あなたは、知らないだけなのだ






「…23時過ぎ、ですか」

 全てを許容するように整えられた柔和な相貌を崩さずに、マタイは小さく息を吐いた。

 彼が不意に紡いだ数字は、クリスマスを終える間近の時間だ。
 この国にいる誰もが普段とはほんの少し変わった一日を過ごしたであろう今日が、終わる。
 ―――だというのに、煌びやかな光をいつまでも絶やすことない大広間は今でも、枢機卿に招かれた上流階級の紳士淑女であふれていた。 これでも数が減った方だというのだから、政治家顔負けのコネクションを持つ枢機卿たちの顔の広さには感心に値するものがある……などと、とりとめもなく思考を巡らせて暇をつぶしてみるものの、それらに費やす時間はほんの数秒。 そんな瞬きの時間など、マタイには暇つぶしのうちにも入らない。

 ホールの窓辺に立ち、月がなくとも眩く灯り続けるローマの街を退屈気に眺めていれば―――近づいてくる人間の気配を感じた。 彼はそれに向けて、まるで独り言のようにゆるりと言葉を紡ぐ。


「――カンビオ中佐、警備に特に問題はありませんか?」


 問題でも起これば退屈などはしないだろうに…そんな期待をしているような言葉になってしまったが、マタイの後ろで立ち止まった男は気づかなかったようだ。
 振り向きもせぬまま名を呼ばれた軍人は驚きに表情を強張らせたが、すぐに表情を引き締め、敬礼に右手をこめかみ近くに寄せた。 ぴんと背筋を伸ばし、軍靴の踵を揃えて直立する。

「は……はっ。 特に問題はありませんっ。
 あと一時間ほどで、メディチ枢機卿とスフォルツァ枢機卿の退場予定時間となります」
「では、そろそろ彼らの部屋を用意しておきなさい。 クリスマスも終わりますが、ささやかなお祝いにブランデーなどをそれらしく添えておくと良いかもしれません」

 マタイと同じグレーの軍服をまとう男は、指示を了解したというように堅苦しく頷いた。

 男の名はアルノルト・ディ・カンビオ。 胸についた徽章(きしょう)は中佐の階級を示している。
 彼はマタイの部下として配属されてから数年経った。 いまだ恐怖心めいたものを押し隠せない眼差しを浮かべてマタイを見るそれはには少々の呆れを覚えるも、それはマタイが特に好ましいと思う感情だ。
 恐怖心は悪ではない。
 己を身を守らんとする人間の本能的な警鐘だ。
 あの目を見ていると、傭兵だった頃のように興奮めいた昂りを覚える――――”一度覚えた悦びはなかなか忘れられないものだ”とマタイは輸快そうに口元の笑みを深め、クッと小さく笑い声をもらすと、カンビオの灰褐色の瞳が小さく瞬いた。

「…閣下?」
「あぁ、いえ…そういえば、中佐に恋人は?」
「はっ……、は? ぁ、その、じ、自分にはそういった女性は特に…」

 予想外の問いかけに慌てて答えるそれに、マタイはますます笑みを深めた。
 彼が一体何が言いたいのかいまいち測りかねたカンビオは背中に薄っすらと冷や汗を浮かべ、ずいぶんと上機嫌な上官の笑みと合わせるように乾いた声で笑っていれば、ふと、カンビオに向けられていた細い糸目がホール中央へ移動したのを見た。

「閣下?」
「――あなたも彼女も、仕事熱心でよろしい」

 カンビオの視線も、ゆっくりとホール中央へ移動する。
 仕立ての良いスーツの紳士と美しく着飾った淑女たちに紛れ、シャンデリアの光が眩しい大広間を満たすその中心に鮮やかな赤の法衣が見えた。
 屈強な体格は聖職者よりも軍人に見紛うほどのものだが、彼こそがローマ教皇に次ぐ最高権威を手に入れたフランチェスコ・ディ・メディチ枢機卿だ。 カンビオよりも年若いはずだが、整った相貌は充分に迫力があり、どんな年長者にも年下という侮りを抱かせない。

 しかしマタイが見つめているものはフランチェスコではなかった。
 彼の視線の先には、賓客に薄い微笑みを浮かべて挨拶をするフランチェスコの大きな身体の陰になるように立つ、緋色をまとう少女の姿がある。 こぼれたばかりの血のように赤いその色の意味は、ローマでは誰もが知る異端審問局所属の証だ。 少女は頭巾(コイフ)の下で控えめに笑みを浮かべながら、フランチェスコと語る賓客たちにゆるりと頭を下げ、そこにないものとして主の傍に添い、主の語りを見守っている。
 はたから見ればただの飾りのような少女。
 けれど、やわらかな笑みを浮かべているのは客人と対面したときのみで、ささやかな一礼の後は周囲に目を走らせ不穏な要素を探らんとしている。 身につけた僧衣の効果も相乗してか、彼女の姿を見た者は一瞬、表情を強張らせたりとなかなかのボディーガードぶりだ。

(しかし、何であの娘があそこにいるんだ?)

