたネスは、あっさり捕まってしまったあたしのせいで身動きが取れなくなり、召喚術で撃退することもできずそのまま大人しく、男たちに従って。
気がつけば薄暗い倉庫の中に突っ込まれ。
あたしは両手を背に縛られ。 ネスは固く、手を背に回して胴ごと両手を縛られて。
こうして二人仲良く(?)並んで座っているわけです。
「―――ではネスティさん、この後のあたし達はどうなると思う?」
「僕の思いつくこと全ての予想を口にしていいのか?
…特に、女の子である君には相当な精神的苦痛を味わうことになると思うが」
「やっぱりいい、何も聞きたくないデス」
「僕も口にしたくもない」
”口にすることすら不愉快だ”と呟いてから、また一つ呆れの溜息を吐く眼鏡。
ああ、今まで生きて見て聞いた知識がとんでもなく怖いことばかりを想像してしまうぅぅぅ……と縛られた身を震わせて悶えるも、隣のネスはいつものように平然とした顔のままだ。
端整なその横顔には取り乱すこともなければ焦りすらも感じられない。
どうしてこの男はこの状況に平然としていられるのだろう……?
「ねぇ、何でそんな平然としてるの…? こ、怖くない?」
「…君は怖いのか?」
あっさりと問われてしまった。
あんまりにもあっさりと聞かれてしまったものだから、そりゃぁ誘拐されたんだから、怖いに決まっているじゃないの!と言いたくなったのをぐっと我慢して、ネスから顔をふいっと逸らした。
ああもう、あたしの悪い癖。
ネスがあんまりにも平然としているから、意地っぱりな部分がぱちりと目を覚ましてしまったじゃないか…心の中ではチキンハートパワーが炸裂しているというのに、それも意地で押さえつけて。
「べ、べつに」
なんて言ってしまったわけで。
アアアアァァ本当は身の危険と命の危険を感じてます! 感じてるんだよネス! 助けてくださぁぁい!
「…まぁ、これが昔であればさすがに危機感を覚えたが」
ネスは顔を上げ、薄暗い倉庫の天窓から差し込む光を眩しそうに見て、目を細めた。
そのまま恐怖に緊張してしまっているあたしをなだめるように、安心させるかのように、細めているそれをあたしへと向けて、はっきりとした声で 「大丈夫だ、
」と言ってくれた―――残念だ、これがぐるぐる巻きでなかったら相当カッチョ良く決まっていたのに…。(禁句)
「…どうしてよ」
「考えればすぐにわかる――彼らは身代金目当てで僕と君を誘拐した。 だからこそ身代金のために一度、義父さんと連絡を取り、僕らを誘拐したと告げるだろう」
ふむふむ。
「しかし幸いにも今現在のバスク邸やジラール邸にはデグレア軍所属<黒の旅団>と渡り合った強者たち十数名が遊びに訪れ、その総指揮官、隊長、機械兵士もさらには隠密行動に長けているシルターンの忍まで集まっている」
「……あー…なるほど」
猛者勢ぞろいってやつですね。
それはなんとも、これ以上なく心強い。
だからこそネスも平然としていられるというわけか。
「少なくともあと1時間もすれば解放されるだろうな」
「あー…そりゃ、もう、ねぇ…色んなプロがいるもんねぇ…」
呟きながら脳裏に浮かぶは、召喚術のプロとか戦いのプロとかとにかくすっかり戦い慣れした猛者集団。
デグレアの総指揮官までいるのだから、迅速かつ的確にこの事態に対応して動いてくれそうだ。
そんじょそこらの自警団や騎士団よりは大分頼もしい。 かなり頼もしい。
淡々と説明をしてくれたネスのおかげで、混乱していた思考が急激に冷めていった。
よくよく考えてみればその通り。
確かに。 影で世界を救ったとされているあの面々が本気になれば、たかだか数名の誘拐劇は世間に知られ騒がれることのないまま半日で幕を下ろすだろう―――ああなんだか、逆にものすごく可哀想になってきたわ…色んな意味で、血を見ることは避けられないような気がする。主に誘拐犯たちの血が。
「あ、なんか、ものすごく安心してきたわ」
「だろう? …逆に相手の身まで案じてしまうぞ、僕は」
ああ、それも確かに。
仲間と彼らの実力差が手に取るようにわかってしまうので、ネスの言葉に思わず頷いてしまった。
いや、だって、動物で例えるなら龍とウサギみたいな実力差なのに。(ん? 龍は動物といっていいのだろうか?)
