「………ねえ、トレス。 ほんっとーーーに、入るの?」
「
(な、なんという…)
間髪いれず即答で、あたしの問いに肯定した神父に意識が一瞬飛びかける。
それでも気を失わなかったのは持ち前のド根性のおかげか、はたまた彼への愛のおかげか。 この展開にぐらぐらと揺れる世界に目を回しつつ、あたしの視線は目の前にそびえ立つ建物へと向けられた。
先には、薄暗い夜の裏通りに煌々と佇む一軒家。
そこはかとなくただならぬ雰囲気をまとうのは、この店はそういう店だからだ。 この界隈に建つ店は全て色商売を担っているため、道行く女は色を振りまき、道行く男は女を愛でて過ぎていく。
そんな中で、あたしたちはかなり浮いていた。
濡れ事目的で界隈にやって来た男女…と見ることも出来るのだけど、【教皇庁】に所属している証である僧衣と修道服は、艶めいた空気を漂わせるこの場にこの上なくミスマッチ。
とてつもなく目立つ。
通行人から妙な目線を向けられたり、からかうように卑猥な言葉が投げられるのは、もう、仕方がないとして……頭痛を堪えるようにこめかみを抑えた。
「でもトレス。 情報を手に入れてから随分時間が経ってるわよ?」
さすがにもういないんじゃないの?と、問うように隣の神父を横目に見る。
しかし見事な美貌を持つ青年神父は形の良い眉をぴくりとも動かすことはなく、ただ淡々と、建物に視線を向けたままさらりと答えてくれる。
「ヴァロッサ教授は女を好む嗜好の持ち主だ、その可能性は低い」
「…それって、男性ならほとんどそうなんじゃない?」
「彼は複数を囲んだままそこで三日ほど滞在するのが常らしい。 よって、彼がここに留まる期間は二日ある、まだ建物の中にいるだろう」
複数を囲んだまま…。
三日も…。
写真を見る限りそれほど若くはないというのに、その元気さには恐れ入るわヴァロッサ教授。
「それじゃさっさと行って、引きずり出してふん縛りましょ」
濡れ場に踏み込んで目撃する光景を考えると非常に欝になりそうだが(どうか怪しいプレイなんかしていませんように!)、仕事は仕事だ。 ミラノ公からの拝命だ。
こんなところで躊躇しているわけにもいかないし、何よりトレスがそれを許さない。
店の戸に手をかけようとしたとき、トレスの手が肩を掴んで引き止めた。
不思議がるあたしを他所に近づいてくる一人の女に、無機的な眼差しを注いでいる。
「あんたたち、教皇庁の人間だろ?」
女が喋ると、ひどく、蟲惑的な香りが漂った。
しなやかな肢体に浮かぶ体の線を強調するセンシュアルな黒いドレスに身を包み、たっぷりとボリュームのある長い髪を無造作にまとめている。 わずかにこぼれる髪が白い肌の上を流れているそれすら充分な色香を放って、危うく、思考が別世界に誘惑されそうになる―――ッハ、いかんいかん。
同性に誘惑されるてどうするんだあたし。
別の意味でぶんぶんと首をふるあたしに、女はくすりと微笑んだ。
「待ってたよ。 ヴァロッサは三階の部屋でお楽しみ中さ」
「お前が情報提供者か」
「そう、この店のオーナーよ。 さっさと捕まえてムショなり何なりぶち込んできておくれよ」
「……あのー…ヴァロッサ教授に何か恨みでも?」
協力者がいるのはとてもありがたい。
しかし特別贔屓にしてくれる顧客を通報するなど、不景気なこの時代ではあまり勧んで出来ることではないはずだ。
嫌悪感も露に店の中へと通してくれる華奢な背中にそう問えば、女主人は涼やかに答えてくれた。
「あいつが来たあとは店のコの何人か数日は使い物にならないのさ。
身体を壊すコもいるから、アタシはあいつが嫌いさね」
「(…どんだけ元気なんだ…)」
「ところで一つ聞くけど、」
女が振り返る。
それにつられて足を止めれば、トレスも同じく歩を止めた。
「その神父の腰にある銃を使うつもりかい?」
「肯定だ。 ヴァロッサ教授が抵抗をすれば応戦する」
店の一部の破壊は免れないという宣告に、女主人の眉宇が歪む。
「アタシの店を壊すのは勘弁してほしいんだけど」
「確保のためには止む負えない。 どうしてもと言うなら教皇庁に請求を」
硝子球めいた瞳がまっすぐに女主人の姿を映し取る。
表情をわずかにも変えることのないトレスに目を細めて、すらりとした腕を伸ばし、その顎に手をかけた…まるで、トレスの作り物めいた美貌を品定めするようだ。
男を誘惑することに慣れている妖しい瞳が一度瞬き、紅に彩られた唇が雌豹のように舌なめずりをする。
…なんだか、ものすごーく妖しい絵になってるんですけど!