 カンビオも彼女の事は知っている――だが、は元・異端審問官ではなかったか。
 今は緋色の僧衣を脱ぎ、黒い制服を着て衣装班というまったく新しい場所で働いているはずの彼女が何故、再び、異端審問局のそれを身につけているのだろう――?


「やはり彼女には、あの色がよく似合います」


 マタイは満足そうに微笑みをこぼし、見惚れているように少女から視線を外さない。
 その様子から何らかの変更が出たのだと察し、カンビオは苦々しく笑うしかなかった。
 …この青年がとある一件以来彼女に深い執着心を持っていること知っていたが、を見つめる彼の横顔は…その、なんと言うか、まるで、情熱的に恋をする青年のようだ。
 <異端者>と定められた者たちに嘲笑を向け、無慈悲に鉄槌を振り下ろす姿ばかりを見てきた彼の<人間>らしい部分を垣間見た気がする。

「しかし、シスター・の能力は本当に惜しい。
 もう一度異端審問局に戻ってきてもらえれば私も大変喜ばしいのですが…」
「…彼女はなんと?」
「きっぱり断られてしまいましたよ。 本当に残念です」

 その時の様子を思い出したのか、マタイの笑みが輸快そうに深まる。
 カンビオの目にも彼らのやり取りが思い浮かんだ。 おそらく彼女は、なんとも複雑そうな顔をしながらもきっぱり嫌だと告げたに違いない。

「まあ、猊下の命令があれば彼女も協力してくれますし、今はそれで良しとしましょう」

 やはり、今のが異端審問官の僧衣を着ているのは<命令>があったからか。
 カンビオは納得して一つ頷く。

(…ん?)

 そのとき、枢機卿らに近づく小柄な青年の姿があった。
 小柄と言っても成人男性の基準は充分に満たしているのだが、彼が一歩行く度に響く靴音はその体格からでは考えられないほど妙に重い響きがある。 精悍に整えられた面は、煌びやかな世界にはとんと無関心だとでも言うように眉ひとつ動かさない。
 ガラス玉のように無機的な瞳を枢機卿に向けたまま、彼は主の元へ行く。

「あれは…ブラザー・バルトロマイ」

 カンビオは我知らず呟く。
 彼は不審者ではない。 不審者であるわけがない。
 何故なら、異端審問官の僧衣をまとっていることが彼自身の所属を十分に周囲に知らしめた。 招待客の紳士淑女もその色の意味を理解しているからか、彼の進路先にぶつからぬよう誰もが厭うように避けていくも、バルトロマイ自身は眼中にもないらしい。
 フランチェスコの元にたどりついた彼は、主に何事かを告げ、にも一言、二言程度の言葉を交わす――彼女はほんの少し驚いた表情を見せるが、次にはバルトロマイにふわりと微笑んで唇を動かす。 おそらく、”ありがとう”と言ったのだろう。

 バルトロマイがに代わり枢機卿護衛任務に着任したようだ。
 はフランチェスコに深く一礼をしたあと、煌びやかな世界から逃れるように足早に去っていく。


(…それにしても、ブラザー・バルトロマイにあんな笑顔を向けられるのは彼女くらいだろうな…)


 ある意味微笑ましいとも呼べる光景に、カンビオはそんなほのぼのとした感想を抱いていれば。

「…っ!」

 それは、唐突にもたらされた変化。
 ナイフの刃を生肌に当てられたように、冷たい空気が背筋を舐めるように駆けあがる。 それはどこから発せられているのか――なんとなく分かってはいた。 しかしそれを指摘する勇気もなく、すぐ傍からひしひしと感じる冷気にカンビオはごくりと息を呑むしかない。

