事の始まりは、蕎麦処<あかなべ>で月見蕎麦を食べている最中だった。
それは些細な世間話だった。
話し上手で聞き上手なこの人との、変哲もない世間話だった。
……しかしその内容はあたしにとって少しだけ衝撃的なもので、思わず、食べることも忘れて間抜けな声が飛び出した。
「え゛、ウソ。
それ本当シオン大将?」
「絶対にないとは言い切れませんが…ですがリィンバウムにはそういった習慣がないようです」
低く、落ち着いた男の人の声が、意外だったと言わんばかりの声音を混ぜて言葉をつむぐ。
一方、あまりの驚きに思わず蕎麦を持ち上げた箸をとめて、あたしは物腰穏やかな蕎麦屋の店主の顔を見た―――彼の名はシオン。
聖王都ゼラムにシルターン式の風体の蕎麦処をかまえる店の主だ。
悟りを開いたように妙に落ち着いたその佇まいは、知らず知らずに人を安堵させてしまうほど、どこまでも穏やかなものを感じる。 長い黒髪は真っ直ぐに落ちて肩を流れ、三十路過ぎとは思えないほど若々しいその相貌を飾る細い糸目は微笑んでいるように見える。
……実際、彼の口元は苦笑するように緩んでいた。
「実際に、私もまだこちらの世界であの道具を見かけたことがありませんし」
「ええぇぇぇ!? ウッソ…!
そりゃ確かに、やらなくても死にはしないだろうけどさ…」
「確かに、死ぬことはないですが」
本気で驚いてしまった。
なんてことなの。
世界って広すぎるわなどと軽いカルチャーショックを受けながらも”おかわり”と渋い緑の湯のみを差し出せば、シオン大将はやわらかく頷いて、注ぎ口から湯気が上り立つ急須を傾け、温かいお茶を注ぎ食事を再開するあたしの傍らにそれを添えた。
いやー、大将のお茶ってほんと美味しいのよね〜。
美しきかな和の心…っていうか。
「ってことは、マグナもトリスもネスもルヴァイドもみーんな経験したことがないってこと?」
「記憶のないケイナさんはともかく、カザミネさんやカイナさんはおありかと。 あなたと同じ世界のレナードさんは…?」
「うーん、どうだろ。 レナードはあたしと住んでる国が違うから、あるんだかないんだか…」
そこでふと思い浮かぶのは、愛らしい女の子の姿。
彼女の艶ある黒髪から伸びたウサ耳…もとい狐耳に、あたしは首をかしげて茶をすする。
「ハサハはどうかな〜…狐だからそんな経験はないかな〜」
「一応は彼女も物の怪の一種に入りますからね」
「うん、まぁそこは納得できるけど―――そういえば最近、ネスがやばいと思うのよ」
「おやおや……若いうちになってしまうと大変ですよ」
そこで再び思い浮かぶは、神経質そうな面を持つ青年召喚師。
融機人である彼はただでさえ病気に対して免疫力の低い人だというのに、彼自身もまたことごとく健康運に恵まれていなかった。 悪くなるのは目と舌(味オンチ)だけにしておけといいたい。
「よければ、差し上げましょうか?」
「え、いいの?」
和柄の細長い小袋にソレを入れて、シオン大将はあたしに差し出す。
「ええ。
私にはまだ今まで使っていたものがありますし、予備として置いていただけですから」
「うわ、やったー! ありがと大将!
