「…―――ん?」
かすかな声を耳に捉え、ユーグ・ド・ヴァトーは書類から視線をあげた。
本日の二十二時を以て完全に閉館された”剣の館”は月夜の薄闇に包まれており、彼の手元を照らす唯一の光源は警備員に借りた懐中電灯だけだ。 電灯の光を執務室出口へと向けて見ても、声の主と思われる人物の姿はない。
「…?」
彼の聴覚が捉えたものは、確かに女の声だった。
本日の警備を担当する警備員は年配の男性であり、当然のことながら女性的な声の持ち主ではない―――だとすれば、ユーグのように他の職員が残っているか、侵入者のどちらかだ。
侵入者。
自然に行き着いた不穏な可能性に、翡翠の瞳が剣呑な光を浮かべる。
この館は辣腕化として名を連ねるカテリーナ・スフォルツァの私物で、彼女は仕事のためにここで夜を明かすことも多い。 今日は彼女も自らの居城に帰っていないものの、内にも外にも政敵の多い彼女を失脚、もしくは暗殺しようとする賊の侵入はこれまでに幾度となくあった。
ユーグはやはり無言のまま手早く書類を封筒に片し、愛刀の柄を握り込むとウィリアム・ウォルター・ワーズワース教授の執務室を後にした。
「1、2、3…1、2、3…」
波紋一つもたたぬ静寂を抱く回廊を足音ひとつたてることなく歩き続けた、その先。
とある一室から、懐中電灯ではない電気の眩い明りが零れ落ちていた。
「1、2…ぁ、ぁれ? えーと、3…っと、1、2、3…」
数字、を数えているのだろうか。
美しい金をゆるりと束ねた長髪を揺らしながらユーグは首を傾げつつ、室内をそっと覗きこむ。
そこには見慣れた背中があって……彼女を認識したその途端に警戒心はあっけなく消え去ってしまったのだが、背後にいるユーグにはまるで気付かないその背中は一生懸命バタバタと動いていた。
それはもう、優雅も何もない動きで。 これは暴れまわっていると言ったほうがいいのか。
(しかし、あの足運びは…もしや)
訝しみながらも、どこかで見たような…デジャヴュのようなものを覚えた翡翠の双眸が細められる。
もしかしてもしかしなくとも、あれは―――ワルツ、なのだろうか。
「…何をしているんだ、シスター・」
「ぎゃあぁぁッ!!」
「…なんというか、その、君の悲鳴はずいぶんと…男らしいな」
ユーグは珍しくも、呆れを露にしてため息を吐いてしまった。
そんな彼の足もとには、驚きに飛び上がって腰を抜かした少女が一人。 彼女は心臓を抑えながらぜえぜえと呼吸を繰り返すと、恨めしそうな念をこめてユーグを見上げてきた。 目尻に涙がうっすらと滲んでいることから、教皇庁の個性的なメンバーに鍛えに鍛えられ肝が座りきってしまった彼女でも相当驚いたようだ。
「ゆ、ユーグが驚かすのがいけないんでしょう! 普段はもっと可憐です!」
「(どんな反論だ…)驚いたのはこちらのほうだが。 怪しい声が聞こえると思って来てみれば、シスター・、君が……踊って?いた」
「何で疑問形なの? これだってちゃんとしたワルツよ、ワ・ル・ツ!」
は顔を真っ赤にしながら埃を払って立ち上がると、ずんずんと足音をたてながら大股で部屋の中央に戻っていく。
ユーグも侵入者ではないことを確認できたのでの後に続き、手近なソファに腰かけた。
「ちょ、何で居座ろうとするの」
「ああ…君のワルツ?に興味がわいた」
「だから何で疑問形?! …っく、いいわ、この勇姿を目ん玉にしかと刻むがいいわ!」
深夜の時間に差し掛かろうとしているからか、彼女のテンションはかなりハイだ。
ビシィッ!と一発キメポーズをユーグに見せつけてから、また再び「1、2、3…1,2,3…」と多少よたつきながらもワルツの基本の型である四角(ボックス)ステップを踏み始めた。
「1、2、3…1、2、3…」
「…」
「1、2、あ、とと! …ええと、3…、1、2、3…」
「…………………君は本当に名家の出身なのか…?」
は家の出身。
過去に吸血鬼に惨殺された家は代々当主が信仰深くそれなりに有名であり、かつてはその令嬢だったはずの彼女のダンスがこの有様とはいったいどういうことか…心の底からの疑問にはますます顔を赤くして、憤怒の形相でギッとユーグを睨んできた。
どうやら自分のワルツがあまりにもワルツらしい形をしていないことは、彼女には十分な自覚があるようだ。 それだけでもかなりの救いがある。
「ダンスなんてつまんなかったし、サボってたのもの!」
「…なるほど」
あまりにもらしい理由に思わず苦笑すれば、は目を丸くしてユーグを眺めていた。
「そういえば、ユーグは何でここに残ってたの」
「師匠に頼まれて彼の書類を取りに戻っていた。 これがないと彼の研究がはかどらないらしい」
