たとえ憎しみに満ちた過去から解放されても、
貴方のことを忘れられなかった自分は愚かでしょうか
「パーティーにお招き頂きありがとうございます、フィレンツェ公。
長らくお会いしておりませんでしたが、お変わりなく安心いたしました」
「ベルナルト卿…こちらこそ、遠路はるばるお越しいただき恐縮です。
年明ける前には一度、諸卿らに日頃の感謝をお伝えしたく思い今夜のパーティーを開催させて頂きました。 ごゆるりとおくつろぎを…」
繊細な音の重なりから生まれた演奏が、煌びやかな会場に満ちていた。
それらを聴覚の片隅で受け入れながら、普段では浮かぶことのない薄い微笑を口元に添えフランチェスコは目礼する。
高位の聖職者であることを示す緋色の法衣をまとった偉丈夫から確かな礼を受け、まんざらでもない笑みを返すのは恰幅(かっぷく)のいい紳士だ。 仕立ての良い黒のスーツを押し上げる大きな腹を揺らして笑いながら、ウエイターから受け取ったワイングラスに口をつけ、その芳醇な味わいに目を細める。
「今回は私の息子、リオロも同席させていただきました。
若輩者ではありますが猊下のお力になれますよう、今後ともご指導よろしくお願いします……ん? リオロはどこへ……」
ベルナルトの視線が、少しばかり離れた場所で談笑している青年に向けられた。
父親とは違いスレンダーな体格だ。 貴族のたしなみとして適度な稽古でもしているのか筋肉はついており、長身だ。 亜麻色の髪を丁寧に整えた横顔はそれなりに品があり、ハンサム、と例えても構わないだろう。
しかし、令嬢たちの肩や腰に気安く手を置いている光景を目撃したベルナルトが”またか…”と呆れたようにため息を吐く。
「申し訳ございません、甘やかして育ててしまったようで…」
――どうやら、この一家とは父親の代で終わるとみても良いようだ。
そんなことを内心で呟きつつフランチェスコは「いいえ」とかすかに首を振ると、ベルナルトは安堵に胸を撫で下ろし”連れてきますので、少々お待ち下さいませ”と告げ、息子の元へ走って行った。
(……くだらん)
内心でそう吐き捨てる。
枢機卿に紹介をして、とりあえず名前だけでも覚えさせようという考えか。 ベルナルトとしてはまだまだフランチェスコの恩恵を賜りたいといったところなのだろう。
だがそれはフランチェスコも同じだ。
ベルナルト自身は商才に恵まれ、彼が長きに渡り培(つちか)ったその財力はローマでも指折りのものだ。 切り捨てるには簡単だが、父親が健在であるならベルナルト家に価値はある……彼の息子が父親の財産に手を出して遊びほうけるようになるまでは利用させてもらうとしよう。
(ボルジアのような者であるなら、まだ使い道もあっただろうがな)
”教皇庁”で<軽薄な若者代表>のアントニオの緩み切った顔を脳裏に描きながら、フランチェスコはワイングラスを手にとった。
本日、12月25日ではローマ各地で大がかりなクリスマスパーティーが開催された。
七十名の枢機卿たちが主催とするそれを「日頃の感謝を伝える」と称したが、フランチェスコにとってはただの腹の探り合い、もしくは今後も繋がりを保って価値があるのかどうかという見極めの集まりに過ぎない。
とはいえ、こういったイベントで深まる縁もあるのだから無視もできず、慣れぬ微笑まで浮かべこうして挨拶回りを行っているのだが――いまだ息子にてこずっているベルナルトの姿を退屈気に見やり、フランチェスコは小さくため息を吐く。
やはり今回は、有望な人物を得ることはできないようだ。
自然と聞こえてくる紳士淑女の面白みもない噂話に辟易(へきえき)しながらその場に佇んでいれば、その背後から近づく気配を感じた。
知っている気配だ。
特に驚くこともなくワイングラスの中で揺れる赤い液体に視線を落としながら、フランチェスコは背後の気配に向けて言葉を投げやった。
「承諾したとはいえ、お前が私の警護とはやはり心もとないな」
「――申し訳ありません猊下。 あと数十分でバルトロマイが戻りますので、それまで御辛抱くださいませ」
