イライライラ。
今の彼の表情はまさに、そんな表現がこの上なく似合っていた。
季節は冬。 リィンバウム独特の文化で言うならば<白天の節>―――そんな冷え込んだ世界の中でも僅かなぬくもりを与えようと降り注ぐ日差しを受け、群れをなす家畜を囲う太い柵に腰掛けながら、真っ白い便せんに綴られた文字を不機嫌そうな表情で追うのは自分がよく見知った少年だ。
彼の鮮やかな赤髪は冬の風を受けてさらりと揺れ、冷気を帯びたそれは彼を見つめているあたしや彼の頬をちくちくと刺すように撫でて、過ぎていく。
けれどそれすら気にも止めぬまま少年はもう一枚の便せんに視線を移し、鳶色の瞳で文字を追う……追えば追うほど、少年の顔が険しくなっていく……ああ、完璧に不機嫌だ。 誰がどう見ても不機嫌だ。
こんなときは触らぬ神に祟りナシという諺(ことわざ)に従うべきなのだろうが、彼の手にある白い封筒と便せんに興味を覚え、しばし悩んだ末…あたしは、ため息を混じりに絞りたての牛乳が詰まったミルク缶をよいしょと持ち上げて駆け寄った。
缶の中で牛乳が、タプンと揺れる音が手に伝わる。
「リューグ、それ、ゼラムにいるロッカからの手紙?」
「…あぁ」
返事すら、「付き合ってられるか」感がたっぷり含まれたものだった。
一体何があったんだとリューグの横顔を見つめても、彼はむすっとしながらも手紙を折りたたむだけ。
「ロッカに何かあったの? 怪我? 病気? 事故? …あぁでも、リューグのその顔はそういうことじゃなさそうだけど」
「それどころか―――幸せいっぱいだそうだ」
「…は?」
皮肉気にそう呟いて、折りたたまれた手紙を寄越された。
ミルク缶を地面に置いてそれを広げれば、真っ白い紙には黒いインクでロッカの綺麗な文字が綴られている。
綴られた文字を目で追っていけば―――あたしはぷっと吹き出して笑ってしまった。
「あははっ。 なんだ、本当に幸せいっぱいじゃん」
「惚気の手紙を送ってくんじゃねぇよ…ったく」
「紹介したい人が出来たんだから良かったじゃない。 ……しかもその人、蒼の派閥に所属してるだなんて何か、縁みたいなもの感じるわ」
蒼の派閥とは、友人であるマグナ、トリス、ネスティが所属している組織だ。
彼らが見聞の旅に出なくては全てが大きく変わり、揺れて、晒されて、動くこともなかった…あたし達の始まりには必要不可欠な場所―――そこまで思い出してふと、柵の上に腰掛けたままのんびりと草を食む羊を見つめているリューグの横顔に目をやった。
兄に惚気話を聞かされて何やらブツブツと文句を呟いているが、その表情は比較的穏やかだ。
(…変わったなぁ)
彼と初めて出逢った場所は”奇跡を起こす聖女がおわす”とされているレルムの村だが、村は一度、燃やし尽くされて滅びてしまった。 聖女の噂を聞きつけたデグレア軍に襲われたのだ…あの時の光景は今も覚えている。
悲鳴も、闇夜の中でも鮮やかに燃え広がる炎も。
リューグとは村が滅ぶ少し前に出逢ったのだが、今の彼はその時に比べて大人になりきれていない少年っぽさは随分薄れ、わずかなあどけなさを残しつつも大人の青年の横顔に変化している。 しかしその瞳の強い輝きは損なわれていることもなく、出逢った当初と何も変わらない・……そう、村が滅びてからもう三年以上経った。
その間にもデグレアからアメルを守るために旅をして、混乱の根源である悪魔王メルギトスが討たれ、仲間達がそれぞれの道を歩むようになり、リューグとロッカと、アメルが望んだレルム村が再建されてから半年以上も時は過ぎていった。
…三年。
その間にこんなにも大きなことが起こるとは、自分は相当特殊な星の下で生まれてきたかもしれないと時々考えてしまう。
(ルヴァイドたちに感謝しなくちゃね)
この村がこんなにも早く再建されたのは、ルヴァイドたちの尽力があったからこそだ。