これでネスを助けられるわっ」
お茶を綺麗に飲み終えて。
蕎麦も綺麗に食べ終えて。
”ご馳走様でした”と両手を合わせて大将に軽いお辞儀を向けてから、大将からそれを受け取るとあたしは席を立った。
「せっかくですから、ネスティさんをうんと驚かせてみては?」
「モチそのつもりっ。
それじゃ、ごちそうさまーっ」
「またのお越しをお待ちしてますよ」
穏やかな微笑みに見送られ、あたしは機嫌よく<あかなべ>を出て行った。
―――…一体、何だというのだろう。
蒼の派閥の召喚師の一人であるネスティ・バスクは、自分の部屋の前で呻いた。
この扉の向こうは、ジラール邸で割り当てられたネスティの部屋だ。 だが、その部屋の中で待っているであろう少女の行動の意味と真意を何度考えてみても、彼には全く読めなかった。 回転の速い頭脳を持っていても、今このときばかりは見事な空回りばかりである。
(…一体、何の用があるというのか)
夕食のあとで、二人きりで、ネスティの部屋で会おうと言われた。
そう告げた顔はひどく上機嫌で―――しかしその裏には彼女の企みがしっかりと根付いていると、ネスティらしくもなく本能的に確信してしまった。
だからこそ何らかの被害をこうむる前に、その行動の意図を探る。
耳を掻き、何度も何度も考える―――けれど、本当に空振るばかりだ。
「……、はぁ」
ネスティは静かに、溜息を吐く。
―――いつもそうだ。 彼女はネスティを悩ませる。
仲間であるは、感情は顔に出てわかりやすく、直情的なタイプだ。 走り出す彼女の行く先はある程度までなら推測できる。 だが。
(妙なことを考えていなければいいんだがな…)
しかし推測できるのは、走っている彼女ならの話。
さすがのネスティも彼女の走り出す寸前のタイミングまでは計れない。 何がどうなって、どうしてそうしようと思うのか。
そんな考えがまるで理解できず、読めない。
何故ならが目指す先のほとんどが理論を置き去りなのだ。 行動を起こす寸前に、本能的に選択して走り出す。 理論や理由を先にたてて物事を考えるネスティにはそれを理解することは本当に難しかった。
そんな部分が煩わしく、けれどそんな身軽さを羨ましいと思うときはあるのだが。
(……覚悟を決めるしかないか)
遊ばれるなら関わることなくすぐに部屋から出ればいい。
それ以外のことなら、そのときに考えればいい。
観念したように腹をくくって、ネスティは自分の部屋をノックした。
扉の向こうから、「はーい」との答える声が聞こえる。 その声からもやはり機嫌の良さがにじみ出ている……声に思わず、ネスティはうんざりと顔を歪めた。
―――やはり断れば良かった。 機嫌が良すぎて逆に怖い。
「いやー、待ってたのよ〜。 ささ、入って入って…」
「入っても何も、ここは僕の部屋だが?」
「気にしない気にしない」
フレアスカートの裾をひらりと翻し、和柄の小さな袋を片手にはネスティのベッドに座り込む。
警戒しながら彼女の後に続いて部屋に入り、座り込んだ彼女を見下ろすと、は歯を見せながらにんまりと笑って隣のスペースを叩いた。 どうやら”座れ”ということらしいが…。
「………君が何をするのか、手の平を見せてから従うかどうかを考えるよ」
「え、なんかものすごくネガティブな方向に進んでる? 失敬ねー。 あたしはネスによかれと思ってですね……」
「そのよかれが僕のためになるか疑わしいがな」
やや呆れながらそう言ってやれば、の顔が不満気に歪む。
「いやもうコレは絶対ネスのためになるって。 ものっそいタメになる。 寧ろ今あたしを信じないとネスの将来が大ピンチ。 ただでさえ目と舌が悪い状態なんだからせめて耳の進行だけは防いでおかないと」
「(失礼なのは君だ)――? 君は何を言ってるんだ」
「ネスに耳掃除してあげる」
それを告げるとはにんまりと笑って袋から細い棒を取り出た。
――見慣れぬ物体に思わず、ネスティの眉間にシワが寄った。
彼女の持つソレは、先端部分が小さなサジ型になっており、もう片方の先端には白くふわふわとした毛玉がついている。
ソレはリィンバウムでは見たことがない。 彼女が言った「耳掃除」という単語から、耳を掃除する道具だということはわかる…が。
「何のマネだ」
「あ、そんな警戒しなくても大丈夫。 こっちのサジ型部分で耳をほじくって、トドメはこの白い毛玉…もとい、凡天(ぼんてん)で耳の粉をスッキリ! そしてクリーン! にするという素晴らしい役割を持つ道具で、これでネスの耳を掃除してあげようと」
「―――謹んで辞退させていただく」
何故か嬉々として説明をするに無感情な声でそれを告げ、回れ右をして出口に向かう。
人間に限らず融機人も、身を守る引き際くらいは心得ている。
「いやいやいや! そんな遠慮しなくっていいって!」
「遠慮する。 ただでさえ耳にそれを入れるという要素に驚いているのに、そんな先端の細い物で君に耳をいじられるのは自分から難聴になろうとしているようなものじゃないか」
「眼鏡叩き割るわよあんた」
行かせまいと外套を掴んでいるの顔が、ますます不満そうなものになる。
しかし頑ななネスティの拒否っぷりについには、はぁと溜息を吐いて降参したように両手を挙げた。
「わかったわかった。 あたしはただネスが心配だっただけ。 最近よく耳をかゆそうに掻いてるし、聞き取りにくいことがあるって言ってたじゃない?」