自分の非力さを十分に理解しているのか、その声音は心底申し訳なさそうだ。
フランチェスコの軍刀色の瞳がグラスから背後に立つ尼僧へと向けられて――ほんのわずかに、その瞳に懐かしむ色が混ざる。
「…その姿はどうした」
「ぅ…こ、今回ばかりはお許しください。 異端審問局を辞した身ではありますが、こちらのほうが威嚇にもなるだろうと………、マタイが」
どこか不貞腐れるように呟くに、フランチェスコは愉快気に喉を鳴らした。
誰もが恐れるであろう血色の僧衣をまといながら不満な色を隠しもせず表情に浮かべる愚直な部分は、二年前、フランチェスコの手から離れた時から変わっていない……そう、彼女の内面が変化するほどの年月も経っていないというのに、こうも懐かしいと感じるのは、あのときの彼女があまりにも近くにいたせいか。
肌を重ね、互いの熱を分かち合うほど―――近く。
だが、その行為は恋人などという甘やかなものではなく、代価と名のついた戯れに過ぎない。
(…あれから三年か)
初めて顔を合わせたのは三年前。
吸血鬼への憎しみに身を焦がした彼女が求めたものは”力”。
それを得るため、金も権力もないはフランチェスコが望むままに身体をひらくしかなかった。
どんなに淫らな行為にも命じられるままに受け入れた。 フランチェスコが持つ強大な軍事力…吸血鬼を討つ”力”を手にしたいがため、異端を滅ぼす”剣”を授かろうと文字通りに身を捧げてきた。
望まれるまま抱かれるという点では他の女たちと同じだろう。
だがの場合は―――他の女とは、何か違うものを持っていたような気がする。
(……)
不意に、疑問を持つ。
他の女たちと何が違っていただろうか。
何故、そんな事を思ってしまったのだろうか……思考の片隅に覚えた引っかかりを解こうとさらなる奥へ記憶をめぐらせようとしたそのとき、ベルナルトがリオロを連れて戻る姿を視界に認め、思考することを中断した。
ようやく説得に成功したらしい。
見苦しいほど額に汗を浮かべ、フランチェスコの顔色を伺おうとその面を上げる。
「も、申し訳ありませんフィレンツェ公。 こ、こちらが、息子のリオロです…」
「…お初にお目にかかりますフィレンツェ公。 リオロ・ベルナルトです」
恭しく礼をしてみせるも、どこか気だるさが見える。
大抵の者はフランチェスコの気迫に圧され畏縮するなりなんなりと反応を見せるのだが…なるほど、別の意味でこの男は大物とみて良いようだ。 物怖じしない性格ならば、捨て駒として利用するには使い道があるかもしれない。
そんな感想を抱きながら応えていれば、後ろに控えていたが眉をしかめたことに気付く。
気だるげな挨拶を枢機卿に対する不敬だとでも感じたのか。
ベルナルトが戻った時に見せた薄い笑みは消え、今では嫌悪にも似た表情を浮かべている――そんな彼女の姿を、リオロの碧眼はじっと見つめた。
珍しいものを見つけたように上から下まで、青年の目が動く。
やがてその唇が厭らしく歪められたのを見ると、フランチェスコは小さく息を吐いた。
(筋金入りの女好きのようだな)
面倒事が起きないうちに退散したほうが良さそうだ。
フランチェスコはリオロとの他愛ない話を早々に打ち切ると、背後に控えていたベルナルトへ面を向ける。
「では、ベルナルト卿。 私はこれで失礼させて頂く」
「え、そ、その、もう少々お話しを…」
ベルナルトの言葉を黙殺し、を従えてフランチェスコは他の客の元へ足を向ける。
話す意思も時間もないというそれは誰もが理解できただろう……だが、それを無遠慮に呼びとめる声が上がった。
「お待ち下さい、フィレンツェ公」
不愉快さをにじませる軍刀色の瞳が、軽薄な青年の碧眼を射る。
隣で慌てる父親を尻目に一歩踏み出したリオロは、先ほどの気だるさを脱ぎ捨てたように華やかに微笑むと優雅な仕草で一礼した。 艶めいた亜麻色の長髪を揺らして礼をする姿は、充分に貴族である気品を漂わせている。
「そんなに急がずとも、父にもう少しお時間をいただけませんか?