「とにかく、こうなった責任は僕らにもあるんだ。 …これに懲りたら人気のない道を通ろうとするのはやめてくれ」
「…ぅ…すみませぬ…」
心の底から自分に呆れて反省しつつ、こくこくと頷いて、ぐるりと辺りを見回した。
天井には明かりが灯ることなく吊るされたランプがぶら下がって、天窓から差し込む太陽の光だけが室内を柔らかく照らしている薄暗い倉庫。 灰色の、分厚い壁の向こうからハルシェ湖の潮騒が聴こえてくる。
積み重ねられた木箱があちらこちらに放置されて、どうやらここは海上貿易に使われている倉庫らしい。 それでもこの付近には港独特の活気がなければ人気もなく、港で働く人たちの声が遠くに聞こえてくるのはこの倉庫そのものが使われなくなってしまったものなのだろう。 一年は放置されていたのか、埃を被った床に座らされてお尻や足はすっかり汚れてしまった。
開放されて間もないのか、室内に立ち込める空気は埃臭く、思わず小さく咳き込む。
「でも見張りが一人もいないというのはとてつもなく不用心だわ…この隙に逃げてもいいんじゃない?」
「入り口にはいるかもしれないが…先に言っておくが逃げ出そうなんて考えるんじゃないぞ。 大人しく待った方が怪我もなく事が終わるだろうからな」
「…今は文句も返す言葉もございません…もともとあたしが、ネスを無理矢理連れて出ちゃったから…」
外に出なければ、ネスを巻き込まなくてすんだかもしれない。
しかも渋っていたところを無理矢理外に連れ出したのだから余計、罪悪感が募る。
いやいや、でも、3日も外に出ずジラール邸の地下書庫を漁りながらお勉強というのは身体に悪いというかネスの毛根の未来を憂いてしまうというか体調を悪くして倒れるというか……<聖なる大樹>から無事に戻り、人の身体になって風邪薬が効くようになったとはいえ、病気なんてするもんじゃあない。
何事も健康が一番大事ということで………、でも。
「ごめん」
健康が大事でも、命が取られてしまえばおしまいだ。
そんな当たり前のことにようやく行き着いて、がっくりと肩を落としながら謝ってしまえば、ネスはあたしの言葉に驚いたような表情を浮かべて…すぐに、苦笑するように口元を緩ませた―――珍しく、いつもより少しだけやわらかな微笑み。
「いや、今回は連れ出してくれて助かった」
こんな目にあって、そんなことを言うなんて。
昔ならば君は馬鹿かというフレーズに乗せた呆れを容赦なく打ち付けてきただろうに、何で、助かったなんて言ってくれるんだろう。
「…なんでさ」
それが不思議で思わず、そんなことを問えば。
「―――君が一人誘拐されていたと思うほうが、ぞっとする」
呟いて床を見つめるその黒に浮かぶのは、心から身を案じるような眼差し。
それに。
一瞬、だけ。
向けられた言葉を。
ほんの一瞬だけ、意味深にとらえてしまったが。
「お、恐ろしい…!
