「はい、ダーリン。 アーンして?」

「とても美味しいですよ、ハニー」


今のこの状況、友人や知人には絶対見られたくないと心底思う。







 今日のローマの日中は、見事な秋晴れだった。
 ちぎれ雲の合間に照らす日差しは柔らかく、冷たくなった風に吹かれ、コートの下で身体を震わせる人々を慰めるかのようにそれなりの温かみを持って降り注ぐ午後は、緩やかに、とても穏やかに過ぎて行く。 それは、血生臭いことには無縁であるかのように。

 そんな中。 街路樹の木漏れ日が白い石畳に零れ落ちているそれに目にしたあとで、古い型ながら骨董品のような不思議な魅力を持ったラジオが謳う、穏やかな午後の空気に合わせて流れているスローテンポのバラードに耳を傾けながら目を伏せた。 それは大人向けの落ち着いた外装と内装を持つ喫茶店のイメージにぴったりで、この店の前を通る度に”デートとか出来たら素敵だろうなぁ”と憧れていたものだ……少しだけ高いお店でもあるから、なかなか入る機会もなかったのだけども。

けれども、まさか、異性とこの店を訪れる日がこようとは。


(しかも、しかも……よりにもよってこんな男とォオオオオォーーーーーー!!)


 にこにこと、幸せそうな笑みを貼り付けたままのあたしの胸に響くのは、頭を抱えてもんどりを打ってジタバタと大暴れしながら叫んでいるような…そんな絶叫だった。
 けれどそれを口に出して叫ぶわけにも行かず、その代わりに、淡いピンク色つきリップクリームに彩られた唇に浮かぶ微笑みを目の前の男に向けてやった―――頬の筋力を盛大に使って笑みを形作っているせいで微かに引きつったものになっているのはご愛嬌だろう。
 いつになくぎこちない微笑みのまま、目の前の男に一つ問いかける。

「ねぇ、ダーリン」
「何ですか、ハニー」

 微笑みを崩さぬまま、悪寒に肌がぞわぁっと粟立ったのを自覚した。
 なんというか。 もう。 いっそ死にたい気分だ……しかしそれをぎりぎりで堪えホットレモンティーを銀色のスプーンでくるくるとかき混ぜながら、ごくごく自然の会話のように装いつつ再び問いかける。

「あたしは確かに貴方とお茶をしに来たんだけれども、どうしてあたしが貴方にケーキを食べさせてあげなきゃいけないのかしら?」
「私たちは恋人同士なのですから、そういうことがあっても何ら不自然ではないでしょう?」
「(誰か! 誰かこの男をハリ倒して…!) アッハッハッハそうよね今は恋人同士ですものねそりゃわかるんだけれども貴方の場合は不自然の塊というか」
「周りからすれば、仲睦まじい二人にしか見えませんよ」

 そう呟いて微笑む男の、鴉の濡れ羽色のようにしっとりとした黒髪が窓ガラスから差し込む陽の光に輝くのを見て、込み上げてきた脱力感にあたしはがっくりと肩を落としてしまった。 あぁもうなんか、今なら「世界が滅んだって別にいいんじゃない?」とかナチュラルに呟ける気がする。

(…あたしは、何故、こんなところで、この男とお茶をして、恋人同士を演じなければいけないのか…)

 よろよろとした手で、うんざりした表情のままでレモンティーを口にすれば、甘くて、上品な味が口内に広がっていった。 さすが雑誌に紹介されているだけあって美味しい。 でも相手がこの男というのは何故か腹立たしい。

「微妙な顔になってますよハニー」
「…あのさぁ、別に名前でもいいんじゃない? 本名でなくてもキャサリン、ジョージって感じの偽名とか…何故よりにもよってダーリン、ハニーなのさ」
「最初は冗談のつもりだったのですが、屈辱的な表情で私のことをダーリンと呼ぶ貴女が面白すぎて」
(このドSが!)