「金なんかいらないからアンタが欲しい、って言ったら?」
「? 質問の意図をはかりかねるが」
「だから…」
「はいはいはい、ちょっとストップ!」
強引に二人の間に割り込んで、トレスを背中に庇うと女主人を睨みつけた。
敵意と嫉妬心を露に割り込んでくる尼僧に、女主人がとても愉快そうに笑みを浮かべる。
「アララ、ものすごく何か言いたそうね」
「言いたいことならあります! そ、そんなこと認めるわけにはいきません」
「おやおや、言うねえ? ただちょっと触ったりつまみ食いをするだけなのに」
「ぎゃー! うちはお触り禁止です! つまみ食いも駄目!」
トレスのことを好きでもない人間に、トレス(の貞操)をあっさりあげるわけにもいかない。
どっちかと言うとあたしのほうが頂きたいくらい……じゃなくて!(正直になりすぎた!)
トレスに想いを寄せる女としてはものすごく許しがたい展開だ。
威嚇する猫のように肩で息をしながら言い返すあたしに、女主人はやはり笑って。
――あたしの顎に手をかけて持ち上げる。
「別にアンタでもいいよ。 アンタも美味しそう」
え。
あの、…両方イケるクチなんですか…。(滝のような汗)
「さあ、こちらにいらっしゃいな。 たっぷり可愛がってあげるv」
「ぎゃー!いやーーー! 何この展開ー?!」
女主人に囚われたまま、近くの部屋に連れ込まれてあっさりとベッドに押し倒されるあたし。
圧し掛かる女の肉付きのよい柔らかな体と、むせ返りそうになるほどの甘い匂いに、確実に別世界(まさに別世界! そして未知の世界!)に連れて行かれる予感と恐怖を抱かずにはいられない。
「やっ、ちょ、嘘でしょ…!」
「こんなに緊張して…初めて?」
「―――!!」
悲鳴すら声にならない。
がちがちに強張る体ではろくな抵抗も出来ず、本格的な護身術だって習得しているのに、それをすっかり忘れてしまったように体が動かない。
助けを求めるようにトレスを見るも、彼は表情を変えることもないままあたしを見ている…って、見てるだけ?! この薄情者ー!
