一日の始まりは、目が覚めたその瞬間から。

 …ではなく。
 覚えているかそうでないかという不確かで曖昧な<夢>を見た時から始まるのだと思っている。
 いや、思った。
 普段はそんな事はまったく考えないのだが、誰がなんと言おうとも今日ばかりはこの意見を貫き通すと心に決めた。 今日限定だ。 今日という日にアイツとイイ感じになる夢を見るだなんて、どこぞの幸運の神様のお告げとしか思えない。 信じてねーけどありがとう神様。

「ふぁぁ…銀ちゃん、何してるアルか」

 早朝。いつも通り眠た気な神楽の声が背にかかった。
 洗面所を覗く彼女の隣には定春もいる。 彼の、一般的な動物の大きさを遙かに超えた巨大な身体の割につぶらな黒目さえも不思議そうに銀時を見上げており、銀時はシェーバーでヒゲを剃る手を止めて振り返った。

「よォー神楽、今日もイイ朝だなァ」
「……銀ちゃん、とうとう天然パーマが爆発したアルか。 普段の銀ちゃんならそんな健全的なことは言わないアル。 どっちかというと二日酔いで苦しみながら太陽の眩しさを口汚く罵る、落ちぶれて堕落した大人…それが銀ちゃんネ」
「俺が爽やかに挨拶をしたのがそんなに気に入らなかったのか、オメーはよ」

 ぶにゅう。と神楽の頬を両手で挟み込み、美少女にあるまじき見事なブス顔を作ってみせるも、反省の色がまるで見えない……というか、彼女が自分の毒舌に反省している姿なんて一度も見たことがない。 一度でいいからものすごく反省して欲しいものだ。

「ったくよォ、イイ気分が台無しだぜ」
「どこかに出かけるアルか?」

 しきりに剃り残しを気にしながら玄関へと向かう銀時を、神楽と定春は後を追う。
万事屋に仕事が来ないのは日常で、暇を持て余した銀時がふらふらと出歩くのもいつもの事なのだが、今日ばかりはどこか様子が違うように思えたのだ―――そう、まるで、どこか落ち着かず浮足立っているような。

「今日はな、《特別》な日なんだよ」

 変わらない日常になるはずの今日を《特別》なのだと呟きながら、銀時はブーツを履いて立ち上がった。 玄関の引き戸に手をかけ、軋む音をたてて開かれた戸の向こうに見える江戸の街は、やわらかな光を放つ朝日に彩られて明るい。

 眩い光は街だけでなく、家を出る彼の銀色の髪を透かすように照らしていた。






 一日の始まりは、目が覚めたその瞬間から。

 まさにその通りだと思う。
 <夢>がどうこうとは関係ない。 昼寝よりも長い眠りから意識が覚醒したその瞬間こそが本当の、一日の始まりだと思う。
 普段はそんな事はまったく考えないのだけれど、誰がなんと言おうとも今日ばかりはこの意見を貫き通すと心に決めた。 今日限定で。 今日という日に車に轢かれる夢を見るだなんてどこぞの神のお告げとしか思えない。

「嫌な夢見たなぁ…」

 早朝。 いまだ眠気濃厚な顔をどうにかするため洗面所に向かう。
 仕事場兼自宅でもある健全エロを掲げる夜の店〝スナックお登勢〟の閉店は深夜だから、普段なら昼近くの起床でも十分に許されるわけなのだけれど、今日はゆっくり寝ていられない用事があるのだ。

「っていうか、誕生日に車に轢かれる夢を見るってすごいテンション下がるわー……」

 今日は出歩かないほうが…そんな考えが脳裏を過る。 けれど約束は約束だし、そういうわけにもいかなかった。
 頬をペチペチと叩くことで眠気も無理やり跳ね返した後、次に向かった先の台所に思わぬ先客がいて少し驚く。

 お登勢さんだ。
 彼女もキャサリンも昨日の夜遅かったし、こんなに早い時間にはまだ誰も起きていないと思ったのに……コップに水を注ぐお登勢さんがあたしに気がつくと、わずかに残っていた眠気を完全に振り切って頭を下げた。