「…ああ、そういうえばそんなことも」
よく覚えていたな、とを見下ろす。
ネスティでさえ忘れていた他愛ない会話だったが、まさか覚えていたとは。
「最初は何かの病気かと思ったけど、まさかリィンバウムに耳掃除っていうモノがないなんて思わなかったから」
「それで、ソレか」
「これ耳かきっていうんだけど、これでちょっとほじくると耳もすっきりするのよ〜。
シルターンには耳掃除っていうものがあったらしくて、これはシオン大将にもらったものなんだけど」
蕎麦屋の店主・シオンの名前が出て、神経質そうな色を持つ彼の整った顔が歪んだ。
―――彼女と彼が親しいということは知っていたし、<名もなき世界>から召喚されたとシルターンから召喚されたシオンに共通した部分があっただけだというのに、何故か。
(…不快だ)
不快というより、苛立ちか。
そんなものが胸に浮かんだことに内心首を傾げたが、はネスティを見上げて。
「ね、ね、一回でいいからやってみない? ネス、ただでさえ健康運の少ない星の下に生まれてきてるんだから、健康になるための努力はしなくちゃ」
「僕が病気に弱いのは、融機人の体にリィンバウムの疾病に対する免疫がないせいだが」
ネスティは純粋な人間ではない。
彼の祖先は機界ロレイラルで生きた融機人(ベイガー)。
それは機械文明を異常発達をさせたその影響で、機械と融合しなければ生き延びる術を持たなかった人型種族である。
現在最後の一人ではないかと囁かれているネスティはその血と肉を受け継いでいる末裔で、彼もまた融機人のそれに当てはまる。
機界ロレイラルで生きた融機人は、他界であるリィンバウムの疾病に免疫がない。
彼が所属する<蒼の派閥>のみが生成できる薬を定期的に受けなければ、風邪をひくだけで命に関わる。
―――だからこそ、ネスティは<蒼の派閥>に逆らえない。
義父のラウルを嫉み、マグナとトリスを忌み嫌うフリップ・グレイメンに逆らえない。
(……、吐き気がする)
嫉みと蔑むことにしか頭にない男の存在を思い出し、心の中で吐き捨てた。
―――逆らえない自分はもっと、吐き気がこみ上げる。
「うーん、ネスの場合はそれだけじゃない気がするけどなー」
一方、は首をかしげながら、ネスティの腕を引く。
「いやいやとりあえずやってみようよ。 折角ネスのために貰ってきたんだからやってみようよ。 一回やるとハマるから。 すごく気持ちいいから。 これでアナタもミミカキスト」
「―――君の言うことはいつも理解しかねるが、僕のためという気遣いには感謝しよう。
……だが今日それを初めて見た僕がそれをするにしても、危ないじゃないか」
「だからあたしがやってあげるって言ってるじゃない」
があっさりとそれを言って、ベッドにすとんと腰をおろす。
そして彼女の隣のスペースをぽんと叩き、その次にぽんぽんと自分の膝を叩き。
「さぁ、来い!」
「君は馬鹿か」
隣のスペースを叩くということは、”隣に座れ”という意味だ。
しかしが自分の膝まで叩くということは、”その膝に頭を預けて横になれ”という意味が伝わってきて、さすがのネスティも呆れが極まりそれ以外の言葉が出てこなかった。
「あんた最近ひどくない?」
「友人とはいえ男が頭を簡単に、女の子の膝に預けるわけにはいかないだろう」
「いいじゃん別に膝枕くらい」
「………」
無防備。 を通り越して考えなしと言うべきか。
それとも男として意識をされていないのか、その辺りなのだろうが。
(別に、意識されていなくても良いが)
それを考えたら、またもや不快な心地になった。
不快というより、やはり苛立ち。 それは出所がわからず不可解なもので余計にむしゃくしゃしてくる。
のんきな声で「結構ハマるよ〜?」と耳かきの凡天を触っているを思わず一睨みして、わざと怒ったように、その隣に座った。
……何故自分ばかりがこんなにも意識しているのか。 馬鹿馬鹿しい。さっさと終わらせてデグレアに関する資料でも探したほうがよほど効率的だ。
「…大丈夫なんだろうな」
「ネスが動かなかったら下手なことしないわよ。 本当に危ないから動かないでよ? 鼓膜破れたら、アメルの奇跡頼みか病院行きなんだから」
あっけらかんと恐ろしいことを言ってのける彼女に思わず頬が引きつってしまったが、渋々と、その膝に頭を預けた――「あ、眼鏡はずすね」と、鈴のような声が耳に届いて、今度は顔が引きつった。
まずい。 どんどん彼女のペースに巻き込まれている。
「怖くないよー?」
「…子供じゃないんだ、あやさなくていい」
眼鏡がやさしく取り払われて、視界が途端に悪くなる。
の顔さえ、見えない。 けれど、眼鏡を外したネスティの左耳と頬に、やわらかい彼女の腿の感触と、体温が思った以上にダイレクトに伝わって今度は体が強張った。
それに気がついたが不思議そうにネスティを見下ろして問う。
「どうしたの?」
「…なんでもない」
「――耳、真っ赤だけど」
「?! っ、君のせいだろうっ」
「はいはいごめんなさいね〜、まさか膝枕ぐらいで緊張されるとは思わなくて。
でもま、そのうち気にならなくなるから」
細い指が、ネスティの黒髪をさらりと撫でて耳を探る。
いつも以上に他人の温度が伝わる…そういえば、膝枕というものをされたのは初めてではないか?
