「卿を元の状態に戻す――掴まっていろ」
そう告げて見下ろしてくる瞳は、あまりにも、いつもの貴方と変わらなかった。
「―――…あ」
見下ろされる、という自分の状況が信じられなくて、呆然とした声が零れ落ちた。
掴まっていろだなんて突然言われても分からない。
どこに掴ればいい?だなんて聞くのも違う気がするし、どうして掴まなければいけないの?と聞くのはもっと駄目な気がする。 トレスらしく率直な言葉でこれから身に起きることを告げられそうで怖い。
(…あ、睫毛、長い)
とろりとふやけた思考が、間近に迫る青年神父の美しさに感嘆の吐息を零す。
茶混じりに黒の短髪はふわふわとして撫で心地が良さそうで、高く通る鼻梁や形の良い唇、目の位置、顎のラインは歪みがないほど整っている。 とてもきれいだ。
黒の僧衣を隙間なく着こなしている体はアベルやレオンに比べると小柄な部類に入るけれど、はっきり言って象よりも重い。 今こうしてあたしを押し倒す寝台が彼の重みで破壊されないのは彼の中にあるバランサーが作動しているからだ。
バルトロマイといいトレスといい、ホモ・カエデリウスシリーズは何でもアリだなぁと開発者の偉大さを改めて思い知る。
あ、でも、トレスになら潰されても本望かな…。
「と、トレ…わっ」
トレスの動きに、惚けた思考が現実へと引き戻された。
手袋に包まれた手があたしの襟元へと伸びる。
衣服を飾る銀の止め具をパチリと解く音が聞こえて、角材で頭をガーツン!と殴られたような衝撃を受けた。 それは着替える時いつも聴いている音なのに、今、この瞬間だけは別物なまで艶かしいものに聞こえてたちまち羞恥が込み上げてくる。
も、もしかして。
今世紀最大のビッグウェーブがこの身に降りかかろうとしている…!?
(だ、だだだって、と、トトトトットトトレスが、あたしの、ふ、服…! ぬぬぬ、脱が…!)
頭の中は混乱でいっぱいいっぱい。
それなのに、ふっと緩んだ衣服の隙間から彼の指がするりと滑り込んできて、心の中で大絶叫。 さらにはトレスの手袋の布地が鎖骨を撫でると、布独特の感触に思考回路はオーバーヒート寸前にまで追い込まれる。
ゆゆゆ、夢じゃない――トレスが、あたしに触れてる。
銃のトリガーを引く長い指が窮屈そうな襟を丁寧に、介抱するように広げていく。
女主人の手で露になったのを丁寧に整えてもらったものが、今度は丁寧に剥がされていく――…整えてくれた、他ならぬ彼自身の手によって。
(や、ややややや、ヤ バ イ !)
今度こそ身近に、はっきりと危機を感じた。
トレスによって招かれるそれが命の危機ではなく身の危機なのだから、喜ぶべきか果てしなく微妙だけど、驚きを隠せないまま馬鹿みたいに口をぱくぱくと開閉させて、惚けたように見つめていることしか出来ないその間にも服を寛げられ、鎖骨が露になる。
そこでぴたりと止まる指に、大きく露出されなかったことには安堵するものの外気に晒されて肌が粟立つ感覚に堪らず唇が震えて、肌にするっと掠める指先に身体がびくりと跳ね上がってしまった。
「ひッ、ぅ」
「…」
ちょ、ウソォオォォッ、…ななな何なの今の声。 変な声出た!
