「好きです」
そう言われたとき、自分には遠いの世界の言葉のように思えた
そこは静かな世界だった。
創立してからもう何年経ったのか、歴史に残るほど年季の入った建物で、その壁は何度か補強されているおかげで雨風に負けぬままくすんだ色を浮かべて佇み、住む者たちを音の障害から護るための厚みがあり、仮に弟弟子や妹弟子が大きな声で騒いでも外の世界へは届かないだろう。
外部との繋がりでさえも疎ましいのだと遮断した、閉じられた世界。
――真理の探究を謳う閉鎖された空間なのだから。
だからこそ、ずっと静かな世界だったのだ。
長年この場所で暮らしてきたネスティにはこの静けさは当たり前で、気にもならなかった。
だが、今年で13になった弟弟子と妹弟子が枕を抱え「一緒に眠ってほしい」と頼み込んで来たときに聞いた、あの言葉で少しばかり印象が変わったのを覚えている。
「静か過ぎて、怖いんだ」
弟弟子が妹の小さな手と、抱えている枕を握り締めて呟いた、その言葉。
それは静寂を好むネスティには理解不能な言葉でもあった。
―――静か過ぎて怖い?
静かな環境は、騒音に苛立つことなく過ごせて良いではないか
「でもネス、人がたくさんいるのに」
「ここはこんなに静かだなんて…不気味だよ…」
―――理解できなかった
いや、理解などしなくても良いだろう。
静かな環境はネスティにとってこのうえなくありがたいモノだった。
もとより人間に嫌悪を覚えていたし、仮に外部の者が出入りできたとしてもネスティにとってはいい思いをすることはまずないだろう。 融機人(ベイガー)と呼ばれるこの体を、奇異な目で見られるよりずっとマシで……いや、深く考える必要はない。 自分には理解できなくても何ら支障はない。 どうでもいい、小さな子供の戯言だ。(と、言っても自分とは2つしか離れていないのだが)
「とにかく、僕の隣のベッドを2人で使えばいい」
「でも、ネス」
「明日も早い、遅刻するんじゃないぞ」
「……うん」
しょんぼりと項垂れたまま、弟弟子は妹の手を引っ張って共にベッドにもぐりこんだ。
彼の妹は何かを言いたそうにじっとネスティを見ていたが、眠気が迫ってきていたのか、すぐに目を伏せてそのまま寝息をたて始める。
……彼も、その妹も何が言いたかったのだろうか。
その夜からは少しばかりその静けさに意識するようになったのだが、この世界は気味が悪いのだと、今でも思ったことはない。
「――――――、あの」
分厚くくすんだ色のその壁に数日前の夜を思い出していれば、声をかけられる。
そちらにちらりと視線をやれば、薄いすみれ色の髪と、頬にふっくらとした丸みを帯びた少女がいた。
その身が纏うのは蒼の派閥の制服で、腕に抱えているのは分厚い本。 何となく記憶の隅に残っている顔でもある……ああ、彼女はネスティと同じ蒼の派閥の生徒だったか。
しかし彼女は今、ネスティになんと言ったか?
