New year party――新年会も無事に終わり、天空楼閣バー<虚居>が作り出す数多の幻術アクセスをくぐりぬけ、ヘルサレムズ・ロットの日常へ帰還した秘密結社ライブラの構成員たちはみな散り散りになると、深く沈む暗闇と光溢れる街の狭間へ消えていく。
それはクラウス率いるメンバーたちも同じである。
レオナルドとチェインはアパートへ。 K.Kは我が家へ。 ザップは愛人宅へ。 クラウスとスティーブンは組織上司の接待。 もちろんギルベルトも主に追従したので、必然的にツェッドはひとり一足先に事務所に帰宅することとなったのだが、視界の端にふわりと揺れた三つ編みとちいさな背中をした女が雑踏に消えようとしている姿を捉えると思わず、「さんっ」と彼女を呼び止めてしまっていた。
「――ツェッド? 帰らないの?」
「いえ、夜道は危険なのでよければ送らせてもらえればと…あ、」
そこで、がライブラ内でも折り紙付きの実力者だったことを思いだし、余計な世話だったかもしれないと考えた彼は最後まで言葉を紡ぐことなく「すみません」と申し訳なさそうに侘びた。
急に身を引いた半魚人の青年にはぱちりと目を瞬かせた後、謀略も悪意もなくただただ彼女の身を案じて申し出た生真面目な彼のいたわりや優しさに触れたことでいつもの朗らかな笑みをより深め、「ありがとう」と白い息を吐きながら少女のように笑った。それがNOなのかYESなのか判断しかねたが、彼女が不快に感じていないことが分かってツェッドは少しだけ肩の力を抜く。
「それじゃ、途中までお願いしようかな」
「途中…ですか?
自宅までではなく?」
「ツェッドの帰りが遠くなっちゃうでしょ。 明日も…というかもう今日か。
仕事もあるしお酒も飲んでるんだから、少しでも早く帰って睡眠とらないと」
「自分は平気ですよ。
それに師匠の修行で二徹三徹当たり前のときもありましたし」
「そういう問題じゃないんだけどなぁ…」
修業時代はハードで不眠不休も当たり前だったが、HLに来てからはなるべく早寝早起きの規則正しい生活を送っている。 それでも体力の数値が常人より遥かに上回る彼がたかだか一時間二時間眠らずとも支障はない、だから大丈夫だ、と気にかけてくれるに気を遣わせないための発言だったが彼女はお気に召さなかったらしい。言うことのきかない弟に手を焼く姉のように「まったく、もう」と頬を膨らませるのだが、時折みせるそんな幼い仕草が可愛らしくてツェッドは好きだった。思わず、口元が笑みに緩む。
「ツェッドはとても紳士的で優しいけど、意外と頑固なところあるね。
そういうところザップにそっくり」
「うわ…まさかあの人に似てると言われる日が来ようとは…」
「あはは。
あ、そうだ、お礼にアイスクリームおごってあげる。 すぐそこに新しいアイス屋さんができたんだ。
おすすめはナッツとチョコミントの…」
「この寒い日にアイスですか」
「冬のアイスも美味しいんだよ」
胸を張って誇らしげにそう宣言したあと、は先を歩きはじめる。
それに従う形でツェッドも歩き出し――ふと、雪の積もった白い路に刻まれた彼女の小さな足跡を見て、その場でしばし考え込んだあと「あの」と彼女の背に呼びかける。
「どうしたの?」
「アイスはいいです。
その…」
「うん」
しんと冷えた空気に彼女の声が小さく響くと冷ややかさが少しだけ柔くなったように感じる。
現実的には温度も何も変わっていないというのに不思議だ。
と、頭の片隅でそんなことを考えながら、白くこぼれる息を吐いてツェッドは彼女の隣に並んで。
「僕は、貴女の作るお菓子のほうがいいです」
「え…、……そ、う?」
「はい。
この間のかぼちゃパイも」
とても美味しかった。と、大切なものを口に含むようにしてツェッドは言葉を繰り返す。
事実、と過ごす思い出はどれも大切なものだった。 先日の寒くて長い冬の夜にくれた彼女の思いやりも、彼女が紡ぐ何気ない言葉のひとつも。
人よりも表情の読みにくいツェッドの横顔を見つめていたは、彼の言葉の意味をもう一度たどり、一瞬考えこむ仕草を見せた。
そんな彼女の横顔を、雪に反射した街の光が染める。 夜が深くともなお喧噪の絶えない街の毒々しくも鮮やかな色に染まりながら、透きとおるようなの黒い瞳だけは濁らなくて。
それは非日常が日常で、雑多で、欲望が蔓延した、個の命など吹けば飛ぶような霧の世界に残された星の欠片のようだった。
無数の光に紛れ、他の強い光に掻き消されたとしても、目をこらして見上げればきっと必ずそこにいる。それがどれほど彼の孤独に寄り添ってくれていたのか、彼女自身は知らないだろうしこれからも知ることがないかもしれない。
(それでも、いい)
今はまだ、それで。
こうして隣にいて、朗らかに笑う彼女と、彼女が大切にしているものを守れる場所にいられるのならば。
しばらく無言だったは、やがて呆れた風に肩をすくめて見せて。
「そんなに気にいったの?
かぼちゃパイ」
「はい、とても」
――本当は、貴女の手で作られたものはなんだって好ましい。
さすがに今はそこまで告げる気はない。
だが、言外にそう告げていることを聡い彼女は感じたのか「…ツェッドは…」と言い淀んだあと、ぶるぶると首を横に振って「何でもない」と、続きをごまかした。
その先の言葉を本当はとても聞きたかったし、本当に伝えたい言葉や欲しいものは別にあったけれど、これまでと変わらず彼女が何も言わせてくれないのであれば、今は、ツェッドが語る言葉も想いも胸に沈めるだけだ。
「それじゃ明日、作ってきてあげるね」
「楽しみにしてます」
「――明けましておめでとう、ツェッド。
今年もよろしくね」
「はい。 よろしくお願いします。 さん」
そして二人は、ほんの少し互いの距離を縮めて歩き出す。