まだ直に触られた訳でもないのに――それを知ってますます顔に血が昇った。
大慌てで口を押さえるあたしは頬といわず耳といわず首まで真っ赤なんじゃないだろうか。 どうしようどうしよう、どうしよう。 込み上げる羞恥と混乱に抑えきれない震えまで身体に浮かんできた。
カタカタと震えるなんて小動物みたい。
でも、その一方で頭の中がふわふわする。
硝子玉めいた瞳に射抜かれて、思考が、ただひたすらに拡散していく。
女主人に飲まされた薬の異変が本格的にあらわれ始めたようだ。 混乱で取り戻していた確固たる意思や意識が再び蕩けてきて、下肢に淡い疼きは広がってゆくのを自覚。 無意識に、トレスの腰に膝を寄せてしまう。
(…ぅ、また…変な感じに)
確実に変化を見せる自分の身体に目を向ければ、見なけりゃ良かったと即後悔。
清楚な白に青のラインが入った修道服に浮かぶ胸の緩やかな隆起線と、首元を緩めるトレスの指が視界に入り、どうポジティブに見てもその状況は男女の情事を思わせて。
羞恥に死にたくなるような光景にさっきよりも泣きたくなってきて、ぐにゃりと顔が歪みかけた。 たぶん、それはものすごく情けない顔だろう。
「…ぅ…っ」
こんなの認めたくない。
ぎゅう、と目を瞑って口を両手て押さえ込み、媚薬に昂ぶる身体を必死にごまかした。 だって。
(だって)
このままではとんでもないことを口走ってしまう。
薬の熱に翻弄されるままトレスにすがりついて乱れてしまう。 厭らしく、濡れた声で強請ってしまう。
(それだけは駄目だ…!)
確かに、何度もこの人を欲しいと思ったよ。
あたしだって人間で、女だ。 トレスに、好きな人に抱かれたいと思ったことくらいあるよ。
女として見てくれなくてもいい。 機械でもいいからその指に触れられたいと、浅ましく願ったことだって。
でもそれは、<絶対的に在り得ない>と割り切られた上での願望だ。
トレスの存在があの美しい枢機卿の物であるとことごとく思い知らされて、絶対に届かない、答えが返ってくるはずのない恋だと諦めきっていた、願いだ。
それが突然叶うなんて――そんなの、ずるい。 ひどい。
「トレス、やめて…」
そう言うも、声に否定の力がない。
全身が発熱したように熱くなってスカートの下の足に汗が浮かぶ。 それは覆いかぶさっているトレスにも気づかれているだろう。 なのに、あたしとはまったく正反対の涼し気な表情は言葉を発することなくあたしを見つめていた。
その事に身体の熱が余計に昂ぶって、自己嫌悪を通り越して哀しかった。
ただでさえこの人が恋しいと思うのに媚薬効果で大変よろしくない方向に心身が傾いてしまっている。 勘弁してほしい。 これ以上虚しいのは嫌だ。 でもちょっとだけ抱きしめて欲しい…気もする。
どっちがあたしの正しい気持ちなんだろう――ああ、両方かも。
「おね、が、い…離れ、て」
でも、奥底の願いとは裏腹に出てきた言葉は必死の懇願。
けれどどうか、届いて欲しい。
一人にしてほしい。 薬を飲ませて欲しい。
この人にはきれいな自分を見ていて欲しいから、こんな自分を見て欲しくなかった。 お願いだから。
「薬、飲ま、せて…」
「…」
こんなに願っているのに、退く気配がない。
とうとう泣きじゃくるあたしを静かに見下ろしたまま無言を保っている…どことなく、いつもと違うトレスの変化に少しだけの違和感を抱いたものの気にかけている余裕はなかった。
涙を拭おうと腕を目元へ動かせば、服が擦れる感覚が堪らず悲鳴があがる。
「っあ…」
限界だ。 どんなに否定しても限界だ。
目の前に吊るされた誘惑を振り切るように硬く目を瞑り、覆いかぶさるトレスから逃れようと身体をうつ伏せシーツの上を這う。 力が入らず、腕がぶるぶると震えてうまく進めない。
