「…――――――お久しぶりです、父上、母上」
冷気をはらんだ冷たい風が、男の長い髪を優しくさらっていった。
この土地は、見渡す限りの全てが銀世界だった。
リィンバウムで唯一四季が訪れるとされる王都ゼラムでは雪が降るのは冬の季節だけだが、それ以外の土地で四季の訪れは曖昧で、ゼラムが春を迎えようとしている季節でも聖王国領域外であるこの土地は、足を踏み入れた途端に白い雪が出迎えた。
灰色の空を埋め尽くすのは大きな牡丹(ぼたん)雪だ。
しんと静かな、真っ白な世界。 こんなに大量の積雪は真冬のゼラムでもそうそうお目にかかれない。 この土地で生まれ、長く暮らしていた彼の話によると、ここでは一年中雪が降っているという。
懐かしむように呟くルヴァイドの話を、馬に揺られながらあたしは耳を傾けていた。
「へー、一年中ってすごいね。 そんなに降るんだ?」
「ああ。 元々、そういう気候の土地らしい…たまに晴れて見える太陽や月の空が、好きだったな」
どこか遠い目をして静かに語る彼の言葉を、あたしはふぅんと相槌をうつ。
冷えた空気は濁りがなく澄んでいるから、雲間から見える月なんて特にキレイなんじゃないだろうか。 そんなことを考えながら雪を眺めていると、あたしたちを乗せた馬が鼻先に当たる雪をうっとおしそうに何度も顔に振った。
ブルルッと鼻息荒くする馬をなだめるよう黒毛のたてがみをなでて、あたしは笑った。
「あはは、シュバルツだいじょうぶ?」
「これでも雪の量は少ない方だ。 明るいうちにデグレアに入るぞ」
「はーい」
夜はもっと寒くなる、とルヴァイドが馬の腹を蹴って歩くスピードをあげた。
彼の前に座っているあたしはシュバルツのたてがみにしがみついて、雪を蹴って行くその振動をなんとか耐える。 旧・帝国領であるデグレアはまだ少し先だ。
あたしの体力だと、何もないこの周辺で野宿をするには厳しいので、明るいうちに目的を果たし、なんとしてでもデグレアの街までたどり着かなくてはならない。
しばらく馬を走らせてようやく道のりの半分まできたところで、あたしは背後で馬を操っているルヴァイドにちらりと視線を向けた。
「そういえば、こんなところに建国するなんて…不便じゃなかったの?」
「確かに不便もあった。 積雪に道をふさがれ、物資の運搬は滞ることもよくあることだ…だが元老院議会…老師の彼らは何より、軍事力を重要視した。 雪は自然の防壁にもなり、大絶壁からは決して侵攻されることはない」
「あー、なるほど」
ケープ状の黒の外套を胸の前に手繰り寄せて、冷たい空気に耳まで赤くしながら、あたしは後ろのルヴァイドに笑った。
”何が可笑しいのだ”と訝しむルヴァイドの声が聞こえる。
「いやね、デグレア国民はガッツがあるわね〜と思って」
「がっつ?」
「えーと、根性…って言えばいいかな? あたし寒いの苦手だからさ〜」
鼻をすすって、呼吸をするたび肺に入り込む空気に身体を震わせた。
出立してから結構な時間が過ぎているので、今のあたしに手足の感覚はあまりない。 フードに覆われている頭は冷たい空気と雪にしっとりと濡れてしまっている……けれど背中は、ルヴァイドとぴったりとくっついているから温かかった。
「寒いか?」
「うーん、そりゃまぁ寒いけど…」
「―――温めてやろうか」
………。
あたしはしばし沈黙してから、胡散臭そうにルヴァイドを見上げた。
当の本人もケープ状の外套に身を包んで、フードですっぽりと頭を覆っている。 その隙間から零れている紫がかった赤色の、長くて綺麗な髪もしっとりと濡れていた…うーん、何時見ても色男だ。
「…てか、ルヴァイドが言うとやらしい」
「そう聞こえたか?」
「ルヴァイドはスケベだからねー、そうも聞こえます」
「相手がお前だから仕方がない」
―――それって、仕方がないものなんだろうか…?
