王都ゼラムはこの日、身が竦むほど激しい雷鳴と視界がけぶる大雨にみまわれた。
白い街並みは雨に濡れ、石畳の続く路があますところなく水の膜に覆われる。
―――そんな中、バシャンッ!と弾くような音をたてて水たまりを踏み、息を切らして走るあたしはこの街から見れば調和を乱す無粋な人間だと映るだろうか。
しかし今ばかりは勘弁願いたい。 出かけ先でこんな天気になるなんてほんとツイてないなぁと、現在進行形でひたすら憂れいているのだから。
(確かに雲行きは怪しいなっておもってたけど、まさかここまでひどいなんて!)
轟く雷鳴にぎゃーっと悲鳴がでる。
その声すら掻き消されながら再度、大きな水たまりを豪快に踏み込み靴どころか全身ずぶ濡れで雨の中を走り抜けた。
豪雨は何もかもを洗い流すような勢いで降り続け、視界はとにかく悪かった。 いま自分が走っている道は本当に”蒼の派閥”へと向いているのだろうかと、そんな不安さえ過ぎていく。
(と、とにかく、雨宿りっ!)
胸に抱えた紙袋をひしっと抱きしめ、あたしはすぐそばにあった手頃な軒先に飛び込んだ。
誰も住んでいないらしいその家は明かりのひとつもないけれど、今は屋根があるだけでありがたい。 屋根の下で息を整えながらうんざりと黒雲を見上げ、吹きすさぶ雨風の勢いに辟易する。
「はー…ひっどい、雨…」
ここまでひどいのはこの世界にきて初めてだ。
雨粒の合間に閃く雷光は目を刺して、雷鳴は地鳴りのようにあちこち響いている。 雷がそれほど苦手でなくてもその激しさに、ひっと息がもれるほどだ。
直撃したら多分死ぬだろうなぁという感想もあながち間違いじゃないだろう。
死亡フラグの真下にいるこの状況はなんともいただけない。 軒下の幅がそこそこ広いおかげで本当に助かった……濡れた体を抱いて肌寒さにぶるりと震えながら、ひたすら雷が落ち着くことを願っていれば、不意に、こんな天候でも静かであろう一室に佇むネスの後姿が脳裏に浮かぶ。
(……あー、ネスの呆れた顔がリアルに浮かぶわ)
仮にこのまま派閥にたどり着けたとして、びしょ濡れのあたしを彼が歓迎するはずがない。
不快そうに顔をしかめ、「すぐに帰れ」と言われるだろうか。
夕暮れから夜にかけて天気もひどくなりそうだし、このまま行くよりは日を改めたほうが彼の迷惑にもならない。 常識として、<このままジラール邸にUターン>がベストな選択肢だ。
(――、でもなぁ…)
非常識だと罵られてもいいから、それでも彼の元に行きたいと考えるあたしは一体どうしたことだろう。
その理由を何気なく考えて、あっさり答えに行き着いたことが自分で恥ずかしくなった。
い、いいいいいまものすごくとんでもない羞恥に駆られた。
恥ずかしすぎるよほんとに! 何考えてんの! 穴があったら入りたい。
(…ほんと、どんだけ嬉しかったんだあたしは…)
――ある日現れた、きれいなガラスポットに詰まった色とりどりのお菓子たち。
ふかふかのクッション。
王都ゼラムのイチオシ情報満載ガイドブックの派手な表紙。
生活感の薄い彼の部屋のなかでやけに浮いたアイテムの数々を初めて目にして、呆然と立ち尽くすあたしにネスは相変わらず背中を向けたままだったけれど、じわじわと込み上げてきた感情は本物だった。
(あたしって単純すぎ。 でも、あれこそ偉大な進歩だわ)
レルムの村で初めて顔をあわせ、知り合ったばかりのあたし達。
そんなあたしが彼の思惑を図ろうするにはまだ難しく、どんな言葉をかけても表面上のものでしか返事がもらえないことは、一歩どころか二・三歩ほどの距離をとって接するネスを見ていればわかる――彼はあまり人が好きではないのだ、と彼と言葉をかわすたび改めて確信するのだ。
この<物語>を知るあたしは、ネスティ・バスクの境遇を知識として知っている。
フリップ・グレイメンに脅かされている彼が心を許せるひとは、ほんの一握りで。
あたしをよく知らない彼のなかで、彼のことを本当の意味で知らないあたしはその範囲外なのだ。 だから、名前も愛称では呼べない。 そのことがちょっとだけ切ないのは、あたしだけが一方的に彼を知りすぎているせいか。
だから。
彼の部屋で甘いチョコレートを口にふくんだ瞬間は、
”傍にいることを少しは許してくれたのかな”と、泣きたい気持ちになるほどうれしくて――…。
「――ぅわっ…!」
光った、と思った次にはひときわ激しい雷鳴が辺りを揺るがした。
土砂降りの雨の匂いがゼラム一帯を覆い、どこに落ちても不思議じゃない雷の閃光だけが空を埋め尽くすそれのあまりの迫力にまた、びくっと肩が跳ねあがる。
…やっぱり、さっきより酷くなってる。
これ以上ここに留まるのも無意味な気がしてきた。
風向きが多少変化したのか軒下にまで侵入してくる雨に、じりじりと最後の決断を迫られていれば。
「何をしているんだ、君は!」
それは、雷鳴よりもはっきりと。
驚くほどにとても近くで響いて、あたしは項垂れていた顔をあげた。
ばしゃばしゃと跳ねる水音が聞こえる。
街並みを霞ませるほどの雨のなか傘もささず、”彼”はあたしの元へ一直線に走ってきた。
髪も服も靴も眼鏡も全身を濡らしてあたしのいる軒先に入ってきたかと思うと、ひどく冷え切った手であたしの手を掴んだ。 彼の行動にもそうだが、その冷たさには驚かずにはいられない。
「ね、ネス?!」
「まさか本当にいるなんて…とにかく、家に戻るより派閥の寮のほうが近い。 君も走れっ」
息を切らせながら早口にそう告げると、返事も待たず軒下から飛び出すように走り出す。
掴まれた手に逆らうことも忘れ、あたしの体もふたたび雷雨の世界へ。
一歩出た瞬間にたたきつける雨風と頭上を駆け巡る雷鳴は変わらないのに、恐怖より勝るものが胸を覆って喉を詰まらせた。
正直いまでも、何が起こっているのかいまいち把握しかねる。
これが現実なのかあたしの妄想なのか判断も鈍る。
何故なら、こんなふうに強い力で握ってもらえるなんて考えたこともなかった――あたしを脅かしていた雷鳴も、この状況のなかではちょっとヘヴィなBGMにしかならない。 そもそも雷どころではない。 進歩どころか革命がおきたのだから。
とりあえず、彼の部屋に着いたら感謝をこめて温かいコーヒーをいれてあげようと思った。