「あ、いたいた!」
背後から投げられた明るい声に耳の鼓膜が震えた。
落ち込んだ心に光を照らしてくれるような、そんな声。
でも声だけじゃなくて彼自身の笑顔や優しさに、励まされたり助けられたり、救われたりして正直なところあたしは彼のそういう部分が好きでたまらない。
これは間違いなく、恋とかそういうもの。
この気持ちを自覚したばかりのときはただ隣にいられるだけでも幸せだった。
それだけで満足していたし、それ以上のことを望むつもりもなかったから、友達や仲間として彼の助けになれればそれで十分だった、のに。
(き、来たァァァ!)
でも、今は違う。
耳を通して心と身体にまで一瞬の震えが走る自分に気がついて、頭が真っ白になっていく。
さらには、無性に焦る。 とてつもなく焦る。
その連鎖反応みたいに顔中にカッと血が昇って、心臓がどくどくと騒ぎ出した。
いつもみたいに笑おうにも上手く笑えず、つい、ぎこちない笑顔になる。 でもそんな不細工な顔も見られたくなくて一度顔を伏せ、彼が駆け寄ってくるその数秒の間に”落ち着け”と何度も繰り返して激しい動悸を静めようと試みた。
それでも心臓は騒いでばかりで収まらず、顔の熱も引いてくれず。
結局、真っ赤になったまま向き直るしかなかった。 (ひどい顔なのにあんまりだ…)
「な…、なぁに? マグナ」
「が出かけてなくて良かった! じつは買い物に付き合って欲しいんだけど、いま大丈夫?」
”今日の夜ご飯はビーフシチューだって”と一枚のメモをひらひらと振って笑う。
ビーフシチュー。 それはとても美味しそうだ。 うん、大好きだ。
しかし今の自分は二人きりになって大丈夫かと思えるような心体状態ではなかったので(なんかもー襲いかかってしまいそうな気がする)、さりげなく、それとな〜く「せっかくだし、トリスたちも誘ってみようか」と提案してみた。
これから二人きりじゃなくなるし、何よりマグナにも自然に接することが出来るようになるからものすごく素晴らしい案だと思う。
「それが、皆用事があるって言って…」
有り得ないからァアアァァ!
あんなに大人数の居候がいるのに誰一人来られないとかどんなミラクル?! どんな偶然?! 誰か一人くらいは……あ、ものすごく陰謀の匂いがする……!
「あ、ちゃんと俺が荷物持ちするから大丈夫」
「い、いやそうじゃなくって」
あたしを安心させるようににっこり笑った彼の笑顔にドキドキして仕方がない。
いやでも、急にこんな、二人きりで買い物とか。 無理無理! と、アワアワアワワと挙動不審にわたわた手を動かしていれば、廊下の角の向こうにトリスを発見。
なんだ、トリスがあそこにいるじゃない!…って、なになに? 口動かして何か言ってる…。
(トリスさァァァんッ!!ガンバレってどういう事?!
それよりも何でそんな影に隠れてイイ笑顔をこちらに向けていらっしゃるのか!)
そこでこの買い物が策略だと確定された。
よくよく見ればものすごく楽しそうな顔のミモザやミニスまでいる。
ちょ、何でそんな楽しそうなのあなたたち。 かつてないほどすごくニマニマしてるんですけど。 すごい笑顔なんですけど。
「?」
きょとんとした顔であたしを見てくるマグナ。
そんな彼一人を夕飯の買い物に行かせるのは気が引けた…策略と必然が組み合わされたとはいえ誰一人彼を手伝える者がいないのだ――あたしを除いて。
ジラール邸の住人たちは子供から大人まで揃っている。
ご飯の度に買い込む量も半端じゃない。 なのでいつも買い物は仲間たちが協力して、たくさんの買い物袋を抱えてみんなで戻ってくる。 あの量をひとりでとか…マグナが荷物に潰される。
(ここで断ったら…やっぱり、不自然だろうし)
ただでさえ挙動不審になっているのに、彼に嫌われたくない。
彼が好きだ。
些細なことで心地よいこの関係を壊したくない。
だから、あたしは諦めたように――でも嫌ではないから、どうにか笑顔になって。
「そ、それじゃ…一緒に行こっかな。 一人じゃ大変だもんね」
「助かったー! ありがとう、っ」
ほっと安堵したような笑顔に、さらに恋に落ちていくあたしだった。
「―――? 荷物、重くない?」
「だ、ダイジョウブ! 全然ダイジョウブ!!」
商店街の雑踏の中で投げた俺の質問に、首が千切れそうなほどブンブン!と横に振ってが答える。