「カンビオ中佐、あとの事は頼みましたよ」
「……、はっ」

 マタイはいつもの柔和な相貌を崩すことなくカンビオにそう告げると、軍靴を高らかに鳴らし、がいなくなった方向へ歩いてゆく。

 見慣れた背中が見えなくなってから、カンビオはゆっくりと息を吐いた。
 無意識に緊張していた身体は強張りを解き、心底安堵したような表情で口元を緩める。


「っはー…シスター・も大変だなぁ」


 無防備なほど花のように笑う少女に苦笑して、彼女のクリスマスが平穏になることを祈った。













「ふーっ、やっと終わったーぁ!」

 異端審問官の僧衣を揺らして、あたしはぐーっと伸びをした。
 枢機卿の傍だと肩の力など抜いて立っていられないから、おかげで体中が妙に硬くなってしまった。 暖かいホールとは違う外の寒さに筋肉が驚いたのか余計にそう感じる――ずっと緊張しっぱなしだった肩を揉み解しながら、薄く積もった地面の雪を踏みしめた。

(雪、また降りそう…)

 マタイの言った通りになりそうだ。
 月も星も雲に隠された世界は肌を刺すような冷たさだけを増して、夜の深さをあたしに見せる。
 さっきまであんなに近くで耳にしていたオーケストラの生演奏も館の外に出た今ではすでに遠く、パーティー客の談笑もささやき程度のものになっており、そのことにどこかほっと胸を撫で下ろしながら自分がこういったパーティーにむいていないのだと自覚する。 せいぜいホームパーティーがお似合いということかしら。

 でも、バルトロマイのおかげで思ったよりも早く帰れた。
 そのことで彼に感謝しながら、異端審問局の僧衣を着たままかまわず鼻歌でクリスマスソングを熱唱する。

(ケーキでも買って帰ろう)

 今の時間ならまだあの二人も起きているかも。
 ケーキやシャンパンでも買って、修道寮でクリスマスパーティーというのもいい……”どこの店のケーキにしようかな”とほんの少しだけ心を弾ませながら、外に停めてあった教皇庁の何の変哲もない乗用車の鍵を開けて乗り込もうと背を屈める。

 そのとき、助手席に放置された包みに目を止めた。


「――――渡せなかったなぁ…」


 ぽつりと零れた独り言は、誰かの耳に届くことなく車内に溶けた。
 呟きと共に手にしたものは深みのあるブルーの包装紙に、白いリボンをあしらった小さな包み。 中には、誰にも言わずこっそりお店に行って購入したシルバーのブレスレットが入っている…実はこれ、マタイの誕生日プレゼント。

(血で血を洗うようなこともあったけど、色々と助けてくれたこともあったし…)

 過去にあった出来事を思い返しながら、手触りのよい包みの表面をそっと撫でた。
 深みのあるブルーを見つめる自分の目が無意識に、優しく細められているなんて知らないまま。

(…結局、今回も渡せなかったけど)

 安物だけど、ささやかなお礼も兼ねての贈り物だった。
 誕生日が近いとも聞いていたから用意していたのに、でも、勇気がなくて渡せなくて。
 以来、いつか渡そうと思ってずっと鞄にしのばせて持ち歩いていたのだけれど……誕生日プレゼントとして渡せないまま終わったどころかとうとうクリスマス当日になり、ついにはクリスマスプレゼントとしてさえも渡せなかったという最悪のオチを迎えた可哀想なプレゼントになってしまった。

「しかもメッセージカードとか……さすがに、これは恥ずかしいかな…」

 白いメッセージカードに書かれた文章を読み返して、苦笑する。
 雰囲気に呑まれたというやつだろうか。 普段の自分には絶対言えないようなコメントがつづられており、時間が経った今見直すとその内容に変な汗が出てきた。 イベントパワーってすごい。

「でも今回も渡せなかったんだからこれはもう呪われているとしか思えない…教会でお祈りしたって呪いが解けないだろうなぁ」

 帰ったら捨ててしまおう。
 詫びるようにもう一回ひと撫でしてから鞄の中に片づけ、シートに座ろうと身体を起こしたそのとき。

「わっ…?!」

 唐突に、ドンッと背中を押された。
 背に押しつけられた力に抗うこともできず、あたしの身体は運転席のシートを横にまたいで鞄の置いてある助手席に顔面から突っ込む。
 軽い痛みと振動にほんの少しだけ眩暈を誘われるも、起き上がることもできない無防備な背中に何かが圧し掛かってきたことに驚きの声が飛び出した――どう考えても異常な状況だ。 足は開いたドアの外に出ているから踏ん張ることもできず、不利な体勢のなかで唯一自由の効く片腕で咄嗟に肘鉄を当てようと身体が動くも、相手はそれを見越していたかのように腕を掴んで阻むとそれをひねり上げ、あたしの身体をシートに押しつけた。

(しまった…!)

