欲しいと決めていたのは、もうずっと前から
世界は今日も夜が明ける。
地平線の向こうから顔を出した太陽によって、全てが白く包まれていく。
空も、海も、大地も、街も、生き物も、全て、全て、太陽の光で白みがかかる……それは世界がほんの一瞬だけ、一色に染まる瞬間だった。
やがて朝は穏やかに過ぎて、薄い青空に変わった昼を過ぎ、世界が赤に染まり始め。
いつもよりも幾分冷え込んだ、夕方を迎えたときのこと。
「誕生日?」
「そう、誕生日」
―――ルヴァイドは思わず、目を丸くしてを見た。
がアメルに頼まれた夕食の買い物に付き合っていたのだが、突然切り出されたその単語に、一瞬思考を止めてしまった。
驚いた表情のルヴァイドに、は林檎を片手に”してやったり”とにんまりと笑う。
「ふっふっふー、驚いた? 今日誕生日だったのよ、あたし」
ルヴァイドはの言葉にわずかに美眉をひそめ、非難めいた言葉を返す。
「聞いていないぞ、」
「誰にも言ってないもの」
「誰にも? トリス達にも言っていないのか? …彼らに言ってやれば、今日は皆で祝うはずだったろうに」
きっと、皆が祝福するだろう。
アメルもミニスも、ケイナとルウ、モーリンはケーキやご馳走を張り切って作るだろうし、マグナとトリス、双子、フォルテやシャムロック、カザミネも、彼女のために飾りつけ、プレゼントを買うといったこともしただろうし、イオスやゼルフィルドも慣れぬ空気に戸惑いつつも心から祝いの言葉を述べただろう。
彼女は、愛されている。
それは彼女が、皆を愛しているからだ。
もちろん自分も、前々日に言ってくれていたならばその二日間いっぱいをかけてプレゼントを選び、彼女を祝福しただろう。
”おめでとう”
”生まれてきてくれてありがとう”と、心から今日という日を祝福した。 しかし。
(…これは、荒れるな…)
祝われることがなかったこの日を知って、トリスたちが憤慨する光景が目に浮かぶ。
思わずそれを想像してため息を吐くルヴァイドに、は苦笑を零すだけだった。
その苦笑の意味がわからずやや首を傾げて、がトマトを買い込む後姿を見つめる―――メルギトスとの戦いが終わり、すっかり見慣れたこの光景には心が安らぐのを感じるが、今日ばかりは疑問ばかりが浮かぶだけだった。
彼女の行動は、どれだけ傍にいても読めないままだ。
「、何故だ」
「んー?」
「…皆、残念に思うだろう」
本当に、残念に思うだろう。
「たかが誕生日」という人間もいるだろうが、この少女に関しては皆それぞれ多くの思い入れがあるということをルヴァイドは知っている。
時には諍いながらもそれでもお互いを深く信頼して、互いを友だと思っていることが、彼らと過ごしているうちに自然と感じるほどなのだ。
温かな、温かな、家族のような、その空気……だからこその誕生日が今日だと知れば皆、今からにでも準備に走るだろう。
「うん、…皆、怒っちゃうかもね」
「……」
「ではここで質問です。 どうしてルヴァイドにだけ言ったと思う?」
夕焼けの紅に染まる歩道を歩きながら、先を行くが言った。
それにルヴァイドは買い物袋を持ち直しながらも思案する素振りを見せ、考え込む。
「俺に?」
「リィンバウムに来て初めて迎える誕生日……欲しいものはずっと前から決めてたの」
が、微笑みながら振り向いた。
夕焼けの色のせいか。 やさしく微笑む彼女のそれに酷く艶めいた色が見えた。
普段では見たことのない表情にルヴァイドの胸に動揺が湧いて、自分の身体の奥底から込み上げる感情を無理矢理、息を飲み下すことで抑え込んだ。
返す言葉に、掠れた音が混ざる。
「…欲しい、もの?」
「うん」
ここ最近、彼女は時折、艶めいた表情を見せるようになった。
そのたびにを抱きしめたくなる衝動に駆られて、傍にいることさえも辛くなる―――好きな男が出来たのではないかと、心が騒ぐ。
には何度も助けられた。
きっとそれは数えきれない、些細なことから大きなことまで。
だから、恋慕の情を抱くようになるまでにそれほど時間もかからなかった…恋しいのだと、愛しいのだと、自分の腕の中に収めておきたいと思うほどまでの気持ちが、育ってしまった。
冷たい風が、頬を撫でて過ぎていく。
「――――何が、欲しいのだ?」
ルヴァイドにしか言っていない、ということは相当信頼されているということだろう。
別の男との仲を取り持って欲しいと頼まれてしまったら、どうすればいい?