「おはようございまーす」
「おはよう。そういやアンタ、真選組に何か頼まれてたみたいだけどこれの事かィ?」

 煙草の紫煙をくゆらせながら、彼女は視線をテーブルへと移す。
 そこには藍染の風呂敷に包まれた物体が鎮座していた。

「はい、トシに頼まれて…でも何でお弁当なのかはあたしにもよく…」

 包みの中身はお弁当だった。
 昨夜、店を開く前に訪れた友人の土方十四郎に弁当を作ってほしいと頼まれたのだ。
 彼にしては珍しく神妙な顔をしていたのでとりあえず引き受けてはみたけれど、何故そんな事を頼むのか詳しくは聞いてない。

「…弁当、ねェ」

 お登勢さんが呆れたように肩を竦めて、藍染の包みを胡散臭そうに見下ろした。

「まったく、弁当を作ってくれるオンナの一人や二人はいないのかねェ。中身はともかく、あのツラなら引っかかる女もいるだろうに」
「あはは、引っかかるには引っかかるんですけどねぇ…」

 みんなドン引きするのだ。
 お茶漬けだろうが焼きそばだろうがマヨネーズ特盛りの土方スペシャルを思い出して乾いた笑いを零しつつ、水筒にお茶を注いで巾着に収め、時計を見る。
 そろそろ約束の時間だ。

「それじゃお登勢さん、行ってきます」
「気を付けて行っといで。 …あぁそうだ――、

 名前を呼ばれて振り返ると、首にふわりと温かいものが掛けられる。

「え?」

 驚いて目を丸くしている間にもそれは丁寧な動作で首に巻かれ、首元を包んでいくのは薄紅色の生地の端に白と赤の小さな花椿の模様があしらわれたストールだ。

「アンタ、今日は誕生日だろ?」
「あ、はい」

 覚えていてくれたんだ。
 その事にじんわりと感動を覚えていればお登勢さんはいつものようにニヤリと笑って。

「二階の馬鹿たちも呼んでお祝いするから、夜には帰ってくるんだよ。アンタに男がいるなら話は別だけどそれもなさそうだからねィ…」

 言葉こそどこかぶっきらぼうな所があるけれど、マフラーをゆるく巻いて整える動作にこの人が持つ優しさや労りを感じた。

〝母親〟とはこんな感じのものなんだろうか……親という存在を知らないからよく分からない。
 でも、綺麗な花椿の模様を見つめていると次第に胸の奥からじんわりとした感覚が込み上げてくる。この人とはいつもそう。あたしに温かいものを惜しみなく与えてくれるのだ。

「ありがとうございます…お登勢さん」

 夢のせいでブルーな一日になるかと思ったけど、首元の温かさに知る。
 一日の始まりがどうとかは関係ないんだ。
 嬉しくて堪らない。その気持ちが、今日という日を色鮮やかにしてくれる。

(きっと今日は、最高の一日になる)





(今日は最高の一日になるんじゃなかったのかよチクショー)

 万事屋階下の〝スナックお登勢〟に訪れた銀時は、の不在を聞かされて内心にそう毒吐くしかなかった。

 今日はの誕生日だ。
 この店で彼女と出会ってから、銀時の中で今日という日は一年の中で《特別》な日になった。
 この日の為に色々と準備をしてきたのだ。
 プレゼントはもちろん、自分なりにそこそこに良いムードに持ってこれる計画もいくつかは立てた。さらには彼女の仲が進展するという素晴らしい夢も見たし、きっと今日は上手くいくに違いないとテンションだって上がっていた。

 なのにどうしたことか。
 珍しく朝早く起きて念入り歯磨きもしてきたっていうのに、本人不在だなんて。
 今日この日にイイ夢を見せてくれた幸運の神様的な人は一体どこに行ってしまったのだろうか。タイムセールにでも行ってしまったのだろうか……もしくは俺の目の前で煙草をふかす妖怪ババアに恐れをなしたか。いやきっとそうだ。誰かァァァ俺の恋路をとことん邪魔するこの妖怪を退治してくれェェェッ!