 あぁ、もう。 本当になんてことなの神様。
 ていうか、この男が異端審問局一の策士だなんて大嘘だ。
 <教皇庁(ヴァチカン)>で最も恐れられているというの、”モロッコの悪魔”などというアダ名があるのも何かの間違いのような気がする……そこで思考を打ちきって、あたしはちらりと目の前の男に視線を向けた。

 寒々しい外の景色を映す、透明なガラス窓から差し込む優しい日差しに輝く漆黒色の髪は、どこか惹かれるものでもあった。 温かな日差しにも純粋な黒を保ちつつ、切り揃えられたそれは決して”重い”などというイメージを持たせない。 少しばかり収まりの悪い部分から、触れれば柔らかな髪質であることが見て取れる。
 嫌味なく整った顔立ちも充分に目を惹くものでもあった。
 一見すれば、とても優しい、聖者のような顔立ち。 いつも微笑んでいると思わせてくれる細い糸目と、実際に微笑んでいるような笑みが浮かんでいる男の人らしい薄い唇は<端整な、穏やかな青年>の空気を存分に引き出してくれているので、先ほどから彼を見つめる女性客の視線が途切れることはない。 コーヒーを味わうその仕草だけでも気品のようなものが滲み出ているのだから、充分に身分の良い若者と判断もされるだろう。 着ている服も、椅子にかけている黒いコートも、履いている靴も立派な物だと一目見てわかるから、尚更だ。

(あぁぁ、皆騙されてる…)

 ひそひそと聴こえる黄色い声に、思わずズゾーッと音をたてながらレモンティーの飲み干した。 そんなあたしの姿をいつものように(愉快そうに)微笑みながら見つめて、ウエイトレスにレモンティーの追加をオーダーして、同じく追加されたチョコレートシフォンケーキのセットをあたしの前に差し出して。

「そんな顔をしなくとも、これも任務ですから。 ターゲットが来るまでの間のお茶の時間と思えば良いじゃないですか…ケーキは好きでしょう?」
「……だって、さっきから待ってるのに全然来ないじゃないのよ…」
「そうですね、情報より時間のズレも随分あるようで……ターゲットの姿は?」

 黒髪の下に隠れている耳を飾るカフスにひそりと問えば、次の瞬間には素早く報告が繰り出されていく。

『1班、まだ確認しておりません』
『2班、同じく』
『3班、同じく』
『4班、同じく』

 あたしの耳のカフスにも、同じ報告が入っていた。
 片隅に響く小さな報告は穏やかな店内にはとても不似合いな殺伐とした空気を漂わせ、あたしははぁっとため息を吐いてフォークを片手に取ると、シフォンケーキに手を出した。 ビターの甘さとふんわりスポンジに思わず笑顔が浮かんでしまうが、目の前の男がそんなあたしに微笑んでいる視線に気がついて、むぅ、としかめ面に変えてやる。

「何よその顔は」
「いえ、美味しそうに食べる人だと思って」
「…だって美味しいから仕方ないじゃない。 …それに、ダーリンのおごりなんだからタダなのよ。 食べれるときに食べとかなきゃ損だわ」

 わざと「ダーリン」と呼んでやれば、マタイはやれやれと肩をすくめて”デートをしてくれるならいつでも食べさせてあげますよ”と苦笑した。
 その姿には緊張感の欠片もなく、任務中だということを忘れてしまいそうになる。

(っとと、いけないいけない。 仕事なんだからしっかりしないと)

 そう。 今は任務中だった。
 あたしとマタイがこうしてお茶を飲んだりケーキを食べたりしてはいるが、あたし達以外にも客を装った異端審問局員がいることを知っている。 それは店内に訪れるであろうターゲット確保のためだ…視線をちらりと別のテーブルに送ってやれば、あたしの視線に気付いた局員が、にっこりと微笑んだり、新聞を広げていた局員も苦笑しながら手を振ったりしてくれて、あたしもこっそり微笑みを返した。 …あぁ、彼らの微笑みが”お疲れ様”や”ご苦労様”のような意味にとってしまうのは何故だろう。 あたしはそんなに疲れた顔をしているのだろうか?(実際、ちょっと疲れた。 色々と精神的ダメージがね…)

 彼らとあたしの任務とは、一人の男を捕まえることだった。
 書類によればターゲットは<教皇庁>にとって大変よろしくない情報が詰まったデータを横流ししようとしているらしい…あたしはその中身を知らないが、それをメディチ枢機卿も放ってはおけなかったようだ。 データが横領される前にターゲット確保を命じたという展開になる。
 その任に当てられたのが目の前の男、ブラザー・マタイだ。
 確かにあたしが枢機卿であったとしても彼にこの一件をまかせていただろう。 それほどまでにこの男は有能で、冷静に対処し得ることが出来る手腕を持っている。

(しかし、何であたしまで巻き込まれるんだか!)