つい先日新しく仕入れた品の中にはとても珍しい宝石や開発されたばかりの銃器の類がございます。 ぜひともそれらを、フィレンツェ公にお贈りしたいのですが」
「そ、そうなのですっ。 これがまた稀に見る珍品でして…別室にご用意しておりますので、よろしければ今からでもご覧になりませんか」
息子の勢いに乗ったベルナルトが活き活きとした表情で、饒舌にしゃべりだす。
熱く語られる新兵器の説明を聞きながら、立ち止まり無言を通すフランチェスコへリオロはにこやかに言葉を続けた。
「それにしても、この館にある庭や装飾品は大変素晴らしい。
ぜひとも館内を案内をしていただきたいのですが…フィレンツェ公。 そちらのシスターにお願いをしても良いでしょうか?」
―――やはりそうきたか。
隠し切れてもいない下心に冷ややかな視線を送りながら、フランチェスコはちらりとを見る。
まさか自分に指名が来るとは思っていなかったのだろう。
リオロに対して感じていた不快感が飛んでいったように目を丸くし、「えっ」と驚きの声をもらして茫然とする。 しかしそれはほんのわずかな間だ。 すぐに姿勢を正して気を取り直すと、丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありません、私には猊下の護衛という任務がございます。
案内係でしたら他の者をご用意いたしますので…」
「…シスター、僕は君に頼んでいるんだけど?」
「……ですが、」
リオロの思惑を感じ取って、の表情が曇る。
さらに、命令もなくフランチェスコの傍を離れるわけにもいかないと考えてか、なんとか理解してもらおうと彼女なりに言葉を選んで言い募るも、リオロのほうが一枚上手らしい。 何を言っても巻き返される。
(……それでよく生き残れたものだ)
このように、フランチェスコの護衛として側に仕えたシスターが目をつけられるのはよくあること。
異端審問局副局長のシスター・パウラとて同じだ。
氷像のように美しい彼女の美貌に触れようと言葉巧みに近寄ろうとする輩があとを絶たなかったが、パウラは上手にそれを避けた。 強引にでも事に及ぼうとした者もいたが”死の淑女”と恐れられた女に敵うはずもなく、それらは事件になることもないまま終えた。
だがは違う。
はパウラのように戦闘能力に特化しているわけでもないから、強引に事を進められてもパウラのようにはいかないだろう―――フランチェスコは呆れるようにため息を吐き、を見下ろした。
「何をしている、シスター・」
「…も、申し訳ありません」
「――バルトロマイも直に来る。 彼の案内をしてやれ」
の表情の強張りが、さらに強くなった。
彼女の瞳がすがるようにフランチェスコを見上げる。
だが、フランチェスコはそれを射返すことで跳ね除けると、立ち尽くすの隣を横切る際にさらなる追い討ちをかけた。
「案内だけならお前にも出来るだろう」
「……はい」
力なく応えた声が、フランチェスコの鼓膜を撫でて消えていった。
分かってはいたのだ。
あの人にとってあたしは、その辺に生えた雑草みたいなものだってことくらい。
(…分かってたのに、なんでこんなにショック受けてるんだろ…)
くすぶるような、もやもやとする自分の心が分からなくて。
はぁ…、と無意識のうちにため息がこぼれた。
落胆にも似た憂鬱な気分のまま、蝋燭の明かりが並ぶ薄暗い通路を歩く。
夜の空に月が出ていないせいもあるのだろう。 煌々とした光に包まれた眩いホールに比べたら、蝋燭の明かりだけ保たれる通路の暗さが目についた。 パーティーも終われば館の全てがこの明かりに支えられる事となるだろう。
その暗さに、初めてあの人に部屋に招かれた三年前を思いだす。
暗くても感じ取れる部屋の広さに戸惑う暇もなく、異端審問局への配属の代価として強引に抱かれた。
他人の熱。 他人の匂い。
引き裂かれるような痛みと昇りつめた先に見つけた快楽は、三年経った今でも記憶に残り、こうした暗闇を見ると鮮明に思い出してしまい、その生々しさが恥ずかしくて両手で顔を覆いたくなる。
(……あんなの、ただの取引なのに…なんで忘れられないのよっ)
ふと、先ほど向けられた偉丈夫の、素っ気ない横顔を思い出す。
一度もこちらを見ることのなかったその姿に、分かっていたことを改めて思い知らされたような気がしてぎゅっと唇を引き結び、泣きたくなるような気持ちを堪えた。
――やさしくされたこともないのに、どうしてこんな気持ちになる?