 相手は素人じゃない。
 その直感を正解だと言わんばかりに、ぎり…っと軋むほど強い力に動きを封じられ本能的な恐怖が一瞬にして心を支配した。 頭の中が混乱で真っ白になってしまって、次にとるべき行動を全て忘れて動けない。
 ―――誰か。 と、こぼれかけた言葉は喉に詰まって呼吸を妨げる。
 頬をシートに押しつけた体勢のままでいるあたしの耳元に吐息のようなものが触れて、その熱に息を呑んでいれば低い笑い声が降り注いだ。

 あまりにも聞き覚えのある声のトーンに、別の意味で頭の中が白くなる。


「少々、油断のしすぎではありませんか? シスター・

「えっ…」


 狭いシートの上で仰向けに転がされながら、頭上で両手首を固く縫いとめられる。
 車の天井が視界に入ると同時に、やさしく整えられた相貌があたしの見ている世界の大半を占めた――そこで初めて男の正体を視認して、恐怖にこんがらがった思考は一斉に動き出す。

「マタイ?!」
「もう少し、周囲を警戒したほうが良い」
「何言ってんのよ! こんな馬鹿なことしてないで早く放し……っんん!」

 咬みつくように重なった唇に、怒鳴ろうとした言葉は一気にしぼんだ。

 突然自分の身に降りかかった出来事に思考がついてこない。
 抵抗する術もなく貪られながら、くすぐるように顎を撫でた指先はゆっくりと首筋を下り、異端審問官の僧衣に浮かぶ身体のラインを滑るようになぞって、開いたままのドアの外で折れた膝頭の上で止まる。
 荒々しいキスと違い、その繊細な手つきは裸婦の石像を品定めをする鑑定者のようだ。
 傷をつけまいとしながらも価値を調べようと丹念に撫でまわり、自らの知的探究心を満たそうとする――この男の場合は知的探究心ではなくまったく別物だろうが、それを考えて、どうしようもなく恐怖を覚えた。

「…っや、めて…」
「神に身を捧げる修道女でありながらそのような声で請うとは……、許し難いですね」

 キスで微かに弾んだ息を整えながら細い糸目をより細め、呼吸に上下するあたしの胸に手を置いた。

 心臓に近い位置に置かれた手の平は広くて大きく、硬い。
 そのまま心臓を抉り取られてしまうのだろうかとぎゅっと目をつぶると、ブチッと鈍い音をたてて何かが引きちぎられる――それは、今はいない家族からもらったとても大切なロザリオ。
 ばらばらと車内に落ちていく数珠たちに思わず身を起こしかけるけれど、両手首を戒めるマタイの腕の力は少しも緩まず、睨めつけるような鋭い眼差しを浴びせても薄い微笑みはいっさい崩れることはない。

「いっ…!」

 手荒く銀の留め金も外され、緋と黒を基調とした僧衣を開いた隙間から肌が露になる。
 レースがかった下着ごと引き上げられ、こぼれるように現れた裸の胸。
 羞恥に頬を染める間もなく淡く色づいた先端にマタイの息を感じた瞬間、全身が痺れるような感覚に悲鳴が出た――熱く濡れ、ざらついた舌は理性の全てをさらいあげる――心まで、さらわれそうになる。

「やっ、やだ…マタイっ、んん…!」

 自由の利かない腕にも構わず無理矢理に身体を捩るけれど、この男の力の前では意味がない。

 そんなあたしを見て、クッと喉を鳴らすマタイの舌の動きは止まらなかった。
 誘うように主張を始める蕾をからかうように歯をたてて、甘い味がするのだとでも言うように敏感な場所を丹念に舐め取る。 狭い車内に響いて鳴りやまない、滴るような水音にどうしようもなく泣きたくなっても、両腕を囚われている今では頭を振りながら淫らな声を出すことしかできない。

「はっぁ、ァ…あぁっ」

 執拗な愛撫にびくびくと身体が跳ねる。
 背筋だけでなく体中にまとわりつく甘やかな痺れにたまらなくなってきゅっと唇を噛み締めると、にじむような血の味がした。 不味い。 自分でもそう思うのに、マタイはそんなあたしの唇にやわらかく唇を重ね、唇についた甘いジャムを味わったみたいに舌舐めずりをしてみせた。