 あたしは衣装班という身分で日々多忙だというのに、何故、どうしてこんな事を! そう憤慨しても、承諾したにはちゃんと理由がある……え、だって来月の予算多めに回してくれるし、実際の確保は異端審問局の皆様におまかせすればいいだけだし、あたしは一般客としてのカモフラージュのためだけに呼ばれたのだから、全然楽な仕事だし。 今この時期は本当に多忙なので、予算が多くもらえるのならばかなり助かるのだ。 ”あの予算を使えば色々と出来るなぁ〜”と今から来月が楽しみで仕方がない――――。


「ダーリン」


 突如、いつもにはない緊張感を孕んだあたしの声にマタイがふと顔を上げて、そろりと窓を外を見やった。 同時に二人のカフスにターゲットを確認した報告が連続で入って、店内で客を装っていた局員も店内の出入り口に素早く目を向けた。

「確保は店の中央カウンターに座り、買手人と接触してからです」
「射殺するの?」
「いえ、盗んだ手口などを探るため殺すなという面倒な命令です」

 面倒とか言うなよ…と呆れながらもレモンティーを飲みながらターゲットが店内に入ってくる様子をこっそりと伺っていれば、中央カウンターに座るターゲットを確認するとマタイはコートの下で拳銃を握り締めたまま席を立ち、あたしの顎を掴んで持ち上げて顔を寄せ、耳元にひそりと囁く。

「ターゲットが相手に接触をしたら確保ですので、怪我をしないよう貴女はテーブルの下に隠れてください」
「…随分親切ね、ダーリン」
「貴方を愛していますから」

 別れを惜しむ恋人のように頬に唇を押し付けて艶を含む笑みを浮かべる男の美貌に、何故だかものすごく恥ずかしくなって俯いてしまった。 いや、演技とは言えどそんなこと言われたらこっ恥ずかしいというか、砂糖吐きそうというか……。


すみません、素直に懺悔します。

なんて恥ずかしいセリフなんだこれーーーッ!(悶絶)


 ウエイトレスに運ばれてきた生クリームのせのプリン・アラモードをつつきながら、颯爽とコートの裾を翻してターゲットとの距離が間近とも言える場所に位置するレジに向かうマタイの背を追っていれば、思わずぎょっとしてスプーンを床に落としてしまった―――それは予想外の出来事だった。 落としたスプーンを拾う動作をしながら、ばくばくと騒ぎ出す鼓動を冷静に抑えようと深呼吸をする……今、確実に、ターゲットと目が合ってしまった。

(何で、こっちを、見たの? バレた…?)

 スプーンを拾う僅かな間にどうにか動揺を抑え付けると、ウエイトレスにスプーンを頼み、待っている間にも視線が合わないように窓の外をぼんやりと見ていれば、あたしのテーブルに迫る気配を確実に感じ取って、手の中にじわりと汗が浮かんできた…え、どうして、こっち来るの? もう一人は?!

そして。

「よお、姉ちゃん」

 ―――思わず、頭を抱えたくなった。
 だがそれを堪えて、自分が呼ばれたということが理解できなかった風に、少しの間をあけてから不思議そうに振り返れば、にやりと笑っているターゲットと顔を合わせる。 正体が知られたかと内心、肝が冷えた………だが、それは杞憂だったようだ。
 許可もなくあたしの座る椅子の背に手を置いて接近すると、相手はいないのか、一人かどうか訪ねてきたのだ―――も、もしや、これは…。

「(ナンパ…? ) え、あの」
「俺も少し時間が空いちまってな、ちょっと一緒に飲まないか?」
「え、遠慮シマス…その、あたしも、もう出ますから」
「ん? そのプリンはいいのかよ」

 不快そうな色が男の顔に広がって、内心舌打ちをしてしまった。
 確かに、プリンが残っているのに帰りますというのは明らかに避けている言動だ……あぁもうどうしてあたしはプリンなんか食ってたのよ! こんなの、そこらへんの店にあるプッチ●プリンに生クリーム乗せれば同じ物体になるのに!(いやそれでもそんな荒技するよりもここのほうが上品な味なんだけど)

 いっそプリンを投げてやろうかと考えたけれど、変なことして失敗するようなことがあったら大変だ。 これで逃げられてしまえば完全に足跡を残さぬまま消えて逃げられてしまうだろう。 そうなればマタイの責任問題にもなる…それはかなり、マズイことだ。

 レジにいるマタイをちらりと見やれば、他の客と同じように、傍観者を決め込むように静かに見守っているだけ―――いつもと変わらぬその様子に少しだけ落胆を覚えつつも、微かに動揺の色を浮かべている周りの局員達に目配せをする。

(頼むから、もう一人来るまで大人しくしといてよ!)