自分が何を想うのかすら把握しかね、戸惑いを振り切るように通路をズンズンと進む。
そのとき、後ろからついてくる青年……ひたすら喋り続けていたリオロ・ベルナルトが「ねえ」と声をかけてきた。
「……何でしょうか?」
「こっちに行きたいんだけど」
リオロは淡碧の瞳を細め、庭園へと出る道を指し示した。
薄く積もった白雪と淡く灯されたライトアップのおかげで、月のない夜でも足元は十分見える。
”今日は冷えるなあ”と呟きながら低い階段を降りるリオロの後に続きながら周囲に目をこらすも、誰の姿もなく、雪化粧をほどこされた薔薇のアーチと丁寧に刈り取られた茂みがあたしたちを迎え入れた。
視点を動かすと、茂みを越えた先を行ったところにパーティー会場のホールが見える…せっかくのクリスマスパーティーを退屈そうに過ごす、あの人の顔が自然と脳裏に思い浮かんだ。
(…ドゥオ、猊下の傍にいてくれてるかな…)
ホールから響く演奏が耳に届いて、音色に誘われるように光がこぼれる窓を見つめていると、リオロがあたしを見て笑った。
けれどそれは、親しみの欠片もない嘲笑めいた音がこもっていたのが分かる。
”何がおかしい”と挑むように目を向けると、彼は口元に手を当てて笑いをこらえられないと言った風に喉を鳴らした。
「いや、だってねぇ……シスターはそんなに枢機卿猊下が心配?
あんなつまらなさそうな男のどこがいいんだか僕には分らないな」
「言葉を慎んでください、無礼です」
苛立ちを秘めた眼でリオロを睨むと、軽薄な笑みがさらに深められた。
からかわれている。 フランチェスコ様をネタに遊ばれているということも分かる。――でも、あの人のこと侮辱するリオロの言葉は怒りを沸かすには十分だった。
次第に険を増していくあたしの表情を見てリオロは妖艶に笑みを深めると、一歩、あたしに向けて歩き出す。
「いいねえ、その強気な顔」
「……そろそろ戻りましょう。 ベルナルト卿もお部屋でお待ちです」
「父さんは、僕が戻るわけないって知ってるよ」
先ほどから感じていた、嫌な予感が目の前に迫る。
これに呑まれたら終わりだ。 それでも取り乱すことなくリオロに背を向け、平静さを保ちながら階段を上がり通路へと足を踏み入れた瞬間―――背後からぎゅっと抱き締められた衝撃に呼吸が止まった。
「っ…!」
「女の部屋に泊まるだろうって思ってるよ」
囁き混じりの笑い声が、吐息が、くすぐるように首筋を撫でる。
亜麻色の髪が視界の隅にちらつくほど密着した状態に悪寒が走った。 反射的に振りほどこうと身を捩らせるも、腕を掴まれて後ろ手に回される。 相手に背を向けた格好のまま通路の壁面にどんっと押しつけられると、衝撃にまた、息が詰まった。
「っん…!」
「ねえシスター……修道女は処女って本当かい?」
何かを期待するように骨ばった手が臀部を撫で降りる。
身体のラインをなぞるように往復する。 厭らしく這いまわるその手が、隠された宝物を探り当てるように丁寧な仕草だったから思わず鼻で笑ってやった。 処女目当てでこんな事をしでかしているのであればなんと馬鹿らしい。