足掻いても、ほんの少しだけしか距離があかない。
けれどそれでもいい。
このままトレスの下でいるよりもずっと、ずっとマシだ。 好きで好きで堪らなくて欲しくて恋しいから、これ以上傍にいれば完全に誘惑に負けてしまう。
醜い欲に、この人を巻き込む。
シーツの海を彷徨う手をそっと取られただけで熱くなるこの身体は、嗚呼、なんて穢らわしい。
「ぁ、あたしは…だ、いじょうぶ、だから…」
なんて馬鹿馬鹿しい。
こんなに苦しいのに、変なことに拘(こだわ)って、自分をますます苦しめてる。
身をまかせればこの苦しみから解放されるしトレスに触ってもらえるというのに、あたしは本当に馬鹿だ。
(だって)
(ほんとに――)
こんなの、嫌。
胸が苦しい。
どうしようもなく苦しい。 息苦しい。 窒息しそう。 降り積もって、凝り固まって、苦しい。
誰かを想って胸が張り裂けそうになるなんて有り得ないと思っていたのに。
先ほどの、媚薬でぼんやりした思考のまま触れた唇の感触はしっかりと覚えている。
少し冷たくて、でもとても柔らかい感触。 勢いでしてしまった一瞬だけどあたしの中に焼きついて、もう一度触れられたらどんなに幸せな気持ちになるだろう――這い逃げるあたしを抑えるように掴まれた手に項垂れながら、息を弾ませ、吐息と混ぜて言葉をこぼす。
「ごめ、んね、トレス」
「…」
「ごめん、…」
”好きになって、ごめんね”と、とうとう泣き出して。
息を荒げ顔を真っ赤にしたまま、取られた手を自分からゆるりと放す。
離れていく。 酷く名残惜しい、手袋に包まれた手が。
この手に縋りつく事は簡単だけれど、離れるには途方もない勇気と労力と根性がいって正直しんどい。
真っ白で、混乱していた思考なんてもうサイアク。
酷いこと考えてる。 彼のメモリーを改竄(かいざん)してミラノ公とか全部なしにして、文字通り<自分だけのモノ>にしてしまってもいいんじゃないかとか。
なんて理想的。 それをしてしまえばトレスはあたしだけを見てあたしだけを守ってくれてあたしだけの為に死んでくれる。 とても理想的。 とかとか。
(って、あたしは、バカか…!)
垂れ流される奥底の狂気を、振り払うように自分に一喝。
そんなことをして何になる。 それこそトレスを殺す行為だ。 そんなことあっちゃいけないんだ。 そんなことしたって、自分が一番後悔するんだ。 ああ、こんなふざけたこと考えてしまうのもこの熱のせいだ。
早く、薬を飲まないと――――…。
涙と熱に滲む視界に吐きそうになりながら。
女主人が持っていた解毒剤を探そうとすれば、離れたはずの手が再び、あたしを捕えた。
「シスター・」
不意に、聴きなれたテノール。
とてもすぐ近くに聞こえて唖然とした。
”どうして”と問うよりも、次には背中に覆いかぶさる硬い感触が広がり、肩と腰に回されるトレスの腕に上体が浮くように持ち上げられて、すっかり火照った左の頬に黒混じりの褐色の髪が触れた。
硝煙の匂いを嗅ぎ取り理解する――ああそれは、彼の匂いだ。
匂いに堪らず、目を閉じた。
作り物めいた美貌も、硝子玉みたいにきれいな瞳も。
無機的な声も、常に姿勢のいい立ち姿も、すぐに瞼の裏に思い浮かぶ―――。
「――ぇ、きゃ、ぁっ…!」
スカートの中に滑り込む手に悲鳴が飛び出た。
驚きに暴れる肩を押さえ込んで、トレスの手は下腹部を撫でながら中心へと降りていく。 必死に首を横に振ってもそれは止まらず、下着越しに触れた指がたてる濡れた音を耳にしてしまえば、理性は急速に溶け始めて、頭の中が白くなったり赤くなったり。
「ゃだ、トレス…! いや、ぁっ」
「200秒前に言ったはずだ――卿がその状態で教皇庁に帰還すると、他の神父に支障をきたす、と」
熱も何もない、酷く冷静な声。