そのことに気がつくとますます体が強張るが、髪を撫でている手に自然と、ネスティを縛るものが解れていく。
「でも本当に耳掃除ってものがないのねー。
あの人もこの人も耳に色々と物を溜めて生きていたなんて…衝撃だわ…」
「世界が違うんだ。 仕方がないだろう」
「あたしの知らないことなんてきっと、まだまだあるんでしょうねー」
他愛ない話が続くうち、すっかり身を任せてしまっていた。
耳かきを耳に入れられたときはさすがに緊張が戻ってきたが、その奇妙な感覚に慣れると、少しずつ、気持ち良いものとなってきたので驚いた。
(…他人の体温が、近い)
それは、嫌悪の対象でしかなかったはずなのに。
他人に触れられることすら、不快で、気持ち悪かったはずなのに。
(…きもちが、いいな…)
の手がやさしいからだろうか。
それとも膝枕が良かったのか。 耳かきが良かったのか。 鈍くなる思考では判断がつけられない。
マグナやトリスに見せられない姿だが、心地が良いのは確かだった。
「お客さんどうですかー?」
「…意外と、気持ちがいいな」
「ネスも今日からミミカキスト〜♪」
「何だその歌は…」
…彼女は相変わらず訳がわからない。
だがこうしていると安らぐのは確かで、自然と、瞼が落ちる。
近くにある商店街の人々のざわめきが少し遠いことがまた、心地よい。
客間にいるであろうトリスとマグナと、彼らの護衛獣やアメルの声が聞こえてくる――大きな声で、笑っている。(その中でフォルテの悲鳴も聞こえるが、ケイナに殴られたようだ)
「では凡天いっきまーす」
「うわっ」
唐突に、耳に毛玉が突っ込まれた。
耳の中いっぱいに広がる質量の感覚に驚いて眠気が吹っ飛んだが、はかまわずそれを動かす。
「な、何とも言えない感覚だ…ごわごわするぞ」
「こうやって耳粉取って、はい終了〜」
しばし思考することから解放されて重くなった頭を上げて、身を起こす。
そこで左耳がずいぶんとすっきりとしていたことに気がついた。 不思議そうに耳を触るネスティの反応には満足げに頷いて、「日本人をナメちゃいかんよ〜」と言っているが相変わらず訳が分からないので聞き流すことにする。
「それじゃ次は右耳」
「ああ…」
体の向きを変えて彼女の言われるままに右耳を差し出そうとして――そこで、ぎしりと動きが止まった。
次いで、俯いて――から顔を背け。
「……右は、いい」
「は?」
”何を言ってるんだ?”と言わんばかりの、彼女の間の抜けた声に自分でもおかしな事を言っているとわかっている。
しかしさすがに、右耳はまずい。
男として、の友人として色々と躊躇するものがある。 特別
「今更何を遠慮してんの?」
「――君がどう言おうと、さすがに右は断らせてもらう」
「何で?」
目を丸くするに、ネスティはうんざりとした表情で前髪を掻き上げた。
「……君は本当に、慎みというものがごっそりと欠けてるな…」
「眼鏡がフッ飛ぶほど殴られたい?」
引きつった笑みを浮かべたが拳を握る。
思わずネスティも防御に身構えるが、身構えるネスティを見るとはひとつ、溜息を吐いて。(溜息を吐きたいのはこちらのほうだが)
「あたしだってそこまで考えナシじゃないわよ。 ちゃーんと考えてます」
「……何を?」
「…あー、いや、どうやったら女としてみてもらえるかなーって」
…………。
「すまない、どうやら本格的に難聴になったようだ」
「エエエエェェェッ?! ちょっ、人の告白を聞き流さなくてもいいじゃないっ!」
ネスティの腕を掴んで慌てるに、思わず唖然としてしまった。
今のが聞き違いでなければ、彼女がネスティに好意を持っているのだということになる。
友人としての好意でないことは、異性を意識してもらいたいという願いを聞けば明らかだ。
―――急激にこみ上げてくるものを必死に呑み込んで、掴んでくる腕を解く。
「…ふざけるものいい加減にしてくれ、」
「本気よ」
「僕は人間じゃない。 それに僕は、長生きも出来ない」
