赤が、舞う。


 見慣れたそれは、
 網膜に焼きつくまで鮮明。
 けれどあたしの視界はちかちかと白く瞬いて、熱が、傷口から吹き上がるようだ。


 苦しい。
 などとは思わないわけがない。
 痛い。
 胸から腹をバッサリいかれたのだからそれも当然。


 日々体重に悩める自分の身体が、
 地面に崩れた。

 体内を巡る液体が、
 切り裂かれた胸部から流れて、石畳に広がる。


「――――――――、は」


 けれどどうにか顔だけを上げて、
 見下ろしている、硝子玉めいた瞳を見つめた。

 その瞳に見惚れながら、酸素を求める身体を酷使して、
 貴重な酸素を浪費しながら言葉を紡ぐ。

 自然と浮かぶのは、自分でも驚くほどの優しい笑みだった。


”ぶじ?”


 声にならない言葉が、かすれた呼気となって零れた。
 コホ、と小さく咳き込むと、口内に広がるのは鉄の味。

 …なんて不味い。
 そんな感想だけが脳裏に浮かんで。


 眠気に誘われて、瞼を伏せた。


(…さむい)


 鮮やかであろう赤は、
 熱を持ってあたしの身体を染め上げて。
 鮮やかであろう赤の喪失と共に、
 身体が冷たくなっていく。


「――――――――」


 何も考えられなかった。
 何も映らなかった。
 ただ、聴覚だけはまだ生きていて。



 いとしいひとの、こえをきく。



「―――――敵味方識別信号を認識」


 その口元は一度も微笑んでくれたことなんかなくて。

 その目が優しく細められることなんかもない。


「――――――――強襲>(アサルト)モードから殲滅戦(ジェノサイド)モードに書き換え(リライト)



 それは当然。

 彼は、機械。


 人では、ない。



 でも。







書き換え(リライト)――――――、完了」







 でもあたしは、あのひとがやさしいヒトだとしっている。











 あー。


 人間はあっけないけど、しぶといときは本当しぶとくて。


 それでいて、死にかけのときはそうでもないんだけども。


 病室なんて、
 ちょっと元気になった患者にとって暇で仕方がないもんだね。




「んん〜? 、今、なんか言ったかなぁ〜〜〜〜?」
ああああぁぁぁすみまっせん今ちょっと不謹慎なこと考えました様ァァァ! だ、だからお願いっ、林檎はウサギの形にしてください! かわゆい!」
「…うむ、よろしい。 では今度は神業的なウサギさんを披露してあげよう」

  は何度か頷くと、しょりしょりと音をたてて白い皿に並べられていくウサギ型林檎の群れに、新たなウサギを投入した。 木彫りのウサギのごとく立体的で、食べることを躊躇してしまうほどの芸術的フォルムだ……ううむ、さすが 。 刃物の扱いは神の域に達しているわね。(拍手)

 ”でもせっかくのお見舞いなので頂きます”とウサギの群れを端っこから摘まんで食べていけば、それを眺めていたが、そんなあたしの様子にくすくすと小さな笑みを零して。

「ふふ、食欲戻って何よりだよ 。 でも無理しちゃだめよ?」
「はーい…そういやあれからもう1ヶ月かぁ」
「温かかったのにあっという間に寒くなって…季節が過ぎるのは早いねー」

 剥いた林檎をもぐもぐと咀嚼(そしゃく)しながらは、広い病室の窓の外に目をやった。 外の世界は肌寒い季節に覆われて、終わりかけの夏の名残りを残すかのように青々としていた背の高い木はすっかり丸裸だ。 見ているだけでも寒々しい。

 あたしは今、個室の病室で横になっていた。
 周りには真っ白い壁。 横になっているのは清潔なシーツと布団がセットの真っ白いベッド。
 左腕には点滴が繋がっている―――病院へと搬送された直後”あと少し遅れていたら本当に危なかった”と言われていたらしいが、現代医学と人間の回復力の連携はなかなかすごいと感心するものがある。

「皆に面倒かけちゃったし、新年に向けて遅れた作業や残った仕事もさっさと片付けないとね…二人とも本当にありがとう」
「いいっていいって。 そのかわりカフェ・ラレスティーノでパフェおごってね」

