王都ゼラムはこの日、身が竦むほど激しい雷鳴と視界がけぶる大雨にみまわれた。
白い街並みは雨に濡れ、石畳の続く路があますところなく水の膜に覆われる。
聖王国領域でも四季の変化が著しく現れるここ王都は、毎年この時期に差し掛かると雨が多くなる―――誰もがうんざりするような天候だが、”ここまでひどくなるのも珍しい”と他人事のような感想が浮かぶのは、これ以上にひどく荒んだ空と世界を知っているからか。
雨に霞む街並をどこか冷めた眼差しで一瞥してから、ネスティは手元の書物に視線を落とす。
雨の日は嫌いじゃない。 雪の日と同じで、人間が生み出す煩わしい雑音や気配を掻き消してくれる。 自然が生み出す独特の静寂は心地良く、時折、その無音に埋もれてしまいたくなるくらい。
「……本当に来るのか…?」
不意にもらしたつぶやきが、彼の自室にひそりと響き渡る。
ページをめくる手をとめて来客用ソファとテーブルへと視線を投げた。
そこにはつい最近まで、この部屋にはなかったものがいくつか存在している――さわり心地のよいクッションとお菓子の詰まったガラスポット、ゼラムのガイドブック。 その代物はつい最近までこの部屋にはなかったもので、どこにでもあるはずのそれらはネスティが使わないのに置かれている。
自分はこの部屋でくつろぐことはないし、ガイドブックも読まない。
菓子も食べない。 義父以外の来客もない。
では何故、来客の少ないネスティの部屋にそんなものが置いてあるのか――それは<彼女>が原因だ。 部外者の立ち入りを固く禁じている”蒼の派閥”の警備の目をくぐりぬけ(どうやら抜け道を教えてもらったらしい)、マグナの部屋でもトリスの部屋でもなく、ネスティの部屋を頻繁に訪れる<彼女>のせい。
暇を持て余してた彼女に調べ物の邪魔をされたくなくて、対策として、彼女が望んだそれらを置いてみればすっかりくつろぎ部屋とされてしまった。
今おもえば、あれは失敗だった。
だが、ガラスポットに入ったお菓子とガイドブックを初めて部屋に置いてみた、あの日。
訪れた彼女の驚いた表情と――そのすぐ後で、とてもうれしそうに綻んだ笑顔がひどく印象的で、クッションを抱いてソファに座り、ガイドブックを片手に、美味しそうにチョコレートを口にふくんで味わっている姿をいまでも鮮明に覚えている。
(……来るはずがない)
【 黒の旅団 】から逃れ、身を隠すためジラール邸に居候している<彼女>は早朝、ジラール邸を出て派閥に向かうネスティを引きとめて「今日行くから!」と笑顔で言ったが、こんな雷と雨のなかを、誰が好んで外出などするものか。
(来るはずがない)
そう、来るはずがない。 断言してもいい。 彼女は来ない。
――それなのに嫌な予感がする。
自分はあの人間を、どこか見誤っていないか。
知り合ってまだ間もないのだから全てを知り得たわけではないが、それでも、今まで出会ってきた人間とは違うものを感じる彼女の存在はこうもネスティの胸をざわめかせる。 それは煩いほどに。 訳も分からず急き立てられるようなこのざわめきは一体何なのだ。
「来るはずがないんだ」
今度は声に出してつぶやいて、何かを断ち切るようにネスティは本を閉じた。