確かにそっちのほうが恐ろしいわ…! ネスがいなかったら今でもあたし一人でテンパったままだったろうしアァアアァ良かった! ネスが一緒で良かったーー!」
ゴツーン!とネスの腕に額をぶつけては叫ぶあたしに、ネスが驚きの声をあげた。
それも当然。
無防備な身体にいきなりの突進だ。 驚くのは無理もない。
しかし、そのままその言葉を受け取ると本当に、それは怖いことだったのだ。
彼がいなければ、 きっと今でも一人でびくびくしながら数時間を過ごしていたに違いない。
…悪魔王に比べたらそれほど怖いことでもないかもしれないけれど、それでもやはり、相手が何であろうと恐怖は等しく訪れて、男でも女でも、人間が恐ろしいということは事実だ。
「でも反省するわ。 もう強制なんかしない、ギブソンのショートケーキに誓って!」
「(ケーキ?)…は?」
「大体、出たくないって言ってる人を外に連れ出すほうがいけないのよ。
うん…これじゃ迷惑で逆効果。 一種の嫌がらせのようだわ」
もっと別の手を考えるべきで。
強引に連れ出すのではなく、穏便に連れ出す方法を探すべきだった。
…そう、ネスは約束事にはうるさいほうだから、事前に約束をしていればきちんと守り通してくれる。 考えようによってはどうにでもなる。
”今度から気をつけるわ”と、きりっとした面持ちで宣言すれば。
「いや、その、…」
宣言された彼は、今度は困惑めいた表情を見せた。
眉を寄せて、何かを言いたげな、そんな顔。
物事を言葉でストレートに切り込むのが彼の性格だというのに、珍しく歯切れの悪い返答。
…思わず、”大樹から還ってきたときにも思ったけど、随分と表情豊かになったなぁ”と感心してしまう。
(ほんと、変わったなぁ)
出会ったばかりの、社交辞令のような話し方をしていたネスが懐かしい。
本当に、表情の変化が少ない人だった。
彼はその境遇から無意識に心を押し殺すことが出来る術を得てしまっていたので、喜怒哀楽からさらに別れ、こういった細やかな感情が滲み出るようになったのは大変喜ばしいことだ…ずっと一緒にいた友人としては、思わず、笑みが抑えられない。
「あ、強制はしないんだけど、でもやっぱりたまにはネスと買い物したいし。
ときどきでいいから一緒に外に出てくれると嬉しいんだけど…」
それは、本当のこと。
本心で思っていること、なのだが。
言ってから。
”ネスに特別な好意を持っているようなセリフだなぁ”なんて、自分で恥ずかしくなってしまった。
(いいいいいいや、その、本当に、そんな、意味深に言ったつもりはなかったんだ、けど…)
自分でそう言い訳しつつも、気恥ずかしさが朱となって顔に出た。
さらには言った本人であるあたしだけでなく、言われた当の本人までもがあたしから顔を背け、耳まで真っ赤にして視線をさ迷わせてしまっている。
お互い背を合わせたまま無言になり、あまりにも、何とも言いがたいその空気に思わず、ビターン!と床に這い蹲りたくなる。
(っていうか、あたしらは何を 照 れ て い る ん だ か ・ ・ !)
本当に何をやっているんだか。
奇妙な気恥ずかしさと、とんでもなくむず痒い心地がする。
っていうかあたしってばさっきから地雷を踏んでばかりのような気が…いや寧ろもう穴があったら入りたくなる心境だわ……!
「あー、その、ネス、今のはね、そんなに深い意味は」
「―――え」
言葉に、ネスがきょとんとした顔で”深い意味はないのか?”と問うように見つめてきた。
見つめられて、薄いレンズの向こうにある、切れ長の黒い双眸にあたしの姿がくっきりと映し出される。
それは優しい闇色で、ネスの白い肌をしとやかに彩っていて…そんな黒瞳の中に、そのことを残念に思う落胆に近い光も見えて、鼓動が軽く跳ね上がる。
(いや、ちょ、待って)
ストップ。
色んな意味で、ストップ。
しかしじわりと浮かぶ熱のせいで、背に縛られた掌が軽く汗ばんで。
熱に浮かされたかのように、思考はぐるりと空回り。
ぐるぐるカラカラ。
空回ってまともに働かないのに、奥底沈む心は静かに問う。
”深い意味は、ない?”
