相変わらず緑が多いお屋敷だなぁと、はバスク邸を見上げた。
長いようで短かったような冬も終わり、その間に石畳を覆って降り積もっていた雪はすっかり溶けて、ようやくちょっと薄着でもいられるような、そんな春の半ばの気候迎えた聖王都。
穏やかな日差しの下に佇むバスク邸は、緑に溢れていた。
いや、緑というよりは、色に溢れているといったほうがいいかもしれない。
そう、色の洪水のようだ。 客を迎える玄関口にも、使用人たちがこっそりと出入りする裏口にも、外部の侵入者を拒むような柵にも、見渡す限り、色。
色。 色…。
共にバスク邸を訪れていたロッカもまた、色と花の多さにぽかんとしていた。
「…なんていうか、増えましたね」
「…あたしの気のせいではなかったみたいね…」
緑の多さは、周りの高級住宅街を抜いてここは特にすごいのだと有名だ。
……しかし今年は、去年よりも花が咲き乱れているような気がする。
バスク家の当主であるラウル・バスクは植物を扱うことが好きだと知ってはいるが、それを趣味だけでなく、人々の役にたてるようにと薬草や珍しい植物を研究していて、決して、花をつけるものだけを研究していたわけではなかったような気がするが―――?
そこまで考えて、”趣旨変えでもしたのだろうか”と顔を上げて、金属で出来た立派な柵の向こうで、キャタツに上り、黙々と庭の樹を刈り取っている庭師に目を向けた。
「ねぇっ、何だか今年、花が多くない?」
「……」
相変わらず、愛想の悪い寡黙な庭師だ。
何度もここを訪れているからの顔を知っているはずなのに、ちらりと目を向けただけで、大きな断ち切りバサミを慣れたように操って無粋に伸びている枝をジョキンと切り落としていく。
庭師の手の中でハサミが元の形に収まるたびに、ぼさっと、枝が落ちていくそれに、むうっと頬を膨らませるにロッカは苦笑して彼女を宥めた。
「お仕事中で邪魔をしても悪いですし、他の人にさんを呼んでもらいましょう」
「そうね、任務中で年明けの挨拶も出来なかったし」
の名前を出して初めて、庭師がとロッカにしっかりと目を向けた。
……もしかして、何度も訪れている自分達の顔を本当に覚えていなかったのだろうかと庭師の将来を危惧してしまったが、庭師はゆるりと唇を動かす。
「………あんた達、奥方様に御用か」
「…おくがたさま?」
誰だ。
思わずロッカと顔を見合わせても、ロッカも知りませんと首を横に振る。
の名前を出して反応した庭師の口から、<奥方>。
奥方とは、そのままの通り、奥さんである。
バスク邸の、奥方―――ッ!??!?!
「え、まさか?」
「とラウル師範が結婚したってことーーーーーーーーー!?!?」
「そんなわけがないだろうっ!」
錯乱するかのように頭を抱えて叫ぶに全力で否定をいれたのは、玄関先から姿を現したネスティ・バスクだ。
表が妙に騒がしいと思ったら…とブツブツ呟きながらでの登場だが、しかし今は怒りの念を放出しているのか、とロッカを見据える瞳が氷河期並に厳しい。 まさにブリザードと呼ぶべきか。
だが相変わらず元気そうで何よりだと判断しておこう。 眼光が鋭いが無視だ。
そんなネスティの背後では、玄関の扉に身体を預け、腹を抱えて扉をどんどん叩いているの姿もあり、この二人の仲もやはり相変わらずのようだ。
「ね、ネスティさん、さん、お久しぶりです」
「ああ…しかし、人の家の前でとんでもなく不愉快な叫びが聞こえたような気がするのだが」
「気のせいよ」
「真顔で言うな…もいつまで笑っているんだ」
「だって、だって、師範とあたしが…あっはっはっはっ!」
ネスティがの頭を鷲掴みにして笑いを止めるが、は目尻に涙を浮かべながらたちを出迎えた。
…相当彼女のツボに入ったのか、時折引きつった笑いが零れる。
「二人とも久しぶり〜、元気にしてた?」
「もちろん…ところで、庭師さんに聞いたんだけど奥方様ってどういうこと?」
「いやー、そりゃ驚くわよねぇ」
「結婚したんですか?」
ロッカの言葉に、ネスティが目を見張った。
瞬間的に白い肌に朱が差すのだが(珍しい!)、それをあっさりと笑い飛ばしたのはだ。
「いやあ、あっはっはっは。 そんな話全然出てこないから」
「(奥手は健在のようね…)それじゃ奥方っていうのは?」
「あー、それは皆が最近になって呼び始めて。 それはやめてってどんなに言っても爽やかに呼ばれちゃうから諦めたのよ、何でかしらねえ? それより破局したらどうするんだか」
