静かに。 密やかに。
規則的に繰り返される呼吸音。
それは、ため息を吐いてしまうほどまでに美しい寝顔だった。
「いやー…、なんちゅーか……お美しいわぁ〜」
ソファの背もたれに身体を預けている青年の寝顔に思わず、素直な賛辞が口から零れてしまった。
けれども眠りが深いのか、賛辞を向けられた相手は長い睫毛をぴくりとも震わせる事もなく昏々と眠り続けている…うーん、ビューティーだわイオス。 ほんと美しい。
「ね、ね、ルヴァイドもそう思うでしょ?」
「…は?」
「いや、は?じゃなくて」
「…男に美しいと言ってもな」
食い入るようにイオスの寝顔を見つめているあたしに苦笑しながらルヴァイドは、イオスが読んでいたものなのか床に落ちている本を拾い上げて足の低いガラステーブルに戻すと。
そして、風邪をひかぬようにとイオスの身体を覆うようにブランケットをかけてやる。
まるでお母さんのようだよルヴァイド。
そんな突っ込みを入れつつ彼が紅茶を飲んでいたらしきティーカップを片付けてからあたしが戻ってくると、ルヴァイドはふと顔を上げて、イオスの寝顔を見つめ。
「よく眠っているな」
「ほんと、疲れてたのかな」
「…気配に敏感なほうだから、いつもはすぐに目を覚ますのだがな」
「そうなの?」
何故?と問いかけるかのように顔を上げてルヴァイドを見上げれば、ルヴァイドはただ静かに目を細めてあたしを見下ろして、くしゃりと髪を撫でてきた。
乱暴なそれではないので痛みはないが、何だか妙に子供扱いされたようでちょっと悔しい気持ちになる。
「何すんの」
「…お前には、本当に感謝している」
「へ?」
間の抜けたような声で首を傾げれば、ルヴァイドは涼しい目元を僅かに伏せて低く笑ったあと、壁にかかった銀色の時計を見て「少し出掛けてくる」と告げてから、剣がかかった革ベルトを腰に回してリビングを出て行った。
消えていく背に「いってらっしゃーい」と言葉をかけてルヴァイドが出て行った証である扉が閉まる音を耳にしてから、あたしはそっと、イオスの顔を再び覗き込む。
窓から差し込む穏やかな午後の日差しに落ち着いた金色の髪が鮮やかに輝いて、白い肌もまたよりいっそう美しいものへと変化する。 宝物を見つけた子供みたいに、あたしはイオスの寝顔を見続けた。
「…綺麗だなぁ…」
優しい金色の髪をおそるおそると撫でてやる。
けれどもそれでも身じろぎすらせず、本当に疲れてるんだなあともう2、3度ほど頭を撫でてやった―――絹糸のような髪という表現があるが、彼はまさにその通りの髪質だ。
女としては相当悔しい。 恨めしい。 雪国美人とはまさに彼とルヴァイドのことであろう。 恐るべしデグレア。
「…毎日お疲れさま」
彼は今、ルヴァイドとシャムロックとそして新たに出会った仲間達と共に、かつては最大の軍事都市であったデグレアと騎士国家と謳われたトライドラの二つの国を復興させるために奮闘していた。
両国は共に、メルギトスの姦計によって滅ぼされた都市だ。
そしてルヴァイドやシャムロックの故郷でもある……責任感が強いイオスのことだから、きっといつも、限界まで身体を酷使して復興に励んでいるのだろう。
「バカじゃないの」
眉を吊り上げて思わず、そんな言葉が零れていった。
いやもうなんというか、面と向かって文句なんて言えないので、今の機会に言ってしまおう。 何か言ったかと本人が聞いてきても夢じゃない?とあっさりすっとぼけてかわせばどうにかなる。
「―――無理なんかしても、仕方がないのに」
復興なんて一日二日で出来ることでもなしに。
それこそ多くの時間をかけねばならないのだから、イオス一人が一日に人の何倍頑張ったって仕方がないというのに。
「ゆっくりやればいいのよ…時間はこれからも、たくさんあるのだから」
無理して病気になったらどうするんだ、と最後に呟いてから、ブランケットからはみ出ている彼の手に気がついた。
それを見つめて、しばらく思考を巡らせて……周りに人がいないことをそろりと確認してから、おそるおそる、腕を伸ばしてその手を握る。 低体温の体質なのか、繋いだ手から冷やりとしたものが自分の中に伝わるが、それでもほんの少しだけ力を込めて握り締めて。
「…心配させないでよね」
”どうか。 どうか。
一日でも早く彼らに故郷を。”
その気持ちもわかる。
ルヴァイドたちに、愛おしい故郷を一日でも早く取り戻させてやりたい。
その気持ちは自分も同じだ。 違うものなんてない。 何もない。
けれど。
「…イオスのほうが心配なんだからね」
ルヴァイド達には、大変申し訳ないことなのだけれども。
それはごまかしようのない事実。 イオスがとても心配だ……え、だってもう、こんなに美しくて可憐だし。 キャシャーン(華奢)だし。
(いやそれは、建前なんだけど)
可憐や華奢はともかくだ。 心配だということは事実。
誰よりも心配なのだ―――それは何故?
