「伊東さん伊東さん! 大変です!」

 長屋の狭い空間の隅々までに彼女の声がよく響いた。
 薄い扉の向こうに映る小さな影は、どんどんと拳で戸を叩いて伊東を呼び続ける。
 大きな声と大きな音は近所迷惑もいいところでもう少し静かに呼んでほしいものだが…と呆れを含む溜息を吐きつつ、伊東は手元の本に落としていた視線を上げてゆるりと立ち上がった。
 着物の右腕部分が、ふわりと揺れる。
 そこにはあるべき腕はなく、袖はただ寂しげに揺れながら伊東の動きを追うだけだった。

 ――真選組動乱。
 あの件からすでに一ヶ月が経ち、いい加減に腕がない空虚さには慣れた。
 己の愚かさによって利き腕を失い私生活にも支障は出るが、それでも生きていけないわけではない。 利き腕がだめなら左腕で補えばいい。 それでも満足いかなければ義手で血のにじむよう努力をして腕の代わりを作るまで……あの時、死ぬはずだったことを思えば<生きている>ということはなんと可能性に満ちていることだろうと、まるで悟りを開いたかのような、時折そんな不思議な心地になる。

 裏切った伊東を組織は許さなかった。
 真選組の掟にのっとって死罪になる伊東だったが、最終的に近藤たちを守ったことで恩赦を得た。
 真選組を去り、屯所から離れたところでひっそりと養生する伊東を近藤たちはよく見舞いに来てくれている。 一度裏切ったことへの罪悪感もありまだ少しぎこちない接し方しかできない伊東に構わず酒を振舞う近藤には、相変わらずお人好し過ぎてどうかと思ったが、しかし、それでも嬉しかった。 以前なら近藤のその部分を惰弱だと罵って吐き捨てただろうが、彼の人望は、彼の元に人が集うのは、きっとこういうところが大きい――敵わないわけだ、と今なら納得できる。
 近藤とは別に、沖田にはまだ疑惑の目で見られるが、土方は気にしていないようで酒の飲み交わしたり以前のように嫌味の応酬をしている。 山崎も他の隊員も伊東の知識を頼りにこの長屋に立ち寄ったりしており、こうして交流が続いていることに心地良さを覚えている自分がいて。

(案外、死にかけてみるものだな)

 見えなかったものが色々と見えてきた。
 それがどれほど大切なものだったか知らぬまま死んでいたかと考えると、ぞっとした。

「――伊東さん! 伊東さーん! お願いです開けて下さい〜」
「…聞こえている。 少しくらい待てないのか」

 哀れさを誘う声で呼ばれては長屋に変な噂がたってしまうじゃないか。
 そんな思考に耽りつつ彼女を出迎えようと取っ手に手をかけた、そのとき。

「もうだめもう無理待てない失礼します伊東さん!
 トシがまたトッシーになってしまったんですけどあれどうやっ…わぷっ!」

 血相を変えて駆け込んできた少女は勢い余って、出迎えようとしていた伊東の胸で顔面を打つ。
 ――ああ、やっぱり。
 伊東は”ほらみたことか”と本日二度目の呆れの溜息を吐き、ぶつかった衝撃でやや着崩れた自分の着物の襟を直しながら見下ろせば、少女は鼻を押さえたまま奇妙な呻き声をもらしていた。 相当痛かったらしい。 ほんの少しだけ涙目に「すみません…」と詫びてくる。

「別にかまわないよ。 ……で、土方がまた妖刀の呪いに?」
「そうなんです、『プリキュンムーンが始まるお( ^ω^)』とか言ってテレビにかじりついて全然動かないんですよ! もう少しで会議だっていうのに」


 ―――なんとなく、面白くない。


 別に彼女が世話を焼かなくてもいいだろうに。
 あの男のことなど他の隊士にまかせておけばいいのだ――と、いうか。 自分と久しぶりに会って最初の会話が、これか。 しかも土方がらみの……これは、とてつもなく面白くない展開だ。 つい、眉間にしわを寄せて、やや冷ややかな眼差しを彼女に向けてしまう。

「放っておけばいいだろう。 そのうち元に戻る」
「それは…まあ、そうなんですけど…」

 あしらわれるような対応に、彼女は困ったように眉を下げた。
 …そういえば、伊東が重傷の身で身動きできなかった間、彼女はずっと付き添って看病してくれていた。
 彼女は土方の友人で、土方の中でも特殊な立ち位置にいる女…初めて出会ったときは利用してやろうと思っていたが、彼女もまた裏切った伊東を許し、立ち直らせてくれた者のひとりだ。
 真選組で女中のバイトをしているほか<スナックお登勢>で働いているらしいという話は聞いたが、伊東はまだ彼女に一言の礼すら言っていないことにようやく気付く。

(いまさら礼を言うのもな…、食事に誘うのもいいが)

 彼女に好意を抱いている、というのはなんとなく自覚しているのだが。
 むしろ彼女のほうが伊東のことをどう思っているのか、策士だなんだともてはやされたこの頭脳をもってしても、まったく読めもしないわけで…まぁすくなくとも嫌われてはいないというのはわかるが、そんなもの腹の足しにもなりゃしない。 欲しいのはそんな無難なモノじゃない。

(僕が欲しいのは彼女の心だ)

 死にかけてみて、伊東はあらゆることに貪欲になった気がする。
 それまで女というものを特別に思ったことはなかったが、彼女と出会い、仲間を裏切って死にかけ、その終わりにこんな穏やかな生き方があるのだと知ってからは、今まで知らなかった物の何もかもが欲しくなった――眼中にも入っていなかった彼女のことさえも、欲しくなった。
 こうして頼られているうちはまだ大丈夫かとも思ったものの、考えていた以上に自分が奥手だったことと、彼女の周囲に土方以外の男の影もちらつくようになって伊東の中に焦りばかりがこみ上げる。

(言わなければ気づいてももらえないんだろうが…僕も結構アプローチしているつもりなんだがな)

 そう考えるのは傲慢だろうか。
 …いつもの癖でつらつらと思考することに没頭しそうになる意識を頭を振ることによって切り替えると、伊東はまたひとつ大きくため息をついて再度、彼女に追い打ちをかける。

「とにかく、山崎君や他の隊士がなんとかするだろう」
「でも会議に出てくれないと山崎がこっちに泣きついてくるんです…それがまた哀れで哀れで」
「…………だからって、わざわざ君が面倒見る必要なんてない」
「ううぅそ、そう言わないで伊東さん…ぜひ! いいお知恵が拝借できませんか! お願いしますっ」

 必死に頼み込んでくる姿に、思わずうっとうめき声が出た。
 彼女の大きな目でまっすぐに見つめられると無性に羞恥がこみ上げる。 思春期の少年か、と突っ込みが入ってもおかしくはない自分の姿に怒りも呆れもとうに通り越して、どうしたものかと考えあぐねる日々。 この問題が解消される日は来るのだろうか。


 伊東は意味もなく眼鏡の位置を直しながら、また一つ溜息を吐く。


(まったく、…片腕だと本当に不便だ)




 ”土方より、僕の世話でも焼いてくれ”と、君を捕まえておくことすらできやしない

策士の憂鬱

あとがき
色々と修正しつつ…当時は伊東ブーム到来してました。
彼の腕がなくなったのはどっちだったか、今も思い出せない。笑。
伊東好きすぎて動乱編最後ほんま泣きました。生きててほしかった…と
いてもたってもいられず書いたのがこれです。
伊東好きすぎるやろ…!
2009.03.28アップ
2014.8.4修正再アップ