 買手人は遅刻しているようだ。(こいつも遅刻かよ…!)
 それに暇を持て余したこの男が、たまたま目の合ったあたしに言い寄っているだけという展開らしい…なんていうか、世の中有り得ないことだらけだと心底思い知るのだけれど、しょうがないので買手人が来るまで相手を勤めるという役割をこなすしかない。

 接近する顔に脅えるように身を強張らせれば、その反応に気を良くしたのか”何もしねえよ”と馴れ馴れしく肩に手を置いて―――この野郎ォオオオォ本気で顔面プリンにしてやろうか!

「やめて、っ」
「いやほんと、何もしねえって」
「(腰に回してる手は何なのよ!)ちょ、、待っ…!」

「――――――、おい」

 途中で割り込んできた声に、内心、ドキリと鼓動が跳ねた。
 しかしそれは、室内だというのにコートを着込み、黒いサングラスをかけた若い男で(見てくれだけでもかなり怪しさムンムンだ…)見知らぬ男の姿にあたしと売人は目を丸くして見上げる……またもや落胆するような気持ちが込み上げて、そんな自分に思わず”ちょっと待ったぁ!”と心中でストップをかけてしまった。
 さっきから何なのあたしは! 何をそんな、残念がるのか! ノンノン!(混乱)

 ”ていうかこの人、親切にも助けてくれるのだろうか”とそんな目で見上げれば、若い男はあたしの事なんかを知ったこっちゃないと言わんばかりに無視をして、売人の男に不愉快そうな声を滲ませて問う。

「お前がDか」
「その通り、それじゃあんたがRか?」
「…ディスクは」
「まぁ待て、ちゃぁんとここにあるさ。 ……神サマも真っ青なデータがな」

 ポケットからディスクを取り出してケースにキスを贈る売人に、買手人であろう男は”黙れ”と売人の軽口を一蹴した。 売人が警戒心をまったく持っていないことに危機感を覚えたのだろう。 素早く辺りを見回しながらスーツケースを男に突き出した。

「ディスクを渡せ」
「大丈夫だって。 俺らがここにいることなんか知らねえよ」
「お前はあの組織の恐ろしさを知らないからだ…奴らは、どんなことでも嗅ぎ分けてくる」


「―――まったくもってその通りだわ」


 売人が持っていたケースを横からひょいと摘み上げ、椅子を蹴倒して立ち上がり売人から距離をとったあたしに、売人も買手人も驚愕の表情を隠さぬままあたしを見つめた。 驚きに見開かれた双眸に緊張に強張らせつつも、不敵ににやりと笑みを浮かべて、ケースをコートのポケットに仕舞う。

「っていうか、人がいるところで堂々と商売の話してんじゃないわよ」
「お前、<教皇庁>の―――!!」

 売人の手が勢いよくあたしへと伸びるが、それが届くことは叶わなかった。
 ”確保”と叫ぶ局員の鋭い声に次ぎ、耳をつんざくような銃声。 狙われた男二人の怒声。 悲鳴――――――それらは穏やかな店内を戦場にも似た世界へと塗り替えて、客も男二人も恐怖のドン底に突き落としたあと、肩と腕を撃ち抜かれて床に転倒した男二人に突きつけられたのは異端審問局の証である”神の鉄槌(ヴィネアム・ドミニ)”の紋章だ。
 紋章を目にした買手人の蒼白な顔色に、呆然としていた売人もそこでようやく己の危機を理解して、肩を抑えながら立ち上がって弁解をしようと、ゆっくりと歩み寄ってきたマタイに目を向ける。

