「…あれ?」
薄暗い、夕闇の包まれた世界に、あたしの呟きがこぼれ落ちていった。
多くの建物が密集している教皇庁の、出口。
美しい花たちが咲き誇る庭園を突き抜けるように続く白い階段の、一番下。
誰かを待っているように佇む、広い背中があった。
「ドゥオ?」
思わず不思議そうに出てきたものは彼のコードネームではなく、彼自身の名前。
それが本物の名ではないと知っているけれど、彼の名はとうの昔に、科学者たちに棄てられた。
いや、もしかしたら、名前なんてなかったのかも。 これは永遠にわからない。 けれど彼がその名を自身と認めているから、あたしはその名前が好きで、ちょっと油断したときにこの名前を呼んでしまう。(たまに訂正されてしまうが、<ブラザー・バルトロマイ>よりも絶対ドゥオの方が似合うと思う)
「こんなところで突っ立って何やってるのよ」
だけど本当に不思議だったのだ。
ドゥオの主はフランチェスコ・ディ・メディチ枢機卿。
彼の護衛も兼ねているはずのドゥオがどうしてこんなところに?
とんとんと軽い足音をたてて階段を下りていけば、無機的な瞳と目が合った。
何を考えているのかさっぱりわからない。
感情が読み取れない眼。
トレスと同じ顔で、トレスと同じガラス玉の瞳――なのに、時々見える感情の光はヒトのもの。
だからあたしは勝手に、彼らをヒトだと思っている。
彼らが揃って否定をしても、彼らの目に浮かぶそれは本物で、正直いとしいと感じていた。
「猊下があたしを呼ぶように言ったのかしら。
ッハ、もしかして…何かミスしてた?」
「否定(ネガティブ)。 そうではない」
冷ややかな否定。 いや、冷ややかというよりは無機的。
それに首を傾げて彼を見上げてれば、ドゥオは無言で背を向けた。
広い背中の後ろ首で異端審問局の僧衣のフードが柔らかく揺れて、彼の体重を示す重々しい靴音は、これからあたしが向かう外界への門へ進んでいる。
…ドゥオには悪いけど、彼の行動の意味があたしにはさっぱり読み取れなかったりで。
「あのー、ドゥオ?
どこいくの?」
しかし彼はあたしを一瞥することもなく、先を行く。
あたしはますます訳が分からなくて、教皇庁と外界の境界とも言える最終門まで並んで歩き、悶々としながら考えた。
(……何かしら。
猊下から抹殺される命令でも降りちゃったのかしら)
”シャレにならん…!迎え撃っても瞬殺される!絶対一瞬で死ぬ!”と穴だらけになる自分の姿をうっかり想像してしまって、門にたどり着いたことにも気がつかなかった。
ドゥオが足を止めたことにも気づかずそのまま、広い背中にぼすっと顔をぶつけることになる。
「わっぷ」
「――何をしている」
広い背中の人物が無表情に問うてくる。
まさか殺されるなんて危機感を覚えてましたなんてバカ正直に言うわけにもいかず、「いやちょっと考え事を…」とごまかしてから門をくぐった。
―――ちらりとドゥオの横顔を盗み見ると、頬が熱くなって来たのを自覚。
(ひ、広いなぁ…背中。
やっぱり男のヒトだわ…)
赤くなる頬をぺしぺしと叩いて落ち着かせながら、あたしは溜息を吐いた。
ほんの少しだけ大きくて広い背中にドギマギしてしまったけれど、彼とこういうシーンで甘くなるはずがないのだ。
ああ、ちょっとドキドキしてしまっただけにこの脱力感が虚しい…!(ときめき損…!)
