ジラール邸の扉を開けたとき、爽やかな柑橘系の香りがふわりと漂った。
食卓によく出る果物の柑橘とは少し違う。
独特の甘さが混じる、人の手によって作られた香りだ。
(…これは)
シャムロックはこの香りを知っていた。
香りは頭の中にある記憶と直結して、何かを、誰かをシャムロックに連想させる。
しかしそれが何だったのかを思い出せず、静かに扉を閉めながらシャムロックは記憶に残るそれが一体何だったのかを考えるのだが――だめだ、思い出せない。
自分の身近にあるもののはずなのに、形すらおぼろげでその正体を掴むこともできなかった。
(だが、いい匂いだな)
香水の類は苦手だが、爽やかなのにほんのりと甘いこれは好ましい。
香りの元はどこだろうと気になって視線をめぐらせるも、果物らしい物体も、匂いを放つようなものの姿は見えない。
――ふと、リビングから賑やかな声が聞こえてきて、香りと好奇心に誘われるようにリビングに向かうとパッフェルの後姿が見えた。 その向こうに並ぶリビングのソファーにトリスとアメル、ミニスとルウも仲良く並んで座っていて、彼女たちはみな一様にパッフェルが持ち込んだ大きなバスケットの中身に目を輝かせている。
「どうですか? いい香りでしょ〜? うちの新作のアロマオイルなんですよぉ♪」
「うーん、こっちのはなんか美味しそうな香りだなぁ…アイスクリームみたいな」
「トリス…あなたもしかして、お腹が空いてるの? さっきアメルとルウが作ってくれたオヤツを食べたばかりなのに?」
「まぁまぁミニスちゃん…でも、本当にいい香り。 樹の香りとか、お菓子の香りもあるんですね」
「こっちはきれいな色の瓶だわ。 こんなにきれいな青色、ルウは初めて〜!」
「そりゃあもう♪ やっぱり女の子が手に取りやすいようボトルにだってこだわってますから〜! どうどう? みなさん、おひとつずついかがですかぁ?――っと、あ、シャムロックさん!」
なかなか盛り上がっていたのでつい傍観してしまっていれば、パッフェルがいち早く気付いて振り向いた。
シャムロックを見つけた彼女の細い目が一瞬、獲物を見つけた狩人のような光り方をした気がするのだが自分の勘違いだっただろうか…そんな思惑と裏腹につい反射的に身構え身体が後ろに下がろうとしたが、パッフェルが動いたほうが早かった。
ガシッ!と力強く腕をつかまれただけで身動きひとつできなくなった状態に、シャムロックの背筋がぞっと逆立つ。
その瞬発力は忍に引けを取らない。
いや、それを抜きにしても今の彼女から逃げられる気がしない……思わず諦めたように溜息を吐くと、パッフェルはシャムロックの背に回り、いつもの外套のない広い背中をぐっと押した。
「ぱ、パッフェルさん…?」
「シャムロックさん! 今日も<蒼の派閥>への報告お疲れ様でしたぁ♪
さ、さ、シャムロックさんもおひとついかがです? ご自分用でも、なんならプレゼントにでもどうです? 私、はりきってラッピングもしちゃいますよぉ〜」
「え? …あ、いや、何のことだい?」
背中を押され、女性陣の輪に無理矢理押し込まれたシャムロックが見たものは、テーブルに鮮やかな色彩の小瓶が数多く並んでいた。 クリスタルのように透明なもの。
海より深い青色をしたもの。 鮮明な赤、甘い香りのピンク、ボトル自体が蝶の形をしたものなど、目で見るだけでも興味を惹かれる。
だがそのどれもこれもから爽やかな緑の香りだったり花の香りだったりと、フタを閉めてもいろんな種類の残り香りが広がり鼻が効かなくなりそうだ。
思わず困惑顔で立っていると、「まあまあこっちに座ったら?」とトリスが空いてる席を勧めてくれたので、とりあえず腰を落ち着ける。
「シャムロックってこういう匂いとか苦手なの?」
「強い香りは少し苦手かな…これは香水?」
「香水と、アロマオイルですよ。 パッフェルさんの新しいバイト先が、ゼラムに最近出来たばかりの大きな雑貨屋さんみたいで…」