トレスに気がついた女主人はあたしの胸を掴んだ手とは逆の手で、ひらひらとトレスに手を振った。
「ああ、アンタはもういいよ。 アタシが楽しんでる間なら店も多少壊して構わない」
「ひー! 何なのその勝手な法律は!」
「アタシが主人さ。 この店の中ではアタシが法律だよ」
「冗談じゃ、なっ――!」
噛み付くようにぶつけられた赤い唇に、言葉も抗議も飲み込まれる。
”同性に唇を奪われたァァーー!”と嘆くより、強引に割り込んできた舌が何かを乗せていたことに気づき目を見開くも、それはあっさりとあたしの喉奥へ落ちてしまった。
ごくり、と喉が上下することに女主人は、瞳に獣めいた光を浮かべて笑う。
「な、な、何、これ」
「媚薬」
―――もう駄目だ。 終わった…。
唇を奪われた挙句、薬まで飲まされてしまったなんて、終わった…。
確実に追い込まれてしまった諦めに吐息を零せば、それはすでに熱を帯びていた。 女の匂いと自分の体の変化にくらくらとした目眩を覚えて、思考が鈍く歪み始める。
…あれ、何しに来てたんだっけ…。
何が何やら分からなくなってきた。
すっかり大人しくなってしまったあたしに女は安心させるように美しく微笑んで、修道服の下に隠されていた足を優しく撫で上げた。 その感触にびくりと体が跳ねて、体に帯びる熱が一気に全身へと広がっていく。
「ぁ…ぅ…」
「おや、可愛い声――ほら、アンタもさっさと行きな。 大丈夫、このコには酷いコトなんてしないさ」
「…――、
覆いかぶさっているはずの女主人の言葉が遠い。
彼女の言葉に重い靴音が遠ざかって、ふわふわとした思考の中でもそれが酷く悲しかった。
所詮、報われぬ片思いだ。
彼がどんな存在よりも重く見て、
自分の存在の意味から価値までを奉げている美しいあの人に、
あたしなんかが、敵うはずもないのだ――そこまで考えて、ほろりと涙が頬を落ちた。
「…、可哀想に」
哀れむ言葉と共に、優しく額を撫でられる。
母性を感じさせるその行動にゆるゆると涙で濡れた目を向ければ、ちょっと困ったような笑みを浮かべた美しい女主人の穏やかな表情があった。
「何だか、食べる気もなくなってきたよ」
「…じゃあ、たべないでよ…」
熱に浮かされた思考のまま、心からそれを願う。
いや、だって、どう考えてもおかしいでしょ。 この状況。
「でもさっき飲ませたアレ。 発散させないと苦しいからね」
女が呟いて、尼僧帽が外される。
シーツに散らばる髪を撫でながら、女のしなやかな指があたしの体の線を辿っていく。 身を任せてはいけないのに、もう、考えることも酷く億劫で、抵抗をする力もなくて、唇からは小さな悲鳴がか細く零れ落ちるばかりだ。
ゆるりと動くしなやかな腕。
妖しく動く細い指。
それが修道服を開き、胸元へと差し掛かったその時。
ドーンッ!
―――快楽も夢も覚めるかのような轟音に、部屋が揺れた。
「な、何?!」
女が慌てたように身体を起こす。
乱されかけた姿のまま、あたしの目は天井を見つめる…ああ、これ、なんか、聞き慣れた銃声のようだった気がする。
「ちょっと、何が起こったの?!」
女が廊下に出て、部下に状況を聞いているようだ。
鬼のような剣幕に部下が恐る恐る報告をすると、”くそ、ヴァチカンの狗が!”と憎悪も露にあたし達の組織を罵る声。 美しい女の顔は今や魔王さながらの形相に塗変わっているに違いない。
轟音の原因が彼女前に姿を現したのか、女のヒステリックな声がこちらにまで響いてきた。
「あ、アンタ! 誰が三階を吹っ飛ばしてもいいって――!」
「請求ならば、教皇庁国務聖省特務分室に要請を」
淡々とした、感情の乏しいテノールが耳に届いて心地よい。
それにうっとりとしていれば、重い靴音が、誰かが近づく気配がする。
焦点の合わない瞳を向けようとすれば、それよりも先にがっしりとした腕があたしの肩を抱き起こして、あられもない姿のあたしを呼ぶ。