どうにか気持ちを持ち直してから、あたしは顔を上げた。
街より少し離れた場所に構える教皇庁の、少し遠くの街並みは月と灯りに彩られて、遠くの方の道路では帰路に着く車のヘッドライトが続々と行き交っており、それはどれほど長く眺めていても途切れることがない。
いつも通りの光景を目にすると落ち着いてきて、あたしはドゥオに振り返る。
彼の行動が意味するところは理解出来なかったが、それはたまたまの偶然で、何もかもを率直に告げるはずのドゥオが何も言わないのだから、あたしには関係ないのだろう。
「それじゃ、あたしはここで」
「――、待て」
無機的な声音に、絶対的な制止を含めた言葉。
けれどそれが発せられる寸前の、戸惑いや逡巡が含まれていた間に、修道寮に帰ろうとしていたあたしの足はぴたりと立ち止まった。
「?」
「――お前は今日の、ニ月十八日の新聞を読んだか」
何故新聞。と疑問に思ってしまうのは当然だった。
だって、ドゥオが新聞読むとは思わないのだ。 どっちかというと、パソコン繋いで<やふー>のニュースをチェックして情報を仕入れているイメージがある。
インターネットでものすごく情報を集めている気がする。 裏世界の裏裏サイトとか普通にアクセスしている気がする。
「新聞? …今朝、読んだけど」
それが何か?
問うように、ドゥオの眼に目を向ければ、彼は「そうか」と返事をして。
「この近辺で若い女を狙った犯罪者が逃亡中だ」
「あ、なるほど。 出てきたらふん縛れってことね。
オッケー! 屈辱的な縛り方で辱めてあげる」
「――後半の発言の行動に何の意味があるのか理解しかねるが、戦闘要員ではない人間が犯人との接近戦は不利だ」
…ぇ…あの…冗談のつもりだったんだけど…。
なんたることか。
ああも真顔で切り返されると困る人間の心境を、彼は理解出来ないようだ。
つーか、この切なさを一度は思い知って欲しいよホント! ドゥオのバカ!でも好き!!(あたしはもう全てが終わっている…)
「見過ごせってこと? でも、そんなこと言われても…」
女の子が犯罪者に襲われているのを見過ごすことなんて出来ないし。
万が一にあたしに危険が及ぶという警告だったとしても、タクシーで帰るなんてそんなリッチなことは出来ない。 ただでさえいっぱいっぱいだよ。
「俺が修道寮まで送る」
「…はい?」
「巡回任務も兼ねたサポートだ。 俺が一人で見回るより、接触対象条件を満たしている<女>であるお前と行動を共にすれば犯人と接触する可能性が高い」
ドゥオの申し出には、ぽかんとなった。
さっきばったりと出会った彼(いや、この展開だと待っていたんだろうけど)が、こんなギリギリまでこの話を切り出さなかったことが不思議というか…。
「そりゃ、ありがたいけど…でもドゥオ」
「行くぞ」
「あ、ちょっとちょっとー!」
重い靴音が石畳に、鈍重な音を響かせる。
了承をとった否や呼び止めるあたしを無視して歩き出す広い背中を追いながら、あたしは小さく笑ってしまった。
ドゥオに心配されるなんて、なんか新鮮。
(でも、ドゥオ…)
多分、貴方と一緒に歩いてたら余計、遭遇する可能性が低いと思うんだけど…。
――ドゥオ・イクス。
小柄とはいえ立派な男の人で、人を後ずさりさせてしまうような圧力がにじみ出ている青年神父。
纏う僧衣は容赦無用の異端審問局のもののうえ、それだけでも十分に恐怖の対象になるというのに、加えてあの顔だ。
美しく、丁寧に整えられた相貌。 あたしは慣れたから平気だけど、無表情だから余計迫力があって怖いと怯える話も聞いたことがある。
(並大抵の人はその迫力に逃げ出すと思うし、近寄ることも出来ないんじゃないかなぁ)
問題は本人はそれに全く気づいていないのだから、これがまた可笑しいというか…”ドゥオって何か抜けてるのよねぇ”としみじみ思う。
「まぁ折角だし、ボディガードお願いしちゃおうかな」
「了解した」
生真面目に、こくりとうなずくその動きが可愛く見えて(重症だなぁ!)あたしは笑ってドゥオの隣を歩き出した。
―――結局、そのツッコミは数日後にアベルに解決される日まで言えなかったが。