 ひどく厭らしく見えるその光景に、身体の熱がまた上がる。
 肌に浮かぶわずかな汗に気づいたのか、マタイの手がゆっくりと下腹部に移動した。 まだ乱れのない僧衣の上から探り当てるようになぞって中心部に行きつくと、腰に回っていたあたしのベルトを器用に解いてファスナーを下ろし、長い指の腹で薄い布越しにその場所を撫でる――しまった、と我に返ってももう遅い。

「そ、そこ、は…っ」

 甘く疼き始めた場所を無遠慮に触れられ、声を上げるあたしの姿にマタイは薄く目を細めた。



「あなたは―――他の男にも、あのような笑みで誘うのですか?」


「……え?」



 不意に、声が降りかかる。
 マタイの唇がそっと寄せられ、からかうようにもう一度唇に吸いついたあと詫びとも嘲りともまったく違う言葉が出てきた。

「猊下にも、バルトロマイにも。
 私にも花のように微笑んでおきながら、濡れた声で拒絶して深みに誘い込む―――罪な人だ」

 そこで初めてマタイの唇が嘲笑の孤に描かれる。
 いつもと違う形を描いたそれに憎しみめいた感情を見つけ、あたしは混乱するばかりだ。

(な、なんで)

 怒ってるの?
 怒ってるから、こんな事するの?

(…う、また、泣きそう)



 ―――心のどこかでマタイを信じていたからだろうか。



 何故か分からないけれど、すごくかなしい。
 そんな自分の気持ちを初めて自覚してしまって、そのことに泣きたい気持ちになりながらそれでも挑むように目の前の男を見上げた。
 泣いてはだめだ。 マタイの前で泣くのは嫌だ。
 泣いてしまえば、訳のわからない彼の怒りは正当なものだと認めることになってしまう―――あくまで強気なあたしの態度に、眼差しを受けたマタイが力を込めた。

 手首の骨が、軋む音を聴く。
 たまらず痛みに顔が歪む。 けれどそれは一瞬で終わった……何故なら、吐息が触れ合うほど近くにあるマタイの前髪があたしの前髪と混ざり合ったとき、その力は今にも振り払えそうなほど緩められたから。



「…マタイ?」


「たとえ罪人でも―――私はあなたを欲するでしょう」



 頭上に縫われた手首も、解放される。
 ゆるりと離れたマタイの手は肩をすべり、頬を撫で、触れるだけのキスを繰り返す。




「繋いで、閉じ籠めてでも私だけのものにして―――私が、あなたの罪を浄化しましょう」




 マタイだけのものって、どういう意味…?




 言葉の意味を問おうとしても、それは言葉にならなかった。
 凄絶な言葉にはまったく似合わない慈しむような口づけに、名を呼ぶことも遮られる。 その間にも薄布越しに秘部を愛撫する行為は続けられ、本格的に汗ばむ身体はどうしようもなく体温を上げた。
 マタイがいるからドアが開いたままで寒いはずなのに、左右のシートをまたいで重なり合う二人の間の熱気は濃厚になるばかり。
 そのうえ、先ほどのものとは違うずいぶんと甘いキスの雨にくらくらと眩暈を誘われて、睨むことも拒絶することもできない。 まさに骨抜きになされてるって感じだ。

「ぁふっ…ン、…っ」

 舌をきれいに絡め捕り、じっくりと味わうような。 上手な、キス。
 きっと、たくさんの女の人ともしたことがあるんだ……そんなどうでも良いこと(いや本当は良くないけど)を考えてしまうくらい、あたしの思考力もすっかり鈍ってしまったようだ。
 無意識のまますがるように手を動かせば――ばさっ、と座席の足元に何かが落ちる音がして、とたんに夢から醒める心地で意識が現実に戻った。

「…?」
「…え…」

 何が、ぶつかったのだろう。
 不思議そうに顔をあげたマタイと同じタイミングで座席の足元を見れば、あたしの鞄が倒れている。

(あ、あああああぁぁああああ?!?!?!)

 鞄の口からこぼれ落ちているブルーの包みを見て、心の中で大絶叫が沸き起こった。
 誰にも言わずひっそり買ったマタイへのバースデープレゼント。
 裸の胸を隠しながら慌てて包みに手を伸ばすも、それよりも先にマタイの手が包みを掴んでさらなる悲鳴があがる…ああああああやばい、どうしよう!!