「だから考えてるんじゃないっ、どうやってネスが元気になってくれるんだろうとか」
泣きそうな顔で言われてしまって、激しい動揺に頭をがつんと殴られたような錯覚に陥った。
あんな顔ははじめてみた。 予想外にかわい…いやいや、なにを言っているんだ………その前に、考えた結果があの耳掃除とはどういうことだ。
「…僕のこれは、血と肉に関係していて耳はあまり関係がないんだが…」
「いやいや、ささやかな努力で続く健康ってのものあるし」
そこでが俯いて、小さく笑う。
「ネスが好きよ」
「っ」
「長生きが出来ないなんて言わないでよ。
ネスには元気で、長生きして、最期には笑って死んでほしい」
「―――」
それは、当たり前の言葉だ。
当たり前だ。
健康。 長生き。 老衰で死ぬ。
それは誰もが漠然と抱く、自分の最期。
しかし常に病や薬に縛られて生きる人間は、そうはいかない。
いつ最期が訪れるかわからない。
それは誰もがそうだろう。
だが病んでいると自覚をしている人間には、漠然と抱く老衰の時はない。
今すぐ死ぬか。 若くして死ぬか。 ある程度老いて死ぬか。
ネスティにはそのどれかの想像しか出来ない。
―――実際、自分が言ったとおりにネスティ自身もそう長くは生きられないだろう。
機械と融合して生きながらえているこの人の肉はもともと、長生きができないものだ。
出来る可能性のほうが果てしなく少ない。 <蒼の派閥>が薬の生成をやめてしまえば、それは確実になる。
これから<蒼の派閥>がどう動くか、どうなるかもわからない。
デグレアに追われる自分たちがどうなるかわからない。 わからない中で、いつ、免疫のない病で死にいくかわからない。
”ネスには元気で、長生きして、最期には笑って死んでほしい”
皮肉にも聞こえるその言葉は、不快にさせる忌々しい毒だ。
不快だ。 不愉快だ。
そんなことを願う彼女にも。
彼女の願いが叶えられない自分にも。
「…、だが」
無理なのだ。
無理だった。
所詮それは、この世界の病にある程度耐えられる人間の言葉だ。
―――けれど同時に、それは何よりの憧れだった。
苦しみの中で死ぬことを課せられた人間に、健康で生き続けることは憧れだった。
そこに行き着いて、言葉に思わず、自嘲が混じる。
「無理なんだ、」
「…」
「笑って死ねる人間なんて、この世にはいない」
皮肉にも聞こえるその言葉は、不快にさせる忌々しい毒だ。
不快だ。 不愉快だ。
そんなことを願う彼女にも。
彼女の願いが叶えられない自分にも。
叶わぬと知っているからこそ、それは毒。
叶わぬと知っているからこそ、それは憧れ。
他者に頼らなければこの世界で生きてはいけないネスティにとって、この旅がどんな結末になろうと、やはり毒で、憧れのままなのだ。
―――ネスティの言葉を最後に、その場に満ちるのは沈黙だ。
昼のゼラムのざわめきはひどく遠く、仲間たちの声も遠い。 ネスティは俯いたままだったから、昼間の明るさは黒髪にさえぎられ、掴んでくれていた彼女の手しか見えない。
なのに。
「じゃあ、なおさらだわ」
明るい声が、耳を通る。
「そこまで絶望的なら、ネスの傍にいて、もっと色んな健康方法教えてあげなきゃね」
「?」
「ネスの言うとおり、笑って死ねる人が本当に少ないと思う。
死にたくないと泣いて叫ぶ人もいて、死んだことすらも知らないまま死ぬ人もいて、本当は、笑って死ぬ人なんてどこにもいないかも」
言っている内容がまったくバラバラで、要領を得ない。
並べることも説明することもなく頭に思い浮かぶ想いと言葉を次々と口から出しているのか、組み立てて理解するには一苦労だ。
けれど彼女の声は、明るい。
「―――、何を」
「あたしのこと嫌い?」
「なっ」
「そうじゃないなら諦めないわよ。 もしかしたらもうちょっとで人間になる奇跡だって起こるかもしれないし、起こらなかったらまたそのときに考えればいいし」
何がおかしいのか、くすくすと笑うそれにネスティはただただ、呆然とするだけだ。
人間になる? 彼女は一体何を言っているんだ??