「……まだ、何か?」
「えっ、あの、その」
淡々と切り返した返事に、搾り出したように震えた声が出た。
それにしても何故彼女はこんなにも震えた声で”好きだ”と言うのだろうか。 そんな大した事でもあるまいに。
「わ、私は、目立たないし、その、ネスティさんにも顔を覚えられているはずもないってわかってます。 でもどうしても、気持ちを抑えられなくて……」
「それで?」
「え……」
ネスティは羞恥に頬をきれいに染めた少女をみて、酷く冷めた感情しか持てなかった。
顔見知り以下の他人に”好きだ”といわれてもどう答えればいいか知らなかったし、他の師範や同僚の人間に避けられるまで嫌悪されているネスティに話しかけてくる彼女を、物好きな人間だなという感想しか思い浮かばない。
自分に”好きだ”と言って、それからなにがあるというのだ。
少女が続きを何と言うのかしばらく待ってみても、「あの」だの「その」だの、まともな返事が返ってこない。 やがて興味が失せたようにネスティが背を向ければ、今度は嗚咽が聞こえてきて少し驚いた。
「ちが、ちがう、んです…っわ、私は…っ」
ぼろぼろと泣き出してしまったそれに、ぎょっと目を瞠る。
何故泣き出したのか理由が分からない。 どう対処すればいい。 いやその前に、いい加減この場を離れないと次の講義に遅刻する……今後の予定を急速に組み立てながら少女が泣き止むのを少しだけ待ってみたが、一向に泣き止む気配もない。
だいたい、義父のラウルからの”好き”だという言葉の以外は、信じられるものはない。
他人からそれを言ってもらっても――意味の伴わない、遠い言葉でしかなかった。 つい、ため息が出る。
「ごめ、ごめんなさい…っ!」
ため息を吐くネスティに少女はそう謝ると、逃げるように走って去っていった。
その背を引きとめることなく見送りつつ、ネスティはまたいつものように講義を受けるため、静かな通路を抜け、部屋へと向かった。
”――――――好きです”
何度、その意味を咀嚼しても。
それはやはり、自分にとって、遠い世界の言葉だった。
「うわぁ、ネスってヒドーイ」
「……しょうがないだろう、子供だったんだ」
「どんな言い訳だよ……で、その後その子はどうなったわけ?」
秋はすぐそこまで訪れていた。
聖王都ゼラムの大通りに沿う並木道は薄っすらと赤く色づいて、肺に吸い込む空気も夏に比べてずいぶんと涼しい。 一年で一番過ごしやすい時季でもある。
天気も良好で、それが嬉しいのかネスティの少し先を歩くの足取りも軽い。
彼女の華奢な背を見ながら”どうなったって言われてもな”とため息を吐いて、ネスティは答える。
「別に何も……ただ、それ以降会うことはなかったな」
「そりゃそうよねぇ、せっかく告白したのに無表情で”それで?”って聞き返されたらあたしだってズタボロに傷ついてヤケ食いよ」
の言葉が、妙に重くのしかかる。
だがあのときは完全な人間不信の頃でもあったし、異性からの告白というものに何ら興味も沸かなかった――とにかくあの頃は本当に人間というものが、嫌で嫌で仕方がなかった。 今とは全然違うのだ。
「と、とにかく、これで話は終わったぞ」
「うーん、これ以上苛めるとネスがますます人間不信になっちゃうんで、許してあげましょう」
「……君のとっておいたサンドウィッチを食べただけでこんな事を言わされるとは……(げんなり)」
「はいソコ! ため息吐かない! だって楽しみにしておいたものを横から食べたのよ! これぞまさに鳶に油揚げをさわれる…ってやつよ! この眼鏡鳶めがーーーー!!」
「メガネトンビ? アブラアゲ?」
聞きなれぬ言葉にネスティは首を傾げるが、説明をすれば絶対言い返されると充分承知しているは”なんでもないよー”とにこりと笑うだけだった。
そんな彼女になんとなくごまかされた感が否めないが、がもともと住んでいた”名も無き世界”は他の世界に比べて解明されていることが少なく、話を聞けば聞くほど、多く文化に溢れているらしい。
彼女のひとつの言葉を気にしていてもこの意味を知るのは相当先になりそうなので、ネスティは仕方なしに彼女の発言をそのまま水に流した。
「とにかく、君は派閥の待合室で待ってるんだぞ。
本来なら部外者は入ってはいけない決まりがあるんだからな」
「はいはい、わかってますよ」