死刑宣告をするにこの上なく似合う、静かな声。
左耳を掠めるそれはいつものトレスと変わらないのに、指は潤う場所をやさしく撫でて掻き乱す。 愛撫もなしに薬によって充分に解された場所はトレスの指を濡らして、柔らかくなった表面を撫でる手に溢れた蜜が内腿に滴る感触を感じて、抑えきれずあられもない声がとうとう零れ落ちた。
「ん、ァぁ、…は、ぁっ」
「先ほど手渡された薬も効果の正常確認が出来ていない。 よって、服薬を認められない」
―――…トレスが、何か言ってる。
それを聞き取れないほどまで意識は朦朧としていた。
けれど確かに、自分の口を抑える手の平の隙間から色帯びた声が溢れていく。 肩を抱く腕にくたりと身を委ね、腰を抱かれて後ろから蜜に潤う場所を乱されて、こんな声が出せるんだと他人事のような感想が頭に浮かぶ。
しかし、唯一の治療薬を飲む事を認められなければどう治せと。
このままでいろだなんて拷問だ。 人間、情欲に弱いとは聞いていたけれどこれには納得。 こんなものに逆らえるはずがなく、自然と揺らめく腰にあたしの中にあるものが全てを代弁されてしまう。
「ぁあっ、や…!」
「…」
それを目にしたトレスが、抑え込んでいた肩をグイと掴んで仰向けにさせた。
唐突の視界の回転。 見下ろす男と見下ろされる女という向かい合う形が恥ずかしくて死にそうで、慌てて目を瞑って顔を抑えると、何の承諾も警告もなく片足を抱えられてまた悲鳴が出た。
それほど乱れのなかった衣服が初めて、大きく乱されて太腿を露にされる。
「ト、トレス…っ!」
脚の間に割り込んできた神父の名前を呼ぶ声が、素っ頓狂に裏返る。
汗一つ、衣類一つ、吐息一つだって乱れていないのに、あたしの膝裏を抱えて見下ろしてくるその姿は目眩がするくらいに妖艶だ。 存在自体が厭らしいだなんて恐るべしトレス・イクス………いいいいい、いや、今は、それどころじゃ、ない!
「な、何、するの…?!」
「薬物の効能をこの場で消去する」
「しょ、消去って」
――もしかして、アレか。
情欲を解消するには情欲を。 と、いうことで思わずちらりとトレスの腰元を見るも(あぁぁつい目が行ってしまうのが恨めしい…!)、機械の身体を持つトレスに男性の生殖器はないのだから、彼にあたしの欲を解消してくれる手立てはないはず。
自然と、疑問が口に出る。
「ど、どう、やって」
「生殖器がなくとも性行為はできる」
はっきり 言い おった ぁ ぁ ァ ァ ・ ・ !
きっぱりと、覆い隠すことなく率直な言葉に心の中で絶叫が上がった。
つまり人間でなくても性行為は出来るということで――”トレスがそんなことを言うなんて…!”と羞恥に沸騰してすっかり茹(ゆだ)ってしまっている頭を抱えたくなった。
だって、トレスは、そういう事にはとんと無縁なのだと信じていたし。
感情の起伏が極薄なぶん、ものすごく無垢なイメージが強かったからそういう単語が出てきたことに、逆に衝撃、というか、なんというか…彼の出生が出生だし、感情制御装置で心ががっちり封印されているから、絶叫するばかりのあたしと違って羞恥心というものがごっそり欠けているのだろうか。
それはそれである意味、質が悪い。
トレスのイメージが…!とまたも頭を真っ白にしている間に、トレスの手が蜜場から離れる。
そのことにほっとしたのも束の間、湿った手袋をそのまま自分の口元に運び、トレスは軽く歯をたててそれを剥ぎ取った。 シュッと響く衣擦れの音がやたら大きく聞こえて身体全体が羞恥にカッと燃え上がる。
手袋を外す仕草だけもこんなに感じるなんて、今のあたしは本当におかしい。
そして、再び濡れた場所を目指してゆく指は。
「ぁ、や、やめ――あぅ…!」
断りもなく無遠慮に、トレスの指が中に滑り込む。