「だ、駄目! それはだめ!!」
「…他の男からの贈り物ですか?」

 不愉快そうに言った言葉にぶんぶんと首を横に振った。
 彼はその反応が疑わしいと言わんばかりに眉を寄せたけれど、さすが抜け目のないマタイと言うべきか。 鞄の陰に落ちていた白いメッセージカードにも気づいてしまった。


「わーっわーーっっ!! だめ! 見ないでーーー!!!」

「何をそんなに慌て……、……………………………」


 マタイにしては珍しく、なかなか長い沈黙が車内に満ちた。
 嫌な沈黙だ。
 しかし彼はあたしをシートに押し倒した体勢のままカードの文字をじっと見つめて、「ふむ」と、何やら頷いた。

「バースデープレゼント…いや、クリスマスプレゼントでしょうか?」
「………っ」

 別に、愛の告白とかそんなのを書いてるわけでもないのに何でこんなに恥ずかしいんだろう。

 そんな事を考えるも、ああもにこやかに言われてしまえば羞恥に顔を背けるしかない。
 赤くなるのを止められない顔を隠すように腕を覆っても、それはすぐに退けられた。 覗き込むように迫る柔和な相貌には先ほどの怒りは消え失せて、やさしいほどに笑みをたたえた唇からは楽しそうな声であたしの名前が紡がれる。






(なっ、名前…?!)


「いま、とても―――あなたを愛したいのですが?」



 なだめるような声で言われてもどう答えればいいのか分からない。

 ……いや、ちょっと待て。
 あたしは襲われているはずだ。 これは理不尽な奇襲のようなもので、マタイの頬に思いきり平手打ちをくらわして逃げたってなんの罪にもならないだろうに、何を躊躇っているんだろう。 躊躇うことなんてない。 ぶっ飛ばせばいいんだ。 股間蹴りあげて再起不能にしたっていい。

(で、でもっ)

 心がいろんな感情に翻弄されて、完全な拒絶ができない。
 あと少しで掴めそうな自分の気持ちが混乱と戸惑いばかりを生んで掻きまわす。
 うあうあと口ごもって答えあぐねていれば、マタイは”無言は肯定と取ります”と涼しい顔であたしの僧衣の下衣を引き掴むと、一息に剥いだ。 まるで何かの手品のようにあっという間に腿や臀部をマタイの目の前に晒されて、足先まで抜けて行ったそれは運転席の足もとに捨てられる――制止の意味をこめてたまらずマタイの腕を掴む。

「マタイっ…!」
「安心してください、あなたには酷い抱き方などしません」

 ”たまに、壊したくもなりますが”と呟きながらうやうやしい動作で、マタイの唇が開かれた内腿に触れる。
 ちゅ…とやさしい音をたてながら視線を秘部に落とし、強引に開かれた中心を愛でるようにゆっくりと指をすべらせる――滴るような水音がこれ以上なく今のあたしの身体の状態を知らせて、羞恥に全身が熱を上げて火照り出す。 昂るばかりの熱のせいで、泣き出しそうなまでに目が潤んでいるだろう。
 正常な呼吸のペースを忘れてしまったみたいに必死で息をしようとするあたし両脚をマタイは抱え、そのうちの一つは肩に掛けた。 肩にかけられた足先が、ごつんと車内の天井に当たる。

「ぁ、っ…」
「主よ、貴方の愛しい御使いを奪う私をお許しください――…」

 聖句を唱える使者のように厳かに告げ、マタイは腰を引き寄せた。
 秘奥への入り口に、脈打つ熱を押し付けられる。
 ただの熱ではない。 これは、マタイの。 硬く芯を持って起ち上がるそれをすりつけられて期待に疼く身体はなんて厭らしい。 ぬるぬると蜜ですべり往復する動きに気がおかしくなりそうなのに、全身でその時を待ちわびている。

「んっ、ああぁ…! は、はぁ、あ、ぁッ」
「…っ」

 次の瞬間、思考と視界が弾けるように白む。
 杭を穿たれた身体はぎこちなくマタイを受け入れて、思考放棄を甘く促す。 ほろりとこぼれる涙は痛みのせいか快楽のせいなのかも分らない。 揺さぶられるたびにほろりほろりと頬を伝い、シートに小さなシミを浮かべてこの現実は夢ではないと訴えた。

「はぁっ、ァ…! マ、…んぅ…や、ぁっ!」
「ああ、そんなに声を出して良いのですか? …誰かに聞こえてしまうではないですか」

 薄く微笑みながらの指摘に、理性が一瞬だけ我を取り戻す。
 ―――そうだ。ここは外で、まだ館の駐車場なんだ。
 クリスマスパーティーも佳境を迎え、館の宿泊施設に泊まる賓客もいれば、そのまま帰路につく賓客もいる。 車体は異常に揺れてるし、ドアは開いたままだから声なんて―――!