あまりにも首を振る勢いが良すぎたせいで「何事だ?」と通行人が彼女に目を向けるも、すぐに興味なさそうに逸らして過ぎていく。 でも、俺は彼女から目が離せない。
だって。
(…ものすごく真っ赤だなぁ…)
は自分の耳まで赤くなっていることを自覚しているのか、そのまま深く俯いてしまった。
制御できない感情の波に翻弄されて、その横顔はなんだか泣きそうだ。
そこがカワイイなぁ。なんて言ったら、きっと全速力で逃げられるから言わないけど。
全速力で逃げるを想像して込み上げてくる笑いをどうにか口内で噛み殺していれば、ふと、並んで歩く互いの手が、ちょん、とぶつかった。
今の時刻はちょうど夕飯の買い物時だ。
朝昼夜の中で一番商店街が込み合う時間帯で、人波の中を並んで歩いていれば互いにぶつかる事なんてあるだろう。 なのに。
「! あ、わ、ご、ごめん!」
「へ? 何が?」
その場で飛び上がるんじゃないかと思うほど肩を竦ませて、が謝ってきた。
さっきの真赤になった顔も、今の言動も、彼女に特別に意識されてのことだとは分かっているつもりなんだけれども、ただぶつかっただけなの反応にまるで怖がられているようで、少し寂しい気がする。
でも、それでもあえて気づかないフリをして笑えば。
「ぇ――あ、ううん、何でもない…」
も、意識し過ぎたことに気づいたようだ。
最後にもう一回、「ごめんね」と謝ってくる横顔は自分を責めているようで。
「あはは、変な」
だから、俺が笑顔になって彼女の憂鬱を吹き飛ばしてやるのだ。
何でもないように笑うなんて俺には慣れきったこと。 でも、に向ける笑顔は本物で、心から彼女を元気付けるために浮かべるそれは、いつもより優しいんじゃないかと思う。
「へ、変って」
「それより、は何か食べたいものある? 買出しのご褒美にお菓子とか買おうよ」
「あ、ダメ! 帰ったらすぐご飯なんだから」
「いいのいいの。 ほら、チョコレートとかどう?」
「……ネスに怒られても知らないからね」
諦めたように溜息を吐くを連れて雑貨屋に入ると、彼女は渋々と店に陳列されたお菓子に目をやる。
甘い匂いが立ち込める店内には女の子のお客さんが多い。 明るく賑やかな声につられるように俯いていた顔を上げてお菓子を眺めていると次第に、いつものに戻っていた。
「どれにしよう…」
「あ、俺、これにしようかな…うーん」
同じ棚のチョコレートを見る距離は、歩幅一歩分空いている。
それは彼女が一歩分空けたから。 でも、その距離は何だかもどかしくて、一気に近寄って手でも握ってしまおうかなんて、チョコレートを眺めながら俺は考えてしまうわけで。
(いつの間にこんな風になってしまったんだろうなぁ…)
出会った当初にはなかった、特殊なぎこちなさ。
それが心地良い時もあるけれど、今はただ息苦しいばかりだ。
彼女を想えば想うほど加速して、醜くなって、どろどろとした独占欲に変化していく。 一瞬、相手を思いやる気持ちを忘れて全部ぶつけてしまいそうになる。
(…ダメだダメだ、そんなことしたら)
今だって、トリスたちが手伝ってくれてようやく二人きりになれたのに。(にバレたけど)
大切にしたい人を怖がらせてどうするんだ。
そんなことをして、に嫌われたらそれこそ哀しいじゃないか。
(あー、クソッ)
もやもやとした感情にチョコレートの匂いが混ざって、一種の嫌悪感を覚える。
お菓子屋なんかに入るんじゃなかった。 甘い匂いに思考を狂わされる。 食欲を誘うような甘さだが、きっと、のほうがずっと甘くて別の欲を誘うだろうと思うと、それだけで目眩がした。
らしくもなく毒吐いて、やり場のない気持ちを秘めた目でを見た。
一歩分の距離を空けたままチョコレートばかり眺めていて、マグナの視線に気づかない。
無意識に――手が、伸びる。
けれど触れる寸前に、それは落ちて、かわいいラッピングのチョコレートを掴んだ。
「っ……俺、これにする」
「あたしはこれ! それじゃ、お会計してくるからちょっと待っててね」
いつものように笑ってから、軽い足音をたてて店員の元へ向かう小さな背中。
抱きしめたらどうなるだろう。 とか、そんなことばかり考えてしまうこの心と頭はそろそろ限界なのかも。
(俺、君のこと、好きだ。 でも)
(が望むなら、もう少し、このままでいてあげるよ)