「おーいババア、アイツどこに行ったんだか知ってるんだろ? ちょっとくらい教えてくれたっていいんでないの?」
「家賃を払ったら教えてやるよ、天然パーマ」
「おいおいこんなめでてぇ日に金カネ言っていいのかよ。今日くらい家賃の事なんて忘れろや。夜は豪勢にいくんだし、せっかくの晩飯が不味くなるじゃねーか」
「………銀さん、言っときますけどお登勢さんにとって飯が不味くなる根本的な原因は確実に僕らですからね…」

 お登勢との言葉の応酬に、銀時の背後にいた新八は呆れ顔を隠せなかった。
 万事屋に出勤する前にお登勢の元を訪れた彼は、今夜の夕食に招かれた礼を言いに来たのだ。
 プレゼントが入った紙袋をカウンターバーに置きながら、いつも店にいるはずの彼女の不在に首を傾げる。

「でも珍しいですね、この時間はさんもお登勢さんもまだ寝てる時間じゃないんですか?」
「今日はに出掛けの用事があったからね。それに合わせてアタシも起きたのさ」
「出掛けの用事だァ?」

 意味深に言葉を紡ぐお登勢の笑みに銀時は不審を感じて眉を歪め、聞き返す。紅に彩られた女の唇が弧を描いてこちらを見るものだから、とても嫌な予感がした。

「あの子も意外とやるねェ、誕生日の今日に色男に呼び出されるなんてさ」
「色男…ですか?」
「弁当作って持ってきてくれ。だなんて、かなりベタな呼び方だったけどねェ」

 心底愉快とでも言いたげな笑い声をこぼしながら、お登勢はカウンターの中に戻っていった。

「ほら新八、夕食の仕込みをするから手伝っておくれよ。タダで食べさせてもらおうだなんて甘い……おや、銀時のヤローは?」
「あれ、銀さん?」

 新八の黒い瞳がきょろりと周囲を見回したその時、店の外から唸り声のようなエンジン音が響いた。お登勢と新八が店の前に出ると、マル銀マークがペイントされた原付に銀時がまたがっている。

「あれ、銀さんどこに行くんですか?」
「うるせー、ヤボ用が出来たんだよ」

 不機嫌な表情も露に、土煙を上げて銀時を乗せたバイクが緩やかに加速する。ヘルメットからはみ出た銀色の髪が風に煽られてなびき、着物の裾が大きく揺れて遠ざかっていく。

「……あの子の周りの男はどうして、血の気の多い馬鹿が多いんだろうねェ」

 茫然と立ち尽くす新八の隣で、お登勢は本日一番の呆れの溜息を吐くのだった。




「ごめんくださーい」

 <真選組屯所>と看板がかかった門の前で声を上げる。
 時々ここで女中のバイトもしていたから、知った顔の隊士たちが手を振ってくれる。 いつも気さくな彼らに笑顔で適度に応えつつ、

「あ」

 その中に友人の顔を見つけた。
 数分も待つこともなく現れたのは弁当作りを依頼したトシ本人だ。
 すっきりとした漆黒の短髪、開いた瞳孔と煙草はいつもの物だけど、真選組の隊服ではなく私服の黒い着物姿だったことにあたしは目を丸くした。
 弁当を頼まれたから、てっきり仕事があるんだと思っていたわけで…あれ、でも何で弁当? 女中さんたちがいれば簡単な物を作ってもらえるのでは?

「よォ、わざわざ来てもらって悪いな」
「おはよトシ、今日はオフ?」
「……まぁな」

 唇から、白煙がゆっくりと吐き出された。
 トシらしくなく目を逸らした歯切れの悪い返答についつい首を傾げてしまう。
 なんか、いつもと様子が違うなあ……。
 逸らされた目が不意に、あたしの首元のストールに移ると咥えた煙草が唇から離れていった。

「ソレ」
「え?」
「お登勢とかいうババアのプレゼントか?」
「……その呼び方はお登勢さんに失礼だわ。弁当持って帰るわよ。でもフェアリーって呼ぶんだったら許してあげる」
「相変わらずババア贔屓だな」

 不機嫌な色を隠しもせず言い直しを要求するあたしの顔を見てトシが笑ったかと思いきや、ふと真顔に戻った。何かを言おうと口を開きかけるも、結局何も言わずに閉じて黒髪をがしがしと掻きむしる。