苛立ちが胸を覆い、にたいしてどうしようもない想いをぶつけてしまうかもしれない。
(…、だが)
想いをぶつけたくても、自分はその衝動をどうにか抑え込んで…きっと、”わかった”と彼女の望みを承諾してしまうのだろう。
心が痛みを叫んでも、それでもが望むのならばと。
幸せに、と願うのは
愛したいと思うだからこそ
ルヴァイドの了承の言葉には”え、えーとですね”ともごもごしながら、ぱっと頬を染めた。
しばらく俯いていたが、決意をしたように顔を上げて、パン!と両手を合わせて拝むようにして、彼女は言った。
「ルヴァイドをちょうだい!」
……………。
……………………。
…………………………………、は?
危うく、荷物を取り落とすところだったのをどうにか堪えた。
事態についていけない思考をどうにか回転させつつも、取り合えず、彼女の名前を呼んでみる。
「…?」
「だ、だから、その、る、ルヴァイドが、欲しいデス…!」
の顔が、真っ赤になっていった。
頬も、首筋も、耳も朱に染まって、のこめかみには汗まで浮かんでいる。
緊張して、かなり恥ずかしがっている証拠だ。 冬の空気に包まれた街のなかで、彼女だけが色鮮やかに茹だっているように見えた。
ルヴァイドは、いまだついていけない思考を鈍く働かせながら、自分を指差して問う。
「……俺、か?」
「そ、そう…デス…」
の足が、肩が震えていた。
ただひたすら拝むポーズのまま固まっているを周りの住民が不思議そうな目で見て通り過ぎていくので、ようやく動き始めた思考のままの腕を引き、目に届かない裏路地に回りこんだ。
――――同時に、ゼラムの灯りや街のざわめきが遠くなった。
切り離されたような空間になったと感じながら、いまだ拝んだままのを見下ろして、ルヴァイドは言葉をかける。
「」
「……」
”欲しいものはずっと前から決めてたの”
「―――俺で、いいのか?」
込みあげる気持ちに戸惑いながらもの頬に触れれば、びくりと肩を震わせて見上げてきた。
ようやく顔を上げたその表情に、ルヴァイドに驚きが走る……は、半泣きだった。
「な、」
「あ、ぁ、ち、違うの! その…、ええと」
声も震えていた。
今にも泣き出しそうになりながら唇を噛み、決意したようにルヴァイドを見上げる。
「こ、こんなふうに言うのは、ずるいと思う?」
「……」
「でもあたしはずるいから、勝手だから、トリス達の気持ちを横に置いてでもプレゼントが欲しいの」
”ルヴァイドがほしいの”と、とても小さな声で彼女は繰り返す。
羞恥に消えてしまいそうなの言葉が柔らかに、鼓膜を叩いてルヴァイドの中に染み込んでいった。
じわり、じわりと染み込んで行くそれにさっきまであった戸惑いは完全に掻き消えて、ただ、ただ一つの喜びだけが胸の内を占めて行く……ああ、もう、自分はどうすればいい?