 にんまりと笑ってウサギを作るに、あたしもにんまりと笑みを返し。

「サイズはもちろん…?」
ジャンボで!
「でも食べきれるかなぁ…?」
「ノンノン、あたし達三人がいればジャンボだろうが何だろうが余裕だって」
「えー!?」
「ブラックホールじゃん!」

 そこで三人でどっと笑い合ってから―――三人同時に自分の口を手で覆った。
 そうだった。 ここは病院だ。 うるさくしていると白衣の天使に怒られる…当病院には美人で評判の天使がいるんだけども、怒るとめちゃくちゃ怖いのだ。 誤解のないよう言っておくが、あたし達が怒られたわけではなく他の患者を一喝しているシーンを目撃しただけで、けれどその一喝に、あのが脅えたほどの威力なのだ。 …当然、あたしじゃとても敵わない。
 思い出してしまったのか、 は乾いた笑いを零して話題を進める。

「え、えーと、来月で退院だっけ?」
「うん、もうちょっとでようやく動き回れるってわけ」
「まずはカテリーナ様にご挨拶にいかなくちゃ。 あ、フランチェスコ様にもご挨拶に行かなきゃ。 お見舞金もくれてたし」

  の言葉に、あたしとは違いに顔を見合わせて。

「……ありがたいけど…フランチェスコ様からのお見舞金か…」
「あー、うん。 何か、裏金っぽい
「ふ、二人も禁句! それ禁句!」

 慌てるも、ちらりとそう思ったようだ。
 顔が笑っているよ ちゃーん。(気持ちはわかるよ)

 しかしまさか生きているうちに枢機卿から見舞い金を貰ってしまうとは思わなかったが、本当のところそれを送ってきてくれたのはペテロかパウラだろう。 異端審問局は色々と黒い噂が絶えないが(実際黒いし)、あの二人は意外と律儀な種類に入るのだ。
 …二人にも御礼を言っとかないとなぁ。

「でもブラザー・マタイもお見舞いに来ちゃったしそっちの対策も考えとかなきゃだめだよ 。 …奴へのお礼は塩でいいんじゃない? ていうか寧ろ清めの塩でいこう
「マタイさんのことになるとなかなかハードだね …」
「まぁ、二人は天敵関係だからねー…そっちのほうも何とか考えとくわ」

 他にも仕事や教皇庁関連でお見舞いに来てくれた人もいるので、そちらのほうも考えておかなければ。 退院できるのは本当に嬉しいけど、しばらくは本当にドタバタとしてそうな予感だ。

「御礼は焦らなくてもいいし、年が明けてからでもいいんじゃないかな。 私も手伝うからゆっくりやっていこう
「そうそう、特にマタイに塩送るんだったら私にまかせて」
「ありがと、ちゃん。 …… もお手柔らかにね……」

 それからしばらく三人でのんびりとしながら会話に華を咲かせて、ふと、 が時計に目をやった。 目覚まし時計の機能も備わっているデジタル時計が示す数字は、すでに夕暮れ間近になっている午後5時を示していて、 の綺麗なアメジスト色の瞳がそれを映して驚きに目を見開くと、”あー!”と叫んでが立ち上がる。

「もうこんな時間! 私、シスター・ケイトに呼ばれてたんだ!」
「え、あ、本当だ。 私もカテ様にお呼ばれしてたんだっけ。 ――それじゃ私たち今日はここで帰るね、
「うん、二人とも気をつけてね!」
も、病院抜け出しちゃだめだからね。 もう少しで退院なんだから大人しくしてるんだよ」

 釘を刺すようなの言葉に、あたしは笑って頷いた。
 一応重傷の身でもあったし、退院もあとわずかなので抜け出そうと思わないが……さすがに、あんなに怖い白衣の天使がいると思うと抜け出そうとする意思も挫かれる。
 恐るべし白衣の天使。 男にとって看護婦さんはロマンスなのに、ここの天使はボスキャラだ。 お、おそろしい…!(ガタガタ)