さらりと出てきた発言に、冷や汗が肌の上に吹き出たような気もしたが。
取り合えず、それは置いといて。
「ルヴァイドは寒くないの? なんていうかもうあたし、耳まで凍ってるんだけど」
「俺は慣れているからな」
彼はそう言うと、手綱を握っていた片手を離してあたしのフードをずらした。
”何?”とルヴァイドの行動に首を傾げていれば。
「ひぇっ!」
冷たくなっていた耳がルヴァイドの唇に嵌(は)まれた。
ルヴァイドの唇も冷たくなっていたけれど、口内や舌はやっぱり熱くて…って、舌!?
何で舌が……ヒィィィ! な、舐め、舐められ…!?
「えええぇぇちょっと待って待って! な、何し…?!」
「寒いのだろう」
「いえもう全然! 全然寒くないです! もう寒いとかいいません!」
あたしの叫びと慌てぶりに、何だと言うように馬がこちらに振り返る。
純粋に生きる動物の瞳に自分のほうがやらしい人間なんじゃないかと落ち込みそうになるが、人間は皆やらしいんだよ!
と人類に大変失礼極まりないことを言って無理矢理自分を立ち直らせた。
―――ルヴァイドは口元に手をやって肩を微かに震わせて笑っている。
「ル〜ヴァ〜イ〜ド〜?」
「すまん。 しかしそこまで嫌がらなくてもいいだろう…だいたい、いつも似たような事をしているではないか。 昨夜も」
「イヤーーーーーーーーー! やめてやめて何も言わないで! ……あのねっ、周りに人がいないとはいえど馬がいるのよ! あの馬の、純粋そうなあの瞳に見つめられたら何かもう…あぁぁあたしってばやっぱりヨゴレな人種なんだわーッ」
いえもう元からヨゴレだとは思ってましたが!(妄想激しいからッ!)
あんな純粋な瞳に見つめられたら余計深いヨゴレ人種に思えちゃうっていうか…!
「よごれ?」
「いいのよルヴァイドは知らなくて。 これはある意味(腐女子の)専門用語だから」
「専門用語? 、お前は学者だったのか?」
……あー、うん、相変わらず天然なボケをありがとう。
真顔で突っ込まれて一瞬、どうしようかとも思ったけど。
”でもそこがまたルヴァイドの可愛いところなんだよね…! 30歳に言うべき言葉じゃないとは思うんだけども可愛いのよルヴァイドは…!”と、思わず握り拳でノロケながら、顔を上げ、ここより少し離れた位置に見える城門に目を向けた。
白銀の世界の中で見るそれは不似合いなはずなのに、雪に埋まることなくずっしりと佇むそれはどんなものよりもこの世界と同化していて、以前に訪れた時と何も変わっていない。
―――断崖都市・デグレア。
今では誰も住んでおらず、無人の都市と化した国。
そこはルヴァイドの故郷。
メルギトスを討ち、聖なる大樹が世界を見守るようになっても、ここは何も変わらなかった。 住む人間はどこにもいない。 ただ建物だけがゆっくりと朽ちて行く……はずだったけれど、少しずつ、聖王国の領域とするような計画も立てられているらしいことをルヴァイドから聞いていた。
色んな人たちの力を借りて、創り上げられて、数年後にはまた人が栄えるようになるかもしれない―――そのときこそデグレアは、完全になくなってしまうけれど。
生まれ変わった幼い国として、新しいものを見せてくれるんじゃないかと思っている。
「…で、目的は都市の中だっけ?」
「いや、都市の中にはない…都市より少し離れた場所にある。
―――反逆者の一族を都市の中で埋葬することを許されなかったからな」
何かを思い出したのか。 ルヴァイドが手綱を握る力をぐっと込めたのが分かった。
そんな彼の様子にあたしはあたしで何も言えなくて。 ただ少し俯いて、手綱を握るルヴァイドの手に自分の手を重ね、目を伏せた。
鷹翼将軍・レディウス。
そして彼の妻…つまり、ルヴァイドのお母さん。
あたしは今日初めて、二人のお墓を訪れることになる。
今回、あたしがデグレアにいるのも、ルヴァイドの希望で”両親に会わせたい”と誘われたのだ……オォォォ…何か、何か初めて恋人の家族に紹介されるようなそんな気持ちに! いや実際にはそうなんだけどもね!