「マタ、ィ、やだっ、おねが…っ」
「んッ…そんなに締め付けないほしいですね、あなたを味わう余裕がなくなってしまう…は、ぁっ」
「や、やぁっ、やだ、いやっ…!」

 誰かに見られるのも、車の中での行為を知られることも嫌で、首を横に振って嫌がるあたしにマタイは笑みを深めるだけだ。 構わず腰を推し進められ、奥に潜ろうとする彼が動くとその肩に乗せられたあたしのつま先がゆらゆらと揺れている光景が視界に入る。 それにまた涙をこぼしてしまえば、屈みこんで顔を寄せてきた彼の薄い唇に目元を甘く吸われた。

「仕方がないですね…」

 はぁっ…と甘く息を吐いてそう言うと、マタイはあたしの身体を抱き起こす。
 それと同時にマタイも車の中に乗り込み、ドアを閉めて運転席に腰を降ろすとその膝上にあたしの身体を引き寄せた。
 いまいち身体の力が入らずくたりともたれかかるようにマタイの胸に手をついて荒く呼吸を繰り返していると、彼の軍服の上着が頭と裸の肩にふわりとかけられ、覆われる。 脱いだばかりのそれはとても温かく、冷気にさらされた肌を守ってくれるその温度に、愛しさに似た感情が心に灯った。

「…ぁ、ありが、とう…」
「…風邪をひかれると困りますから」

 礼を言われたことが予想外だったのか。
 マタイはほんの少しだけ間を空けてからそう言って、わずかに触れるだけの口づけを贈る。 どこまでも甘く蕩けそうな愛撫に夢中に応えていると、再び繋ぎ合わされた部分を掻き混ぜるように腰を動かし始めた。

「あっ…ァ!」

 突然の衝撃に声を抑えられなかった。
 下から突き上げる動きに全身が震える。 厭らしく揺れる乳房を揉みしだかれ、仰け反りに露になる喉への甘い噛みつきにマタイを受け入れた胎内はよりいっそう収縮を強める。

「はっ、ぅ、っふ、ンンッ…」
「っ…は、ぁっ」

 今にも、意識が飛びそうだ。
 それが怖くてマタイの首にすがりつくように腕をまわすと強引に唇を開かされる。
 ぶつかるように唇を重ね、その柔らかさを堪能するために絡まる舌の動きは別の生き物のよう。 口の端から唾液がこぼれるのも構うことなく求め合う姿も、どうしようもなく渇いた土を思わせた。

 その行為の途中で、あたしの中に終りが見え始める。
 快楽の波がぎりぎりまで意識を覆い、焦りにも似た性急さに掻き立てられる。
 マタイの頬に頬を寄せ、彼のおさまりの悪い黒髪をまさぐりながら深く息を弾ませていると、腰を支えていた両手が臀部の肉を掴み、抽出の速度を上げ、それまでにわずかに残っていた丁寧さを捨てて野性的な部分を全面に押し出した。

 急に変化したスタイルについていけなくて、また淫らに、声があがる。

「はっ…少し、急ぎますよ…くっ…!」
「あっ、ァ、ふぁッ、ん、っぅ…っま、マタイ…!」



 あとはもう、何がなんだか。



 掴みかけたと思った自分の気持ちなんて、あっという間に波に飲まれて消えてしまった。











 ―――しゅっと軽い音をたて、白いシャツの袖に腕を通す。
 胸のボタンを止める手を動かしたままベッドサイドの時計を見やると、針が指し示す時刻は夜明けに近く、やがて、クリスマスを終えた世界は日の出とともに普段通りの日常に戻るだろう。

