…ああ、俺は一体何をしているんだ
 決して冷静とは言い難い頭の中で、ルートヴィッヒはそんな自問を繰り返していた。
 しかし答えなどというものは一欠片も出てくる気配もなく喉奥に詰まったままだ。 嚥下(えんか)することで飲み下そうにもクロイツのネックレスがかかった太い首をごくりと鳴らしただけで、詰まったそれが流れ落ちていくことはなく、ただ、息苦しさを思い知らされるだけに終わる。

 ―――彼女と繋がっている自分の手が、異様に熱い。

 じわり、染み入るように熱が全身に広がっていく。
 これは彼女の熱なのか。 それとも自分自身の熱なのかも判断出来なかったが、こんなこじれた思考の中でかろうじて理解できることと言えば、彼女が戸惑っているという事実だけだ。


「あ、あの、ルートヴィッヒさん…?」


 招かれた本田家の庭まで出ると、ルートヴィッヒは軍靴の底をざっと鳴らして立ち止まった。

 周囲は、とても静かだった。
 月が銀色を光を放つ姿が庭の池の水面に映し取られて美しく、整えられた植木や泥のない石の道からこの家に住む菊とが日々手入れを怠っていないことがうかがえる。 四季によって色と景色が変化するこの庭を眺めていれば、菊が言っていた風流とやらが何たるかを無骨な軍人である自分でも理解できただろうか。

「あれ〜? ちゃんとルートヴィッヒどこ行ったの〜?」

 灯りのついた日本家屋の中から、果てしなくのん気な声が聞こえてくるが今はあえて聞き流す。
 第一、自分の中にある何かをブチリと引き千切りこんな行動に駆り立てたのはあの声の主なのだ。 今だけは返事をしてやる義理もない……いや、フェリシアーノから彼女を引き離すためここまで出たのだから、返事をすれば意味がないのだ。

 胃に圧し掛かるような相方の存在にはぁ…と深い溜息をついて、ルートヴィッヒは整えられたくすんだ金髪を空いている手でくしゃりと掻く――そして、彼女と繋がった手に、わずかな力を込め。

「…
「は、はい」

 いつもよりも幾分低い声で彼女を呼ぶと、どこか脅えた返事が返ってきた。
 それに気がついて眉間にしわを寄せ、淡青の瞳に連れ出した少女を見下ろす―――自分の国の女たちとは違う容姿と、この国伝統の衣服である着物をまとうはルートヴィッヒと並ぶと、その体格差が際立った。 頭一つ分以上の身長差は互いに首を上に曲げたり下に折ったりとして少々やりづらい気もするが、こればかりは仕方がない。
 それに相手が彼女であればこういうやりづらさもなかなか良い物のようにも思え…いやいやいやいや落ち着けルートヴィッヒ。 頭が完全に浮ついているだなんてこれは由々しき事態だぞ。

「えーと、ルートヴィッヒさん? どうしたんですか?」
「…本田に、あまり男に隙を見せるなと言われていただろう」
「え?」

 きょとん、と丸い黒瞳が臆することなく見上げてくる。
 さっきまでは脅えていたのに、今度は真っ直ぐに見つめられて何だかむず痒い。
 わずかに視線を逸らして少々口ごもったあとで、繋いだ手を放し、重く咳払いをする。

「先ほどの、アレなのだが」
「あ、あれですか。 た、確かに恥ずかしいですけど、でも、フェリシアーノさんが頬にキスと抱擁は外国では挨拶だって言ってましたし」
「………確かに挨拶としては間違ってはいないが、本田が見たら日本刀で斬りかかりかねん」

 その光景を想像して、ルートヴィッヒはぞっと背筋を凍らせた。
 今回招いてくれた友人の本田 菊は、外見と内面のギャップが激しい部分がある。
 以前、ルートヴィッヒの国にイヴァン・ブラギンスキ一行が来訪した時も、黒装束(ニンジャ、とも言うらしい)に身を包んで天井から降ってきたこともあったのだ――を身内同然として可愛がり、彼女のことを常に心配している彼ならば、彼女に迫る男に対し、この間テレビで放送されていた時代劇のごとく家宝の日本刀を持って錯乱しかねない。