「研究、ねぇ…今度は何を作るのかしら」
「さあ、な」
世間話をしつつ、本の型を繰り返す。
続けているうちに途中で分らなくなるのか同じところでつまづき、一向に成長する兆しがまるで見えない。 ユーグはしばらくそれを眺めていたのだが、ついには、また一つ溜息を吐いて立ち上がり。
「シスター・。 足運びが変わってきている」
「へ?」
「――これは、こうだ」
するりと彼女の手をとって、身体を寄せ、導くように一歩踏み出す。
唐突の密着とリードには驚いた声をあげるが、洗練された足運びに気がついたのか。 その流れに身を任せ自分のモノにしようと表情を引き締め、取られた手をやんわりと握り返す。
「1、2、3…1、2、3…」
繰り返される基本のステップ。
華のある動きではなく本当に基本中の基本だが、それでも綺麗な形で続けられるそれが嬉しいのか、の数を読む声は楽しさに弾むようで耳に心地よい。
――そう。 彼女の声は、いつだって心地良いのだ。
ゆらりと込み上げる感情に胸の奥が熱くなって、無意識に、重なった手を握り返す力がこもる。
「そういえば、ユーグってお貴族様だったね」
「昔の話だ」
「顔も綺麗だし、背も高いし、スタイルはいいし。 ダンスも上手けりゃ剣も強いってこりゃもうオウジサマね。 白馬とか似合いそう」
「……それは、誉め言葉なのか?」
訝しむように聞き返すと、「もちろん!」と笑顔が全力で返ってくる。
どうやら相当楽しいようだ。
それは何よりなのだが、こうなった展開への疑問も沸く。 そういえば、彼女は何故一人でワルツの練習をしているのだろう。 もしかしたらユーグが知るよりも前から、夜な夜な、ひっそりと練習を…?
「今度、トレスとワルツを踊るの」
「―――何だって?」
正直、耳を疑った。
トレスとは派遣執行官トレス・イクスに間違いはない。
だが、彼をよく知る人間の一人としては、彼がワルツを踊るなどという人間味溢れることを無意味にするとは思えない。 となると、彼の主であるミラノ公絡みで、ミラノ公の為にという要素を前提に置いて導かれる結論は唯の一つ。
「…任務、か?」
「大変残念なことに仰る通りよ。 招待客に紛れて、調べて来いだって」
大分、形になってきた。
うきうきと弾む声を合図にテンポを上げて、次の段階へと進む。
ゆるりと束ねたユーグの髪がさらりと流れる様に見惚れるように目を細めながら、リードに合わせてテンポを速め、は言葉を続ける。
「でも、それだけでも幸せよ」
殺人人形に恋をする少女は、幸せそうに微笑んで、言葉を紡いでゆく。
「きっと、これっきりだろうけど。
でもあたし、嬉しいの。 トレスとこうやって手をとって、身体を寄せ合って、ワルツだなんてこういうのがなかったらきっと一生体験できなかっただろうから」
数日後の夢のような任務に心を躍らせて、彼女はとても幸せそうに笑う。
しあわせそうに。
けれど、それは、本当に?
自分と違うモノに、恋をして。
その差を。 違いを見せ付けられて、それは本当に幸せなのだろうか。
「…、ユーグ?」
不意に立ち止まった神父を、大きな瞳が見上げてくる。
嬉しいことも辛いことも、哀しいことも、生まれてからずっとの全てを映してきた目の中に、ユーグの姿が映りこんでいるのがはっきりと分かる。
彼女の目に、己の姿が映るほど。
それほどまで近い距離にいるのに。
ユーグの身体を侵食し蝕むこの想いに、彼女は気づきもしない。
身が焼ききれそうなほどの嫉妬を孕むこの想いが、彼女を悲しませる言葉ばかりを紡ごうとして喉奥で蠢いている―――けれど、形の良い唇は本心とは全く別のモノをゆっくりと紡ぎ織って。
「…辛くは、ないのか」
「え」
相手は感情を抹消された機械人形。
流れる体液は、赤を帯びた黒。
身体を組み上げたのは鋼。
彼は腕がもがれ脚がもがれ、体中に穴という穴をあけられても、全ての中心である核が破壊されなければ生きていられる。 熱を持った銃で弾薬が空になるまで撃ち続けても、掌の人口皮膚が焼き切れるだけで痛みは切断されて感覚はない。 それはそれで構わない。 それがHCシリーズを作り出したゼベット・ガリバルディ博士が望んだ兵士だ。
そう、博士が望んだものは死を恐れぬ兵士だ。
そして彼らは完璧な兵士だった。
だからこそ、自らの作品に満足し自らのこめかみに銃口を押し当てた彼は考えもしなかっただろう―――まさか、殺すために作られた兵士に恋をする少女がいようなどと。
そして、それは自分も。
「俺は、そんな君を見ているのが―――、辛い」
辛かった。
悔しかった。
