それは、血濡れた我らには決して歌われることのない、歌。
見上げると、果てのない闇色があますところなく世界を染めあげていた。
それは時間の経過を確かに知らせるべく、どこまででも広がっている。
唯一染められることのない夜時の支配者たる月は強風に流れる雲間に隠れてしまい、星は月明かりの変わりにもならず細々と瞬くだけで、足元を照らす明かりとなるのは今や人工的な光だけだ。
月光よりも確固とし、星よりも強いその光は、地上が人で溢れているのだと空に向かって告げているよう。
そんな中で――不意に、腕時計の針に視線を落とす。
あと数時間後にはクリスマスが終わってしまう、そんな時刻を示しており、それをあたしの口から見て出てきたものはため息だ。
(今年のクリスマスも、あとちょっとかぁ…)
クリスマスといえば、美味しいケーキや豪華ディナー。
クリスマスツリーにイルミネーション。 綺麗にラッピングされた素敵なプレゼント……そんな、夢や希望や妄想が沸き立つビッグイベントだというのに、今日その日に限ってそれらとはまったく縁のない雪積もる寒い外で仕事をしているだなんて。
「はぁぁ〜…」
「…ふぅ…」
ため息が、ぴったり重なる。
あまりのタイミングの良さに目を丸くして隣を見れば、衣装班会計のがあたしと同様にため息を吐いたのだと分かった。
「あれ」と声をもらして彼女を見やると、甘やかなブラウンの髪の下から見えるサファイアと同じ色の瞳と視線が合う。 は驚いた顔をしているあたしの視線に気が付くと、ほんわかとした笑顔になって「一緒にため息吐いちゃったね」なんて苦笑した。
あららら? あたしたちって今、同じこと考えちゃったかな?
「あ〜〜〜もう、早く終わらないかな〜〜!!」
今度は衣装班副班長のが、空に向かってそんなことを叫び出した。
不貞腐れるように頬を膨らませながら、「ディナーもケーキもシャンパンもない寒いだけのクリスマスなんて、神もホトケもないよ…!」と頭を抱えて今ある現実の切なさに身悶えている。
うーん、どうやらこの場にいるあたしたちの気持ちはいま見事に重なり合っていると確信してもよさそう。 ナイス連帯感だ。
「ったく、私たちは衣装班なのに何でパーティー会場の警護なんか…非・戦闘要員だっつーの…」
「まあまあ…年の暮れだし、フランチェスコ様もカテリーナ様も挨拶回りでお忙しい時期なんだから」
をなだめるは困ったように笑ったけれど、寒さのせいで頬がすっかり赤くなっている。
やわらかな表情を浮かべるその顔は疲労の色も濃い…まあ当然だと思う。 あたしを含め彼女たちは衣装班の執務のあとでこの館の警備任務に遣わされたのだ。
休憩も何もなしだったのだから、ももずいぶんと疲れているに違いない。
――非戦闘要員であるはずの衣装班メンバーが警備に駆り出された――。
この事実に思わず、いったいどれほど人手不足なのかと、世界で有数の権力を誇る”教皇庁”に向かって声を大にして言いたい。 もっと募集とかかければいいのだ。
”来たれ! 命知らずの信者たちよ!”とかそんなキャッチコピーをのせて。(あ、それだと逆効果か…)
「交代まで、あと40分…長いわよねぇ…」
”教皇庁”のトップの地位に御座(おわ)す人々がいる館を、ため息を吐いて見上げた。
それは月の光がなくとも、暗闇から煌々と浮かび上がる。
ここは、”教皇庁”が所有している土地のひとつにある大きな館だ。 テヴェレ川とローマの街の夜景を一望できる位置に建てられたこの館もまた、”教皇庁”の所有物。
他国のお偉い方をローマに招くためとして建てられた迎賓館とでも言うだろう。
その豪奢(ごうしゃ)さに”よくこんなものを建てられたものだ”と、今度は感心の息を吐く。
城より小さいスケールながら、華やかな細工・装飾は館のすみずみにまで行き届いており、どの角度から眺めても芸術を意識した素晴らしい建築物として映るに違いない……客人を迎えるため、イベントのため等々にこんなものをぽんっと建てることができるのだから、ローマのトップの地位を誇る者が得た権力の強さはやはり半端なものじゃない。
それもそのはず、このパーティーの主催者はどこにいても目立つであろう美貌の枢機卿カテリーナ・スフォルツァと、強面の枢機卿フランチェスコ・ディ・メディチなのだ。
