カコ――――ン…。
年明けを迎え、吐息が白くなるほどの寒気を抱いた快晴の中。
庭に備え付けていたししおとしが、小気味よい音をたてて切っ先を持ち上げた。
冬の澄んだ空気の中で響くその音はいつもと変わらない景色の一部のはずなのに、一年で一番新しいとされる元旦に聞くと何だか新鮮だ。
微かなぬくもりをもって降り注そそぐ陽光と、透き通るほどの青い空に目を細めて、たっぷりと水を張った小池の中にいる朱色や黒といった斑(まだら)模様の鯉たちに餌をやりながら、元旦独特の静けさを心地よく感じていれば。
ジリリリリン…ジリリリリン…。
「あ、電話だ」
まだ物欲しそうに口をぱくぱくとさせる鯉に最後の一振りで餌を与えてから、突っ掛けを脱いで縁側から慌ただしく家に上がりこむ――そのとき、ジリリジリリと急かしていた音が止んだ。
廊下の真ん中にある電話台に目をやれば、菊先生が受話器をとっていた。
真っ直ぐな姿勢を崩さないまま「はい、本田です」と応対しながら、”大丈夫ですよ”とあたしに手を振ってくれている。
(菊先生がとったなら大丈夫か…)
鯉の餌やりに戻ろうと縁側に腰かけたところ、ガチャン! と叩きつける音が背後から響いた。
驚いて菊先生を見やれば、菊先生が受話器を元の位置に両手で深く深く抑え込んでいるポーズのまま固まっている。
え、もしかしなくても、今の音は先生…?
「菊先生?」
「さん…大変です…!」
冷静な彼らしくもなく、狼狽を露にしたままこちらに駆け寄ってきた。
あたしの手を引いて立たせ、ばたばたと小走りであたしの部屋へ。 奥の襖(ふすま)を開けて旅行用の鞄を取り出すと、おもむろに開いててきぱきと歯ブラシなどを詰め込み始めた。
「ど、どうしたんですか先生」
「今すぐ日本を発ってください。 荷物は一週間分ほど用意して…そうですね、ルートヴィッヒさんのところに滞在してくだされば私も安心です」
「え? 今からですか?」
そんな急な。
航空機のチケットの手配や一週間ぶんの荷造りとなると少し時間がかかってしまうし、ルートヴィッヒさんにも連絡を取らなければならない。
いつも忙しそうなイメージのある精悍な顔立ちの軍人を頭に思い浮かべながら着替えや着物を準備する一方で、菊先生はあれやこれやと旅行に必要な物を両手で抱えて持って来ては、それを全部鞄に詰め込んでいく。
次から次へと詰め込まれ、鞄は早くもいっぱいになった。
「ほ、本当にどうしたんですか先生。 さっきの電話は誰から…」
ピンポーン。
今度は玄関の呼び鈴が鳴った。
元旦当日にこれが鳴るということは、年賀状配達の郵便屋さんか新年の挨拶にきた近所の人の誰かだろうか。
「先生、ちょっと出てきますね」
「ええお願いします、その間に私は航空機のチケットを予約しておきますから」
返事をしてからまた慌ただしく電話台の前にに立ち、航空会社に電話をかける菊先生。
…やはり様子がおかしい。
さっきの電話はいったい誰だったんだろうと首を傾げながら、もう一度鳴り響く呼び鈴に急かされてばたばたと玄関へ向かい、鍵をあけて笑顔で出迎える…。
「大変お待たせしま」
「HAPPY NEW YEARーーー!!」
突然、ガバーーッ!と誰かが抱きついてきた。
自分の身に何が起こっているのか理解出来ず、ぎゅうぎゅうと加減もなく力をこめて抱きしめてくる太い腕に茫然としてしばしの間、されるがままになってしまう……え、何これ。
え、何ですかコレ。 あたしに何が起こったというのか。 いきなり抱擁? しかも男の人から――。
「な、何?! 誰ですか?!」
「久し振りだね! 相変わらずキュートだね! 元気にしていたかい? あー、やっぱり君はいい匂いがするなあ。 サイズもちょうどいいし抱き心地もいいしサイコーだなぁ」