「……暇だから<蒼の派閥>についてくるなんて物好きは、君くらいだな」
もう何度目かも分からないため息がこぼれた。
どんなに言いくるめようとしても、のらりくらりと交わしてしまうの口の上手さは尊敬に値するが、には静かすぎるあの場所に極力近づいてほしくなかった。 ネスティは<蒼の派閥>の人間なのでまだ扱いはマシなのだが、部外者に対する姿勢は本当厳しいのだ……嫌な思いをさせてしまうのはどうしても避けたかった。
「いいじゃない、大丈夫大丈夫!」
「……、はぁ」
「あんたは心配しすぎなの、あたしなんか気にしてないで自分のこと気にしなさいよ。
それに…今は薬を受け取るっていう大切な時期なんでしょ?」
融機人は、疾病に対しての免疫がほとんどない。
そんな自分がこのリィンバウムで生きていくためには、<蒼の派閥>のみが生成することができる薬を定期的に飲まなければ命を簡単に落としてしまう。……なので、望むも望まないにも関わらず、<蒼の派閥>はネスティが生きていくためには欠かせない場所のひとつだ。
「確かに、そうだが」
「ならいいじゃん、一緒に行ったってさ。あ、それとも同僚にからかわれるのが嫌? ほら……その子お前の恋人かー?ってやつ」
”まぁネスなら普通に無視してそうだけどね!あっはっはっは!”と笑うに、ネスティは再びため息。
そんなことを気軽に言えるような友人はいないし、何より…… が心配だと言葉で伝えていないせいもあるのだが、自分の想いがこうも見事に伝わっていないのも少し切ない。
(……言われたら言われたで、困るだろうな…)
もし仮にそんな友人がいたとして。
彼女との仲をからかわれたと分かっていても、顔には出さないが内心、酷く動揺するだろう。
こうして二人だけで歩いているだけで随分と浮き足立っている心地なのに、さらにはそんな事を言われてしまえば―――。
(……絶対、隠し切れない)
動揺も、言われた事に対する羞恥も、全て顔に出てしまうだろう。
その場から逃げたくなるような心地になる。
が絡むとネスティはいつものように冷静でいられない……そこまで考えて、ふと、思い出すのはあの言葉。
”――――――好きです”
(彼女には悪いことをしたな…)
昔の、あの出来事。
無知だったとはいえ、感情が希薄だったとはいえ、酷い言葉を言って、酷い反応をしてしまった。 泣きそうになりながら、震えながらも”好きだ”と言ってくれていたのに。
あれから会うことはなかった。
向こうの通路から見かけても、彼女は逃げるように姿を隠すのだ。
追って話をしようとも思わなかったので放っておいたのだが(その頃も興味がなかったのだ)、今はちゃんと謝りたいとも思う。 だが。
(しばらく会っていなかったし、僕の顔など覚えてもいないだろう。
覚えていたとしても会いたくないだろうし……謝ってほしくもないかもしれない)
自分もほとんど顔を覚えていない。
もう5年以上も前のことだ、幼い彼女の顔ですらうろ覚えだ。
見聞の旅ということでマグナとトリスと派閥を出て、レルムの村でデグレア軍に追われるようになってこちらにはほとんど帰っていないし、蒼の派閥に用があってもすぐに帰ってしまっていた。 互いに大人になりつつある。 雰囲気も変わっただろうし、会ってもわからないかもしれない。
「僕は行ってくるが……君は大人しくしているんだぞ。 10分くらいで戻る」
「あのねぇ…あたしを何だと思ってるわけ? 窓から景色でも見て暇をつぶしておくわよ」
外部の者を待たせる待合室に到着し、出歩かないように釘を刺すとむっとしたように顔を歪めて は窓へと歩いていった。
その背を苦笑しつつも見送りつつ、扉を閉めてネスティは静寂の通路を歩き出した。
靴底が床を踏みしめる度に音を響かせて、通路の先まで伝わっていく。
(……静かだ)
賑やかだったジラール邸や、モーリン道場の空気にすっかり慣れてしまったから、余計にそう思い、慣れたはずの静寂が不気味にまで思ってしまった。
マグナとトリスはここに入る前までは比較的大きい街に住んでいた。 行き交う人々の賑やかさに耳や感覚が慣れてしまっていたから、”人がたくさんいるのに静かだなんて、不気味だ”と思ったのかもしれない。
……自分は物心つく前からここに住んでいたのだから、その違和感に気がつけなかったのだ。
「失礼します、フリップ様。 ネスティ・バスクです」
