彼の者が纏うその僧衣は、目に焼きつくまでに鮮やかな真紅である。
 赤、と言う名の高貴な色が持つ意味は、僧界ではローマ教皇に次ぐまで多大なものであり、他国の貴族でさえも軽視することなど出来ない高位聖職者<枢機卿(カーディナル)>の証である。

 その色を纏い、寒々とした冬の気候が満ちた回廊をのんびりとした歩調で、かつ、欠伸をして行くのは年若き青年だった。
 やや垂れ下がりがちな目尻に涙を浮かべながら欠伸を噛み殺し、空想に耽るかのようにぼんやりとしながらも行くそれはさながら退屈な授業に飽いた学生のようだ。 脱色された長髪が冬の風にふわりと踊るのを手で押さえながらも、ぶるりと身を震わせて白い吐息を吐いて呻く。

「ぼかぁ、寒いの苦手なんだよネェ…」

 アントニオは、ふぅとため息を吐いて天井を見上げた。
 そこそこに長身であるアントニオが見上げてもなお天高く伸びているその天井では、名画を描く巨匠が描いた天使や女神が白い布に包まれながらも素肌を晒し、穏やかに、優しく微笑みを浮かべて佇む姿があった。
 なんと清らかな微笑だろう。
 夕暮れの中で浮かぶその微笑には欲望の欠片さえも見えることはない。

「そのカッコは寒そうだねぇ、天使サマ」

 けれどもアントニオは興味なさそうにその微笑みを見上げて回廊を進む。
 ふと、ばたばたと急くように駆ける軽い足音が鼓膜に触れた。
 天井の天使からそれへと興味を移して視点を下げれば回廊の向こうから一人の少女が慌しそうに駆けてきて、尼僧服とは違う、特殊な、独立した場所に立っている証である黒の制服で身を包む少女の姿にアントニオは「お」と興味が沸いたように目を瞬かせた。
 彼女は確か、衣装班班長の――――――。

「やぁ、班長サン…」
「どうもっ!」

 少女は相当急いでいるのかアントニオの姿など眼中にも入っていないかのようにそのまま駆け抜けようと足を止めなかった。
 しかしアントニオが軽薄な笑顔を顔に貼り付けたまま、彼は、ごくごく自然に、長い足をすっと少女の前に差し出して。

「あだっ!!」

 …顔面が潰れたような悲鳴を上げて、少女は派手に転倒した。
 その際に彼女の両腕が抱えていた書類の束がばさぁっと回廊に広がって、それに気付かず顔を抑えて「うごおおおっ」と色気の欠片もない悲鳴を上げるその姿に、銀髪眼鏡でぼけぼけとしたのほほん神父を思い出しすつつもアントニオはにっこりと笑って、ちっちっち、と指を振る。
 もちろん、自分が悪いとはこれっぽっちも思わないそんな笑顔で。

「だめだよ班長、枢機卿を無下にしちゃァ」
「あ、え? あ、あああああボルジア枢機卿?! こ、こんばんは…」
「こんばんは班長、この間の会議以来だネ」

 アントニオの存在にようやく気がついたかのように彼女は慌てて起き上がって埃を払い、深々と頭を下げた。
 直接的に関係はなくとも彼女は<枢機卿>であるアントニオの下ということには変わりなく(というか、枢機卿が相手ならばローマ教皇以外は全て下だ)、「申し訳ありません、その、急いでいたもので」としどろもどろに言い訳をしながらも、次には両手に抱えていた資料が盛大にぶちまけられていることを理解して「ひいいいい」と悲鳴を上げて掻き集め始めた。
 アントニオは、それをのんびりと見守りながらウンウンと頷いて。

「そうそう、今のがメディチ猊下だったらどうするんだい? それこそ彼に心酔しているブラザーたちの鉄拳が飛んでくるところだったんじゃないかナ?」
「っていうか、足、掛けたのはボルジア猊下のほうでは…」 
「ボクってココロが広いからネ、キミを許そう♪」
「………アリガトウゴザイマス」