――途端に自分に落ち着きがなくなったかのように。
あたしの口はするりと。
「うわ、いや、その、あの…あ、でも、ちょ、ちょ、ちょっとだけ、意味は、あったかも…って何を言ってんのあたしは落ち着け落ち着け落ち着け」
体育座りになり、自らの膝でがつんがつんと頭を打って冷静さを取り戻す。
あたしの突然の奇行にネスが脅えたが、今は無視だ。
「、大丈夫か?(頭が)」
「いいいいや、その、あるというかなんというか、えと、あの、ないわけじゃないんだけど」
ああもうあたしってば何を言っているんだか。
片っ端から地雷を踏んでは自爆しているあたしの隣で、落ち着きを取り戻した青年の呟きがぽつりと零れ落ちていった。
「そうか…」
その、ほっとしたような、安堵混じりの呟きに。
何故か、気まずい空気はより濃密になり。
濃密になったそれの効果か、、ますますお互いに顔もあわせられなくなってしまった。
あたしはというと埃積もった床を見つめ、ぐるんぐるんと脳内で回転しては空振る思考を必死になって落ち着けと抑えているばかりだ。
周囲に立ち込めるのは、埃臭く、閉めきった空気。
長年使われていない薄暗い倉庫は、昼でも薄い暗闇を抱いたまま。
壁面に取り付けられた、小さな天窓から差し込む陽の光は薄い暗闇の中にやわらかく落ちて溶け、潮騒と活気ある声はその世界に緩やかに遮断されて、どこか遠い。
そんな中で、ネスは小さく息を吐いて。
「――迷惑だとは、思っていない」
「え」
「逆なんだ。
僕は一つのことに集中すると自分のことを疎かにしてしまうから、その、…助かっている」
ぎこちなく顔を向けてくる青年の黒髪が、陽の光に照らされて薄い暗闇から浮かび上がる。
赤い外套は今や埃に汚れて裾はすっかり黒ずんでいるが、それでも彼の襟首に落ちる柔らかな黒髪の色を得た赤は鮮やかだ。
”ネスってキレイなんだ”とそれをぼんやりと見つめていれば、ネスは、自分に苦笑するように肩を震わせて――それは彼の年齢に相応しい、ほんの少しのあどけなさを得た笑い方で――落ち着いてから顔を上げると、真っ直ぐにあたしを見つめた。
「いつも気遣ってくれて、心配をしてくれて…君には本当に感謝している」
「え、いや、」
「大樹から還ってきてからずっと気遣ってくれていた君に、感謝の言葉くらいはもっと早く言いたかったんだが…だめだな。 なかなか言えなかった」
「 あ、そんな、改めていうほどのことでも」
「―――ありがとう」
穏やかな声で紡がれる言葉たち。
それらは決して、自分を卑下にしているとか、
あたしを過大評価しているとか、そういうものではない。
彼と出会ったばかりの、完璧なる社交辞令の感謝でもない。
―――ただの、本心だ。
マグナたちと比べれば短い付き合いのあたしでも、それだけは理解できた。
今のは、自然と口から出た、彼にしてはとんでもなく珍しい素直な気持ちなのだろう。
だからこそあれだけの柔らかな笑みを浮かべることができる…優しい声で、告げることができた。
”ありがとう”
穏やかに紡がれたこの言葉は、特別なものだとあたしは知っていた。
過去の栄華から疎まれ、虐げられ。
憎み、苦しみながら多くを乗り越え、戒めていた様々な枷から解放されたこの人がようやく得た、人に心を許す言葉なのだと。
穏やかな表情で、穏やかな声で、心からのものであろうと伝わるそれは。
言葉を並べただけの”ありがとう”よりも。
他の人が使う”ありがとう”よりも、ずっと大切なものが込められている――たくさんのものが込められているのだ。
(――、うわ)
しかし。
その<特別>を、心の準備もないまま真正面から向けられて。
(うわ、わ)
あたしの心は荒く揺さぶられ。
ただただ込み上げてくるものがあまりにも明確であるのに、でも不可解で。
(うわうわうわ、うわーーーーッ!!)
唐突の、理解。
唐突の、自覚。
それに混乱が混乱を呼んで、混沌になる。
だって。
まさか。
そんな。
今まで一緒に過ごしてきて、数々の苦難も危機も乗り越えてきて。
同じ釜の飯を食う仲間。 一つ屋根の下で暮らす友人として全く疑っていなかったのに。
本当は
滅多に見られない、屈託なく笑う笑顔が嬉しいとか
”ありがとう”と、口元を綻ばせて笑う表情が嬉しいとか
それがとてもとても、嬉しかったとか
だから、それが見たくて喜ぶようなことをしてみたり
喜ぶような場所に連れて行きたくて、渋られても強硬手段に出たりとか
そんなことをたくさん、色々とやってみた
嬉しそうな顔を、もっと見たかった
今まで知らなかったぶん、見たかった
あたしは知らなかったのだ
大樹の化身として離れてしまった彼が、
本当はとても大切だったとか
(しかも)
――それをこんな、
半日もかからずに終わってしまう誘拐劇中に思い知るなんて!