見慣れた扉を軽くノックし(見慣れているだなんて心底嫌だが)、ネスティは一つ深呼吸をしてその部屋へと踏み込んだ。
本の匂いと、濃いインクの香りが部屋の主のかわりにネスティを出迎える。
広々とした部屋の向こうに立つのは―――フリップ・グレイメン。 机に向かったままでネスティを見ようとはしなかったが、ネスティがしばらくその場から動かないと知ると、忌々しそうに舌を打って振り返る。
「来たか、化け物」
「……薬の受け取りに参りました」
「フン」
冷ややかな視線に混じる、侮蔑。
それは何度晒されても慣れることはないのだが、聞き流しておけば言いたいことを言って解放してくれる。
機嫌が悪ければ何度かは殴られぼろぼろにしてから解放してもらえるのだが、今日ばかりは祈るように彼の機嫌の良さを願った。
(今日は、機嫌がよければいいのだが)
待合室にがいる。
彼女に、殴られて腫れた顔を見せてしまえば何が起こるかわからない。
怒るか泣くか、復讐か(この可能性はかなり高い)……考えるだけでも頭痛の種だ。
しかし、今日は最悪のようだ。
―――腕を振りかぶられた、と思えば次には、こめかみに衝撃。
一瞬呼吸が止まり、一種の浮遊感を感じた後に床に倒れた自分を理解した……眼鏡がカシャンッと、軽い音をたてて落ちたことも少し遅れて頭の隅で理解する。
ぼやけた視界の向こうで、フリップ・グレイメンの昏い瞳と目が合った。
倒されて、いつものように見上げるネスティに向かって彼は彼にしかわからない言葉を呟きながら、その腕を振りかぶる。
「何故私が貴様のような化け物に……私が、私がこんな……っ!!」
腹に、腕に、頭に、足に、衝撃。
殴られ、踏まれ、蹴られ、ただただ、一方的な暴力。
これは昔からだったのだが、やはり痛いものは痛い。
この男から暴力を受けた後は、心配などをかけたくなくてラウルと顔を合わすことも出来なかったことを不意に思い出す。
「私は、こんなところで止まっている人間ではない……!
化け物などを飼って世話をしているだけの人間ではないのだ……もっと、上に立つべき人間なのだ……!」
この男は、哀れだ。
相手を痛めつけることで、己の優位を確かめることで、平穏を保てない。
(僕も、だった)
平穏を保てなかった。
必死で全てを突き放して、隠して、ごまかすことでしか、平穏を保てなかった。
けれど、今は?
(……――――――今は、違う)
今は、違うはず。
今は、違うはずなのだ。
それは”好き”だと言ってくれた彼女の気持ちをようやく理解できるようになったからだと、思う。
ラウル以外の誰かを本当に、好きだと思えるようになったからだと、思う。
(戻らなければ)
がいるあの場所へ。 それを思うと、こんな部屋で長居をするわけにはいかなかった。
ネスティは口の端から伝う血を拭いながら身を起こし、フリップを睨みつける。
それにフリップが酷く苛立ったような表情を浮かべたが、拳を握って腕を振り上げて彼の頬を打ち、ネスティの頭を床に無理矢理押さえつけた。
「その顔は、何だ? 化け物…!」
「…、ぁっ…!」
「私に逆らうのか? 見聞の旅に出て、放し飼いにされたものだから主人の顔を忘れたか?」
昔は、確かに飼われていただろう。
かと言ってラウルの手にすがるわけにはいかなかった。
ただ一人耐えればすむのだと、その世界から逃げようという気すらも起こらなかった。
けれど。
「ッ…哀れな、人だな…あなたは…」
「黙れ! 貴様まで私を愚弄するか…哀れむか! 貴様はいつものように、私に従っていればいいのだ!」
腕が、振りかぶられる。
それを虚う意識の中で見ていれば。
「――――――ネス!!」
唐突にバン!と扉が開け放たれて、薄暗い室内に光が差した。
――――――、声が。
声が、暗い世界に落ち込みそうだったネスティを引き戻す。
「…?」
息を切らしたが、睨みつけるようにフリップとネスティを見た。
その後の彼女の行動は早かった。は走って、机にあるありったけの薬を引っつかんだ。 そしてフリップを押しのけてネスティの前に膝をつき、顔を覗き込む。
「しっかりして! ネス!」
「何故、君が」
「いいから! 立って!」
「小娘! 邪魔をするなぁ!」
フリップの手がの頬を強く打った。
それでも薬を離さず抱えたまま倒れこんだの姿が、ネスティの視界に映り――頬が、赤く腫れあがっているのが見えた。