「で、その新商品をあたし達に宣伝してるワケ。 香水はつけて楽しむものだけど、アロマオイルは素肌につけてマッサージしたり、お部屋に置いててもいいんだって」
アメルとトリスもそれぞれ気に入った香りを見つけたのか、「いい匂いだなぁ」と満足顔だ。
確かに、さきほど玄関で香ったものはシャムロックも好きな香りだ。
だが剣一筋で生きてきたシャムロックにはこの香りを肌につける良さなどがいまいちよく分からず、「何かの効果があるのか?」とつい不思議そうな表情をしながらもさきほどの香りの瓶を探してみる。
(…ん、これだな)
透明感のある琥珀色の瓶のフタを開けると、やはり、知っている香りだった。
ほっと一心地つくような、肩の力が自然と抜けていく実感に少し驚く。
長くスルゼン砦で見張りの任務についていたし、気を張ることがとうに習慣づき無意識に強張っていた身体の力が抜けるとは…なるほど、香りで癒されるとはこういうことか。
瓶の裏に張られた成分表などに目を向けて興味を示していれば、パッフェルが大きく身を乗り出した。
「あ! シャムロックさんお気に入りの香り見つけちゃいました? 私、効能とかそういうの全部暗記してるんで、よかったら良い使い方とかアドバイスしちゃいますよぉ♪」
「ええ。 これは好きな香りですね」
「どれどれ〜、確かそれは…………………………」
パッフェルが瓶に目を向けた途端、喋らなくなった。
まるで完全に固まってしまったような…彼女にしては珍しい硬直だ。 トリスたちもそんなパッフェルの姿を見たことがなかったので、皆それぞれに香水をテーブルに置き「わぁ…パッフェルが固まってる…」などと感想をこぼしながらウェイトレス姿の女性を凝視している。
シャムロックも首をかしげつつ、パッフェルさん?と呼びかけてみる。
それが解呪の言葉だったかのように、薄く開いたパッフェルの目がぱちりと瞬いた。 だが次には「はぁぁぁぁ…」と深い、それはそれは深いため息がパッフェルの口から一息に出ていって、その場にいた一同は思わずびくりと体を揺らす。
「ど、どうしちゃったんですか…パッフェルさん…?」
「あぁ、アメルさんすみません私ったら! っていうか、もーシャムロックさんってばぁ! 見せつけないでくださいよぉー! んもぉ、このこのっ」
「え? えぇ??」
「他の香りはダメなのに、その香りだけは好きだなんて…ラブラブで羨ましいですねぇ。 ホント。 私も素敵な恋人のひとりやふたりは欲しいところですけどお仕事がありますから…」
「あ、いや、パッフェルさん。 何の話で…?」
トリスたちも不思議そうな顔をしては、シャムロックとパッフェルを交互に見ている。
パッフェルが何を言っているのか。 何が言いたいのか。 彼女を除く全員は分かっていないだろう。
だがしかし、パッフェルはいつものにっこり笑顔でシャムロックの持つ瓶に指をさすと「またまたとぼけちゃってぇ」とひやかすように告げるのだ。
「それってあの子のシャンプーの香りですよねぇ?
私この間、同じ香りのシャンプーとボディソープを注文してもらったから知ってるんですけど……もー、シャムロックさん、匂いまで覚えちゃうなんていつの間にそんな仲になっちゃったんですかぁ?
まあ両想いっぽいなぁとは思ってましたけど、まさかすでにくっついちゃっていたなんて…」
「――、え」
指摘に、瞬時に耳まで赤くしたシャムロックの声よりも。
「えええええええええええぇぇぇぇ?!?!??!」
パッフェルを除くトリスたち全員の声が、ジラール邸を震わせるほどに木霊した。
「あ、パッフェル! この間はシャンプーありがとうね!
髪の手触りもすっごくさらさらになるし、身体洗う時もい〜い匂いして好きだから助かったわ〜」
「それは何よりですぅ♪ あ、でも、えーっと…もしかしたら、しばらくシャムロックさんが挙動不審になってるかもしれないんですけど、気にしないであげてくださいねぇ」
「へ? なんで??」
「いやぁ、繊細な男心といいましょうか……とにかくそういうことで〜!」
「逃げたァァァッ!? ちょ、誰かァァァパッフェル捕まえてぇぇ!!」