 半ばヤケになったかのように礼を呟く彼女の姿に「どういたしまして」と爽やかに笑うも、ふと、じっと、書類を掻き集める少女の横顔を見つめて。

「何をそんなに急いでいるんだい?」
「あ、執務は終わったのですが、その、同僚との待ち合わせの時間に遅れそうなので…」
「お勤めご苦労様…同僚ってAxのかな? それとも異端?」
「えーっと、Axのほうです」
「君ってすごいねえ、Axのコネもあれば異端のコネもあるんだから」

 感心するようにそう言えば、彼女は複雑な色を混ぜつつもどうにか笑って。

「いえ、コネと呼べるほどのものではないです。 異端は前の職場だし、Axは友人がいるので」
「いやいや〜、あの対立グループの中で中立を立っていられるのはすごいことだよ。 しかもこーんなに可愛いコがサ」

 ぎょっとするようにアントニオを見上げる瞳に、彼はくっくっくと笑ってしまった。 社交辞令でも「可愛い」と言われることはほとんどないのだろう。 アントニオを見る目が変人を見るような目つきになっている。

「言われない? かわいいって」
「……えーと、そんな社交辞令に気を使うメンバーではないというか、使う気がないというか………個性的な人種の集まりなので…」
「あははは、まったくだねえ。 ……それこそイクス神父には無理だよねェ」

 新しく出てきた名前に、書類を掻き集める少女の動きがぴたと止まった。
 回廊の壁に背をもたれさせて、軽薄な笑みを浮かべて彼女を見下ろすアントニオを何かの疑惑を持って見上げてくる。

「どうしてイクス神父?って顔だよネ」
「……」
「キミは会議のときは見事なポーカーフェイスで鋭い意見を指してくるのに、今は何でそんなにわかりやすいかな…」

 彼女の出身は信仰に厚い、それなりの名家の生まれらしい。
 だが少し前に(それはとてもどうでもいいことだったのでいつだったか忘れたが)吸血鬼に一家を惨殺されて、彼女はこのローマへやって来たと聞く。
 メディチ枢機卿率いる異端審問官になるも、しばらくしてから一つの事件が起こり……それから、異端を辞して新たな役職の長の責任を担い、過ごしているらしい。(自分はそのときいなかったので何が起こったのかは知らないが)

 くっくと低く笑って肩を揺らせば、地面にしゃがみこんだままの少女はアントニオから視線を背けた。 黙々を掻き集めて、書類を持って立ち上がり。

「ボルジア猊下、失礼いたします」
「―――あのウワサって、本当なんだ?」

 黒の外套をばさりと翻して去ろうとする華奢な背に、アントニオはそんな言葉を投げかけた。
 立ち止まることはなかったが、それでも肩が僅かに震えたことがわかる。


殺戮機械人形(キリングドール) のトレス・イクスが好きっていうウワサ」


 Ax…派遣執行官。
 コードネーム<ガンスリンガー>、トレス・イクス。
 カテリーナの猟犬としてでも有名である彼は人ではない。

「すごいね、アレを好きになっちゃうなんてサ」
「物みたいに言わないでください」
「でも結構有名なウワサだよこれ。 人ってさ、こんなウワサとか本当に大好きなんだよネ―――キミの周りの人はそんなキミを応援しているらしいけれど」

 応援している彼女の友人…それは衣装班に勤める副班長と会計だ。
 彼女たちはとても仲が良く、誰もが恐れるAxと異端とも精通している人物ということで<教皇庁>ではかなり有名とされている…気付かぬは、本人達の恐ろしいところ。

「彼女たちは関係ありませんっ」
「でもそれを言った所で、聞こえて来るものは聞こえてくるデショ?」
「っ……何を仰りたいのですか、ボルジア枢機卿」

 背を向けて立ち止まっていた彼女は、睨むような眼差しでアントニオに振り返った。
 彼女は聞いているのだろう。
 きっといくつも。
 囁きに混じるその嘲りを。
 ―――人間ではない男を想う哀れな女のオハナシの感想を。
 ―――そしてそれを応援している友人たちへの、嘲りを。