「トシ?」
「…黙って受け取れ」

 手に持っていた包みをこちらに差し出した。
 お弁当を包んだ風呂敷と交換するように、黒布の包みを受け取る。包みの中の柔らかな感触を不思議に思いながらゆっくりと結び目を解くと、鴇色の着物帯が姿を現した。

「わ、きれい」
「……」

 思わず零れた感嘆の声に、トシはただ無言だった。いつものように静かな空気を纏いながら、煙草の煙をゆっくりと吐き出していく。

「…やるよ」
「え」
「誕生日だろ、今日」

 帯に落ちていた視線をトシへと移し、ぽかんと口を開けたまま彼を見つめた。
 確かに今日はあたしの誕生日だけれども、まさか、あのトシが、そういうことを気に掛けてくれていたなんて思わなかったのだ。

「あ、ありがと…その」
「それでだな。…今日の俺は一日オフだ」

 それ以上何も言うなと言わんばかりにあたしの言葉を遮って、矢継ぎ早にトシが言葉を続ける。相変わらず視線は逸らされたままだけれど、嫌な感じはしなかった。


「…テメーが暇なら、これから」

「ちょっと待ったァァァァァァァァア!」


 唐突に割り込んできた声に、ぎょっと体が強張った。
 煙幕のごとく激しい土煙をあげてこちらに突進してくるのは一台のバイクだ。雄叫びのような声もそこから聞こえてくる…いや、寧ろバイクが発声源のような気がする。

「あれ、銀時の原チャリ…」
、下がれ!」

 強い力に腕を引かれ、トシの背中に回される。プレゼントの帯の包みを落とさないように抱きながらそれに従えば、銀時の乗ったバイクはこちらに突っ込んで――。

 ドッカン。

 轢いた。
 いや撥ねた。スピードを一切緩めることなく直進してきたバイクはトシの体を思いきり吹っ飛ばした。さながら王蟲に跳ね飛ばされたナウシカのごとく、トシの体が宙を舞う。

 どしゃっ。
 
 落下したトシの体が地面をバウンドして転がった。
 ピクリとも動かなくなってしまったトシ。
 彼の末路を見届けたこの場を、重々しい、なんとも言い難い静寂が支配する……じゃなくて!

「えええェェッ! ちょ、何してんのアンタ! はねた! 躊躇いもなく撥ねたよこの男!」

 慌ててトシに駆け寄るあたしの背後にゆっくりと停車するのはバイクの主だ。彼はゴーグルを持ち上げながら、死んだ魚のような目をこちらに向けていけしゃあしゃあと言い放つ。

「車は急に止まれないっていうだろ?」
「明らかにこっち目指して突っ込んで来たじゃないこの確信犯! トシ! しっかりしてっ」

 銀時を無視してこめかみから血を流して倒れるトシを支えると、意識が朦朧としているのかその体は重かった。
 ああぁどうしよう。何で誕生日に友人の流血姿を目の前で目撃しなきゃいけないわけ? 夢の中で車に轢かれたのはあたしだったけど、本当はこれを予測していたのだろうか。

「へんじがない ただのしかばねのようだ」
「アンタは黙ってな!」
「大丈夫だって。俺だって三回くらい事故ったことあったけどよー無事だったぞー?頭がアフロになるほどの爆発に巻き込まれても無事だった」

 …よく死ななかったわね…そんなツッコミをすることにさえ虚しさを覚えていれば。

「…ちっくしょ、テメェ…」

 瀕死のトシの体を支えたあたしの腕が、瀕死のトシの強い力で掴まれた。
 トシはそれを支えに身を起こし、呻くような声と今にも斬りかかりそうな目で銀時を射るも、バイクで撥ねた本人はケロリとしている。