不敵に笑う反応が気に食わなかったのか、肩越しに淡碧の瞳を向けられる。
「何が可笑しい?」
「ふふ…いえ、失礼。 リオロ様は処女がお好きなのですか?」
”だとすれば残念でしたね”と続けて言うと、背に回された手首を締める力が強くなる。
歯を食いしばってこぼれそうな声を堪え、それなりに整った相貌を歪めた青年に薄い微笑を投げやった。
こんな男に怯んでいるなんて知られたくない。
負けてたまるかという気合だけで、挫けそうな心を奮い立たせる。
「この身はすでにあの方のもの……そう易々と、アンタなんかに抱かれてたまるものですか」
そう。 この身体は、あの人のものだ。
無力だったあたしに剣をくれた、あの人だけのもの。
あの人がいなければ、あたしはきっと、復讐に身を焦がしながら無力のままだった。
―――復讐を終えてもあたしの中にずっとあの人がいるなんて、今でも不思議だけど。
「汚い手で触らないで」
「……ふぅん、それが素ってわけかい?」
興味が失せてくれたらいい……なんて、甘い考えだったみたいだ。
遊び慣れたこの男が抱く、そこら辺にいる女と同じであるということを理解してくれたらそれでいいと思って言ってみたけれど―――その願いも虚しく、腕の力は緩むどころかより強くなって失敗に終わったことを知らされる。
「っ」
「僕を馬鹿にするなよシスター。 お前みたいな女なんて僕が一言いえばどうとでもできる」
身につけているものを解こうと這いまわる手に嫌悪を覚えて睨めつけても、熱を帯び始めた男の双眸にあたしの顔は映らない。 この男が見ているものは、僧衣に包まれた女の身体だけ。
僧衣についた銀の留め具を乱暴に引きちぎりながら、嗜虐性を秘めて歪められた唇が睦言を囁くようにやさしく耳元に寄ってくる。
「それにお前がどんなに枢機卿を慕っても、スポンサーの僕が言えば枢機卿は何の躊躇いもなくお前を好きにしろと言うだろうよ」
「…慕うだなんて、そんな…!」
そんなのじゃない。
そんな気持ちなんかじゃない――そのはずなのに、一瞬、踏ん張っていた心が揺らぐ。
けれどすぐに持ちこたえた。 あの人を忘れられない理由が何であろうと、あの人にとってあたしはどうでも良いものなのだということは始めから分かっていたこと。
あたしという存在があの人にとって眼中にもないことはとうの昔から知っている―――だから、泣きたくなっても我慢する。 我慢できる。 まだ、保っていられる。
直接言われたわけではないから。
抵抗する意思ごと挫くように、身体が床に投げ出された。
地面に倒れる衝撃に、一瞬眩暈を起こす。
仰向けになった身体を抑え込むように圧し掛かる重みが自由を奪い、僧衣が裂かれる音を聴いた。
「…!」
素肌と、レースがかった白の下着が外気にさらされる。
思わず目を瞠るあたしの表情が愉快だったのか、リオロの笑い声が溢れるように通路に響きわたった。 助けを呼ぼうにも人気のない場所では誰の耳にも止まらず、実際に誰かがいたとしても、貴族の息子のする事に見て見ぬフリをされるのがオチだ。