「それじゃまた明日ね!」
「おやすみー」

 病室を出て行く賑やかな二人の背を見送ってから、あたしはぼふんとベッドに横になった。
 倒れこむように横になったので身体にちょっとした痛みが走るも、それを堪えるように息を呑んで、無理矢理瞼を伏せて寝返りを打つ。
 あぁー、まだ無理はしちゃだめだなこりゃー。

 静かな空間が、一人きりの病室に満ちていく。
 広がっていく静寂の波紋はあたしの心まで揺るがして、子供のように泣きたくなるような寂しさを紛らわすように、あたしはぽつりと呟いた。

「…元気、かな」

 呟きは、白い病室に虚しく溶けていった。

 入院してから数ヶ月の間、トレスの姿を見ることはなかった。
 任務であちらこちらに飛びまわっているのか美しい枢機卿の警護にあたっているのか、怪我をしてからただの一度も見ることはなく。
 それでもどうしているのか知りたくてに訪ねたこともあったが、彼女たちは少しだけ悲しそうな表情を浮かべて、ただ、”忙しいみたい”と寂しそうに笑っていた――― その顔に、訪ねたことを後悔したので二度と訪ねまいと心に決める。

 それからは、そのうちトレスがお見舞いに来てくれるかなと、その時にたくさん聞けばいいかと思って待っていれば、時間は刻々と過ぎて行き、早数ヶ月が経ちまもなく退院間近という有様だ……に聞こうと思っても、今更過ぎて聞きづらくて仕方がない。 いやもうほんと、今更…!

(いやいやまさか、一度も見舞いに来ないとは思ってもなかったというか)

 意外と薄情な男だと毒づいてしまうが仕方がない。
 本来なら期待なんてものをかけてはいけない相手だろうし、彼に期待するのも絶望するのもそれは全部、片想いしているあたしの勝手だ。 たとえあたしがそのまま離れていってしまっても、トレスはこれっぽっちも気にかけないだろう。

(…そうそう、これはあたしの勝手)

 身体を張って守ったことに、何の後悔もない。
 あの後は見事に意識がぶち切れて途絶えたが、トレスは無事に帰還したという話は聞いているし、も何も言ってこないのだから今も元気に任務に励んで、ネガポジ言いながらあちらこちらに飛び回っているのだろう。


 きっと、あたしなんかがいてもいなくても同じままで――――。


「だああああっもう、悔しいーーーーーーー!!」

 全く気にもかけない男の顔があっさりと浮かんでしまって思わず、般若のごとく顔を歪めながら叫んだ。
 点滴の繋がっていない右腕をぶん回し、子供のようにばたばたと両足をばたつかせて、一度叫んだだけでは収まらないあたしの怒りが病室に大きく響いていく………叫んだあとでちらりと、白衣のボスキャラ…もとい白衣の天使が注意しに飛び込んで来るのではないかと危惧したが、それは杞憂だったようだ。 飛び込んでこなければ一喝する声も聴こえないので、それほど響いていないのだろう。

 ていうか、ていうか……もおおおおお悔しいいいいぃぃ!

「トレスの馬鹿! ニブ男! カテ様馬鹿! デコっぱちー!

 こんな時ばかり、あの美しい枢機卿が本当に、心底羨ましくなる。
 彼女が病気で倒れたならば、トレス・イクスは付きっきりで彼女を守り抜くだろう。
 なんて美味しいシチュエーション…あぁ、一度でもいいから看病されてみたい。(落ち着け)

 ぜぇはぁぜぇはぁと呼吸を繰り返して、力尽きたように再びベッドに倒れこんだ。


「…あー、もう、気が狂いそう…」


 数ヶ月の間に一度も声を聞いて、顔も見ていないのだから恋しくて恋しくて仕方がない。
 病名はトレス欠乏症。
 退院したらカテ様やメディチ枢機卿の挨拶よりもまずトレスに飛びついてしまいそうだ。

「カテ様あたりがお見舞いを命令してくれないかなぁ…それともレオンやアベルが引っ張って連れてきたりとか…あのユーグでさえもお見舞いに来てくれたのになんで、肝心の、デコっぱちが来ないのよぉおおぉぉ…!」