「フツー、ここまでするか…?」
「侍なら侍らしく、騙して誘い込むなんてヒキョーなことしてんじゃねーよ。俺なんかよォ正々堂々土下座してもプリンすら作ってくれなかったのによォ」
「フザけんな、こっちだってなァどんくらい時間かけてアレ選んだと思ってんだ! せっかく考えた計画もテメーのせいで台無しじゃねえか!」
「うわいやらし。いやらし過ぎるよ土方くん。計画って何? 何なの? あのままデートしてナニするつもりだったのうっわ、サイテー」
「てんめエエェ今すぐ切腹しろ! 俺が介錯してやる今すぐ腹ァ切れ! そしたら今回の事故チャラにしてやっからよォォォ!」

 お互いの罵り合う光景を眺めていたあたしは脱力に肩を落とすしかない。
 心配してたトシの怪我もそれほど深刻のものでもないようだし、事故を目撃した真選組の隊士たちは彼の元気な姿に安心してか各々仕事に散っている。

(あ、あたしもそろそろ戻らないと)

 腕時計の針を見てすっかり長居していたことを知ると、トシに暇を告げた。

「そろそろ帰るわ。あたし今日お休みってワケでもないから、帰って料理の仕込みしないと」

 それを聞いたトシの顔が強張った。
 銀時に殴りかかろうとする体勢のまま硬直し、嬉しそうにプレゼントを包み直すあたしを凝視する。

「プレゼントありがとう、大事にするね」
「いやいやホント大事にするわ。いい素材使ってるみてーだし、履き心地のいいフンドシになるわ」
「するか」

 ゴッ!
 鈍い音をたてて、握り締めた拳が銀時の横面に炸裂した。
 頬を抑えて地面をのた打つ銀時の姿に「昔から成長してないんだから」と溜息を吐きながら、地面に転がったヘルメットを拾い上げる。

「ついでだから、送ってって」
「お前さぁ、酷くないか? あんだけいいパンチかましておいてムシが良過ぎないかそれ。銀さん鼻血が止まんないんだけど。もうダラダラなんだけど」
「一緒に脳ミソも垂れ流せば頭の中スッキリするんじゃないの?」

 自分でも少し酷いような気がするけど、銀時との場合は昔からこんな感じだったのでそれを改めるのは今更のような気がする。
 鼻を赤く染めながらバイクにまたがる銀時の後ろに座ってトシを見やる。
 こめかみから血を流しながら、苦虫を噛み潰したような、複雑そうな顔をしていた。

「怪我してるんだから屯所で手当てしてもらいなよ。んで、今日はゆっくり休むこと。また今度うちにきてくれたらお礼とお詫びするから」
「…わぁったよ。なんかもう外出る気も失せたぜ」

 頭を搔きむしりながら、銀時を睨みつける。

「テメエ、覚えてろよ…」
「ぶわっはっは、ざーんねーんだったなー。まあなんだ、あとは俺にまかせとけって」
、ぜってー隙を見せんじゃねえぞ。変な事されそうになったら股間蹴りあげて再起不能にしてやれ」
「……ご心配どうも」




 冷たい風が頬を刺して痛い。
 こればかりはもうバイク乗りの宿命だ。夏だろうが冬だろうが、雨だろうが嵐だろうが、バイクに乗れば顔は守りようがない。太陽に焼かれ、雨風に頬を叩かれながら走るしかないのだ。

 いつもはそれをうざったく思うのだが、今日ばかりは違った。

 ――背中が暖かい。
 後ろにがいるからだろう。彼女が腰に回した腕は銀時の腹の前で交差され、吹きつける風の肌寒さをごまかすように銀時の背に頬を寄せていた。
 いつもそんな風にしおらしかったらなァとでも言ってしまえば問答無用で握りつぶされるかもしれない。アレを。文字通り再起不能にされる。

「あんたとトシって同族嫌悪でしょ? 仲良くなれとまでは言わないけど、もうちょっと穏便に顔を合わせられないわけ?」
「あー無理無理。だってアイツとは相性悪いもん。好みの女まで一緒とかほんとありえねーどういうミラクルだよマジで」
「好きな人まで一緒なの? 大変ねぇ~」

 あ、コイツ完璧他人事で流しやがった。
 自分かもしれない…とか少しは考えねーのか。二人の男が一人の女を巡って争うとかいうドラマティックシチュエーションにときめきもしないのか。どんだけ廃れてんだコイツは。