剥ぐように投げ捨てられて主を失った帽子(コイフ)は冷えた空気の片隅に落ちたまま拾われることなくその光景を眺め、沈黙するばかり。
「っんぅ…ン!」
咬みつくような口づけと無遠慮に暴れる舌に口内を蹂躙され、快楽よりも吐き気が込み上げた。
欲望をひたすら追い求めるだけで、何の労りもない。
愛情なんてものもない。 あるわけがない。
この男が欲しがっているのは女の身体。 欲望を満たす器だけ……あの時のあの人のように、欲望のはけ口にするつもりなのだと理解する。
(……で、も)
不意に、思う。
死んでしまうのかと思うほど体を弄ばれたのは、一番最初の、あの時の一度だけだった気がする。
それはただ、処女ではなくなって、身体が慣れてしまっただけなのかもしれない。
快楽を覚えてしまっただけなのかもしれない。
――けれど、”本当にあの時だけだった”と、今にして思う。
躊躇われるような行為を命じられることは何度あっても。
慣らすことなく強引に押し入られた時は、最初の一度だけ――……。
「諦めろよ」
「…っ!」
カチャカチャと響く金属音に我に返る。
それは、普段では意識されないベルトの金具を外す音。
これから何をされるのか察知し腕を振り上げるけれど、この男はそれすらも楽しんでいるのか、あたしの抵抗を笑うだけだ。
「僕の機嫌を損ねて、フィレンツェ公を不利な側に立たせたくはないだろう?」
「…ぁ」
振り上げた腕が、力を失くしたように地面に落ちた。
その隙に下衣を引き下ろされ、剥き出しになった下肢の肌に冷やかな地面の硬い感触が染みた。
まるで、”抵抗しても無駄”と言わんばかりの冷やかさ。
どうあってもこの状況が変わるはずがないのだと思い知らされて、固く引き結ばれたはずの意思が綻びをみせ始める。
(……、さま)
今にも消えそうな意識のなかで、浮かびあがった名前を声に出さず唇だけで呟く。
この状況を許した人の名前。
けれど、神様よりも大切な名前。
異端審問局を辞めた今でもおまじないのようにときどき呟いてみたりするそれは、いつだって何の効果もないけど。
「……フランチェスコさま…」
ごめんなさい。
この身体は、貴方だけのものになれなかった。
貴方は、そんなこと気にもとめないでしょうけれど――――、それでも。
「ようやく大人しくなったな」
「……」
「馬鹿な女だ、最初から大人しく抱かれていればすこしは優しくしてやったのに」
リオロの舌が、首筋の血管をたどるように這う。
否定していた心と感情とは裏腹に、与えられる快楽にたまらず恍惚とした息を吐いてしまえば、それをたしなめるように首筋の肌に咬みつかれた。
――痛い。
でも、そんな痛みよりももっと残酷なことがこれから始まるのだ。
あの人だけのモノではなくなるのだ。
それだけが、とても悲しい。
「…ぅ、っく…」
「泣くなよシスター。 泣かれたらますます興奮するんだから………?」
不意に、乱暴に胸を揉みしだいていた手が動きを止めた。
吐息がかかるほど近くにいたリオロの顔が離れていく気配がする。
(…?)