「ちょ…遅ッ!何でこんなことに数年かけてんのあたし。 本当、遅ッ!」
「?」
呼ばれて、鼓動が高く跳ね上がる。
うわ、うわわ、自覚するとやばい顔見られなくなる…!
不審者極まりなく這うように移動しながらネスと距離を取り、”何かを言われる前に言うのだ”とネスを睨むように見据えてから(それはある意味、威嚇ともとれる)、先手を打つように言葉で制す。
「いやあのそのとにかくあたしも強引過ぎだったしやっぱりネスも困るだろうしそろそろもうお誘いやめようかなって思ってて」
「な…いや、、違――」
「ネスはネスで好きなだけ本を読んで研究してGダム作って勉強して、でも健康に気をつけて頑張ってくれればそれでまったくオッケーといいますかモウマンタイと申しますか」
頭はカラ。
思考は白。
そんな状態で、ネスの言葉も耳にいれずひたすら喋り続けていくばかりのあたしにネスは、はぁと溜息を吐いて。
「―――、まいったな…」
本当に参って、手がつけられなくて。
他の誰かにすがるように、そんな音をこめて呟いたとき。
遠くに響く、爆音の木霊を耳にした。
「あ」
「(引き続き錯乱中)だからネスもゆくゆくは<サモ界のGダムの親>として世界へ羽ばたくのであって―――って、あれ、今の」
再び動き始めた思考回路が、爆音が何かを考察する。
今ではすっかりと聞き慣れたが、音だけでも充分に破壊力のある爆音はまさしく、召喚術ではないだろうか。
―――ついでに、雑巾を引き裂くように響く野太い声は、種類的に悲鳴らしい。
お助けをぉぉぉぉぉぉぉと、哀れさを誘うまでの哀愁を漂わせながら尾を引いて、最後には轟音と化した爆音に掻き消された。
……分厚い壁の向こうに響く悲鳴。
それに思わず胸中で、「アイタタター」と同情してしまう。
「どうやら迎えが来たようだな」
「あ、うん。 や、さすがに早いねっ。 みんな良い仕事してますねーっ」
助かった安堵から、にこやかに笑って言ったあたしの言葉に。
一足先に、倉庫で見張り番をしていた男を昏倒させていたシオン大将(本職・忍。 副職・蕎麦屋)があたし達の前に現れて。
”それほどでも”と、にこやかに喜んだ。
あぁー、うん。
まさにこの笑顔こそ、職人(忍)の証だよ……。
―――――事態は事件となることもなく、速やかに解決して幕を閉じた。
いや。 港にて召喚術の爆発が一度起きてしまったので、一応は事件として注目をされたのだが、いかんせん王都・ゼラム中過去最速のスピードで解決してしまったものだから人々の関心はあっという間に薄れていったのだ。
爆破での被害額もバスク家の承諾サイン一つであっという間に弁償されてしまったので、余計に関心は薄まるばかり。
その変わりに、一つの噂が裏の世界に広がった。
”ゼラムには恐ろしい集団がいるらしい”
「まったく。 失礼にも程があるな」と呟きながら、ネスティ・バスクは帰宅した。
あの事件から早三日。
事件がスピード解決なら、人々の関心もスピード離れである。
普通、こういった事件は最低でも三日は持つはずなのだが……まぁ、目立つ事は好む人種ではないので自分的には大変ありがたい。 あんな馬鹿げた事件など、さっさと忘れてくれた方がいい――今回のことでまた、何事も平穏が一番なのだと改めて思い知る。
(平穏が一番だ、とは思うが)
世には何も残らなくなったが、それでも変化はあるものだ。
ジラール邸に戻った足は玄関を抜けてそのまま、一人の友人の部屋へ向かう。
片手には、部屋を訪れるための理由にもなるショートケーキが収まった箱だ。 型崩れせぬよう注意しながら、赤い外套を背で翻し、柔らかな日差しが降り注ぐ廊下を行く。
