フェンスの向こうにいるキミから目が離せないのは何故でしょうか。
「――たるんどるっっっ!」
青空に響く怒号に”ああ、また始まった”と溜息を吐いた。
それは我らが真田副部長の説教タイム。
怒られているのはいつものごとく切原赤也で(彼の隣にジャッカルがいるが、おそらくとばっちりを受けたのだろう)、これが始まると真田は長い。 終るまでには15分ばかしかかるのだが、その間は他の部員は水分補給をしたりしてちょっとした休憩時間にもなる。
この猛暑に辟易していたテニス部部員一同は”今日は切原に感謝だなー”と他人事のように感謝のエールを送りつつそれぞれコート外に散っていく。 もちろんそれは、仁王とて例外でもなく。
「っはー、今日も暑いのぅ…」
流れ出る汗をタオルで拭いながら、仁王は日差しに熱されたベンチに腰を下ろした。
普段の練習量のおかげでバテるということはないが、振り払えないほどの暑さがとてもうっとおしい。 暑いのは苦手なのだ。 できれば涼しいいつもの場所で休憩したいところだが、真田の説教が終わるとまたコートまで戻ってこなくてはいけなくなる。 それも面倒だ。
…などとつらつら考えている彼の傍らで、たっぷりとしぼられて項垂れている赤也を見て”今度は何をしたのでしょうね”と苦笑するのは相方の柳生だ。
彼の髪が夏の風に吹かれると、温い空気が仁王の髪をもさらって吹き抜けていく。
つられるように降り注ぐ日差しの眩しさに目を細めうんざりと空を仰げば、夏独特の濃密な青が広がっていた。
夏場の空は青さがいっそう濃厚になるというが、雲の白さとあわせたら一段とその色は引き立つ。
それこそ嫌味なくらいに。
「―――嫌味なくらい空が青いのう」
「…仁王くん、何かあったんですか?」
困った顔で、”真田くんのように、眉間にシワが…”と聞かされる。
親友の指摘に肩で大きく息を吐いて眉間のシワを指でぐりぐりとほぐしてみるも、なかなか直ってはくれない。
「別に…何でもなか」
暑さのせいだろう。
この気持ちが面に出ているなんて珍しい。
いや、柳生だからこそバレたのであって他人から見れば悟られることではないのだろうが…。
「おや、珍しいな仁王」
――ペットボトルを片手に偶然通りかかった柳にまで眉間のシワを言い当てられた。
この猛暑でも暑さを感じていないかのような涼やかな顔立ち。
細い糸目が仁王の眉間に集中していることから、つまり、露骨に、この感情が顔に出ているということであって――ああ、こんなにあっさりと胸の内を知られるとは。
俺の詐欺師の名が泣いている。
「何かあったのか」
「いやいや、なーんもない。
何もない」
「――ああ、あれが原因ですね」
あっさりと見抜く親友の声が、”原因”と思われる先に向けられた。
…こんなデータを取られるのは勘弁してほしかったというのに…仁王はうんざりと顔をしかめ、柳の目は柳生の言葉に誘われるようにコートと外と仕切るフェンスの向こうで会話に華を咲かせている女子生徒たちに向けられる。
彼女たちはテニス部の応援にきている。 それは毎日のことなのでまったく特別なことではないのだが柳は本能的に何かを感じ取ったようで、その場にいる女子生徒全員にざっと目を通した後。
「どれだ?」
「ええと、左から三番目の…今、男子の肩を叩きながらお腹を抱えて笑っている女子です」
「ほう、嫉妬か」
「おいおい、何を勝手にあらぬ方向に推測しとるんじゃい」
止めながら、しかしこの目は柳生が示した女子生徒を追ってしまっている。
…応援に来ているらしい割に、お喋りに夢中で試合には見向きもしない一人の女子生徒。
少し前から見かけるようになった彼女がここにいるのは友人の付き添いだろう。 テニス部員の誰が試合をしていても、彼女が真剣に応援している姿を見たことがない。
「あれは幸村と同じクラスの… 、だな」
涼しい顔で、柳は名前までズバリと言い当てる。(そのうちスリーサイズまでサラリと言い出しそうで恐ろしい)
仁王も三年のバッジをつけていることから同級生だと知っていた。
ただ、その女子の表情があんまりにもコロコロと変わるのだからそれがやけにおかしくて、しばらく観察したこともあった。
面白いほど見事に変わる。 コロコロ変わる。 笑ったり笑いすぎて泣いたり、かと思えば怒ったり驚いたり。 彼女をペテンにかけたらどうなるだろう。
仁王の一挙一動に笑ったり泣いたり、怒ったりするのだろうか。
なぜか見ていて飽きない。
彼女がそこにいると、フェンスの向こうの風景に飽きがこない。
だから休憩時間の間、彼女の観察はやめられないままになっていた。
「何だ仁王。
彼女が好きなのか」
「そんなんじゃなか。 ただな、見てて面白いんよ」
彼女自身に興味はない。
嘘ではない。
本当だ。
しかしそれでも休憩時間は自然と彼女に目がいってしまうのは、その表情の変化が魅力的だと思ったからだ。
観察するたび、色んな彼女を表情を知る。
友人と全開で笑っているところとか。
日焼けにひーひー言いながら日焼け止めを塗っている(手遅れだと思ったが)ところとか。
時々試合に目を向けては、そのプレイに感嘆の声をこぼしていたりとか。
真田の一喝に怯えていたりとか。
フェンス越しに、色んな彼女の表情を知っていく。
気がつけば、仕切りの向こうに見える顔から目が離せなくなっていた。
「だから、観察するのがええんよ。
知り合いになろうとはそんな思わん」
そう呟いて、 を見つめる仁王の顔は楽しそうだ。
一方、柳は”…観察対象と接触する気にもならない…?”と不思議そうに首をかしげていたが、柳生は彼の表情に口元に笑みが浮かぶのを自覚しながら、おかしそうに苦笑をこぼして。
「観察するだけでいいんですか?」
「おお、満足じゃ」
「――知り合いになって、友人になったほうがもっと色んな表情が見られて、もっと楽しくなるんじゃないかとは思わないんですか?」
その言葉に、仁王はきょとんと柳生を見上げた。
考えたことがなかったとでも言わんばかりの珍しい表情だ。
大人びた彼の年相応のそれを見られたことが嬉しくて、柳生は眼鏡のフレームに触れながら言葉を続ける。
「さすがにさんも仁王くんを知らないなんてことはないと思いますし、難しくはないと思いますが」
「…プリッ」
誘導されているような口の上手さに仁王の顔が歪んだ。
とてもいい考えだとは思うのだが、微笑ましいものを見るような目で見下ろしてくるのは勘弁してほしい。
無意味に死にたくなる。
「まだ休憩時間もありますし」
さぁさぁと背中を押され、ゴリ押しまでしてくる。
何が一体彼にこんな行動をさせているのか仁王には知る由もない―――やがては根負けし、降参したように溜息を吐いて両手を挙げてしまった。
「分かった分かった……それじゃ、ちょっくら行ってくるぜよ」
やる気がなさそうに銀髪をがしがしと掻きむしりながら、仁王の足はフェンスに向かっていく。
仁王ファンらしき女子生徒たちが悲鳴をあげたが、それでもその足は何かを気にすることもなく真っ直ぐに一人の女子生徒を目指して進み続けた。
やる気ない背中に”ファイトですよー”と応援エールを送りながら見送る柳生。
そんな仁王の親友に、柳はぽつりと小さく問うた。
「友人のままで終ると思うか?」
「そんなまさか。
それこそ百パーセントないでしょう」