その時、ネスティの中でブチリと、何かがキレる音をきく。
「っ!」
目の前がカッと赤く染まった。
これは怒りか。 唸るように声をもらして唇を噛み、何度も踏まれた腕に繋がる手が拳となって強く握られる。 衝動に突き動かされて痛みに悲鳴をあげる足で立ちあがり、ありったけの力でフリップの頬に拳で打ちつけた。
瞬間、フリップの悲鳴との声が重なる。
「ぐァッ!」
「あ」
後方に吹っ飛んだフリップの姿を、頬を押さえたが唖然としながら見送った。
フリップの身体は机や積み重ねられていた本を巻き込みながら倒れ、そのままぴくりとも動かなくなる。
「はぁっ…、はぁっ…」
ふつふつと沸いて出る乱暴な衝動が、まだ胸の内を渦巻く。
それに駆られるままふらりとフリップへと足を進めればが慌てたようにネスティの外套を掴んでそれを阻止した。
「ネス! とっとと逃げるわよ!」
「まだだ、…あいつは、君を」
「さっきの一発でじゅーぶんスッキリしたよ!」
掴んでいた外套からネスティの腕を掴んで支えるようにの肩に腕を回させると、もう片手で薬を抱えたままが走った。 それに引っ張られるままに走り出せば、激しい怒りはすぅっと退いて、何だか、妙に笑いたくなった。
初めて、あの男を殴ったな。
「まったく! なんなのよあのヅラ男は!」
待合室に戻り、が後ろ足で勢いよくバタン!と扉を閉めた。(足で…)
ネスティをソファーに座らせて、テーブルに薬を置いて、ハンカチを取り出して唇の端ににじんだネスティの血を拭う。
「うあー…酷い傷…」
「ま、待ってくれ。 自分で出来るから、その…」
「シャラッープ! もーーーーあんた一人にはまかせてらんないわよ!」
しゃらっぷ、の意味が分からなかったが、怒りにつりあがった彼女の目に黙るしかなかった。
ネスティの唇の血を拭いながら、痛ましく腫れた頬をやさしく撫でる手に、自分の心臓がうるさい。 ラウルの他に、マグナやトリス以外の人間をこんなに近い距離にまで接近を許したことはなかった。 だから、こんな風に撫でられると戸惑う。
「…、その、だな」
「なに?」
いや――これは、戸惑いじゃない。
自分はだた、彼女に触れたいのだ。
すぐ目の前にいる”
”という人を、”好き”になってしまったから。
口をついて出そうになる想いをどうにか飲み込んで――話題を変えた。
「それより、どうして君があそこに」
「あ、そうそう。 何かね、知らない人が教えてくれたのよ」
「?」
「10分経っても遅いなーって思って探しに行こうとしたら、いきなり部屋に人が入ってきてさ。
ネスがフリップに殴られてるって、助けてやってほしいって……それを聞いて慌てて駆けつけたわけよ」
目を見開いて呆然としながら、の言葉を聴いた。
一体誰がそんなことを? 義父のラウルや、マグナ、トリスやギブソン、ミモザ以外、ここには親しい人間なんていなかったはず。
そのとき、控えめにノック。
それにが”あ、あの子かも”と慌てて扉を開ければ、向こう側に、薄いすみれ色の髪が見えた。
頬にふっくらと丸みを帯びた少女が心配そうな眼差しで部屋を覗き込んでくる―――それは、ネスティの記憶の中の顔と、ほとんど変わっていなかった。
「あ」
「あ、あの…大丈夫ですか?」
「うん、おかげでどうにかもっと酷いことになるのは避けられたよ、ありがとう!」
が笑ってそういえば、少女ははにかむように微笑んだ。
そしてネスティの顔の腫れに今度は泣きそうになりながらも、どうにか口元に笑みを作って言った。
「…ネスティさん、その…お久しぶりです」
「…あ、ああ」
「……………あ、あたしちょーっと外に出とくね!それじゃ!」
どうやらは何かを察したらしい。
”邪魔者退散!”とシュタッ!と外へ出て行ってしまったの背を見送って、ネスティは少女を見た。
少しばかり大人びて、けれどもどこか弱々しいその空気や、顔も、ほとんど変わっていない。
しんとした空間が部屋に満ちた、が。
「君が…」
沈黙を破ったのは、ネスティだった。
「?」
「君が、に言ったのか」
「あ、その……ご、ごめんなさい」
「謝らなくていい、君の判断は賢明だよ」
少女が、驚いたようにぱっと顔を上げた。
そんな彼女に、ネスティは苦笑する。
「フリップ様は、<蒼の派閥>でも上位に立つ。 生徒である君はどうにも出来ない」