 皆が来てくれて、嬉しい。
 本当に嬉しくて、彼らが持ってくる話は楽しくて、たった一人の夜の病室にいても耐えられる。


 ―――けれどただ一人の、一番好きな人に来てもらえないことはどこか寂しい。


「っっっトレスの、バッッカーーーーーーーーーーーー!!!」


 愛と憎しみがこもった右ストレートが、ぼすぅと枕に炸裂。
 それからやはり、ばたりと力尽きて目を閉じた――いかん、このまま騒ぐと傷が開いてまた入院期間が延びてしまう。

 ああ、けれど。
 
「……っ」

 苦しい。
 痛い。
 それは傷ではなくて。

 それはある意味、傷よりもつらくて。



 ――――あなたにあいたい。



 そんなことばかりを求めている自分が、馬鹿みたいで。
 色気より食い気だった人間が、たった一人の男を恋しいと思うせいでここまで女々しくなる、そんな自分も馬鹿みたいで。

 ぜんぶ、ぜんぶが、ばかみたいで。


 けれどあなたに、あいたくて。


 感謝の言葉も、
 笑顔も、
 抱擁も、
 今は、何もいらないから



  ――――どうか、あなたの声だけでも。



 それからしばらく、ぐすぐすと泣き続けた。
 とにかく泣けばすっきりするものなのだが、散々みっともなく泣いてからようやく、不安という名の霧で鈍くなった思考がさっぱりと晴れやかなものになって、はた、とあることを思いついてしまった。

「…――――――そうよ」

 唇を噛み締め、ゆらりと身体を起こして呟いた。
 涙を乱暴に拭って、垂れた鼻水もティッシュで撃退。
 傷口を考慮してそろりとベッドから降り立った。

「来ないなら、こっちから行けばいいのよ」

 どうにか歩けるほどまで回復したし、泣いてばかりの日々も終われ。
 逢いたい気持ちは満タンで、寝たきり生活で筋肉の衰えた足だけども、それでも歩くことはできるのだ。


 相手は一筋縄ではいかない強敵。

 それを承知で、恋をした。

 それを承知で、好きなのだと認めたではないか。


 泣いてクリアになった思考は、ちきちきちーん、と、至極あっさり答えをはじき出す。
 声だけなら電話でも大丈夫だ。
 時計を見れば消灯間近になっていて、白衣の天使の存在に思わずぶるっと身が震えたが、それでもこちらのストレスは溜まりまくりなのだ。 本当に、ちょっとだけの電話くらい許してやって頂きたい。

「…いや、もう、すみません、本当にちょっとだけでいいから…!」

 罪悪感からナンマンダブーと両手を合わせて間違った祈りを捧げてから、冷たいドアノブを握り締めて、そっと、扉を開け放つ。
 消灯時間を越えて、薄暗い廊下はひっそりとした静寂と共に不気味な暗闇を抱えて、奥の通路へと続いている―――うわ、病院て本当不気味だなー。 と、繋がったままの点滴をカラカラと押して、サンダルをぺたぺたとならしながら電話ボックスを探して回る。 病院は広く、夜に歩き回るのは初めてで、電話ボックスがどこにあるかも知らないので見つけるだけでも骨を折りそうだ。

「……ぁ、痛、…いてっ」

 次第に、一歩歩く度に、引きつるような痛みが走り始めた。
 相当体力が落ちているのか、すぐに呼吸が荒くなる。
 傷の熱と身体の熱に汗が浮かんで、小さな痛みが積み重なると思考もぼやりと霞んでくる。

 …しまった、こんなに歩き回るのは久しぶりだ。
 ちょっとした後悔が胸を過ぎるも、歯を食いしばって顔を上げて、目的のブツを探して回る。

「…は、…あった」

 明るい緑の、典型的な電話ボックス。
 病院内では携帯や通信機は使用不可なので、患者の唯一の連絡手段である。 一人の入院生活が恋しい人間にとってはまさに、神様にも近い存在だ。

 カラカラ、ぺたぺたと駆け寄って、ポケットからはテレホンカード。
 当病院と教皇庁の距離は徒歩15分程度だというのにまさかテレカを使うはめになるとは…いまだ健康体ではない我が身を呪いつつカード挿入。 軽い音をたてて番号を押して、繋がる先は直接トレスのカフス型通信機だ。
 呼び出し音すら待ち遠しい。


『――はい、もしもし?』

「あ、トレス――って……え゛?