(でも、ずっと必死に護ってきた故郷にお墓がないって、辛いな…)
レディウスも、ルヴァイドと同じく国を護ろうと必死に戦っていた一人だ。
命を白刃に晒し、誇りをもって戦うということは護りたいものがあって、国を愛しているからであって―――だから本気で、彼の父は命を賭けた。
メルギトスからこの国を護ろうと、剣を握って立ち向かった。
彼もまた、護りたい人がいたあの国を、心より愛した人だったのだ。
重ねられた手から互いの体温が伝わって、かじかんでいた手が温かくなる。
あたしは重ねていた手に少しだけ力を入れて、握り、ルヴァイドを見上げて笑った。
彼は、笑うあたしを驚いたように見る。
「?」
「―――いっぱい、報告しようね」
たくさん、伝えよう
ルヴァイドの、今までの事
悲しい事も、嬉しい事も、全部、全部
伝えられるだけ伝えよう
―――あたしも 伝えたいのだ
両手に抱えてもあまるほど、貴方とのこれまでの事を
ルヴァイドはしばらく、表情も変えずにあたしを見下ろしていたけれど。
次にはふっと目を細め、 口元にも穏やかな笑みを浮かべて。
握っていた手綱を手放し、あいた両手で、後ろからぎゅうっとあたしを抱きしめた。
「 …って、ギャー手綱ッ! 手綱手放しちゃだめだってば! ちょっ、危ないっ」
なけなしの操縦知識を整理しつつも慌てて手綱を握る(でも操作できない、握るだけだ)あたしの耳に、風の音と、ルヴァイドの小さな呟きが届く。
小さな呟き。
けれどそれは確かに、吐息と共に鼓膜を優しく揺さぶった。
「―――そう、だな」
「?」
あたしのフードも、ルヴァイドのフードも頭からずれ落ちていた。
お互いの肩には雪が積もって、フードのない頭にも牡丹雪が降り注いで積もっていく。
このままでいれば二人は確実に雪だるマンだ。
けれど首筋に埋まるルヴァイドのぬくもりは、あたしの肌に伝わって、広がってゆく。
「…ルヴァイド?」
呼びかけても、彼はぴくりと動くことすらなかった。
手綱に操られていた馬は立ち止まって、突然の解放に不思議そうにこちらに純粋な瞳を向けていたけれど、あたしはそれを気にすることなく、ほんの少し首を傾けて…ルヴァイドのこめかみに唇を落とす。
冷たくて、しっとりと濡れた髪の感触が唇に触れながら、あたしはもう一度ルヴァイドに呼びかける。
優しく、その耳元に、彼の名を。
「…、ルヴァイド」
「…そうだな…伝えることは、たくさんある」
伝えたいことは、それこそ雪が積もるほど
「…――――――お久しぶりです、父上、母上」
冷気をはらんだ冷たい風が、男の長い髪を優しくさらっていった。
周りは雪に覆われた木々ばかりで緑が一つもないのだが、けれどそこには確かに命が芽吹いている。 よくよく見れば、枯れかけた木々の幹には、産まれたばかりのような小さな枝が雪に負けずひょっこりと顔を出していた…ここの命は雪に負けぬ力強さをすっかり身につけているようだ。
心の中で素晴らしい、と素直な賛辞を木々に送るのは、後ろでルヴァイドを見守っているシュバルツとあたしです。
ルヴァイドの前には、2つの小さな石が並んでいた。
はたから見ればただの石が転がっているようにしか思えない―――けれどルヴァイドはそれを墓石と言った。
…小さい頃の、力のなかったルヴァイドにはこれを作ることで精一杯だったのだとも。
「俺が黒騎士という称号を受けても、会いにいく時間がなかなか作れなくてな。
…来る度に雪で埋もれているのを探し出して、次に来た時もまた埋まっていた」
「でも今回は埋まってなかったみたいだし…あ、花も添えられてある」
多少しおれているけれど、それでもまだ色鮮やかに色づいている花が墓石の前に添えられていた。
ルヴァイドはそれを見て”ああ”と思いついたように呟いて、穏やかに笑む。
「イオスとゼルフィルドだな…この時期になると毎年、あの二人が来てくれている」
「そっか、今度お礼言っておかなくちゃね」
「そうだな」
あたしは墓石に積もる雪をそっと払って、花を添えた。