(…参ったな…)
一種の殺し文句に眩暈すら感じて、理性の紐が一瞬、千切れそうなほどにまで緩んだ。
気を静めるためとりあえず荷物を一度地面に置いて、ルヴァイドは息を吐いて目元を押さえる。 冷えた空気が肺に滑り込んでくるも、一瞬で温度を上げた体は当分静まらないだろう。
(……本当に、には勝てる気がしない)
そのことをつくづく思い知って、またもため息が出た。
それに呆れられたと誤解したのかが泣きそうに顔を歪めるが、ルヴァイドは彼女の右手を取り、その指先に一つの口づけを贈る。
――――指先は酷く、冷たいものだった。
「え」
「…まだ、いるか?」
「へ!? ぁ、ぅ、…うん」
冷えた指先を暖めるように、一つ一つ、口づける。
手の甲、手首、そして左手に移り、薬指にも。
口付づに夢中になるかのように繰り返していれば……今度はが、空いた手で自分の目元を押さえていた。
「やばい、どうしよう」
「?」
「……もっと、欲しくなってくる」
目元を押さえたまま呟くに、ルヴァイドは微笑んだ。
気がつけば辺りはいつの間にか雪が降り始めて、世界はさらに静かになり、白い吐息が耐えることなく唇からこぼれ出て、身体が芯から冷えていく。
けれども、心は満ちていく。
「――――お前の、望むままに」
壁にとんとを押し付け、壁に片手をついて雪から守るように……覆いかぶさるように身を寄せて、もう片手で顎を掴んで持ち上げる。
急に縮まった距離にあわあわと慌てふためくにルヴァイドはやはり目を細め、冷えている頬に、顎に、瞼に、睫毛に、額に、余す所なく、口づけの雨を降らせる。
「…ルヴァイド…」
もルヴァイドの後頭部に腕を回して目でせがむように、訴えるようにルヴァイドを見つめた。
それにルヴァイドは苦笑しつつ、の背中に腕を回して抱きしめながら”随分積極的だな”と耳元で囁けば、はにんまりと笑って言う。
「せっかくのこの機会、女として絶対逃したくないもの」
「同感だな」
小さく、小さく、薄明るい裏路地で交わされた密やかな会話。
それにお互い笑い合い、は少しばかり背伸びをして、ルヴァイドは壁についていた片手を離し、両手での冷えた両頬を包み、吐息が触れ合わんばかりに顔を寄せた。
「」
「ん?」
「……誕生日、おめでとう」
”ありがとう”
”生まれてきてくれて、ありがとう”と、心から
ゆるりと紡がれた祝福に、がにっこりと笑った。
満足そうで、とても幸せそうに……彼女は笑った。
「祝ってくれて、ありがとね」
お互いに、やはり微笑んだ。
微笑んで、見詰め合って、目を伏せて。
――――唇を、重ねて。
離れて、また触れて、今度は深く。
苦しそうに呼吸を繰り返しながら、それでも求めずにはいられなくて何度も繰り返される。
遠くで賑わう人の声が互いの耳にはすでに遠く、感じるのは、伝わるのは、互いの心音と熱だけだった。
「っは…ルヴァイド…」
「…、愛している」
懸命に応えようとしているその姿がいとしい。
口づけの合間にルヴァイドが想いを呟けば、がぎょっと目を見開いた。
こうして改めて言葉にされて本当に驚いたのだろう…その反応に思わず、ルヴァイドから苦笑が零れる。
「どうした?」
「いや、…なんていうかこうも上手く行くとは…感激だわ〜」
「俺もだ」
くすくすと笑い声をもらすがルヴァイドの後頭部に手を回した―――途端に、”ギャ!”と叫び声を上げた。
「ルヴァイド! 雪積もってるー!!」
「…そういえば随分、降ってきたな」
ちらほらを降り注いでいた雪は、大きな粒となって世界に降り注いでいた。
雪は生まれた故郷を思い出させてくれる…だから雪の日は穏やかな心地になれる。 例え故郷が滅んでも、永遠に失われることはない――例え姿や名が変わろうとも、自分がいつか、甦らせると決めているのだから。
「あーあ、荷物にも積もってる…もう帰ろうか?」
「トリス達に、誕生日のことを言っておいたほうがいい…さすがに黙ったままでは、な」
すっかり埋まってしまった荷物を掘り起こして、彼の言葉には笑った。
随分と満足げな笑みを浮かべるのでルヴァイドの口元にも自然と笑みが浮かび、ルヴァイドの手を引いて裏路地からもとの往来に戻ろうとするの手を握り返し。
耳元で、こっそりと囁くように告げた。
「続きは、また今夜に」
その言葉に、がしばらくルヴァイドの顔が見られなかったのはいうまでもない。