 しかし。
 応答したのは待ち望んでいた声ではなかった。
 というか、トレスが「はい、もしもし?」などというはずがなく―――。

「…”教授”?」
『おや? その声は君じゃないか。 どうしたんだね、こんな夜更けに…何か緊急の連絡かい?』


 O H ・ ・ ・ ! !


 思わず、そんな呻き声が零れた。(ついでにショックで吐血しそうだった)
 いやいやいやいや、トレスの通信機に直接かけたはずなのに出たのは”教授”というのはどういうことでしょうかカミサマ。 かけ間違いにも程があるのですが。

「いえ、緊急というわけでは…あのー、それよりどうして”教授”が…トレスは…?」
『ああ、今ちょうどメンテナンスを終えたところでね』
「…怪我、したんですか?」

 あたしの声に不安を聞き取ったのか、”教授”は多少、言い淀むように言葉を濁して。

『あー、まぁ、少し』
「どこを怪我したんですか」
『あー、うむ、その、爆発に巻き込まれて……右腕をぽろりと』
「ぽろり?! そんな、水着が取れたみたいに簡単なことですむはずないじゃないですか!
『…… 君、発言が中年臭いよ』

 紳士の声音が呆れたようなものになっている。
 しかしあたしはさっくりとそれを言い返してやった。

「日々ジジババマダムオヤジ様に混ざって談笑していればそうなります―― それよりトレスの具合はどうなんですか、大丈夫なんですか?」
君が相変わらずのようで何よりだよ…あぁ、そうそう。 負傷具合は本人の口から聞くといい。 ついでに今回の負傷のことを直接、君から一言言ってやってくるれると助かる…自分の身のことをしっかり考えろとね』

 それきり、”教授”の声が途切れてしまった。
 カード残数を気にしつつもそれを待っていれば、今度は、別の男の、声が。



『――シスター・か』



 瞬間。
 頭の中が真っ白になった。
 


「あ……」
『卿は現在、教皇庁管轄の市内病院にて入院中だったはずだが』
「―――」

 しまった。
 心が、大きく、揺さぶられた。

 ぐらり。 ゆらり。 と。
 激しく。
 大きく 。

 心を、荒く揺さぶる。


「―――ぃ」
『…シスター・?』



 ああ、どうして


 その声は




「――――――逢いたい…」




 あたしを全てを、奪うのか


 奪って、壊してしまうのか


 理性も、常識も、全部全部、かなぐり捨ててしまうのか



 立っていられなくなって、ずるりと床に座り込んだ。
 長くはない受話器のコードを千切らんばかりに引っ張って、けれど決して手放すまいと、抱えるようにその”声”を腕に抱き締めて。