イオス達が添えた花とあたし達の持ってきた花の色でますます色鮮やかに染められて、それにルヴァイドは眩しそうに目を細めて、あたしに礼を言う。
「さ、ルヴァイド。 たくさん伝えなくちゃ」
「ああ」
白い地面に片膝をついて、ルヴァイドは目を伏せた。
雪が降り続ける中で黙祷を捧げ、頭や肩に雪が積もり始めても、彼の黙祷は続いた。
ルヴァイドが黙祷を捧げている間を邪魔をしては悪いかなと思って、ほんの少し離れた位置で馬と並んでその背を見守っていたのだけれど、黙祷が終わったルヴァイドに呼ばれて、彼の意図が分からないままあたしもその隣に並び、墓石の前に膝をつく。
「ルヴァイド? …―――わっ」
腕が伸びたと思ったら、そのまま肩を抱き寄せられた。
ぴったりと寄り添うような格好になって、突然のそれに不思議そうにルヴァイドを見上げていれば、ルヴァイドの表情はとても穏やかで。
「彼女が、です」
「(こ、心の準備もないままいきなり紹介!? ) あ、は、初めまして」
返事がないことは誰だってわかっている。
けれど彼はあたしを抱き寄せる力を緩めぬまま、言葉にして墓標に贈る。
―――伝えたいことを、物言わぬその石へ。
「最初出会った時は敵同士でした。 …彼女に恨まれもし、殺されそうにもなりました」
「…こっちも死にそうな目にあいました」
「けれど彼女は俺を許しました…生きろと、泣いてくれました」
「村の皆を奪ったのに、楽になんかしてやりたくなかったんです。
…苦しみながらも生きてくれなきゃ卑怯だって思ったからですよ」
そこでルヴァイドは噴き出したように口元を押さえて低く笑って、あたしもおかしくなって笑った。 なんとも物騒で、とんでもない馴れ初めだ。 いきなり恨み恨まれて、殺し殺されるかの関係だったなんて。
恋や愛はとんでもないところから生まれるものだなぁと、人間の神秘にまたもや素直な賛辞を送る。
「先に惚れてしまったのは俺のほうですが、彼女は全く気付かなくて」
「…そうなの?」
「お前を狙っている男もいたな―――まったく、一時も心が休まらなかった」
からかうようなその言葉は、文句のように、あたしに向けられていた。
いやでも本当に全然気付かなかったんですが! え、もしかしてあたしは鈍いのか?
いやいやいやいやそんな馬鹿な。 取り合えず人並みの感覚を持っていたはず。
多分。
「けれど今、こうして共にいることが答えです」
こうして お互いに 笑って寄り添っていることが
「…俺は、これからも生きていきます―――彼女と、共に」
一緒に 生きていく
病める時も健やかなる時も
「―――幸せに、生きていきます」
共に 生きていく
悲しくても、辛くても…・それでも、幸福に
それは何よりも、伝えたいこと
そこでルヴァイドの言葉が途切れて、あたしは慌てた。
せっかくのご両親紹介なのでここで終わらせてはいけない、もっと色々といわなければ。
「安心してください、ルヴァイドはあたしが守りますっ」
「…俺が守られるほうなのか?」
「何言ってるのよ、しっかりガードしておかなくちゃ!
ルヴァイドはかっこよすぎるから、いろんな女の人が近づいてくるんだもの。 あーもう、ルヴァイドにフラれちゃったらどうしよう……」
「――俺が他の女に行くと思っているのか?」
ルヴァイドの声が、低くなった。
声につられて彼を見ると、少しばかり不機嫌そうに眉が寄っている。
あれ? 半分本気で、でもちょっとした冗談だったのに?
「でも、本当のことだもの…何でどうしてこんなに美形に生んじゃったんですかご両親! あたしよりセクシーで美人で優しく可愛らしい女の子が来ちゃったらあたしどうしればいいんですかーッ!
ルヴァイドの幸せを考えるともう負け犬になるしか……」
それまで黙っていたルヴァイドが呆れたようにため息を吐くと、彼は動いた。
何の予告もなくこめかみにルヴァイドの唇を押し付けられて、触れた唇の冷たさに、思わず驚きの悲鳴が出てしまった。
いきなりの不意打ち?に文句を言おうと、きっと睨むように顔を上げれば。
「黙っていろ」
「―――ハイ」
黙らされた。
あああぁぁ怒ってる! ものすごい不機嫌そうだ!