「嫌いじゃないなら一緒にいていいでしょ?」
「何を言っているんだ、君は」
「あたしはネスに長生きして、笑って死んでほしいわけ。
だからその分色んなことを試すつもりなんだけど、それが駄目でも、いつかネスが死にそうになったときに”全く役に立たなかったじゃないか”って、笑ってほしいよ」
「――― ……」
開いた口が塞がらなかった。
ただぱくぱくと、間抜けな醜態を晒してしまえば、の手がそろりと伸ばされる。
男とは違う、白い指がネスティの冷たい手を握る。
「ネスが好き」
「っ」
「傍にいちゃだめ?」
聞くな。
そんなことを、聞くな。 その問いに答えることは、拷問に近い。
何故そんなことを言う。 自分で言うのもなんだが、自分のどこが良いのかまるでわからない。
理解できない。 何もかもが置き去りにされて事が進んでしまう……。
(……いまさら、じゃないか)
何故ならが目指す先のほとんどが、理論を置き去りなのだから。
置き去りにして、本能的に走り出す。
そんな部分が煩わしく、けれどそんな身軽さを羨ましいと思っていた。
俯いたままのネスティを、が覗き込むようにして問う。
「ネス、泣いてる?」
「泣くわけがないだろう」
「迷惑?」
「迷惑だ」
拒絶の言葉に、の手の力がそろりと抜けて、遠ざかる。
ぬくもりが遠ざかる――けれどそれをしっかりと握り返して、驚きの声をこぼす彼女の顔を正面から見据えた。 ガラスの向こうに見えるそれは、目を見開いたの顔。
「君を置いて、―――簡単に死ねなくなった」
呟いて浮かんだものは、自分でも驚くほどの穏やかな笑みだった。
は何度か目を瞬かせたあとで、「やった!」と声を上げてネスティの首にしがみついてきた。
「うわっ」
「あー緊張した! すっごい緊張した! あのねぇ、迷惑だなんてややこしいこと言わないでよ。
フラれたと思ったじゃないの」
「迷惑なのは本当だ。 …まったく、どう長生きしていけばいいのやら」
努力云々でどうにかなるとも思えないが、短命で終わるようなことはしたくない。
こんな体だからこそ生きたいと思うのだ。
もう少しの間、彼女を抱きしめて生きたい。
「それをこれから考えていけばいいのよ。 努力してみましょう。 ほんと、もしかしたらすっごい奇跡あるかも……」
「………君の言う奇跡が妙に意味深に聞こえて仕方がないんだが」
「あはは、そこは聞き流してちょうだい」
何がおかしいのか、耳に、笑い声が届く。
それに追求しても無駄だと悟ると、ネスティはの体を離してため息を吐いた。
「君は本当に、よくわからない人だな」
「失敬ねー…、まぁいいわ。 ほら、耳掃除再開。 今度は右耳よー」
「わかったわかった…」
何もかもを諦めて観念して、ネスティは彼女の膝に頭を預ける。
は嬉しそうに髪を撫でると、「すっごくうれしいー!」と身をかがめてネスティの頭を抱きしめた。
「こ、こらっ」
「あ、ごめんごめん。 感極まってつい」
だから、そんなかわいいことを言わないで欲しい。
あと急に抱きつくのは、理性がぶれるからやめてほしい。
どんなにたしなめてもやっぱり嬉しそうに目を細めてネスティを見下ろしてくるので、妙に気恥ずかしくもなったが、咳払いをしてこの空気を払うと、彼女の頬に手を伸ばした。
知らない人間でもないし、何度も感じたことのある体温だというのに、伝わる熱にまた緊張した。
「なに?」
「―――君も、長生きするんだぞ」
「了解」
笑って君と生きられたら、どんな最期も