(…健気だなぁ、あたしは。 自分で言うのもどうかと思うけど)
疑問の答えは、特別な感情というものだけで全てが片付いた。
イオスの隣に知らない女の人が立つ度に焦燥に駆られるけれど、今の関係を壊したくなくてそれを伝えることなんて、とても出来なかった。
何かを気負うこともなく、ただ穏やかに、イオスと過ごしていたい。
それが、臆病者のあたしの答え。
(でも横から掻っ攫われたらどうしよう。 それこそ鳶に油揚げをさらわれるようなもんだわ…)
それを思うと、心の奥底がざわりと騒いだ。
その可能性は大有りだ。 世の中、いつ、どこで恋に落ちるかわからない。
一目惚れしたーっていう人だっているんだし、イオスにもそれが当てはまらないとは限らないんだよねぇ…。
そのとき、規則的に秒針を進めている銀色の時計が目に付いて、随分長い時間、イオスの手を握っていることに気がついた。
とても離れがたい。
けれど、ずっと握っていられる立場でもなくて。
だから。
「…もうちょっと、待ってて」
その立場が欲しいから、心の準備に、もう少しだけ待っていて。
もう少しの間だけでいいから、あなたの中に、誰も入れないで。
どうか。
どうか。
うつくしい、あなた。
―――何度か深呼吸をしてから息を詰めて、そろりと、握っていた手をはずした。
離れて残るのはイオスの、槍を握っているために硬くなった掌の感触と、かすかな温もりだけだ。 冷えていた手はあたしの体温によって温められて、彼の手にも温もりが戻っていたらしい。
「え」
けれど離れてからすぐに再び、その感触と温もりがあたしの手を包んだ。
驚きのあまりにぎょっとしてイオスを見やれば、彼はしっかりと目を覚ましていたのか、赤い瞳であたしを見つめて、小さく苦笑している。
「僕はあまり、気が長いほうじゃない」
「え゛」
繋がっている手を強く引かれて、導かれるがままにあたしはイオスの上に倒れこんだ。
突然の事態に内心、悲鳴があがる。
さらには背にイオスの腕が回されたのだから、今度は絶叫があがる。
「あ、ちょ、い、イオス」
「何だ?」
「…いや、そんな素面で「何だ」じゃないよ……寝てたんじゃないの?」
「ルヴァイド様が出て行く音で目が覚めた」
(ルヴァイドォォォォォ!)
あたしの中で、ルヴァイドの名前が木霊した。
なんていうか、こんなに憎らしく思ったのは久しぶりだよルヴァイド。 いや、ルヴァイドが悪いってわけじゃないのはわかってるんだけど。 寧ろやましいことをしてしまったあたしが悪いわけなのですが。
イオスに抱き締められたままガクリと項垂れれば、イオスの小さな笑い声が耳をくすぐった。
それにむっと顔をしかめるも、次には諦めたようにイオスの首に腕を回して、彼の肩に額を押し付ける。
「狸寝入りとは卑怯よ」
「これも一つの戦法だよ」
「戦法ねぇ…」
「君に無理矢理近づけば、君は僕から逃げるだろう?」
あたしの髪に頬を寄せておかしそうに囁くそれに思わず、あたしの耳が熱くなった。
今でも充分逃げたい心境だよ、イオス。
けれど逃がすまいとしっかり抱き締められているものだから、身じろぎするのも精一杯だ。
「…こうして捕まえれば、君は逃げられない」
「あたしゃ小動物か」
「なら僕は肉食動物で」
「ギャーーーーーー! 食われる!」
本気で脅えた表情を浮かべるあたしにイオスはやはり、穏やかな笑顔だ。
彼は何かをすることもなくあたしをしっかり抱き締めて、そのままごろりと横になる。 あたしもイオスの上に覆いかぶさるように倒れて、はたから見ればとんでもない体勢になっていることに内心、絶叫と通り越してもはや失神寸前だ。
「い、い、イオスさんさすがにこれはちょっと(危険な体勢でわ…!)」
「……僕はどれくらい眠っていた?」
あたしの言葉をさらりと無視して、イオスはぽつりと呟いた。
随分と静かな響きのそれに羞恥心は急激に冷めていって、一度ぐるりと思考をめぐらせから「い、一時間くらい?」と答えてやる。
…もっとも、あたしとルヴァイドがこの部屋に集まる前から眠っていたようなので正確な時間は知らないが。
「一時間…そんなに眠ったのか」
「あたしとルヴァイドが来ても全然目を覚まさなかったけど」
「…おかしいな」
「え」
心底不思議がるそれに、あたしは目を丸くしてイオスを見下ろした。
イオスはあたしを視界に入れると、ああと納得したように、とても、とても綺麗な笑みを浮かべて。
「君がいるからか」
「(ブフォッ!) い、いいいやちょっとそれはさすがにありえないというか」
「有り得ないことはないよ」
内心、うろたえまくりのあたしの後頭部を引き寄せて、あたしの顔はイオスの肩に押し付けられた。
完全に、隙間なく密着した形になって失神どころか昇天しそうにもなった。 も、モウダメダ…と半ば虚ろになりかける。
だってこんな、イオスがすぐ傍に…ヒイイイ幸せ過ぎて死ぬ…!