「プラトニック・ラブってやつ?」
「あたしは」
「よく我慢できるねェ…欲しいとは思わない?」

 そこでアントニオは自分が随分饒舌になっていることに気がついた。
 彼女のことは名前も覚えようとは思わないのに、興味深いという好奇心が溢れてきていることにも。

(確かに恋は理屈じゃないって言うけど、でも人間じゃない男をだよ? それって本当、カワイソウなオハナシじゃないか)

 好奇心を理由付けるようにそう考えながらも口の端を持ち上げ、もたれていた壁から離れ、ビクリと後ずさる彼女の顔の両脇の壁にトンと両手をついて捕らえた。
 瞳を覗きこむように首を傾げて、シワになるほど強く、ぎゅうっと書類を握り締めている少女の姿をその鳶色の瞳に映し。

「キミは天使じゃないし、欲もあるよね」
「っそうですけど、でも、トレスとそうなりたいわけじゃ」
「時々すごく欲しくなったりとかしない? 彼が」

 びくん、と細い身体が震えた。
 それに(ああ本当にカワイソウな子だなあ)と少女に哀れみにも似た一欠片の感情を覚えながらも、そっと、その頬に、囁き混じりに自らの吐息を吹きかける。

「人間ではないことに大きな虚しさを覚えない? 自分との違いに死にたくなるような気持ちにならない?」
「やめてっ」
「カワイソウにねェ」

 アントニオから顔を背けるように、瞳に囚われまいと書類に顔を押し付けるが、それをさせまいと顎を掴んで持ち上げる。 恐怖にも似た感情に揺れる瞳がとかち合うと、それを振り解こうと彼女は手を振り上げて―――赤の法衣を目にとめて、びくりと身体が強張った。

「っ」
「うん、ボクは枢機卿だ…キミは本当に頭がいい」

 夕暮れの濃紺色に包まれた回廊を照らすのは、一定の間隔に設置された燭台に立てられてゆらりと揺れる蝋燭の明かりだ。
 電力によって灯されることはあるが、燭台の灯りというものはある種の美しさをもたらすものでそれを好んで使う人間は今でも多いらしく、今でも<教皇庁>で使われている……アントニオに言わせれば、それは少々時代遅れだが。(だってすぐ消えるじゃないか、面倒だよそれは)

 そんな静かな空間に、二人だけがここにいる。


「ボクにその気があれば、イクス神父やキミの友達に対するウワサも、どんな風にも変わるからネ」


 「これでも広報聖省長官なんだよネ」と呟くそれに(脅迫みたいだなぁ)と妙に自分らしくもなく苦笑してそのまま、彼女の唇を優しく重ねて奪いとる。
 壊れ物に触れるかのように優しく。 けれど甘く、慰めるように…しかし逆に、その甘さに自分が酔ってしまいそうだ。

(そんなに純情じゃないはずなんだけどなァ)

 重なっているだけのそれにますます相手の身体が強張るのも構わずに、顔を包み込むように手を広げて、自分以外の物を見ることを許さぬかのように固定し続けて啄ばんでやれば、彼女はぎゅうっと目を瞑ってそれをひたすら耐えている。
 次第に、震え始めるその肩に気がつくとアントニオは少しだけ唇を離して。

「…そんなにスキ?」
「……」
「それでも報われないのにね、カワイソウ」

 そこで初めて、涙がぼろっと溢れて零れていった。
 零れたそれに息を詰めて、堪えきれぬ嗚咽にたまらなくなったかのように両手で顔を覆い、そのまま、背を壁に預けたままずるずると座り込んでしまった。
 会議ではあんなにも気丈で、ブラザー・ペテロやマタイ、シスター・パウラと渡り合う人間だったというのに、同一人物だとは思えない。

「女の子って本当に可愛いネェ」
「っ…」
「好きな人には本当に尽くしてくれるネ、ボクはどっちかというと尽くされるほうだけど…だって他人のために自分の身を削るなんてネェ」