表面を撫でるのではなく、中へ。 何者も受け入れたことのない場所が唐突に拓かれて、薬に解されたとはいえ無骨な指が蠢く膣に鋭い痛みが駆け抜けた。
ゆるりと中を混ぜる感覚にびくびくと跳ねる脚と身体は、トレスに押さえつけられてもがくことも出来ず仰け反って。
ぼろぼろと零れ落ちる涙を見つめながら、死神に見紛う僧衣の神父は表情一つ変えず犯してくる。
「はぁ、ぁ、っや…! ぅ、ト、レス…!」
苦痛に、顔が歪む。
痛みと熱にぶわっと噴出す汗で額に張りつく髪にも、全身を強張らせる痛みに必死に耐えていれば、トレスが身体を寄せてきた。 トレスが膝裏を抱えたままだったからますますぐっと折り曲げられる形になって苦しかったけれど、いつもよりもずっと近い位置にある硝子玉に似た瞳は痛みに唇を震わせるあたしをじっと見つめて、吐息が触れ合う距離にいるあたしの唇へ、そっと、声を落とす。
「辛いなら、俺に掴っていろ」
その音を鼓膜がとらえ脳に達して理解した瞬間に、痛みよりも驚きが勝った。
まさか、そんな事を言ってくれるなんて夢にも思わなかったのだ――まるで、気遣ってくれたような。
「ト、レス」
気のせいかもしれない。
ただ単に、そう言ってくれただけなのかも。 ああけれどそれがどれほど嬉しいかなんて、計算得意なトレスでもきっと測り知れないだろう。
震えた声で名を呼んで、震える腕を伸ばす。
そろそろとトレスの首に延びたそれをグイと掴まれ、トレスの背中へと回された。 その事によりトレスとの隙間がもっと縮んで、背中に導かれた手はトレスの肩を撫でて黒の僧衣の背をぎゅうっと握り締める。
トレスに縋(すが)りつけるなんて夢みたいだ。
「トレス、ト…ァ、ぅ、は、あ、ぁ…っ」
隙間なく密着したまま抱かれる体がゆっくりと揺らされて、粘着を帯びた水音に合わせて足がびくびくと跳ねる。
痛みをごまかすようにぎゅうとトレスにしがみついたまま、閉じることが出来ず開いたままの口から垂れる唾液に唇と顎を濡らしひたすら喘いだ。 それはいつもの自分から想像も出来ない声で。
今となっては理性なんて欠片も残っていないのだろうなぁと、またもや他人事のような感想がぽろり。
「ァ、ンっ、ふ…ぁ――ぁ、」
ふと視線を動かせば、目の前にトレスの首とカフスのついた耳。
熱で染まったあたしと違いいつもと変わらない色のそれがとても愛しくみえて、唇を寄せてキスをすると ぴく、と動きを止めたトレスの指が奥に当たった。
思わず、彼の耳元で「ひぁっ」と大きな声をあげてしまう。 それは間違いなくトレスの耳元に投げられてしまってあたしの羞恥は最早ピークに達していた。
死にたい。
唐突に声を上げたあたしを不思議がっているのか。
問いかけの色をほんのわずかに浮かべた双眸がトレスの僧衣の肩口に顔を埋めて見返す事の出来ないあたしへと向けられて。
「シスター・?」
「…ぁ、ご、ごめ…うるさ、かった…?」
「――、否定(ネガティブ)」
あたしの反応にトレスが何を思ったのか、今度はその場所を深く抉り始める。
ますます厭らしい声が喉奥から込み上げてトレスを引き剥がそうと肩を押しても、がちりと抱きしめられた身体は微動だにもせず、器から溢れたように濡れた場所をさらに溢れさせようと彼の素手が蠢いた。
痛みが薄れ、招かれる快楽の波に、肌荒れ一つ見当たらない頬に頬を擦り付けるように首を振った。 仕草が甘えているようにも見えるかもしれないが、そんなことを考えている余裕はない。
このままではトレスの手でとんでもないところまで連れて行かれてしまう。
「トレ、ぁ、ンッ、ふ、ァ…!」
濡れた声をあげて、トレスの背中を掴む手が白くなるまで僧衣を握り締めている、自分。
滅多に手袋を外さないトレスの指を強く締め付けて、快楽を多く得ようと腰を揺らす、自分。