「…まったく、共に生きていくと言ったばかりだろう」
「う〜」
「俺はそんなに信用がないのか」
「そ、そんなことは…でもやっぱり、人っていつ心変わりするかわからないし…」
「それを言うならお前もだ…俺も、お前が離れるのではないかと思うと不安で仕方がない」
頭や肩に積もる雪を払い、ルヴァイドはやっぱりため息を吐きながらあたしを真正面から抱きしめた。
あたしの頭にルヴァイドの顎が乗っかってきて、そこであたしもため息を吐く。
まあ、報告した後でお互いが不安になりまくりだとルヴァイドのご両親も心配するわよね〜…。
「ごめん、ルヴァイド」
「…言っておくが、俺は外見でお前を選んだわけではない」
「…そう?」
「それにお前は、<共に生きていく>の言葉を深く考えていないだろう」
………。
……………。
「………………え゛?」
思わず頬を引きつらせたあたしがわかったのか。
ルヴァイドはさらに、さらに深いため息を吐く。 そしてとどめに”やはり鈍いではないか”というツッコミも入れられてしまった・…って、まさかルヴァイドにツッコミを入れられる日が来るなんて!……・じゃなくてッ!(自分ツッコミ)
「え? え? ……えぇッッ!??」
ルヴァイドは本日三度目の、ため息。
いやもうさっきからため息ばっかりなんですけど! あたしのせいってわけ? あたしはそんなに呆れさせるようなことばかり言ってる? …いや、言ってるかもしれないけど。
(あぁもう…お父さんお母さん、ごめんなさい)
ルヴァイドのご両親に心の中で謝ってから、あたしはルヴァイドからばっと離れて立ち上がり、腰に手を当てて、膝をついたままの彼を見下ろした。
「ちょっと、そんなに呆れなくたっていいでしょう?」
「……」
「だって! まさか、そんな事…考えてくれてたなんて」
そうなればいいなぁとは、ぼんやりと考えていた。
そうなれば嬉しいなぁと、ひっそりと。
―――けれど、彼の、今の功績を見てしまうと思わず、一歩下がってしまう。
彼は、才能と努力のできた、すごい人なのだ。
元・敵国の武将というハンデを負いながらも、信頼を得ようと立ち回ったルヴァイドは聖王国と<蒼の派閥>にも重宝され始めていた。
困難である任務を実力でそつなくこなし、手際よくスムーズに進めていくその指揮力は歴代の武将にも劣らずなんと鮮やかなことか。
一度、訓練の指導をしている姿を見学させてもらったことがあったけれど、訓練兵の中で、彼の指導に尊敬を覚え、教えを請おうと頼み込まれている光景も見たこともあった。
そのときは、”ふっふっふ、さすがルヴァイド!”と誇らしく思ったのだけれども。
「―――そんな事、だと?」
ルヴァイドも立ち上がった。
その拍子に黒の外套に積もっていた雪がバサリと落ちて、ルヴァイドは怒ったようにあたしを見下ろしている……けれどこれでもあたしはルヴァイドと何度も真正面から向かい合った経験がある。
臆することなく睨むように長身の彼を見上げて、視線を真正面から受け止めた。
「そんな事と、お前は言うのか」
「違うっ、そうじゃなくて!」
「お前は俺が、お前の事を何も考えず抱いたと思っていたのか?」
「だからそうじゃないってば!」
想いの言葉を言われる度に
嬉しい気持ちがたくさん溢れる
―――けれど不安だって、湧いて出てくるものだ
いつまで言ってくれるんだろうとか、
いつかいなくなってしまうんじゃないだろうとか。
ルヴァイドが心底呆れの表情を見せるたびに、
いつか愛想尽かされるんじゃないだろうとか。
…愛想尽かして、
他の誰かに獲られてしまうんじゃないだろうとか、そんな不安。
眉を寄せて、かすかに怒気を放っているルヴァイドにますます腹が立ってきた。
不安なものは本当に不安なのだ。
自分に自信がない。 それは色んなものに対して。
自分の良い所なんてそうそう見つけられなくて、嫌な所ばかり見つけてしまうから、それが目立って、自分がひどい人間に思えてくるのだ。
考えれば考えるほど、腹が立ってきた。
それは彼に対してどういえばいいかわからない、自分に。