「逢いたい、トレスに逢いたい。
 何でお見舞いに来てくれないのよバカこっちなんか逢いたくて逢いたくて仕方がなかったんだから――」

 ああ、馬鹿なことを言ってる。
 任務あるのに。 カテリーナ様を守らなくちゃいけないのに。


 あたしなんかより優先するべきものが、彼にはいくつもあるのに。


「顔だけでいい。
 声だけでもいい。
 逢いたい。
 聞きたい。
 トレス、傍にいてよ。 ていうか何で腕なくしてんのよもっと自分大事にしてよ―――」

 一度死にかけたせいか。
 ぐちゃぐちゃになった頭は、勝手な事ばかりをつなげていく。
 身勝手な言葉ばかりを、紡いで、吐き出していく。

 泣きじゃくりながら紡いだ言葉に、トレスは何も言わなかった。
 ――けれど、あたしの嗚咽が落ち着いたことを見計らって。


否定(ネガティブ)だ。 シスター・
任務外かつ卿の個人的な要求を応えることは出来ない』

「…っ、う…ん。 ……しってる」

 知ってるわ。
 だってあなたには、付き従って守るべき人がいる。
 ―――きっと、一生、敵わないんだろうなぁと思うけど。





『だが――――最初の要求は、許容範囲内だ』





 ………。

 ……………。

「……………へ?」
『先ほど”教授”から今すぐ目を通して欲しいという書類を受け取った。 ミラノ公の許可も下りたので深夜の面会許可手続きもパスされている』

 おかしい。
 あたしの願望を現した夢なのか。 話が、とんとん拍子に進んでいく。

「あ、の」
『5分でそちらに到着する』

 なんてこと。
 神父トレスはそれだけを言うと、ぶちりと通信を切ってしまった。
 
「………ええと?」

 しばらく呆然として、30秒後に受話器を戻した。
 それでも再び30秒間ほど、吐き出されたテレホンカードを見つめて。

「5分!?」

 トレスのことだから確実に、5分でやってくるに違いない。
 テレカを引き抜いたあと傷の痛みも熱も忘れて、ガラガラガラガラ!べたべたべたべた!と何とも迷惑な音をたててあたしは歩いた――いや、もう、これは走ったといってもいい。 角を曲がった所で賑やかな音を聞きつけた白衣の天使が「誰ですか! そこで走っているのは!」と恐ろしい一喝を投げてきたが、深夜のための遠慮があるせいか、それほど怖くはなく…寧ろそれどころではなく、あたしはさっさと無視して病室に戻る。

「…っはぁ、はぁ、良かった、間に合った…!」

 トレスはまだ来ていなかった。
 ずきずきと痛む身体を抱えて、倒れ込むようにベッドに身体を横にすればその途端、びしりとヒビ割れるような痛みが身体を支配しようとその触手を広げて伸ばしてくる。

「ん、…っいてて」

 胸から脇腹へと負傷したのだ。
 退院まであと一ヶ月とは言っても、リハビリも始めたばかり。
 皮膚も傷跡が残って、激しい運動でもすればまた傷が開いてしまう可能性だって―――。


「シスター・

ーーーーーーーーーーー!?!?


 背後からかかった突然の声に、声にならない悲鳴が飛び出た。
 しかしそれが病院に響くことなくすんだのは、日頃の行いか理性の賜物か。
 さすがだ。 素晴らしいぞあたし。
 伊達にイロモノとキワモノ揃いの教皇庁で度胸を鍛えられていないわけじゃない。

「ん、ていうか、と、トレス早すぎ…!」
「否定(ネガティブ)、指定した時間通りだ」

 いや、確かに五分後だったんだろうけども。
 薄明るい蛍光灯しか灯っていない闇に落ちた病院内で迷うことなく(恐らく、用事が用事なだけに途中で案内を断ったのだろう)、よくぞ短時間でここまで来れたものだ――。

「傷が開いたのか」

 息を荒げたまま起き上がる気配のないあたしに気がついたのか、重々しい靴音を一定の間隔で響かせながら、トレスがベッドサイドまで歩いてくる。
 それと同時に室内の暗闇に沈んでいたトレスの姿が月明かりに照らされて、どうにか仰向けになったあたしの視界に作り物めいた、端整な顔が鮮やかに映し出される。

 無機的で、硝子玉めいた瞳は真っ直ぐに、あたしを見下ろしていた。
 茶混じりの黒の短髪と、肌荒れが一つも見えない白い肌は月の光で淡い白みを帯び、死者を迎えに来た死神と見紛うまでの漆黒の僧服もまた月の光に暴かれて、銀の装飾具を輝かせながら暗闇から浮かび上がる。