恥ずかしさのあまりに、危うく意識を手放しそうになったが。
「…―――まだ、デグレア軍にいた夜も」
耳元で、秘密事を告げるかのように密やかなそれに引き戻されて、イオスのほうへ目を向けた。
「?」
「君と離れて復興作業をしていた夜も」
「……」
「どんなに疲れて眠っていても…物音一つで、僕は飛び起きていた」
片手に、槍を握り締めて。
―――静かに呟かれた言葉に、あたしは愕然とした。
言葉の意味が脳内に、静かに、どんどん広がって、染みこんで、奥深くにまでにじみこんで…たまらなくなって、ぎゅうっとイオスの首に腕を回して彼の頬に自分の髪を押し付けた。
物音一つで目覚めなければ、彼は死んでしまうのだ。
そんな世界に、彼はいた。
自分には想像できない世界の中に蠢く恐怖に、ぶるっと身を震わせるあたしを宥めるかのように、イオスの手があたしの背をゆっくりと撫でて、あやすように、トントンと一定の間隔で優しく叩く。
そして呆れたようにため息を吐いて。
「もう戦いは終わったとわかってはいるんだけれどな」
「…うん、終わったよ…」
「けれどまだ少し、クセが抜けていないみたいだ」
おかしそうに笑う声が届いて、そこでようやく、あたしの震えは収まった。
何故か、酷く安心した。 笑えることではないのに。
でも笑えるってことは、笑ってすませられることになったということではないだろうか?
「大丈夫なの?」
「ああ。 これでも落ち着いたほうだし、それにマグナ達の仲間になってからはいつもすごく騒がしかったからな…あのときは本当に寝不足になりかけた」
「…そりゃ毎夜が地獄だったわね…言ってくれればギブソンに薬でも頼んでおいたのに」
「確かに。 頼めば良かったかもな」
…こんな体勢なのに何をのん気に話しているんだろうという考えが脳裏に浮かんだけれど、次第にどうでも良くなってきて、温かな日差しにうとうとと眠りの世界に足を突っ込みかけていた。
それに気がついたイオスがあたしを落さないように抱えなおし、床に落としてしまっていたブランケットをあたしの身体を覆うようにかけて。
「でもすぐに、いつもよりずっと深く眠れるようになったよ」
「…なんで…」
問い返した言葉は、寝ぼけて呟いたようなものだった。
だから。
「 」
そのせいで、その答えを聞く前にあたしの意識はコトンと落ちていった。
「―――君がいるんだと思うと、とても安らぐから」
その言葉が、届いたかどうかわからなかったが、イオスは最後まで言い切った。
次いで穏やかな寝息が静かに、そしてゆっくりと、部屋に満ちていく。
満ちていくそれに「届いていないだろうな…」とイオスはため息を吐きながらも、自分の上で眠る彼女の髪をやさしく撫でて、再び天井を仰いで目を伏せた。
そうして訪れるは、穏やかな、優しい眠りの誘い(いざない)だ。
(ああ、やっぱりな)
訪れるそれに、イオスは小さく苦笑した。
彼女の鼓動に、彼女の温もりにはやはり落ち着かなくなるが(それは彼女の事が好きなのだと自覚してからなので、もう随分と前からだったが)。
彼女は、自分にとっては象徴なのだ。
平穏で、安らぎの、憧れの、象徴。
…ルヴァイドやゼルフィルドも、彼女の事をそう思っているかもしれない。
(でも、本当に…君がいると思うと)
安らぐのだ。
自分でも不思議だと思うまでに。
”―――…もうちょっと、待ってて”
彼女の言葉をふいに思い出して、イオスは小さな笑みを口元に浮かべた。
彼女は待てと言っていたが、あんなに心配をされてしまっているのだ。
それに、散々恋焦がれてきた相手にそこまで想われて、待てというほうが、男心に酷ではないか。
「散々、待たされたんだ」と苦笑しながら呟いて、自分の腕の中で眠る少女の頬と、髪を撫でた――…ああ、彼女の寝顔はなんてあどけなくて、美しいのだろう。(美しいというよりは、可愛らしいというべきか?)
「…僕はもう、待たないよ」
焦がれ続けた、うつくしい、あなた。
どうか。
あなたの隣に立つ場所を僕にください。