教皇に次ぐ枢機卿の地位を示す緋色の衣をまとうことを許された異母兄妹の、存在感あふれる立ち姿を思い出しながら、館の窓からこぼれる光を見つめた。
内も外も眩いほどの光に包まれた世界から届く客人たちの談笑は、彼らがパーティーを楽しんでいる証拠だ―――クリスマスの夜に、賑わいを増す夜会の煌びやかな輝きを見せつけられるというのはなかなか妬ましいものを覚えてしまう。
「いいなあクリスマスパーティー…ふぁぁ〜…っ」
館の眩さに反し、じわりと眠気が込み上げると大きな欠伸が出た。
一昨日から徹夜作業の連続だったから疲労も限界。 眠くてたまらない。
気を紛らわせるため足元に積る雪をざくざく踏んでみても、ただ疲れるだけで……あ、駄目だ。 相当疲れてるなこれ。 さっきから行動が意味のないものばかりになってる。
「もーだめ…このまま寝たーい…」
「はーいギブアップー。 ってか私もいい加減やんなってきたよ…こうなったら教皇庁経費でチキンなりケーキなり食って帰ろう、そうしよう! ね、ちゃん!」
「もうっ、会計としてそんな経費は出せないからねっ。 …あと少しで交代の時間だし、頑張ろう?」
に支えられながら、二人の会話をぼんやりと聞き流す。
人間は、頭が眠気に支配されると普段の理性も緩んでしまうみたいだ。
特に彼女たちは時間と苦楽を共にした家族のような存在だから、その緩みが顕著になる。
なんとなく二人に甘えたい気分になって”眠いよー”ととの肩にすがりつくようにのっしりと圧し掛かると、大きくよろけかけた二人の驚いた声が周囲に響き渡った。
「きゃっ! も、もぅ…驚かさないでよ〜」
「そして重い!」
「ぎゃーっひどい!」
二人の楽しそうな笑い声が、あたしの耳にはとても心地よい。
寒くて眠くてしんどくて最悪な環境だけど、心の中はほかほかだ。
そのことがとてもうれしくて。 本当にうれしくて。 との肩を抱いた腕をぎゅうっと強めて抱きつくと、二人もまた、寒さを吹っ飛ばしてくれるような笑顔を見せてくれた。
ああ、しあわせ。 ほんと幸せ。
この警備の任務が終わったら、みんなでカフェで温かいものでも飲みに行こうかなぁ…。
「―――本当に仲がよろしいですね、貴女たちは」
けれど、後ろから割り込んだ声が一発で幸せ気分を吹っ飛ばした。
それはそれは、もう見事に吹っ飛んだ。
幸せの余韻も、塵すら残らない。
(な、ななななんで)
その場にいる全員が一瞬で声の主を理解し、硬直する。
あたしの体もセメントで塗りたくられたみたいにガチガチに固まった。
しかし声の主はそれを揉み解そうするかのように、大きな手であたしの両肩を包むように乗せてきて、切り揃えられた漆黒の髪をさらりと揺らしながらあたしの顔を後ろから覗き込んできた――やさしく整えられた相貌が、あたしの視界に現れる。
「寒い中ご苦労さまです、シスター・」
「ぶっ、ぶぶ、ブラザー・マタイ…」
肩にじわりと染みる手のぬくもりは彼が今まで屋内にいたことを知らせる。
けれど驚きのあまり、今まで感じていた寒さまでも吹っ飛ばされたようだ。 名前を呼ぼうとするあたしの口はうまく動いてくれず、どう対応したものかとあわあわしていれば、そんな姿が可笑しかったのか低く笑う声が鼓膜に触れた。
「ずいぶん冷え切ってますね…」
”温めてあげましょうか?”――あたしにだけ聞こえるように耳元でそう囁かれる。
端正な横顔を間近に寄せられて思わずドキっと鼓動が速くなるも、”遠慮します”の意味を最大限にこめて首をぶんぶんと横に振った。 騙されてはいけないのだ。
細い糸目とすっきりとした柔和な面差しだけを見れば好青年そのものだけども、この男が見た目通りの人格でないのだから。
それを十分に理解している(と、いうか思い知らされている)とはそれぞれの感情を反応に出して露にする。
「ま、マタイさん、なななな何でここに…」
「くぉらああっこの糸目審問官! から離れな!! さもないと…」
どちらも好意的とはいえないリアクションだ。
一瞬にして険悪な空気がその場に満ち、肩を掴まれたまま硬直して動けないあたしの背後にいるマタイに向けては銃をかまえると、いつでも撃ち殺せるように引き金に指をかけ銃口を彼のこめかみに押し付けた。
銃口が、ゴツッとぶつかる音を聴いてあたしは身体をさらに硬くするしかない。
ああああっとの相性が最悪だからマタイだけは絶対来てほしくなかったのに…! 何であんたが来るのよおおおお…!!