しかし無言の睨み合いは続くばかりで、 埒が明かない。
このままいても日が暮れるだけだ…。
あたしは一度溜息を吐くと、ルヴァイドから視線を逸らして一方的に打ち切った。
「帰ろう」
「……」
「日が暮れる時間だもの」
腕時計を見れば、針は夕方過ぎを指していた。
ここに到着した時間は4時過ぎだったのに、今では6時を過ぎている。
空を見上げればすっかり薄暗くなっていて…今からデグレアの街に向かわなければ危険だ。
ルヴァイドも同じ考えだったのか、既にあたしへと背を向けていた。
さっきまでお互い笑っていたのに…あぁ、なんて最悪な報告日になってしまったんだろう。
(そりゃあたしだって一緒にいられること期待してたわよ。
―――でもまさか、本当に言ってくれるなんて)
驚きで思わず口にした言葉が、ルヴァイドを怒らせたようだ。
そんな事で怒るなんて! と逆ギレできたならまだマシだったかもしれないけれど、ルヴァイドはあたしの事を本当に考えてくれていた―――だから怒るのだ。
(自信ない自分て、本当卑屈になっちゃうよなぁ…)
馬の背に乗り、体勢を立て直したあと、ルヴァイドは無言であたしに手を差し伸べた。
ごつごつとした大きな手。
剣を握って、必死で汚名を返上しようと戦って、戦い続けて、けれど最後にはそれは裏切られて。
それでも生きようと、守ろうと戦い抜いた人の手。
その人を誇らしく、思っていた。
自分のことのように、嬉しくて、誇らしくて。
でもそれは次第に、遠い、と、感じるようになった。
些細なことで落ち込んで、自己嫌悪に陥る自分には、彼の姿はとても眩しいものだった。
―――自分がひどく、恥ずかしい。
「い、いいっ」
「…?」
「近いから、歩くっ…すぐそこだからっ」
そのままルヴァイドに背を向けて、廃墟と化したデグレアへとあたしは歩き出した。
今は一緒にいたくなかった。
―――ものすごく恥ずかしくてしょうがなかった。
…獲られる不安も、愛想つかされる不安も、胸にある。
けれどあたしは、ルヴァイドの隣に立っていいほど、立派な人間じゃなくて。
自分が、とてつもなく恥ずかしい人間だと思ったから。
恥ずかしくて情けなくて、強い人間じゃないと思ってしまったから。
(ルヴァイド相手にコンプレックス? …最悪)
劣等感…というものではないのだけれど、それに近いかもしれない。
けれど戦って戦って生き抜いてきた人間はやはり一味違うのだ。 あたしは、物事を冷静に見て、判断することが出来ない。
何をどうすればいいのだろうかと、すぐに自分を見失う。
…ルヴァイドに、迷惑ばかりをかけることも苦しくて、恥ずかしい。
支えられるばかりで生きていくのは辛い―――――― …。
(…そ、それにしても、やっぱり歩きにくい…!)
雪は、牡丹雪から吹雪に変わって、慣れないあたしはには歩行すら難しい。
沈みそうになりながら、滑りそうになりながらも四苦八苦しながらどうにか進んでいれば、背後でどしゃっと音がした。 それにルヴァイドに何かあったのだろうかと慌てて振り返れば、ルヴァイドが馬から下りた音らしく、彼は手綱を引いてあたしの少し後ろを歩いてついてきている。
「…な、何で、馬から」
口を開くと、冷たい空気が一気に肺へと滑り込む。
それに思わず言葉を途切ってルヴァイドを見ていれば、彼はあたしの横を通り過ぎて前に回り、雪をざくざくと踏みしめながら進んでいく。
「俺の後について来い」
「―――え」
「これから本格的に吹雪いてくるぞ」
雪国生まれで雪面歩行熟練者のアドバイス。
確かにルヴァイドの後ろを歩くとほんの少し…いやかなり楽だ。
ルヴァイドが踏みしめて歩いているから、彼が進んだ跡は滑りにくくなっていて、進むスピードだってぐんと上がった。
あぁぁぁもう何であたしってば…っていうか本当何やってんのよあたしは!
お礼を言おうと口を開きかける。
けれどやっぱりまだ意地が残っているのか。
掠れた声しか出てこなかった。
こんな意地なんか張ってもしょうがないのにとわかっていても、
あたしは到着するまで、どうしてもお礼を言うことが出来なかった。