「やァ、班長サン。
地味で面倒な事務作業を早々に切り上げて、今夜二人きりでディナーなんてどうだい?」
スモークのかかったリムジンの車窓からゆるりと差し出されるのは、男の手だ。
夜の道すがらに、黒塗りのリムジンからのお誘い。
もうこれだけでハイレベルな犯罪を予感させる。 誘拐されるフラグが立ったと言ってもいい。
そう、言ってもいいのだが…投げかけられた軽薄な声は充分に知る人のものなのでガチで誘拐されることはない。 安心していい。 でもだからって特別親しい間柄でもないので警戒するには充分に値した。
この男が絡んでくるとたいがいロクなことがない。
あたしの本能はすぐさま防衛モードにスイッチオン。
<攻撃は最大の防御>ともいうけれど、時には身を守ることに徹することもまた最大の防御だと思います! あれ、作文?
(お、落ち着くのよあたし…いくら突然の奇襲だったとはいえこんな序盤でペースを乱したら、勝てる戦も勝てやしない)
そうだ深呼吸しよう。 そうしよう。
すーはー、すーはー、と二度ほどそれを繰り返し、冷静な心を取り戻す。
うんうん、これでよし。 前置きが長かったけどこれで多少は抵抗できるはず…さて、一体どんな絡まれ方をするのか。 頭のてっぺんから足のつま先まで隙を見せてたまるかと全神経を駆使して警戒しつつ、しかし容易にはねのけてはいけない身分のその人にあたしは渋々向き合うのであった――リムジンの車窓の向こうにある、緋色の法衣をまとうその人に。
「こんばんは、ボルジア枢機卿。
ええと、せっかくのお誘いなのですが、明日の朝までに片付けなければならない仕事がありますので…」
「枢機卿であるボクの命令なのに?」
しぼりだすようにして答えたそれに、緋色の法衣をまとう男はうっすらと目を細めた。
――彼の名はアントニオ・デ・ボルジア・イ・ボルジア。
軽薄そうな外見は学生のようなのに、その瞳の奥は何を思うのか計り知れないから苦手だ。
「フーン、ボクの誘いを断るのかい?
」
「い、いえ、そういう訳では」
「そういうコトでしかないだろう? キミは、いま、現在進行形でボクの誘いを丁重に断っている」
二の句も告げなくなって呆然と立ち尽くすしかないあたし向かい、ボルジア枢機卿は満足げに笑みを深めると、自らリムジンのドアを開いてローマの地に降り立った。
夜闇にも眩しい緋色の法衣がふわりと舞い、その存在をもつて自らが高位の者であると世界に主張する。 すると、歩道を行く人も車で通り過ぎる人も血の色より鮮やかなその色にぎょっと目を瞠り、ある者は早足で、ある者は乱暴にアクセルを踏んでそそくさとあたしたちの側を離れていく。
……ああ、世の中って薄情……。
おもわず切なそうに溜息を吐くけれど、彼らの反応は当然だから文句もいえない。
ローマ法王の次に高貴な位を示すその色には一般人はおろか、教皇以外の人間が逆らえるはずがないのだ。
(あ〜、でも、仕事がー…)
打つ手なしとは、まさにこのこと。
ほとほと困り果てて肩を落とし、しかしなんとか彼の興味が失せてもらえないかと悩んだ挙句、言いよどむ。
「ええーと、そのー、今、ほんっとに手の離せない仕事がですね…」
「そんなに仕事・仕事って言ってると、結婚できないヨ」
(ほっといてちょーだい!)
ああああぁぁこうしてストレスがたまっていくということをこの人は知っているのだろうか。
…いや、知ってるんだろうけどあたしが悶絶する様を見るのが楽しくて仕方がないってことなんだろう。
そういうS的愛情はアベルだけに向けて欲しいところだわ。こちとらほんといい迷惑だ。
「だから、そのですね………ああもう!」
とうとう頭を抱えるあたしの姿は、誰がどう見ても理解できるあからさまな困惑と拒否反応を示しているのに、それでも彼は嬉しげな笑みを浮かべてあたしを見ている。
――嬉しい、というより楽しんでいる風だ。
こっちは全然楽しくないわ。と睨むように無言の抗議をすると、整った相貌に色香ただよう薄い微笑がより深くきざまれた。
「イイねぇ、その顔ほんとサイコーだよ班長サン」
「……(こっちはサイテーな気分なんですけど)」
「いい加減さぁ、諦めてディナーに行くべきだと思うよボクは?
日々残業で疲れ果てたキミにはこの上なくおいし〜い話だと思わないかい?」
口説きなれた軟派な口調と、真意の読めぬ碧色の瞳をあわせ持った彼が戯れにさえずれば、大抵の女たちは誘われるままに彼の手を取るのだろう。
これは確信犯だ。 彼は自分がイケメンだと理解しているうえで狙ってやっているのだ。
本当にタチが悪い。
(なんであたしなんかに構うんだか…っていうか枢機卿でさえなければさっさと逃げられるのに…)
愛想笑いも自然と引きつる。
引きつるあたしの愛想笑いにボルジア枢機卿はますます愉快そうに笑みを深めて――ええい、きりがない。 こうなったら最後の手段だ。 乗るか反るかのどちらかと言えば、反るほうが損することが多いのは明らかなのだから。
乗るっきゃないわ。 リムジンに。
「―――、わかりました」
「ん?」
ただし、一人で乗るつもりはなく。
できればあんまり巻き込みたくはなかったのだけれども……そう、残念そうにあたしはひとつ息を吐き、そして――ボルジア枢機卿ににっこり微笑んだ。
嫌味と皮肉を120%こめ、絵画によくある聖母みたいにキラキラした微笑で、だ。
「ボルジア枢機卿、この度はお誘いくださり光栄にございます。
我ら衣装班班長・副班長・会計の三人は喜んでお食事にお招きに預かりたいとおもいます」
そう告げたのち、あたしはきょとんとした表情の枢機卿に向かって深々と一礼。
すぐさまイヤーカフの通信機のスイッチを入れて事の詳細をいとしの親友たちに説明し、通信を終え、引き続き満面の笑みでボルジア枢機卿に微笑んだ。
「彼女たちもすぐにこちらへ向かうそうです――きっと、楽しいディナーになりますね」
「そーだねェ、さぞかし、にぎやかでたのしいディナーになるねェ。
……キミ、そんなにボクのこと嫌いなワケ?」
「いいえ、もちろん尊敬しておりますとも。
――ただ、アベルみたいなS的愛情は必要としておりませんので」
「まあ、アベルはMだけどキミもたいがいMだと思うヨ」
「認めません。
断固拒否します」
「ねェねェ、副班長。 彼女って絶対Mだよねェ」
「あーMですね。
なんか時々いじめてほしいって顔するんで」
「アハハ、だーからブラザー・マタイに狙われちゃうんだネー…ほんと、カワイソウに。
会計ちゃん、せめてものなぐさめにボクのデザートを班長サンにわけてあげて…」
「はい、わかりました。 …えっと、じゃあまずはこのケーキから…」
「あたしは子供かぁぁぁぁ!!!(ガシャーン!)」