「な、縁起でもないことを言うんじゃないっ」
ぺしっとの後頭部を軽く叩くネスティの背を見てから、とロッカは違いにちらりと顔を合わせて―――何となく、互いに思っていることが通じ合ったことを理解する。
まず、<火のないところに煙は立たぬ>。
そんな言葉があるとおり、が最近になって呼ばれる「奥方様」のキーワードは、皆が悪戯や期待を込めて言っているわけでもない。
ここの当主は穏やかで上下関係に寛容だが、仮にも雇い主である当主の息子の恋人なのだからそんな無礼なことはしないだろう…つまり、自然と出所は<当主とその息子から>ということになる。
その二人の間に何かがあって(何となく予想がつく、たぶん結婚したいのだと色々と話でもしたのだろう)、それを喜んだ当主がにその名で呼ばれることに慣れてもらおうと、全員にこっそりと命じたならば……? あぁ、その光景が目に浮かぶようだ。 息子を目に入れても痛くないと胸を張って言ってしまいそうな、優しい当主の最高の笑顔も。
「…大変ねー、ネスティ」
「頑張ってください、ネスティさん」
ロッカとが、同時に肩をぽんと叩いた。
彼は他人との接触と過剰なまでに嫌うことを知っているのでそれを払い除けられると思っていたが、それは振り払われることはなく。
「…気長にやるさ」
自分の不甲斐なさが相当堪えているのかネスティはそのまま深く、深くため息を吐く。
哀愁に似たものが彼の背後に見えるのだが(なんてかわいそうな…!)、それは気のせいではないだろう……しかし、もう一つ、気になることがある。
「あのさ、さっきから気になってたんだけど」
「何だ」
「花、増えてない? しかも大増量のほうで」
「ああ、それか」
見渡す限り、色の洪水。
それは呑まれそうなほど眩く、しかし花の香りは不快にはならない。
それどころではない。
ただ、色が、あまりにも多くて、深くて―――圧倒される。
「僕がに贈った」
「(あのネスティが贈り物…?!)ていうかこんなに多いと世話が大変じゃない、雑草抜きとか」
「わかってる、でも」
「…?」
ネスティの瞳の光が、柔らかく灯る。
今までで、見たことがないほどまでの、柔らかで、温かな。
「…好きだと、言ってくれるんだ」
花を育ててみよう思ったのだと、あの冬の夜に彼女は言っていた
春に咲くのが楽しみだと、笑っていた
―――正直。 ネスティ自身にはあまり興味がない
花は花屋に行けば、とても美しいままに買える
花はこの付近を歩けば、いや、どこを歩いても見られる
花は、生きることにそれほど必要だとは思わない
豊富な木々と緑があれば生きるための酸素は作れる
野菜や果物を必要とすることがあっても、花は簡単に食べることができない
では花に何を望む?――― 美しさ。 観賞の癒し。 祝事のための贈答物。
それだけだった、はずなのだ。
―――温かな春風が、とネスティの頬をふわりと撫でた。
それにウェーブのかかった髪をさわらせながら少し向こうを見やれば、とロッカは庭師と会話を弾ませて、楽しそうに笑い合っている。 特にロッカは新しくなったレルム村のことも話して、と庭師はその話に何度も相槌を打っては、ようやく再建された友人の村が平穏に過ごせていることを嬉しそうに頷いている。
それをぼんやりと眺めながら、は呟いた。
「…でも、それだけじゃなかったでしょ」
「……」
「花は、世話が面倒で、育て方を間違えれば一時しか生きられなくて、醜く枯れて、あとは土に還るだけ―――でも、本当はそれだけじゃないって分かったからにあげたんでしょ」
それだけでは、ない
それだけでは、なかった
花も、酸素を作り出す
花も、枯れれば別の生命の栄養になる
贈られて、嬉しい
育てる過程が、楽しい
だから花や緑は、世界に溢れている
それと同じで
喜ぶ顔が、嬉しくて
量に呆れる顔が、可笑しくて
もういいよ!と叫んでいるのに、最後には苦笑して笑うんだ
笑って、”馬鹿だね”と
”でも、ありがとう”と花を抱きしめる細い両腕
―――それが嬉しくてたまらなかったんだ
「ネスティってさ」
「何だ」
「がいなくちゃ生きていけないって言い出しそうで、ヤバイ」
「君もロッカがいないと駄目なんだろう」
「それじゃ、あたし達はダメ同士ってことで」
「同感だ」
「滅んだけど、悪魔に感謝」
「複雑だがな」
祖先よ。
悪魔よ。
感謝を。
かつては憎く、滅びてしまえと望んだ世界よ。
このままでいさせてくれるなら、永遠に感謝し続けよう。
世界よ。
ありがとう。