「ちょ、待てよ! 俺らは何も」

「跪け」

 ”(ひざまず)け”―――薄い唇から発せられた言葉は合図のようだった。
 その信号と同時にマタイの手の中に収まっていた黒い塊が火を噴いて、売人の男の両膝を容赦なく打ち抜き、一瞬、呆けた様に間を開けてガクリと両膝をついた売人の口から迸るのは、苦痛と恐怖が入り混じった絶叫だ。 両膝に走る激痛に男の肌に玉のような汗がぶつぶつと浮かんでは流れ落ち、激痛と高熱が駆け巡る己の両膝から溢れ出る血を塞ぐように手で抑え付けて蹲れば、マタイの長い足が男の横腹を容赦なく蹴倒した。
 どふっ、と込み上げる酸素が口から無理矢理吐くような音と共に壁に叩きつけられるその姿に、拳銃を構えた局員とあたしは驚きに目を見張る。

「か、閣下?!」
「マタイ、ちょ、何を」

 抗議の声は、連続して響く銃声に掻き消された。
 両膝ではなく、両腕、両手、両肘―――身体ではなく腕ばかりの狙撃に反射的に飛び出る悲鳴が店内に轟ぎ、決して死なさず、けれど生かさずと言わんばかりの、拷問にも近いそれに男は床の上をのたうち、生々しい紅色で男が悶える軌跡を残し、傍観者での立場であるはずのその場にいる全員を恐怖の底へと叩き落す……そこであたしは我に返り、痙攣を始める男へと身を投げて、白い硝煙が立ち上る銃口から遮った。
 そうでもしなければ殺してしまうような、そんな危うさがマタイの空気から滲み出ていたのだ。

「マタイ、殺すなって命令でしょうが!」
「それくらいでは死にません」
「出血多量や、ショック死することもあるでしょう!」
「―――ウェルニス少佐」

 マタイの部下である、名を呼ばれた男は目の前の光景に気を奪われてしまっていたのか、しばしの間をあけてから慌てて敬礼をし、応答する。 強張ったその表情に浮かぶものは紛れもなく畏怖の感情だろう。 他の部下も、皆同じ色を浮かべていた。
 しかしそれを気にすることもなく、興味なさそうに悶える男から視線を外し、そのまま出口へと歩を進めながら指示を下していく。

「この者たちの連行を。 ディスクはシスター・から受け取るように…あとの処置はまかせます」
「はっ!」

 直立不動で応答すると、そこでようやく全員の金縛りが解けたかのように、局員達は慌しく動き始め、硬直するように両手を広げて男を護っていたあたしもぺたりと床に座り込んでしまった……銃口を向けられた緊張と恐怖が今になって沸きあがり、顔中にどっと汗が噴出して、深く、深く息を吐く―――そこでふと頭上が陰り、それにつられるよう顔を上げれば、引き返してきたのかマタイがいつものように微笑みながら、あたしを見下ろしていた。

「マタイ」
「お怪我は?」
「ないよ」

 いつもと変わらぬ声音にほっとして、差し出された手を掴み、座り込んでしまった足を立たせてもらった。 外を出るとすぐにマタイのコートを肩に掛けられて、じんわりと温もりが伝わるそれに包まれながら、”神の鉄槌”の紋章入りの車の後部座席にあたしとマタイが乗りこむ。
 それを運転手が確認したあとで、すぐに低いエンジン音が唸ると共に緩やかに走り出す……何ていうか、異端審問局の力は偉大だ。 車の内装の立派さにも感嘆の声が零れてしまう。

「とにかく、お疲れマタイ」
「シスター・も協力してくださってありがとうございました」
「いや別に……でも最後のはさすがにやり過ぎじゃない? …下手したら、本当に死んでた」

 いや、殺すつもりであったのだろうか。
 殺意と悪意に満ちた銃口を容赦なく向けて連射するその姿は、完璧に殺すつもりがあったとしか思えない。 メディチ枢機卿からは<捕獲>の命令が出ているというのに…下手すれば、命令違反もいいところだ。
 マタイはあたしの言葉に薄く微笑んで。

「いけませんか?」
「いや、いけないも何も」
「あれは貴女に触れすぎた」


 ―――は?


 言葉の意味を脳内で検索していれば、普段手袋に覆われているマタイの大きな手が、あたしの頬を優しく撫でた。 それに目を丸くすると、クスと微笑む声と共に唇をゆっくりとなぞられて、背筋に走る甘い痺れにぎょっと目を見開きながら窓に頭をぶつけんばかりに狭い車内の限界ギリギリまで身を退いてしまった。
 ヒイイイイ! いや、っていうか、何?! ナニ?! 今の! すごい変な感じが…!?