「ちょ、ひ、人の話を…!」
思わず仰け反りかけるほど深く抱き込まれて、抱きついてきた人の正体が分からない。
けれど茶色のレザージャケットを羽織った広い背中や、太陽よりも眩しい金色の髪と独特のイントネーションは日本人のそれではない。 黄色人とは違う綺麗な白肌は、異国の人のものだと教えてくれた。
「あれ、久し振り過ぎて俺のこと忘れた? 一緒にホラーDVDを観た仲じゃないか!」
「………まさか」
「うあああぁぁぁッな、何してるんですかアルフレッドさん!!」
駆け付けた菊先生が、可愛いお顔を崩して絶叫した。
あ る ふ れ っ ど。
彼が叫んだ名前にあたしの意識は一瞬――遠くなって。
脳裏には―――傷つきながら銃を持って戦う人間と、グチャグチャのどろどろの、きしゃー!と変な産声を上げるモンスターとかエイリアンとかが、どアップで浮かびあがる。
あと、無数に襲いかかってくるゾンビとか悪霊とか、誰もいない景色を撮った写真に写る人影とかナントカカントカ。
「いあああああァァァ!! おぶっ、ぃ、イヤアアアアアアア!!!」
「あはは、今日もDVD持ってきたから一緒に観よう! 君と一緒なら俺も心強いよ!
大丈夫、夜寝れなくなったら俺が一緒に寝るから! っていうか、俺が怖いから一緒に寝てほしいなあ」
「ちょ、止めて下さいよ観たいなら一人で観て下さい一人で寝て下さい!
さんはあれ以来、ホラーがほとんど苦手になってしまったんですよ! おちおちホラー映画も見てられない…っていうか貴方、何でもう日本に着いてるんですか! さっきまでアメリカにいて、アメリカから電話をくれたはずでは」
菊先生の疑問の声に、錯乱したように悲鳴をあげて暴れるあたしを構わずがっちりと抱きしめたまま、突然の来訪者――アルフレッド・F・ジョーンズさんは青い目をぱちぱちと瞬かせた。
眼鏡の奥にあるそれは、日本人にはないとても綺麗な青色をしている。
菊先生が何を言いたいのか理解した彼は、「ああ!」と合点がいったように青い瞳を細めて陽気に笑うと。
「日本に着いて、菊の家に向かうタクシーに乗ってから携帯で」
「えええぇぇっそれって「こっち寒いから君の国に行っていいかなあ」って聞いた意味が全然ないじゃないですか! 文法おかしいじゃないですか! とっくに着いてるじゃないですか!」
貴方が来るとこうなるから、さんをルートヴィッヒさんのところに預けようかと思ったのに…。
そんな呟きを耳にして、あたしはちょっと泣きそうになった。
っていうかアルフレッドさん電話の意味がNEEEEEEE!! なんのための電話なのよ!
「いや本当、俺の国は春が来ないと寒いんだよー
こっちみたいに24時間コンビニもないし…その点、菊の家ならコタツとモチとジャンプとアイスがあるし、何よりがいるからね! 年明けに一発、すっごいホラーを見るには最高の環境じゃないか!」
「や、やだーーッッホラーはもう嫌だー!」
「あはは、そんなに喜んでくれるなんて俺も尻を痛めながらこっちに来た甲斐があったなあ!
ファーストクラスの飛行機に乗ったはずなんだけど、なんか今日のシート、硬くって…」
「うわあああああ!! し、しし信じられない、こんな、こんな事が…Oh、My God…!
Help! Help Meeeee!! この世界は彼らの侵略によって終わるんだあああ…!!」
「いやあああああ皆逃げてええええ、な、南無三南無三…!
菊先生、今晩だけでいいので一緒に寝てくださいぃぃぃ…!」
「……お断りします……(…ああ、せっかくのんびりと過ごせる元旦が…)」