「シスター・」
――それだけで、心が震えてしまう。
「…とれ、す…」
「任務は完了した、帰還する」
熱に苛まれて頭が朦朧とする。
衣服の乱れを丁寧に戻す手がどうしようもなく愛しくなって、あたしは静かに、そっと、トレスの頬へ手を伸ばした。
「シスター・?」
「…すき」
いつもなら絶対、こんなこと言えない。
けれど熱が。 狂いそうになるほどの熱で体が苦しくて、恋に病んだ心は目の前の神父への愛しさに理性を溶かしていた。
感情が浮かぶことの少ない硝子玉めいた瞳に何だか泣きそうになりながら、形の良い唇にあたしの熱を重ねる――初めて触れる唇は柔らかくて、機械だなんてとても信じられない。
それでもトレスに触れることができて嬉しくて。
甘い味わいに蕩けかけた目を細めてトレスを見上げれば、唇が離れたトレスは顔を上げて、不機嫌そうな顔の女主人に目を向ける。
「どれほど薬を飲ませた」
「たった一粒。 処女らしいからって飲ませたのいいけど逆に効きがヨクなったみたいさね。
何度かイかせれば治るけど、思ってたより乱れた尼僧ってのも美味しかったし、アタシが治してあげようか?」
背徳的な言葉をさらりと告げて、女主人がトレスに抱きついたままのあたしの髪を撫でた。
あたしの思考は既に正常ではなくなっている。
顎に手をかける女主人の指さえ唇を震わせて、女の美貌に熱のこもった息を吐く。
「ふふ、というかこのコでも食べさせてもらわないと、割りに合わな――」
そこで女の言葉が途切れた。
頭蓋骨に、こめかみに押し付けられた銃口に言葉を失ってしまったからだ……しかし殺意のない警告めいたそれに、ただ愉快そうに赤い唇を歪めて笑う。
「…触るなって?」
感情を何一つ浮かべることのない静かな美貌。
しかし彼が握る銃口はしかと女主人のこめかみに触れて、ほんの少し指を動かせばトレスの銃は確実に女主人の脳を吹き飛ばし、絶命を与えるだろう。
しかし女は余裕の笑みだ。
思考を止められたあたしの顎を、猫の子を可愛がるようにくすぐっている。
「ん、んん…っ」
「こんなロクでもない男にアンタを満足させることが出来るのかしらねえ」
こめかみを狙う銃口に構わずあたしの頬に唇を押し付けてくる。
押し付けついでに舌を這わされ、たまらなくなって息が弾むように吐き出されてしまう。
どう見ても悦びはじめている身体をトレスの目の前で晒すのは嫌で、可愛がろうとしている女に首を振って拒否を示した。
「や、ぁ、…トレス…」
「…こんな男の、ドコがイイんだか」
呆れたように、けれどちょっとした羨望も込めて女があたしの髪を撫でた。
そこには性的なモノはなく、労わるような母性が見える。 彼女はトレスの手に白いカプセル剤を手渡して立ち上がった。
「それ、解毒の効果があるから飲ませてやりな」
美しい女主人の姿が見えなくなる。
散々な目にあったが、彼女は多分悪い人ではないのだろう。
……店を壊してしまったことを謝りにもう一度ここに来よう……そんなことをぼんやりと考えながら、薬を受け取ろうとトレスの掌へと手を伸ばす。
しかしそれはトレスの手の中をころりと転がり、シーツの海に落ちてしまった。
「あ…」
落ちたそれを探そうと、震える手を伸ばす。
だが。
「トレス…?」
「――卿がこの状態で教皇庁に帰還すると、他の神父に支障をきたす」
感情の起伏がまるでない、静かな声。
その声の主の手に引かれて力の入らない体があっさりと倒れると、僧衣に包まれたトレスの体があたしを覆った。
いや、支障をきたすとか言われてもそんな、だから解毒の薬を飲もうとしていたところなのに。
落としてしまったそれを探したいのに、どうしてトレスに倒されてしまっているのだろう。
「あの、トレス」
「卿を元の状態に戻す――掴っていろ」