血ぬれた彼の体が放つのは、どうしても好きになれない錆びた臭いだ。
「はぁっ、はぁっ、は…ッ」
まるで、息の仕方を忘れたように。
シャムロックは獣のように呼吸を繰り返す。
見開いた鳶色の目は、狂気じみたものを色濃く浮かべているだろう。
――狂うのも、当然だ。
錆びた臭いに包まれれば。
苦痛のうめき声を聞けば。
鋭い牙が剥き出しの口を見れば。
異形と化した主を見れば、シャムロックが彼と親しければ親しいほどに狂気は濃厚になるというもので。
しかし、獣じみた呼吸も。
狂気を孕んだ目をしたのも、シャムロックだけではない。
ごふり、と。
すでに血まみれの口から新たに黒い血があふれだす。
自らの生をつなごうと獣のように呼吸を繰り返し、錆びた臭いをより濃くする者がシャムロックの眼下にいた。
次から次へ、とめどなくあふれるそれは彼の命そのもので、それが濃厚であればあるほど彼の命が流れ出ていく証でもある。
ゆるやかに、けれど救いようもないほど確実に、彼の命は失われていく。
シャムロックはそれを知りながら、彼の身体に刃を突き立てて地に縫いとめるのをやめなかった。
肉を貫く生々しい感触がてのひらに焼きついて、冷や汗が全身に噴き出す。
ぞわぞわと這い上がる悪寒に剣を握る腕が震える。 今にも全身の力が抜けてしまいそうになるのを必死に堪える姿は、きっと、かつての彼に笑われてしまうほど情けなくて、気弱い。
(もうすこし)
(もうすこしで、おわるんだ)
祈るようにそんなことを呟いた頭は、これが夢だと知っていた。
全てが終わるまで、何度も繰り返される夢なのだと。
あの人の身体を貫いた感覚を、決して忘れるな―――。
「――、…」
彼が、しゃがれた声で呟く。
それは自分の名前だった。
震える腕で彼に剣を突き立てる自分の名前だった。
ヒトではなくなってしまった彼が、自分の名前を確かに呼んだ。
夢が終わる。
それがうれしくて。 …かなしくて。
リゴールさま、とか細い声で返事をしても彼の耳には届かなかっただろうに。
唯一変わらない金色の瞳が、笑ったみたいにちいさく揺らいだ。
「――ク、ねえ、起きてよシャムロックっ」
肩を揺さぶられ、意識が急激に引き戻された。
はっと見開いた視界に、ようやく見慣れてきたモーリン道場の天井がうっすらと映りこむ。
寝台に横になっていたシャムロックの肩に触れる細い手の持ち主は仲間ののもので、夕暮れの過ぎた暗闇に沈む部屋に、が持ち込んだらしいランプだけが自分たちの姿を照らしていた。
「アメルが夕飯の支度ができましたよ〜って」
「あ、ああ…もうそんな時間か」
「シャムロックが仮眠だなんてめずらしいよね…あれ、…だいじょうぶ? 具合悪いの?」
心配そうに覗き込んでくるを思わず、シャムロックは呆然と見つめてしまった。
現実か夢か一瞬判断がつかず、血生臭い余韻に慄(おのの)いてびくっと震えた体を、夕食の時間を伝えるため起こしに来てくれたは気づいただろうに。
けれどのことには触れず、ただ案じてくれる。
それに――どこか、安堵して。
かろうじて「大丈夫、だよ」と返事をすることができた。
しかしはそんなシャムロックを少しだけ見つめたあとで、その手元に視線を落とし。
「……寒いの?」
寒い? 今日はまだ暖かい方だというのにどうしてそんなことを――と、思考がようやくまわりはじめたところで、自分の手が震えていることに気がついた。
固く握り締めた拳が、小さく震えてとまらない。
暗闇がごまかしてくれているだけで、もしかすれば、自分の顔色は死人のようになっているのではないだろうか。 震えを隠すようにもう片方の腕をさすり、口元をぎこちなくゆがめてシャムロックはわらった。
「ぁ…すこし、冷えたかな。 でもすぐ…おさまるから」
あんな夢で、こんなことになるなんて。
これでは、剣すら握れない。
それでは何も守れないというのに。
こんなことで――。
「……そっか。 うん、そうだよね」
はうんうんと頷くと、シャムロックと並ぶようにぼすっと寝台に腰かけた。
彼女の重みで軋む寝台にぎょっとしたシャムロックだったが、「ちょっと失礼」と震えのとまらない男の手を取ると、そっと包み込むように握り締めてきた。
――彼女の熱が強張った拳にじわりとしみていく。
それにすこしだけ強張りをほぐされた気がして、シャムロックは驚いた表情で彼女の横顔を見てしまう。
「今日は、ちょっと冷えるもんね」
「…」
「おいしいご飯食べて、温かいお風呂に入って、ぐっすり眠ったらきっと元気になるよ」
今日はお芋スープもあるって。
アメルのご飯は美味しいから楽しみだね。
そんなことをぽつぽつと話しながら、の手はシャムロックを離さない。
いたわるように手をさすって。
温かな温度をそそいで。
握り拳で固まっていた手をやさしく、ゆるやかにほぐして。
ようやく解けたそれに手を重ねると、「ネスが明日も晴れるって言ってたよ」なんて、笑いながら言ってくる。
明日も、明後日も、その先も、自分たちには在るのだと。
だから前を向いて、生きていくしかないのだと。
…そんなことを、言われているようだった。
(…分かっていたようで、分かっていなかったのか)
繰り返し苛(さいな)まれるのは、救えなかった自分を罰して欲しかったから。
主はそんなことを望む人ではないと知っていたはずなのに。
実際に、見たはずだ。
夢でも繰り返し、見ていたはずだ。
現実でも、夢でも。
最期に、シャムロックの名を呼んで、ちいさくわらった金色の瞳を。
「――うん、もう大丈夫かな」
手元に目をやると、震えが止まっていた。
すぐ傍に寄り添った彼女の顔をずっと見つめていたからそのことにまったく気付かなかった。
(女性の顔を無遠慮に見ていたなんて)と、まるでとんでもないマナー違反をしてしまったかのように思わず耳まで赤くしていれば、は立ち上がって、顔を上げられないシャムロックを不思議そうに見つめてくる。
「アメルに後で来るって伝えておこうか?」
「いや、その、……一緒に行こう」
「そう? ……でもシャムロックって、戦ってるときとほんと雰囲気変わるね」
それは…どういう意味だろうか。
醜態をさらしてしまった手前、かなり情けない男として認識されても文句も言えないが。
はドアノブに手を掛けてから悪戯っぽく、ふふっと笑って。
「戦ってるときはカッコ良くて素敵で、そうじゃないときはちょっと可愛いねってこと!」
”いやぁイケメンって罪だわぁ〜”なんて笑いながら部屋を出て行く彼女のせいで。
そのあと5分ほど、収まらぬ赤面に部屋から出ることができなかったシャムロックがいた。