「ああ…やはり、降りましたか」

 館の一室の窓を閉じていたカーテンを引き、マタイの口元はゆるりと笑みを浮かべた。
 日の出前ゆえに薄暗くも少量の雪がちらちらと降り注ぎ、新しい白色でローマの街を染めている。 それは美しい景色として演出するに最高のシチュエーションだが、生憎と、景色を見せたい少女は深い夢の中だ。
 乱れきったシーツを身体に巻きつけるように眠る彼女の瞼は瞬く素振りもない。
 涙が残る眼尻に触れ、マタイはその雫を拭い取る。 白い首筋に残る情痕に満足を示す笑みに唇を歪め、椅子の背に投げ捨てられた軍服の上着を手に立ちあがった――もっと彼女を独占していたいが、自分にはまだやるべきことがある。

「…っと」

 ひとつ、忘れていた。
 デスクの上に放置されたままのブルーの包みを手に取り、リボンを解くと四角い黒箱の中から現われたのはシルバーのブレスレット。 銀色に輝く華奢な細工のそれをマタイは興味なさそうに一瞥をしてから箱を置き、ブレスレットを手に取る。

 普段ならこんなものに興味はない。
 だが………引きちぎりかけた腕の力を緩め、そのまま手首に通した。
 アクセサリーには興味はないが、これをの代わりと思えばそれも悪くはない―――シャラリと細い音をたてて手首に収まる銀色をいとしげに口づけてから、軍服に袖を通す。
 なるほど、シンプルなデザインのこれなら軍服でも僧衣でも引っかかることなく邪魔にもならない。 彼女らしいささやかな配慮に自然と唇が綻んだ。

 まだ起きる気配はないので、何も告げず足音を殺して部屋を出る。
 深夜まで続いたパーティーは閉会したのか、館の隅々にまで響いていたオーケストラの演奏は消えてなくなり、光が溢れていた通路は夜明け独特の静けさを漂わせている。
 収まりの悪い黒髪をベレー帽で整えながら枢機卿の部屋へと向かうその途中、マタイは部下とミーティングをしていたらしいカンビオの姿を目に止めると、ゆるりと笑みを浮かべて声をかけた。

「御苦労さまです、カンビオ中佐。 何か問題はありませんでしたか?」
「はっ、閣下。 警備上の問題は特にありません!」
「そうですか」

 問題ないなら、朝の予定に向けて手配を整えなければ。
 枢機卿のスケジュールが書き込まれた手帳をめくりながら次の予定に思考を巡らせていれば、ふと、カンビオの視線がマタイの手首に落ちていることに気付く。
 その視線の意味に気づきながら、マタイはあえてからかうように問いかけてやる。

「中佐、何か?」
「いっ、いえ…」
「そうですか。 では、警備の他に問題がなければ今後の予定を確認したあと私は部屋に戻ります。 以降の指揮は中佐におまかせましますがよろしいですか?」
「はっ!」

 敬礼は完璧だったが、瞳の奥には”ああ、やっぱり”といった感想が浮かんでいる。
 それを指摘するとかなり慌てるだろうが―――まあ、良いだろう。 今日のところは許してやるとしよう。

「それではこれで、最終確認は以上です。
 猊下の起床は六時ですので、15分過ぎてでも部屋から出てこられないようでしたらモーニングコールをよろしくお願いします」

 あの枢機卿が寝坊するという姿を見たことはないが、執務に滞りがないよう義務付けられている。
 ”メディチ枢機卿にモーニングコール…”と恐れおののくようにカンビオの表情がますます硬いものになりつつあるが、マタイはそれを愉快そうに微笑んだあと、”ああ、そうだ”とカンビオに振り返る。



「この辺りに、花屋と美味しいレストランを知りませんか?」

「…は?」

「クリスマスも終わりましたが、仕切り直しというのも良いかと思いまして」




 ……シスター・は今夜も大変そうだ……。




 今も部屋で、ぐっすりと眠っているであろう少女に向け。
 アルノルト・ディ・カンビオは再び、彼女の日常が平穏であることを祈るのだった。

君に歌われるクリスマス・キャロル - Part M -

手こずりましたが愛をこめてメリークリスマス。
マタイに夢見過ぎているような気がしないでもないですが。
こんな優しくはない気がする…もっと痛めつけてそうな気がする…マタイの鬼畜基準が分かりません。平気で縛ってそう。(秋乃ォォォ!)

カンビオ中佐はトリブラ聖典だと「かわいそうなキャラ」に位置づけされております。
コミックスには登場していないと思いますが、原作ではジャッジメントデイの他に嘆きの星でも登場。
ジャッジメントデイでは、パウラに止められなかったら、マタイに無理矢理命令されて住人もろともローマを破壊しそうになったんですって。鬼過ぎるよマタイ。
2009.1.3