 蹲ったまま顔をあげない少女の視線に合わせるように屈んで、覆う手を外させると泣き腫らしたような顔がアントニオの瞳に映る。
 頬を伝う涙に彼女の細い髪がぴったりと張り付いていて、朱に染められた頬の熱さに少しだけ戸惑うようなぎこちなさを持ってそれを払った。

 酷い泣き顔だというのに少しだけ、目を奪われたそのとき。


「――――――、ボルジア枢機卿」


 重々しい靴音と共に抑揚を欠いた声が、アントニオの鼓膜に触れた。
 それに驚きもせずに振り向けば、相手の姿に少女のほうが目を大きく見開いて。

「トレス」
「ブラザー・ペテロが卿を探していた。 彼らはメディチ枢機卿に卿を探すよう命じられている。 速やかに彼らと合流するよう推奨する」
「えー、面倒だナァ」

 本心からそう文句を告げても、作り物めいた端整な顔は喜怒哀楽の何の表情を浮かべることもなく、彼らに歩み寄って座り込んでいる少女の腕を取ると彼女の重さを感じさせないような鮮やかな動作でそのまま引き上げた。
 よろけるように立ち上がったその体は転ぶまいと、トレスの腕に慌ててしがみついて。

「と、トレス」
「ボルジア枢機卿、我々はこれで失礼する」
「あれー、行っちゃうの?」
「執務が終了次第にミラノ公の元への召集がかかっている」

 淡々と、何の恐れも畏敬の光さえも灯さぬまま告げられたそれに、アントニオは「へえ」と口の端を持ち上げて笑みを浮かべた。
 腕を引かれている少女の、そんな話は初耳だと驚いている顔を見ればそれの真偽はすぐに判断が出来る…ああ、彼でも嘘は吐けたのか。 いや、これは真実か?
 しかしそれ以上は敢えて追求せず、アントニオはふわりと法衣を翻す。

「了解了解、それじゃまたネ、班長サン」
「……」
「人肌恋しくなったらボクのところにおいで。 女の子はいつでも大歓迎サ☆」

 妙にさまになるウインクを送りながら手を振って、アントニオは再び回廊を歩き出す。 見送る視線がふと途切れた気配を見せると、ちらりとそれを振り返れば。

「…ありがと…トレス」

 礼を言いながらも腕で目元を拭う少女の肩に触れようとしたのか、彼の手がそっと、その小柄な肩へと持ち上げられて―――けれどそれは、触れぬままに降ろされた。
 そして、そんな自分の手を不思議そうに見つめている…何故、彼女の肩に触れようとしたのかと、自覚がなかったかのように。


 それを見て、(へえ)とアントニオは低い笑いを零してやれば、トレスは静かに、髪と同色の目を向けてきて、無感情のはずの瞳に僅かに浮かび上がるは本人すらも気付かない微かな感情の光。

 ―――アントニオに向けられたのは凍えてしまいそうなまでの、冷たい瞳だ。
 別の意味で考えれば、怒りにも取れる…とても静かな、怒りの光。

(まんざら無感情ってわけでもないんだネェ、イクス神父は)


 まあ、元々は人間と同じだったらしいけれどと思考をぐるりと巡らせて、必要ないと判断してからそれを脳内で抹消する。

(ああでも、さっきのは面白かったナ)

 既に人ではなくなった者の感情が、呼び起こされているなんて。

 設定さえあれば映画ではすぐに見られる現象。
 けれどリアルではそうそう見られぬ現象。



「報われぬ、けれどロマンチックな恋だねぇ、ホント」



 軽薄な笑みは、蝋燭の灯りに妖しく照らされて消えていった。

Platonic love

あとがき
トレスが好きだと思うことは周りから見ればどんな風に映っているのかなと考えながら、アントニオとトレス夢で。
アントニオは原作で出てます、コミックス派の方には「誰だこの人」状態に…(汗)ちょっとロンゲのナンパな男だけどすごく頭のいいキャラと思っていただければ。結局、原作の彼の目的も明かされぬままでした…彼はローマ教皇になろうとしたのかな…?

っていうかアントニオは紳士キャラだった…!(今更思い出す