――今のあたしの姿は、トレスの目から見たらどんな風に映っているのだろう。
それを考えてしまうと、言葉少なに行われる行為がとても怖くなってきた。
涙もぶわっと溢れてきて、出来るだけトレスに見られないようにと身体を寄せて背中にしがみついたけれど身体の強張りがあたしの異変をトレスに知らせてしまっていて、手首まで濡らした手を止めてトレスが再び問いかけてくる、。
「どうした」
「…っ」
―――ああ、よりにもよってこんな時に。
達する寸前に、我に返ったあたしの心。
我に返って溢れてくるものはトレスへの気持ちばかり。 それは気が狂いそうになる快楽をも横に押し寄せて、あたしの心を窒息させるほど覆い尽くしていく。
埋め尽くして、隙間がないほど埋め尽くして、苦しさのあまり涙がまたぽろりと零れ落ちていった。
欲していた。
彼の言葉を、どうしようもなく欲していた。
だから、つい。
「…すき」
「…すきって、言ってぇ…!」
―――それは、ミラノ公の命令以外ではトレスの口から一生出てこないような単語。
でも、今のあたしには酸素よりも欲しているモノ。 渇望しているモノ。 こんな時だからこそ欲しいと思うのは、間違っていないよね? それともこういうのはあたしだけなんだろうか…ちょっと、分からない。
でも、トレスからのキスもないんだから、お願いしてみたって神罰が下ることもないんじゃないかとも思う。 減るもんでもないんだし、今まで押し倒すのを我慢していた努力賞としてちょっとはご褒美をくれたっていいじゃないですか。
ねぇ、トレス?
「――――…」
けれどトレスは、何も応えてくれなかった。
無言で動き出した手に再び高みへと昇らされて、その途端に生まれた後悔を抱えながら再び矯声をあげて仰け反る。
…やっぱり、ダメ、だったな…。
そのことがとても哀しくて、胸が張り裂けそうで、ちょっとだけ死んでしまいたい気持ちのまま、想像したこともない強い快楽の波に巻き込まれる。 翻弄されて、何をしても何を考えても全て片端から崩されて真っ白になってゆく。
それでも言葉が欲しくて諦めきれなくて、虚ろな意識をぎりぎりで保ったままトレスに好きだと言い続けて、その頬に何度もキスをしてみた。 けれど、返るものはあたしのいやらしい声ばかり。
「っあ、も、…やぁ、ァァッ、――――!」
結局最後まで、その言葉を耳にすることが出来ないまま意識を失ってしまった。
――――指を引き抜いた箇所がごぽりと音をたてて、少女の白腿を濡らした。
快楽に意識を落としながらも引きずる余韻にびくびくと震えるその姿を、硝子玉めいた瞳は静かに眺めている。 最初に緩められた首元や少女の性別を知らしめる部分以外に乱れのない修道服は、性行為の発汗に湿気を帯びていた。 そのことが逆に気を失った少女を酷く淫らな生き物に見せる。 他の男が彼女を見れば、気を失っているにも関わらずなおその身体を犯して貪り喰うだろう。
しかし、その姿にもトレスは心揺さぶられることはなかった。
揺さぶられる心がない。 たとえ残りわずかに存在していたとしても、それは完全なる支配下に束縛されてその現象が引き起こされる可能性はあまりにも低い。
だからこれ以上少女に無理を強いることなく、媚薬の熱から解放されて安からな寝息を確認し、頬に張り付いた髪を退けてやる。 淡い紅に火照る柔らかなそれが視界に映り、ただ一度だけトレスの唇に触れたの唇は薄く開いて呼吸を繰り返していた。
問題ない。 シスター・・はこれで正常だ。
だが。
「――”アイアンメイデン”、応答を」
『はい、トレス神父』
たおやかなる尼僧の優しい声が、カフス型通信機を通してトレスの聴覚を撫でる。
ローマの枢機卿ミラノ公カテリーナ・スフォルツァの補佐役でもある修道女ケイト・スコットに連絡をすることは任務に携わる彼の常だ。
