一部の人類にとっては、数日後のクリスマスというイベントを控えた、ある寒い日。
それ以外の人類と異界の住人にとっては、なんてことのない冬のある日。
その日のヘルサレムズ・ロットは、幸運にも大きな事件はなく、ライブラの事務所もいたって平穏だった。ランチトリオ――レオナルド、ザップ、ツェッドのことだが――も、日が暮れるや一気に仕事モードから力が抜けた。
「最近、一段と日が暮れるの早いなあ」
「冬ですからね。昼が短い分、一日が早く感じます」
窓の外を眺めつつレオナルドが呟くと、ツェッドが神妙に頷いた。冬は夜が明けるのが遅く、陽が落ちるのは早い。二十四時間と言う時間は変わっていないのに、やけに一日が終わるのが早く感じる。それに、気温も低いので、あまり開放的な気分にもならない。
ちなみにザップはと言うと、「陽が暮れたので帰る」と言い出した。執務机についていたクラウスは特に反対もせず、白い上着を翻して去っていく銀髪の男に一瞥をくれ、その視線が再び机に落ち――次の瞬間、ザップが帰ると見せかけて急に振り向き、不意打ちを仕掛けた。が、案の定あっけなく返り討ちにされ、ソファに転がされていた。もはやいつものことなので、レオナルドもツェッドも呆れるでもなく、背景の出来事としてスルーである。
その後もしばらく、事務所のメンバーは居残っていたが、一人、また一人と自宅へ帰って行った。いくらライブラが人界を守るために活動する組織でも、そこで働いているのは人間だ。休む時間は必ず必要で、大体の者にとってそれは夜なのだ。
ツェッドが、水槽の設置された自室に戻ると、扉の前に客がいた。
「さん?」
「あ、おかえり。ツェッド」
朗らかに笑う、黒髪の女性。髪はいつものように、後ろでごく緩く三つ編みにしてまとめている。レオナルドよりは少し背が高いが、チェインやKKよりは身長が低く、また顔立ちもどこかあどけなさが残っている。
以前聞いたところ、彼女はすでにこの国でいう成人には達していて、酒も煙草も合法な年齢だという。が、実を言えば彼女の人生はそう平凡でも単純でもなかったので、時折、やけに幼く純朴に見える振る舞いをする。
とはいえ、彼女も今やライブラの一員で、真面目に戦えば恐ろしい存在ではある。
と呼ばれた女性は、持っていた包みをツェッドに見せた。
「何ですか?」
「今日は特に事件もなく落ち着いてたから、差し入れを作ってみたんだ」
そう言って、彼女は包みの布を開く。大きめのバンダナのような布が開かれると、中に入っていたのは半透明のランチボックスのような箱。さらにその中に入っていたのは、いくつかの小さな焼き菓子だった。あまり人界のお菓子事情に詳しくないツェッドでも、それがパイだということくらいは分かった。
「わざわざ作ってくれたんですか」
「自分が食べるためでもあるから、ついでみたいなものだけどね。今日は冬至だから、かぼちゃを食べるのがいいかなって」
「冬至……確か、一年で一番昼が短くて、夜が長い日、ですか」
「うん」
が頷く。ツェッドはふと、扉の前で立ち話も何だと思い、を部屋に招き入れた。
大きな水槽が一つと、ソファや机といったいくつかの家具、そしてたくさんの観葉植物が置かれた部屋。ツェッドは普通の人間ではなく半魚人なので、水槽という特殊な設備が必要で、それゆえにこの広い部屋を与えられていた。
にソファに座るように勧め、ツェッドは渡されたランチボックスを簡易キッチンの方に運ぶ。二枚の皿に一つずつ移し、残りはランチボックスに入れたままにしておく。今度、ちゃんと洗って返すことは確定事項だ。に会う口実にもなるので一石二鳥である。
皿を持ってソファに歩み寄ると、がまたにこりと笑った。
「ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
から少しスペースを開けて、ツェッドもソファに座る。ツェッドはが作ったという小さなパイをじっと見ていた。形はプロが作ったもののように完璧ではないが、きれいに焼けていて美味しそうだ。
「一応味見はしたんだけど……」
「頂きます」
不安そうにが呟くと、ツェッドは礼儀正しく挨拶してから一口、食べてみた。
さくりとしたパイの食感と、バターの香り、中に入ったフィリングの甘みが広がる。
「美味しいです。ありがとうございます」
「良かった」
ほっとした様にが頬を緩ませた。
彼女は時々、ツェッドやレオナルド、ザップに差し入れを持ってくる。