どうしたんだろう――…何が起こったのか分からなくて、おそるおそる目を開く。
涙で滲む視界に映るものは、顔を上げたリオロの横顔。 興奮を覚えてかすかに息を弾ませている姿は整っているだけに艶めいたものがあるけれど、今は見惚れている場合ではない。
ゴツ、と重い足音が地面を通して全身に伝わって、虚ろいかけた意識が覚醒する。
「あ――…」
それは、月もなく、普段よりも深い闇を落とす通路の奥から響く……とても重い足音。
音の主とされる者の重量が普通の人間以上であることは明らかで、リオロの横顔に不審な色が浮かび上がる。
重く、ゆっくりと、 規則的な間隔で響く靴音と共にこちらへと近づいてくる者の姿が蝋燭の明かりに照らされると、その正体を目にしたリオロは忌々しそうに吐き捨てた。
「…なんだよ、邪魔するな異端審問官」
「フィレンツェ公が召集を命じている、シスター・も直ちにフィレンツェ公の元に向かえ」
嫌悪も露に吐き捨てた青年の言葉に、怖気づくこともなく切り返したのも青年だ。
血色の僧衣を乱れもなくきっちりと着用し、完璧に整えられた相貌はリオロより充分に迫力がある。
見ているものを映しとるガラス玉のような瞳がリオロとあたしの姿を淡々と見つめたのち、その腕が食らいつくようにリオロの後ろ襟首を掴むと、ぐっと引き上げて虫を払うように振り払った。
とてつもない力に翻弄され、リオロの身体が一瞬、宙を舞う。
そのまま壁に激突するかと思えば、リオロはどうにか受け身をとって衝撃を緩和した。 やはりそれなりの訓練は受けていたらしい。 怪我らしい怪我をすることもなく床に手をつき、子供をあしらうようにあっさりと通路に投げ出された屈辱に顔を歪めると、青年――ブラザー・バルトロマイを睨んだ。
ハンサム、に例えても良かったその顔は、まるで彼を呪い殺すかのように醜悪に変化していた。
「無礼者! 僕はお前たちのスポンサーだぞ?!」
「それは間違いだリオロ・ベルナルト。 お前ではなくガナーシェ・ベルナルト卿が我々のスポンサーだ、爵位も継いでいないお前には何の権限もない」
よどみなく、淡々と告げながらバルトロマイはあたしの腕を掴んで立たせる。
何の感情も浮かばない、無垢ともとれる瞳が僧衣を裂かれたあられもない姿を一瞥するも、特に反応はなく、やはり事務的にその唇を動かすのだ。
「フィレンツェ公が待っている。 705号室の部屋へ向かえ」
”待っている”。
その言葉に、挫けそうだった心が立ち直った。
あの人が待っている――?
あぁ、まただ。 何の変哲もないただの言葉に、何でこんなにも泣きたくなるんだろう。
「…ありがとうっ」
あの人が待ってる。 ならばこんな所で突っ立ってなんかいられない。
どうにか身なりを整えながら、ふらつく足を叱咤して駆けだす。
パーティーもまだ続いているのか通路には人気もなく、明らかに何事かあったであろうとされるこの姿を目撃されることもなかったから、小走りがいつの間にか全力疾走に。
(…フランチェスコ様…!)
――はやる気持ちを押さえたまま、あたしは指定された部屋に向かった。
――慌ただしく足音をたて、小さなその背が見えなくなるまで見送った後。
バルトロマイのガラス玉めいた瞳は、敵意を剥き出しに睨む男へ視点を移した。 だが、丁寧に整えられた端正な面はどんな敵意を向けられても怯むことはない。
そんな感情はとうの昔に…いや、彼が生まれたときから排除されている。
ただ与えられた命令を遂行することが、彼が”兵器”として有る存在理由――命令遂行によってどんな処罰を与えられようとも、彼は罰を恐れない。 恐れる心もない。
与えられた命令の遂行はいかなる例外もなく、どんな場面であろうとも実行される。
「リオロ・ベルナルト。 フィレンツェ公からお前宛てに伝言がある」
よどみなく紡がれた言葉は、合図に過ぎない。
その手が背に下げた”デウス・エクス・マキナ”の銃身を掴んだかと思いきや、コンマ一秒を過ぎる前にリオロの胸へ押し当てられた。
凶悪な牙を無数に収めた巨大な銃口。 その威力は、成人した青年の身体を細かな肉塊にすることも可能にする――死への恐怖に早鐘のごとく脈打っているであろう心臓の真上に触れたその感触は、死神の鎌を押し当てられたも同然だ。
「ひっ」と息を詰める哀れな生贄に向け、異端審問官ブラザー・バルトロマイは抑揚のない声ですべらかに、彼をこの世に甦らせた主より授かった言葉を紡いだ。
「”私を侮るなよ、小僧。
お前のような子供、父親共々消すことなど造作もないことだ”。
―――以上だ。 確かに伝えたぞ」