「あのよー、お前は惚れた男とかいねーの?」
「いないなー」
「……結婚とか考えねーのか」
「いや、別に」

 何ということだ。
 神様に慈悲はあってもこいつにはないのか。
 っつーかあの夢は一体何だったんだ。なんかこう、との仲が進展するという事を暗示する夢じゃなかったのか。ざっくり切り捨てられて正直なんかもう泣きそうだ。他の女に惚れたほうがまだ望みはあるような……そんな事をちらりと考えてしまえば、の言葉が背に響く。

「だって、お登勢さんと銀時がいるし」
「はぁ?」
「あんたに奥さんが出来たら話は別だけど、もしそうでないならあたしが二人の面倒を見てあげなきゃ」

 何が面白いのだろうか。
 彼女の笑いのツボへの不可解さに銀時が眉をひそめるも、は楽しそうに笑っている。

 そしてその声は銀時の背を通し、心を震わせた。

 愛の言葉を言われたわけじゃない。
 どこぞの演説にあるように感銘を受けるような事も、立派な事を言ったわけでもない。
 ただ、銀時とお登勢の存在を自分の未来に据え、それを受け入れると言っただけ。

「お登勢さんが亡くなって、銀時がよぼよぼのおじーちゃんになっても独り身だったら、あたしがあんたを看取ってあげる」
「…そりゃ、ドーモ」

 愛想のない返事が出たが、正直ヘルメットごと頭を抱えたい気分だ。
 よぼよぼのジジイになった銀時を看取ってやるだなんて何考えてんだろうこの女は。ジジイになるまで縁があるならお前が嫁になったほうお互いのためにもなるし、コイツに貰い手があったらババアの安心して成仏するだろうし…アレ? 成仏するよな? まさか俺らがジジババになるまで生き永らえるとかねえよな?

「オーイ、
「なに?」
「ちょっとバイク停めんぞ」

 ゆっくりと速度を落として脇道に停止する。
 昼も間近のかぶき町の大通りを行き交う人々が両脇を通り抜けていく中で、銀時は身体を捩り、後ろ座るへと振り返った。

「あのよ」
「うん」
「これ、やるわ」

 ずっと懐に持っていた小さな包みを取り出す。多少くしゃくしゃに潰れてはいたが、直さずにそのままの手の上に落とした。

「くれるの?」
「オメーの誕生日だろうよ。俺も毎年オメーにもらってるし、世話になってる分少しは返さないとな」
「わー銀時にしては殊勝な心がけね」

 とても失礼なことを言いながら、がまた笑う。
 丁寧に開かれた包みの中に、なめらかな光沢を放つ真朱の髪飾りが入っていた。は楓の模様が踊る、つるりとした表面を愛しげに撫でて嬉しそうに目を細めた。

「銀時、センスいいね」
「俺だってやりゃーできるんだよ」
「うん、知ってる」

 手の中に収まる飾りを、は何度も撫でている。綻ぶ口元から彼女が本当に喜んでくれているのだと知ると、また来年まで金貯めて贈ってやろうかだなんて気にさせられた。こんなんだから男は単純だなんて言われるのだろうか。

「ありがとう、銀時」

「おー」

 再び腰に、細い腕が回される。
 エンジンが唸り声を上げて、排気ガスが噴き出た。黒い煙を吐き出しながらゆっくりと発進するバイクは車の流れに沿って速度を増し、空の青さに見守られながら帰路に着く。

 背中から伝わるやわらかな温もりに。
〝このまま家に着かなければいいのに〟なんて考えた自分は、きっと、彼女に看取られて死ぬんだろうなと思った。






 愛し君へ。
 生まれてきてくれて、ありがとう。


愛し君へ

Dream Festivalの記念アンソロジーに寄稿させていただきました。
もうすんごく楽しかったですわ銀さぁぁぁぁん永遠に好き!!!
自分的にも最後までまとめられた気がして、とても気に入っております。

寄稿して数年経ったからアップしても大丈夫かしら?と思いつつ。
お誘い頂き本当にありがとうございました。
他にも素敵な文章が読めてうっとりしてしまう。今でも大事に持っています。
2016.05.26