「相変わらず野蛮な方ですね、シスター・」
「あんた限定だよ! っつーか彼氏でもないくせににつきまとって…塩ふって酒まいて、ジブラルタル海峡に流してやる!」
「ふっ…、よろしいのですか? こんなところで騒ぎなどを起こせば、シスター・が何を言っても全て班長であるシスター・の責任になりますよ?」
静かに言葉を紡ぐそれは、愚者の愚かさを諭すような響きがある。
雰囲気だけなら確実に聖職者だけども、ぐっと言葉に詰まるを眺めて歪んだ笑みを深めるその横顔はどこぞの絵画に描写された悪魔に激似だ。 どう見ても楽しんでいる。 とんだサディストである――その笑顔に怒る気も失せて、逆にため息が出た。
「はあ…マタイ…をからかわないでくれる?」
「からかうだなんてとんでもない。 私もそこまで暇ではありませんので」
…あんた、笑って楽しんでたじゃないか…。
そんなツッコミを入れる気力すら無くした顔で彼を見上げるあたしに、マタイは口元を笑みに綻ばせた。 何を考え、何を想い、どのような感情を胸に秘めているのかさっぱり読み取れない――あの微笑で。
「少し早いですが、交代の時間を伝えに来ました。
衣装班のシスター・とシスター・は帰宅していただいても結構です」
「…え? あの、マタイさん…は?」
は、おそるおそる言葉の意味を問いかけた。
異端審問局の緋の僧衣ではなく特務警察のグレーの軍服に身をまとう彼が警備を指揮するためここにいるのは分かったが、その彼が、あたしの名前を出さなかったことが気になるのだろう。
表情を曇らせて問うに、マタイは柔和な相貌を崩すことなく告げる。
「衣装班は21時に終わる予定だったのですが、メディチ猊下の身辺警護を務めるはずだったアンデレに急な任務が入りまして。
そこで、元・異端審問局所属だったシスター・には休憩をとった後、猊下の身辺警護に切り替えとなり最後まで残ってもらう事になりました。 猊下も既に了承済みです」
「……なるほど…そういうことね」
あえて元・異端審問局所属を強調した語りに、あたしは表情を引き締めた。
自らが招いた招待客のみクリスマスパーティーとはいえ、主催者でもある枢機卿たちは外にも内にも存在する敵勢力から常に命を狙われている。 それは、強大な権力を手にした者の代償だ。
志半ばに倒されるわけにはいかないとして、彼らは自分の部下…もしくは身元も素性も分かった人間を傍に置き、警護させたいところなのだろう。
メディチ猊下からの信頼があるかどうかはともかく、あたしは過去に異端審問局に所属していた。
猊下に恩を持ち、今も衣装班の執務のかたわらで微力ながら彼らに助力をしている身だ――だからこそ、猊下の身辺警護に白羽の矢が立ったのだろう。 やは派遣執行官側の人間だから、彼女たちでは駄目なのだ。
「二人とも先に帰っててくれる? 場合によっては今日は寮に帰れないかも」
「むむむぅ…ま、まあ、猊下の命令とあっちゃ逆らうわけにはいかないもんね…」
「…無理しないでね」
「うん、二人ともありがとう! 気を付けて帰ってね!」
”マタイの奴が手を出してきたら容赦なくぶっ飛ばしてしまえ”と助言する(目がマジだ…)と、そんなをなだめながら彼女の背を押していくに手を振りながら、彼女たちの小さな背中が消えるまで見送る―――彼女たちが今夜はゆっくり眠れますようにと―――そんな祈りを秘めながら。
「さて、と…それじゃ、少し休憩してこようかな」
うーんとめいっぱいの背伸びのあと、気持ちの切り替えとして深呼吸。
そうして見上げた先にある館は、今夜は眠ることもなく夜明け近くまで輝き続けるのだろう…薄い積雪を音をたてて踏みしめて、あたしはマタイに振り返る。