もちろん、クラウスたちにも行きわたるように、クッキーなど小さくて数がたくさん作れるものだ。とはいっても、クラウスやスティーブンは高級なものを食べ慣れているだろうからと、はそっと事務所の隅に置くに留めている。もちろん、上司二人も彼女の気遣いを無駄にはしておらず、いくつかは口にするのだが、大半は、若年ゆえに空腹になりやすいランチトリオの胃袋に収まっている。
特に万年金欠状態のザップと、妹への仕送りのために生活を切り詰めているレオナルドにとっては、この差し入れはなかなかにありがたいものらしい。ツェッドにとっても、が作ってくれたものを食べられるのは、結構嬉しいことだった。
「そういえば、どうしてかぼちゃなんですか?」
「日本っていう国が大陸と海の向こうにあるんだけど、そこの風習で、冬至の日には、かぼちゃの煮物を食べるんだって。健康とか長生きとか、そういうもののためらしんだけどね。かぼちゃは冬が旬らしいし。まあ、この国で作るなら煮物よりパイかなと思って」
にこにこと笑いながら解説するを見ていて、ふと、ツェッドは嬉しくなった。多分、は自分を気にかけてくれたのだろうと。健康とか長生き、と言ったが、にとっては多分、「元気でいられるように」という意味なのだろう。
「ありがとうございます」
「え? うん。どういたしまして」
菓子のお礼に、とは別の意味を感じ取って、が一瞬怪訝そうな顔をした。しかしすぐに察し、朗らかな笑みに戻った。
「さんも食べないんですか?」
「じゃあ、せっかくツェッドがお皿に載せてきてくれたし、食べようかな」
ひょいとがパイをつまみあげ、口に運ぶ。
ほくほくと頬張る顔がなんだか可愛らしく見えて、ツェッドは己の、表情が読みにくい顔立ちに多少感謝した。多分、兄弟子に見られたら即座にからかわれるような、緩んだ顔をしていると思う。
ツェッドも残っていたパイを食べ、二枚の皿は数分で空になった。は満足げに「美味しかった」と笑っていた。
「じゃあ、また明日」
が何気なく立ち上がり、身支度を整え始める。
「送りますよ」
「ありがとう。でも、寒いし、部屋の出口までで大丈夫」
ツェッドが部屋の出口までエスコートすると、が少し心配げな表情になった。
「また、何か作ってきてもいいかな?」
ツェッドはとっさに返事ができず、ぎくりと固まった。
どう答えたらいいか、迷った。
もちろん、の好意は嬉しい。が、が自分をどう思っているのか、計りかねた。
「その……迷惑だったら」
「い、いえ、迷惑ではないです。ただ、さんに負担がかかるのではと」
しどろもどろに返事をすると、が首を振った。ツェッドを見上げて、照れたように笑う。
「ツェッドと一緒に、同じものを食べたいなって思ったんだ。時々だったら、いいかな」
「ええ、もちろん」
「ありがとう」
が嬉しそうに微笑む。その理由を、ツェッドは少し理解している。
には家族がいない。
育ての親は、少し前に亡くなった。彼女は一人で、この街で暮らしているのだ。今はライブラの仲間がいるけれど、彼女は己の複雑な出自を気に病んで、なかなかライブラのスタッフと距離を縮められない。
例外的に仲が良いのが、レオナルドとツェッドだ。レオナルドは妹がいるせいか、面倒見がいいし、がライブラと関わるきっかけを作った。ツェッドについては、人外の姿をしているがゆえかわからないが、にとっては多少、距離を縮めるのに敷居が低かったらしい。
最初、ツェッドは、がレオナルドを慕っているのだと思っていた。いや、今でも、はレオナルドを大事な友人だと思っているようだけれど、レオナルドを異性として見てはいないようだった。
ならにとって自分は――と考えていたところで、が声をかけてきた。
「ツェッド?」
「ああ、すみません。考え事を」
「ううん。じゃあ、またね」
が踵を返して廊下を歩いていく。その背に、ツェッドが呼びかける。
「さん」
「はい?」
「気を付けて」
「うん。ツェッドは優しいな」
は振り返って嬉しそうに微笑み、
「ツェッドのそういうところ、好きだよ」
さらりと、爆弾発言を残して去って行った。
爆弾発言をされたツェッドはと言えば、フリーズしかかった状態で扉を閉め、ぎこちない動きでソファに戻り、
「……ずるいですよ、さん」
少々悔しげに、ぼやいた。
自分に対して、少なくとも親愛を抱いてくれているのはわかるけれど、はっきりとは伝えてくれないし、何より、ツェッドから言う機会をなかなか与えてくれない。
それでも――。
(さんと一緒にいると、安らぐ)
本当に、が大切で、有り難い存在だと思える。
できることなら、もっと一緒にいて、もっとそばにいたいと思うくらいに。
夜が長くて寒い冬なら、なおさらだった。