さまざまな人の手で作り出された新しいレルムの村。
しかし今この村に住む人の中に、小さい頃から村にいたリューグと共に過ごしてきた人は一人もいない。
アメルも、ロッカも、アグラ爺さんも、皆この村からいなくなっていた。
「ね、アメルやお爺さんも元気だって」
「アメルはともかく、あのジジイはまだまだ死なねえだろうよ」
「きっと経験を活かしてルヴァイドたちを手伝ってるんだろうなぁ…ああ、元気なお爺さんの姿が目に浮かぶ…あの、老人とは思えぬ逞しい筋肉が印象的過ぎたせいか網膜に焼き付いて消えないのよねぇ…」
「それは忘れろ」
いいツッコミだわリューグ。
「あ、アメルもロッカも医師勉強頑張ってるって。 …もう少しで試験だから大変みたい。 でも二人ともお医者さん目指すなんて思わなかったわ」
「まあな…あいつらも、あの夜に思うところがあったんだろうよ」
―――村が、滅びた夜。
突然の襲来。 己の無力さに。 悔しさに泣いた夜。
だからそのために彼らは外の世界へと飛び込んでいった…もう二度と、あのような事が起きないように。 自分の目の前で苦しむ人を一人でも救えるように。
共に生きてきた人を、一人でも救えるように。
「そっか…皆がんばってるなぁ。 リューグも自警団団長だし、あたしも頑張らないと」
「…テメエは頑張る必要ないだろ」
「いやいや、でもロッカたち見てたらさ、何かやらなきゃいかんなぁって思うのよ。 あたしなんて本当、のうのうと過ごしてるばっかりだし」
笑いながら手紙を丁寧に織り込んで、エプロンのポケットに突っ込んでから地面に置いたミルク缶をよいしょと持ち上げた。
”今夜はシチューね”と野菜の残量などを思い浮かべていれば、ジャガイモが足りないことに気がついた―――しまった、芋を忘れてた。 アメルに悲しい顔をされてしまう。(お芋の聖女様!)
「リューグ、あたし、ちょっとジャガイモ買ってくる…、あ」
振り向きざまに言いかけた言葉は、ミルク缶を取り上げられて途切れてしまった。
中身が缶いっぱいに注がれているので結構な重量があるはずだけども、リューグは片手で軽々とそれを持って、あいている手であたしの手を掴んでずんずんと緩やかな丘を下っていく。
強い力に引かれるままにその後に続けば、柔らかな草の感触が靴底に伝わる。 気持ちがいい。
「リューグ?」
「…そんなもの、比べるモンじゃねえだろ」
低い呟きを乗せて、風がふわりと頬を撫でて過ぎていった。
冷たいそれは頬を刺して、寒さのため真っ赤になったあたしの頬をさらに冷やしていく。
けれど繋がる手は、とても暖か。
ぬくもりが、とても強く、大きな力と共に繋がる手からじんと伝わる。
「人と自分のやってること比べたって仕方ねえだろ」
「…そうかな」
「好きなように生きられるんなら、好きなように生きろよ―――せっかく生きてるんだからな」
呟いて、空を仰ぐリューグにつられてあたしも、空を仰いだ。
昼を過ぎても空の青さは夏より薄く、寒々としている。 白雲はその青さに溶けてしまいそうなほどまでに密度が薄く、風に流されるままに浮いている。
…彼はあの空を見ながら、生きたくても生きられなかった人たちのことを思い馳せているのだろうか。
―――彼の始まりは 全てが崩れたあの夜から
「…それじゃ遠慮なく、リューグの傍にいよっかな」
「はぁ?」
「んっふっふっふ、好きなように生きていいんでしょ?」
にやりと細く笑むあたしに「その笑いはやめろ…」と呆れたようにため息を吐いて、繋がったままの手を、ぐっと握り締めてきた。
それに思わず驚いてしまえば、リューグは眩しいものを見るかのように目を細めて。
珍しくも挑戦的に、けれどいつもよりもぐっと柔らかな笑みを口元に称えて、笑った。
「しょうがねえから、これからもちゃんと守ってやるよ」
逃さないのはどちらも同じ