何故、は、よりにもよってそんな男に恋をしたのだ。
そして自分は何故、そんな彼女に惹かれたのだろう―――…。
ユーグはそれきり、唇を閉ざして言葉を織るのをやめた。
ワルツのテンポをスローに戻して、黙々と彼女との練習を続ける。
はというと、足を止めないまま、先ほど織られた言葉に目を丸くしながらユーグを見つめていた。
「大分良くなった、あと少し練習を続ければどうにかなるだろう」
足を止めて、互いに息を吐く。
は「ありがとう」と律儀にも頭を下げて礼を言い…次には、ふわり、と微笑んで。
「心配、してくれたんだね」
「…」
「…ありがと。 ユーグは、やさしいね」
そんなものではない。
やさしい、などと。
そんな気遣いなど微塵もなかった。
ただ、この感情をごまかすために出てきた言葉だった。
「本当のこと言うと、辛いよ」
「…」
「一緒にいられるだけで幸せなんて、嘘。
それはそれで幸せだけど、でも、あたしの事、あたしだけの事を見て欲しいよ。 カテリーナ様よりもあたしを選んでほしい。 カテリーナ様じゃなくてあたしだけを見て欲しい。
何でトレスを拾ったのがあたしじゃなくてカテリーナ様だったんだろうって、ずっとずっと、悔しかったよ」
”ものすごく悔しいけど”と、窓辺の月を見上げて笑う声はどこか物悲しい。
「報われないって、もうとっくの昔に思い知ってる。
あたしがどんなに頑張っても、トレスはあたしの事なんか眼中にも入れてなくて。 彼の頭の中には、彼の心の中には、最後の最期までカテリーナ様がいるんだろうね」
紡がれる本音を、ユーグはただ聴いていた。
彼女もそんな気持ちを味わっていたのかと、少し可笑しかった。
「でも、好きになって良かったって、思った時もあったんだよ」
それは本当だよ。
そう言って晴れ晴れと笑った顔には、曇りなど欠片も見当たらない。
特別美しくもなく、可愛らしい顔立ちでもないがそれでもそう笑った彼女はとてもキレイだと思った。
「だからね、最後の最後まで振り回されるのも悔しいから、今度のワルツでド肝抜かしてやろうかと思って! ドレスだってに我が侭言ってちょっといいの入れてもらったし、ユーグ直伝のワルツとセクシーなドレスで悩殺してやるわ!」
”ちょっと大胆になってみました”と、胸元や背中があいた事を指で指し示しては、どんな色でどんな形のドレスなのかも饒舌に説明を始める。
楽しみなのは楽しみにしているようだ。
しかし彼女の、トレス・イクスへの想いを語る言葉が全て過去形になっていることに、彼女自身は気づいているのだろうか。 それを意識的に使っているのか、無意識なのか、笑顔の裏に全てが隠されてしまってユーグには分からない。
だが、これは、ユーグの予想なのだが。
もしや彼女は、もどかしいこの恋に、決別でもしようと言うのだろうか。
「メイクやネイルだって、気合入れるの。
女はカテリーナ様だけじゃないんだって、あのオデコに思い知らせてやるわ!」
「…そうか」
けれど、そんな事よりも。
「―――そうだな、君のドレス姿は綺麗だろうな」
きっと、会場にいる誰よりも。
凛と背筋を伸ばして踊る彼女は美しいだろうと、素直にそう思えた。
「―――そろそろ、俺も師匠のところに戻る」
「あ、ごめんね付き合ってもらっちゃって! 助かったわ」
時計の針はとっくに深夜を越えていた。
”教授”は夜を徹する覚悟で研究に打ち込んでいるらしいが、それでもあまり遅くなりすぎると無意味に突付かれる。 ユーグとしてもそれは避けたい。
からかわれるのは苦手なのだ。
扉のドアノブに手をかけて、ふと、そこで思いついたようにへと向き直り。
「シスター・」
「ん?」
「任務が終わったら、俺のところに来るといい」
「…なんで?」
まだ練習をしようとしているのか、ワルツの教本を片手に持つ。
熱心に打ち込む姿に彼女なりの覚悟が見えて、ユーグはやわらかく口角を持ち上げ、翡翠の瞳に悪戯めいた光を浮かべて笑った。
「俺が、君を慰めよう――――君がトレス神父を忘れるまで、一晩中、な」
それがどういう意味なのかわかっていないを置いて、ユーグは部屋の扉を閉じた。
階段を下り終えたところで、そこでようやく、意味を理解したらしいの絶叫が”剣の館”全体に響き渡る。 幽霊と鉢合わせをしてしまったような悲鳴だ。 階下から警備員が「何事だー!」と慌しく階段を駆け上がってくるのが見える。
「…当日が、楽しみだな」
君が、女はカテリーナだけではないのだと言ったように。
男は、トレス・イクスだけではないだと、その一晩かけて思い知らせてやろう。
”ソードダンサー”は再び、愉快そうに笑うのだった。