「……ごめんなさい、あの人を巻き込んでしまって」
「いや、いいんだ。 …どっちにしても彼女がここで大人しくしているはずがない。
探しに出かけて、変な部屋に入って危険が及ぶよりマシだった」
呆れたように言うネスティに、少女は微かに笑った。
「あの人、貴方のことを伝えたら真っ青になって…すぐに出て行ってしまいました」
「……、そうか」
「相手がフリップ様だって言っても、その……”ヅラひん剥いてやるわよ”って、ふふっ」
あれは地毛だと思うのだが、彼女の中ではヅラに変換されているらしい。
ひん剥かれるシーンを想像してしまえば、思わず噴出しそうだ。
「いい人、ですね」
「……時々、無茶をするから困る」
静けさが、再び満ちた。
どちらも口を開くことなく、どうしようかとネスティが考えていれば今度は少女が先に口を開いた。
「あの」
「?」
「変わりましたね、ネスティさん」
きょとんと、目を丸くして少女を見た。
少女は微笑んで、ネスティを見つめた。
「とても柔らかく、笑うようになってます」
「……そうか?」
「はい…ずっと、見てましたから」
その言葉に、ネスティは昔を思い出して「あー…」と声を零すことしかできなかった。
謝った方がいいのか、どうすればいいのかわからない。
「あの時は、すみませんでした……、いきなりで」
「いや、……僕も、すまなかった。 酷いことを言った」
「いえ、何となく予想してましたし…でも実際に言われると本当は、ちょっと悲しかったです」
「………すまない」
結局、謝ることしかできなかった。
自分の情けなさに頭痛を覚えていれば、少女はしっかりとネスティを見て。
「もう一度、言っていいですか?」
「え」
「好きです」
―――それは、自分にとって途方もなく遠い世界の言葉に思えた。
けれど今は、とても近い世界の言葉に聞こえて……ネスティは、笑む。
「ありがとう」
「―――で、どうなったわけ?」
「まあ…知り合い、のようなものになったな。 <蒼の派閥>の人間だが彼女にはまだ好感が持てる」
「フーン…」
帰り道。
商店街の喫茶店の白いテーブルに肘をつき、がオレンジジュースをストローで吸い上げた。
向かいに座るネスティはコーヒーを飲んでいたが、頬に大きなガーゼを当てていると、大きなガーゼで頬やこめかみを当てているネスティも酷い顔で、まるで殴り合いをした後のような男女の組み合わせに、注文を取りに来たウエイターがぎょっとしたような表情を見せていた。
曰く、”名誉の勲章”ということらしい。(何か間違っているような気もするが)
「それじゃ、いつか友達になって、お付き合い〜ってことになるのかな?」
「さぁ、それはどうかな」
「……ネスが珍しく、女の子に好感が持てるって言うくらいだもの。 結構イイ所まで行くんじゃない?」
少しばかりむっとしているように告げるに、ネスティは目を丸くした。
「?」
「な、何よ」
「……顔が赤いぞ」
「そ、そそそそそそそれは錯覚! 目の錯覚よ! いや、暑いのよ、気候が!」
「今日はずいぶん涼しいが」
「あたしには暑いの! もうメラメラのゴウゴウよ!!」
”あー!冷たいオレンジジュースがちょうどいいわぁー!”などとストローでズゾーッ!と一気に吸い上げる
に、ネスティは、小さく声をもらして笑った。
なんというか彼女は本当にめちゃくちゃな人種なのだが、気を緩めることが苦手なネスティにとっては、何とも居心地の良い空間を作り上げてしまう。
「まぁ、彼女とそうなることはまず有り得ないがな」
「……へ?」
「二度目もちゃんと断ったうえで、友人になったんだ」
「…へ、へぇ、そうなんだ〜」
「それに僕に好きな人がいるとあっさり見抜かれてしまっていたし」
「ふーん、好きな人……へ!? いるの!?!」
驚きに目を見開く に、ネスティははぁーっとため息を吐いた。
彼女でさえだと一発で当ててしまったのに、当の本人がこうもさっぱりだとは。
「…まぁ、ゆっくり攻略して行くさ」
「こ、攻略?! あんたがそういうとえらくサディストな感じがしてしょうがないわ…落ち着けネスティ!」
「(君が落ち着け) …ところで、さでぃすとって何だ?」
「あ、すいませーん、レモンティーのホットくださーい」
「君が好きだ」
そう言えたとき、その言葉は確実に近しい世界の言葉になるだろう