視界に映るその世界は、まさに平穏そのものだ――先日は本当に、運がないのと注意力散漫で起こった事件だったなと、胸中で呆れてしまう。
しかしあの事件以来、大きく変わったものがある。
「」
扉を前に立ち止まり、部屋の主の名を呼んだ。
今日は彼女と、約束があった。
他愛ない約束。
ケーキを食べて、買い物に付き合うというものだ。
―――曰く、”たまには糖分を取るべきだ”らしいが、それは彼女の願望のほうが大きいとネスティは見ている。
これは日常。
いつもと似たような風景であり光景だ。
……しかし、いつもの似たような風景はここで、お終いになる。
「?」
「――ぁ、ちょ、待って待って待って……!!」
室内が大変慌しい。
それに首を傾げてしばし待つこと数十秒。
扉は、ネスティを招き入れるようにゆっくりと開く。
「あ、その、…ど、どうぞ」
事件以来に変わったもの。
それはの、ネスティへの態度だった。
皆の前ではいつもどおり。
けれど二人だけになると、ギクシャクとした動きが多く見られるようになる。
……嫌われているわけでもなく、あの事件をきっかけにようやく意識してもらえるようになったのはありがたいが、こうも硬くなられてしまうと逆に距離を縮めづらくなるというか何というか……。
(――気長にやるか)
とにかく今は、ケーキでも食べてのんびりと過ごすことが最優先にしよう。
あの事件の処理に追われたりしたので色々と大変だったからだ。 甘い匂いに囲まれながら、彼女とゆっくり過ごしたい。
「、頼まれていたケーキだが」
「あ、ありがとう! お茶の準備とかはもう出来てるから入って」
ケーキを見て緊張が解けたのか。(なんとも彼女らしいことだ)
いつもの、柔らかな微笑がに浮かんで、ほんの少しの間だけ微笑みに思考が奪われた。
―――大樹から還ってしばらくしてから気付いたのだが。
どうやら自分は、が笑っている顔が一番好きらしい。
(僕も鈍いな…あんなにも傍にいたのに、自分の気持ちに全然気づかなかったとは)
いつからに恋慕の情を抱くようになっていたのか。
それは今でも分からないけれど――過去のことはもう、どうだっていいことだ。
大切なのは、こうして彼女の笑顔を見ていることができる<今>なのだから。
「どこのお店に行こうかなって考えていたんだけど、ネスの空いてる時間を聞いてから決めようと思って」
「午後はもう全て空けてる――今日一日、君に付き合うさ」
「えっ、ぁ、…ありがと…」
ああ、まただ。
恥ずかしそうに俯きながら、嬉しそうに口元を綻ばせるこの人が愛しくて堪らない。
目の前にある華奢な身体を抱きしめたくて、冷静であるはずの思考は熱に狂わされていくばかりで、あまりの熱さに我を忘れそうになる。
「――それはこちらの台詞だな」
「え、何か言った?」
「…、いや」
(…その言葉の意味は君から教わったんだ、)
”ありがとう”
その言葉を、彼女は当たり前のように使う。
その言葉を、彼女は何度でも使う。
その言葉は、この世界ではありふれている。
だがそれは、ただの言葉であるはずだった。
それは、他人と円滑な関係をもたらす潤滑油に過ぎなかった。
それは、自分には何も与えぬ、文字の羅列に過ぎなかったはずだった。
ああ、けれど。
僕の前に突然現れた君は笑って、本当に嬉しそうにそれを紡ぐから。
この言葉は自分にとって――感謝だけでなく、他人の存在を許していく言葉になった。
”ありがとう”
その言葉に込められた想いが、本物であればあるほど。
その言葉を向けられるたびに、胸の奥底から自然と喜びが込み上げる。
こんな自分が誰かの役に立てたのだと…誰かを喜ばせることが出来たのだと、胸の奥が温かくなっていく。
”ありがとう”
その言葉は 今 目の前で笑う君に この命尽きるまで贈り続けよう