「…ト…」

 ようやく、逢えた。
 なのに声が震えて、名前が呼べない。
 嬉しくてたまらないのに、身体が重くて、熱くて、痛い。

「体温が高い、傷から熱を持った可能性が――」
「…ト、レス」

 けれどそれらを全部無視して、あたしの身体は動いてくれた。

 心のままに。
 望むままに。
 身体を起こし、腕を伸ばして、彼の両脇をすり抜けて広い背中に触れ。


 神父の名を持つ殺戮人形をやさしく引き寄せて、その首筋に顔を埋めた。


 こうしているだけで、
 硝煙と、血の匂いがする。

 本来あるべき右腕はなく、
 その空虚感が悲しく、少しだけ顔を歪めてしまった。


 けれどそれでも最大の愛しさをこめて

 片腕のない男に身を寄せて、抱き締めた。


「――シスター・
「久しぶり」

 血の匂い。
 硝煙の匂い。
 冷たい身体。
 無感情な声。
 自ら、機械と称している存在。





 ああ、けれど




 それでもあなたは愛しい機械





「――卿に、聞きたいことがある」

 抱かれた身体を跳ね除けることなく、
 拒むこともなく”ガンスリンガー”は、形の良いその唇を動かした。


「シスター・、何故、俺を庇った」



 赤が、舞う。



「俺は機械(マシーン)だ。
刀で貫かれても任務に支障はなかった――卿が庇う必要などなかった」



 見慣れたそれは、
 網膜に焼きつくまで鮮明。
 けれどあたしの視界はちかちかと白く瞬いて、熱が、傷口から吹き上がるようだ。



「…それは」



 苦しい。
 などとは思わないわけがない。
 痛い。
 胸から腹をバッサリいかれたのだからそれも当然。



 けれどそれでも、後悔はなかった。



 日々体重に悩める自分の身体が地面に崩れても。
 体内を巡る液体が切り裂かれた胸部から流れ、石畳に広がり。
 自分のモノが身体から流れ出ていく光景に恐怖して。
 心の中で死にたくないと一秒間に何万回も叫んでも。



 後悔なんて、している暇なんかなかった。



 ただ、
 振り上げられた刀でトレスが貫かれることが恐ろしくて仕方がなかった。



「――トレスを守りたかったから」
「その必要はない、俺は」
「ううん、あたしには必要があった」



 あなたを守りたいとおもった



 ―――殺戮人形(キリングドール)

 もとい、トレス・イクスはもともと人間として生を受けた一人であった。
  、アベルたちと同じ、一人の人間。
 しかし生を受けたその後は大きく違って、彼は人ではなくなってしまっただけの話。


 これは憶測。
 真実は知らない。
 でも彼が生まれた場所は研究所だったかもしれないと思う…彼らは秘密裏に作られた強化人間でもあるのだ。 それを完全に完成するには、基本から手を加える必要がある……つまり、生まれる前から研究所にいることが条件であっただろう。

 ――――彼は、試験官の中で生まれた。
 その後は人としての扱いを一度も受けることのなく、ただひたすら地獄を見るような実験と戦闘訓練を重ねては重ね続けて時を過ごしただろう。 それは秘密裏に行われた実験でもあったから、その頃の彼は緑や太陽の光さえ見ることがなかったかもしれない。

 世界は常に、灰色とコンクリートと眩いまでの照明。
 愛を与える人間はおらず、話かけるのは白衣の男のみ。
 実験動物のような扱いを受けながら常人よりも高い戦闘能力を得たその次は、人としての大部分を奪われて、彼は、新たな顔と新たな身体、新たな人生を得て再び生れ落ちてしまった。


 科学者達にとっては、実験だった。
 だから、同じ境遇の人間はその他大勢いただろう。
 廃棄されていく仲間を見つめながら、成功例して人としての大部分を奪われた彼らは、一つの同じ顔、一つの同じ身体に改造され、同型機と共にさらなる改良を重ねられてより破壊力を持つ破壊兵器へと変貌を遂げていく。

 もとの顔は、どのようなものだった。
 もとの身体も、どのようなものだったか。

 それさえも残されないまま、生まれ変わってしまった。




 ―――けれどそれでも残されていたものは。



 残っていたものは、あったのだ。




 太陽の光を目に出来ず。
 苦痛に響く悲鳴を聞き。
 淀んだ空気と冷たい寝台の感触に触れ続け。
 手足が機械と成り果てて。
 目も舌も、神経さえも人のものではなくなって。
 愛を知らずに生まれ変わっても。

 それでも、残っていたものはあった。

 それはきっと、完全には消せない神経回路。
 <心>という名の、人の証。
 唯一、残されていたもの。



 しかし残ってしまったからこそ


 科学者達は奪っていった。



 機械に痛みはいらない。
 機械に心はいらない。
 ただ殺せ。
 敵を殺して殺しつくせ。


 そんなものなど、いらぬのだ。


 高らかにそう謳いながら。



 唯一残されたそれさえも、機械で戒めて封印してしまった。





 そうして本当の本当に残されたものは、

 機械として、銃として、敵を殺しながら主を守る道だけ。





(トレスは、それだけで本当に満足で、満たされているかもしれないけど)