そして今日もまた、トレスの黒のケープをの肩にかけて抱き起こしながら先ほどの情事を何事もなかったように抑揚を欠いた声で、報告。
「ヴァロッサ教授逮捕完了。 シスター・と共に教皇庁へ帰還する」
『了解しましたわ。 すぐにアベル神父にお迎えをお願いいたしますわ…』
「―――シスター・ケイト」
無機的な青年の呼びかけに、尼僧は『はい?』と言葉の続きを待つ。
何も知らないその応答にほんの僅かに逡巡する間を尼僧に見せ、彼らしくもないそれは『トレス神父? 何かありましたの?』と尼僧を心底不思議がらせた。
「迎えは必要ない」
『あら? よろしいですの?』
「肯定(ポジティブ)」
『かしこまりましたわ、それではカテリーナ様にもご報告をしておきますから、また後ほど…』
「シスター・ケイト」
再度呼びかけられ、通信機の向こうにいる尼僧はまたも首を傾げただろう。
だがトレスは、メモリーに焼きついた一つの単語を、尼僧に問う。
「卿は、”好き”という言葉をどう解釈する」
―――今度こそ本当に、たおやかなる尼僧は首を傾げたうえ瞳をまん丸としただろう。
『は、え? す、すき、でございますか…』と唐突な問いかけに心底戸惑い、狼狽を見せる声音でトレスの聴覚を撫で、しばらく間をあけて彼らの間に沈黙を織り交ぜた。
けれど、今回の任務でトレスの傍にがいることだけは彼女は理解していた。
二人の間に何かがあったのだろいうことは彼女なりに何となしに気がついて、やがて、いつもよりも落ち着いたやさしい声で。
『…嬉しい、ですわ』
「嬉しい?」
『ええ、それが大切な人ならなおさら、嬉しいですわ。 大切な人から好意を示されて喜ばない女性は世界中のどこを探してもいらっしゃらないんじゃないかしら?』
「…」
スケールが世界規模になり、理解に、少々の時間を要した。
しかしケイトはほんの僅かなその間をどこか嬉しそうに笑った。 いつもは報告、連絡、情報の取り寄せ、意見の交換をするためだけの通信機が、この時ばかりはプライベートで使う電話のような温かみを持って、喜びを含むケイトの声がトレスの聴覚をくすぐってくる。
『トレス神父、貴方は嬉しくはないのですか』
「俺が? 否定。 俺は人ではない、機械だ。 そのような感情を持ち合わせてはいない」
『ええ、確かにそうかもしれませんわ。 でも』
そこで、腕の中で眠っているが身じろぎした。
再び頬に髪が張り付くのを見てそれを拭うように頬を撫でると、掌に彼女の熱が伝わった。 人口皮膚を通し、鋼の骨組みで組み立てられた中身まで、彼女がもたらすその熱が染み入ってくるよう。
『でも、トレス神父。
わたくしは、さんと一緒にいらっしゃる時の貴方がとても人間らしく見えますわ』
―――そうして途切れた、カフスの通信。
穏やかな修道女の言葉がいつまでも思考に残るのは、彼女があまりにも不可解な言葉を告げたからだ。 人間らしい? それは有り得ない。 この身体は老いることがなければ、部品さえあれば欠けてもすぐに修復できる。
人間の本能であり命題の一つでもある子孫繁栄…つまり子を残す事さえも出来ない。 全てが鋼だ。 銃と同じだ。 いや、銃そのものなのだ。 だからこそ<人間らしい>と言われるには自分はあまりにも人間からかけ離れていた。
そしてそれは、腕の中で眠り続けるにも言える。
何故、自分にその言葉を望んだのか。
アベル・ナイトロード、ユーグ・ド・ヴァトーやレオン・ガルシア…彼女の周りにいる人間に求めれば良いものを、何故。
意味もなく回り続ける疑問は、いつまでも答えなどを出さず。
「――――…」
それを知る為に、が望んだ言葉を声に出さず一度だけ呟くのだった。
その言葉に、全ての答えがあるとも知らずに。