「マタイは帰らないの?」
「ええ。 局長の代理で警備の指揮をとることになっていますので、最後まで残ります」
「ふーん…クリスマスに残業に明け暮れるなんてもったいないわねぇ」
あたしと同じ境遇だけど、マタイは別だ。
彼なら招待客に言い寄られたりなんやかんやで女性に不自由しないだろう。
中身はともかく外見は十分に整っているのだ。 そのギャップさえ平気になってしまえばそれなりに付き合えるだろうに――それを思って”もったいないね”と繰り返すと、白い息をこぼすマタイの唇がゆるやかな弧を描き、低い笑い声が宙に落ちた。
「…なによ?」
何がおかしかったのだろう。
そんな意味をこめてマタイに目をやると、彼はおさまりの悪い黒髪を押さえたグレーの帽子の角度を整えながら細い糸目をあたしに向け、より艶やかに笑み深める。
「――なら、素晴らしいクリスマスの思い出をつくってさしあげましょうか?」
「へっ?」
腕をとられ、引かれる。
あまりにも自然で、流れるような動作で引き寄せられたせいか逆らうこともできないまま身を委ねてしまった。 目を丸くしたままの自分が抱きこまれているこの姿勢に、今の状況に、理解が追いつかない…いや、追いつきたくないと拒否をしているからか。
(ま、まずいっ)
このまま身を委ねてしまったら、逃げられなくなってしまう気がする。
掴まれていないほうの腕を盾にして顔を背けるも、吐息混じりの笑い声が耳元に触れて背筋がぞっと逆立つものを感じた――言葉にできないその感覚に肌寒さが一瞬にして消え失せ、羞恥に頬が熱くなる。
「な、何言ってるのよ、今はっ、それどころじゃないでしょ!」
「ならば”後”でも?」
「〜〜〜違う! からかうのはやめてって言ってるの!」
必死になって腕を振り上げ、涼しい横顔を引っ叩いてやろうかと思ったのにあっさり避けられた。
笑みを形作ったまま滑るように離れていくその身のこなしに”やっぱりからかわれてる…!”と悔し気に歯噛みし、様々な感情がこもった目で睨みつけていれば―――不意に、マタイの耳のカフスの通信機が小さな電子音をたてた。
おや、と言ったふうに顔をあげて、通信のスイッチを入れる。
「はい、こちらブラザー・マタイ…あぁウェルスニ少佐、そろそろ時間ですか。 分かりました。 少し、猫に構い過ぎてしまいましたね」
(ちょ、猫ってまさか…まさかよね…?!)
奇妙な例えをされて、全身に冷や汗が浮かぶ。
けれども、よどみなく通信に応える彼の細い糸目はしっかりとあたしに向けられており、額の冷や汗が質を変えて、脂汗になった。
いやぁぁやめて! そんな目で見ないで! 糸目からなんか生温かいものが出てる気がする!!
(駄目だ、こいつは本当に変態だ…!)
サドのうえ変態だなんて救いようがない。
先ほどのことで寒気が吹っ飛んだはずなのに別種の悪寒を感じて思わず、ガタガタと震えながら自分の身を抱いた。 とんでもない男と知り合ってしまったものだと、マタイと知り合ってから云年経った今になって後悔。
怯えるあたしにマタイはやはり輸快そうに喉を鳴らすと、軍靴の裏で積雪を踏みしめ、広い背中でついてくるように促す。
警戒しながらもそれを追うと、隣に並んだあたしの歩調に合わせてマタイはスピードを緩めた。
不意に見せる細やかな心遣いになんだかむず痒い気持ちになりながら”やっぱり振り回されてるなあ”とため息を吐いたそのとき、マタイは空を仰いだ。
―――空は、月のない世界のまま。
星すらも全て雲に隠されて、真に輝くものは本当に見えなくなってしまった。
「…今夜は、また、雪が降りそうですね」
マタイはそんな呟きを空に落とし、そのことを悦ぶかのように唇を歪めて嗤った。