 守る人がいること。
 それはきっと、彼を満たしている。

 彼に生きる理由を。
 彼に存在価値を与えて、彼を救っている。


 彼に必要なものは、たった一つのそれだけでいいのだろう。


 愛とか、そんなものは必要ないのだろう。


(でも)

 トレスが好きなあたしとしては、
 本当の本当に残された道が、トレスを救っているものがとてつもなく不愉快だった。

 トレスが好きなあたしとしては、
 彼から全てを奪った科学者達が憎くて仕方がなかった。


 ときどき、醜いあたしが顔を出して、
 「感情制御装置を奪ってやれ」と、囁いて惑わしてくる。



 そうすれば”恋しい”という感情を理解してもらえるのだと。



 そんな勝手な事を、思っている。





 ―――彼らがいなければ、トレス・イクスは生まれなかったというのに。
 ―――制御装置がかかっていることを承知で、彼が好きになったというのに。




(…人のこと言えないわね)

 自分勝手で、都合のいいことばかりを望んで。
 やさしいこの人を、欲しがってばかり。
 けれどそれでも、科学者達のような人種にはなりたくはないから。
 だから、あたしがそんなことをしてしまいそうになったら容赦なく、この命を奪ってもらおう………制御装置を外すことはトレスを殺してしまうような気がして、それだけは本当に嫌だから。




 ―――どうか、願わくは最期まで。
 身勝手なあたしを拒まない、やさしいこの人を想う自分でいられますように。




「…目の前でトレスが危なくなったら、何度でもあたしが守るわ」
「何を」
「トレスがいなくなるのは嫌なの。 死なないで欲しい――本当は、腕だってなくしてほしくなかったわ」

 僧服の右袖。 空虚な部分に目をやった。
 爆発に巻き込まれ、肘から下がなくなっているのに苦痛の表情を浮かべないまま淡々として、トレスはあたしを見下ろしている。


「”教授”が腕を作ってくれるかもしれない、でも、トレスの代わりなんてどこにもいないの」

「シスター・。 卿の言っている事は」

「同じ顔をして、同じ声を持って、同じ性能を持ってもトレスの代わりなんてどこにもいないよ」


 そう。
 この恋は最後まで報われないまま終わって。
 あなたは朽ちて、あたしは老いて、そのまま互いに離れても。


 あたしを喜ばせて、悲しませて、守りたいと思わせてくれた貴方はただ一人。


 量産なんてされたら単純に喜ぶかもしれないけど(トレスがいっぱいだなんて!)。



 けれど、
 あなたはやっぱり、唯一無二。



「だから、出来る限りでいい。
 出来る限りでいいから、心配してるあたしのためにも無茶なんかしないでね」






 そしてあなたは最期まで



 わたしの愛しい機械なのです















 ――――胸に頬を寄せる身体から、ぬくもりがしみこんでくる。
 淡い青の入院着に包まれた身体は普段よりも高い熱を持ち、この左胸で確かに響く鼓動は普段よりも少し早くリズムを打ち、次第に、少女の身体から自身で身を支える力が抜け落ちて、ずるりと大きく傾いてゆく。

「…」

 その意識は既になかった。
 左腕で華奢なその背を支え、一度呼びかけても何ら応答はなく。

「―――」

 トレスは、それ以上呼ぶこともなく。
 ただ、ゆっくりと、その身体をやさしく押し倒すように横たえた。
 ――ふと、とても近い位置にあるふっくらとした唇を目にとめれば、数ヶ月前の、血に濡れた唇の映像が鮮やかに思い起こされて、トレスの指は無意識に、映像の中で唇から零れる血を拭うようになぞられた。




 それはどこか、、愛おしむようなやさしさを帯びていて。



「…」

 封じられてもなお、微かに残るそのココロは。

 白く眩い月明かりを受けて。




 無機的な硝子玉の瞳に  誰も見たことがない光を浮かべた。

それでもあなたは愛しい機械 2

あとがき
2006.1.13