「それにとても、腹が立ちましてね。 つい」
「ついって! ついで殺されかけたのあの人! いや、っていうか、それなら助けてくれたって」

そうだ。
だって、あんなにも普通の顔で、見てただけなのに。

 マタイは「おや」と言わんばかりの表情を浮かべてから、身を退いたあたしとの距離をぐっと狭めると、端整な顔が、吐息が触れ合わんばかりに間近に迫り、それにごくりと息を飲むあたしにますます笑みを深めて。

「あなたの顔を見ていたかったのですよ」
「か、かお?」
「そうです。 ―――私の顔を見たあとに、どこか落ち込むような色が見えたので」

 変わらぬ表情に覚えた落胆を悟られて、頬がカァッと熱を持ってしまった。
 嫉妬してほしいなどという妙な期待を持った自分の浅ましさが知られたような気がして、ぎゅっと目を瞑ってマタイを避ければ、あたしの頭に触れている窓ガラスに両手を付いたマタイが、耳元に唇を寄せて。

「おかげで悩みました。 ……すぐに助けるべきかどうか」
「っ結局、助けてくれなかったじゃない」

「―――キスをしても良いですか?」

 質問をはぐらかす気か。
 それにむっとして睨むように聖人のようの穏やかな顔立ちを見返してやれば、次の間にはあっけなく唇を奪われた。 口づけに身体がぎしりと強張って、拒否をすればいいのか受け入れればいいのかわからない。
 自分の心がわからなくなって、ただ、されるがままに奪われていく。

「っ」

 いや、これは、拒むべきだろう。
 だって、車の中だし、人だっているし、スモークガラスで運転手にも窓の外からでも見えないとはいえど、それでも到着すれば―――あぁもう、どうしてここでマタイが嫌だと言えないのさ。 有り得ない。 思わず、頭を抱えて声にも出してしまった。

「あーもう、ありえないぃぃぃ」
「何がですか?」
「全部よ! あたしも、あんたも、ハニーとかダーリンとかふざけた茶番も全部全部…っ」

 唐突に悔しくなってきて柔らかな黒髪を少し乱暴に撫でてやれば、ドアに押し付けるかのように深く口づけられる。 それは、夢中になるかのように。 いつも冷静で考えていることが全く読めない男の、どこか情熱的とも受け取れるその様子に煽られたあたし自身もそれを受け入れれば、腕を掴まれて身体をずるりと後部シートに引き倒された。
 突然のそれにぎくりとマタイを見上げれば、彼は構わず驚きに開いてしまった足の間に身体を割りいれてきて、筋張った手がゆっくりと足の付け根へと這い登る―――。

「っや、待っ」
「待てませんよ……これ以上は」

 艶を帯びて紡がれた声にぞくりとしたものが背を這っていく感覚を得て、小さく息を呑んでからふるりと身を震わせるあたしに愉快そうな声を零すと、マタイの手は止まることなく身体を覆う衣服を剥ごうと力を込めて―――。


「閣下、<教皇庁>に到着しました―――」


 ……後部座席のドアが、ガチャリと開かれた。
 あたしの視界には夕焼けに染まる赤い空と、その光に照らされた、人の良さそうな笑顔を浮かべてあたし達を出迎えてくれている運転手の顔が、笑顔のままビシッと強張らせたということがあたしにも充分にわかった……いや、だって、もう、頬、引きつってるよ……。

「あ、の…」
「失礼しました、閣下」

 恐る恐る声をかけたあたしに、運転手は爽やかな微笑みを送ってくれた。
その笑顔にプロ根性という名のオーラが滲み出ていて、マタイに押し倒されたままのあたしは”は?”と運転手を見つめ返し。

「予定を変更して、このまま閣下のホテルまでお送りいたします」
「よろしく頼むよ」
「ウソーーーー! ちょ、待って待って! あたしこの後ちょっと用事がーーーー!!」




 ―――そんなあたしの叫びは。




 運転手によって再び、バタンと閉じられた扉でぶつりと途切れるのだった。

Darling and honey

あとがき
久しぶりマタイ。
マタイにハニーとか言わせたかったために書いたブツ。有り得ないぃぃぃ。
冗談だったとはいえあまりのありえなさに吐血しそうです。 恋に狂ってる審問官…笑。

私はマタイを激しく勘違いしているようです。笑。
2005.11.1