 そうなると、彼女に”外国式挨拶”をしたフェリシアーノが狙われる。
 そしてフェリシアーノは例の、哀れさを誘うような泣き叫ぶ悲鳴を天まで轟かせルートヴィッヒに助けを求めくるに違いないのだ――ただの挨拶のはずなのに大きな騒動になり、自分に被害が及ぶであろうことがひしひしと理解できてしまう。

 ………考えただけで気分が重い。
 しかし、眉を寄せての忠告には楽しそうに笑うだけだ。

「ルートヴィッヒさん、テレビの見過ぎですよ〜」
「いや、本田ならやりかねん…そしてその後始末は全て俺に回ってくる! よって今後は、本田の前では挨拶は握手にしておけ」
「はぁ…、菊先生の前じゃなかったらいいんですか?」
「そういう問題ではない、ただ」

 分かっているようで分かっていないような気のない返事に、ルートヴィッヒの表情が険しくなる。

 だが確かにあれは、ルートヴィッヒの国でも毎日のように行われている挨拶の基本だ。
 それを誰が誰としていようがいちいち気に留めるほどでもない、何気ない習慣だ。 ルートヴィッヒでさえ、スキンシップ好きなフェリシアーノにせがまれてしたことがあるほど親愛や友愛、好意を示す基本とも言ってもいい。


 ただそれだけで、深い意味などないはずだ。


(…本当に、何をしているんだ俺は)

 しかし何故か、この少女だけは別だった。
 何度かこの国に招かれてはいるものの、ルートヴィッヒはに”挨拶”をしたことはない。
 何故か、躊躇われた――そして、彼女がフェリシアーノに抱きしめられ慌てている姿を見て、彼女にかすかな苛立ちを覚えたものだ。
 菊の友人として気を許しているのは構わないが、それでもフェリシアーノは男で、は女という事実は変えようもない。 多少の警戒はしたほうがいいというか、目の前でそんな光景を見せつけられる自分の身にもなってほしいというか……ああもう、まったく、どうして分かってくれないのか。

 自分らしくもなく毒吐きながら、またも前髪をくしゃりと掻いて。



「―――俺が、面白くないだけだ」



 やはり顔を見ることが出来ないまま背を向けて、そんなことを呟く。

 湧き上がるのは、もどかしさと、嫉妬に似た感情だ。
 ただの挨拶だというのに、それすらも我慢が出来なくなるほどにその光景を見るのは嫌だった。
 彼女に”ただの挨拶”すら出来ない自分にとってそれは、ルートヴィッヒが唯一フェリシアーノを羨む部分だと言ってもいい。

 低い音で紡がれたそれは少々聞き取りにくいものであったはずだが、それは確かにに届いたようだ。
 最初は不思議そうな表情をしていたが――次にはかすかに目を細め、そこに立っているだけでも威圧感を醸し出す軍人の背にそっと触れると、驚きをもって振り返る彼に淡い微笑みを浮かべた。 特別美しい顔立ちではないが、月明かりは微笑む彼女を美しく彩っている。

「じゃあ、フェリシアーノさんに今度からは握手にしてくださいってお願いしますね」
「…そうしてくれ」
「ルートヴィッヒさんとも、握手でいいですか?」

 問われてそこで、彼女にとっては自分もフェリシアーノと同じ<男>だったことを思い出す。
 握手は握手で構わないが、せっかくの機会を自ら逃してしまったというか…いやいや落ち着け。 もともと自分は彼女の頬にキスなど出来ていなかったし、それを惜しむということは自分は彼女をやましい目で見ていたということになってしまうではないか。

(いやしかし…しかし…!)

 顔を強張らせたままガシーンっと固まってしまったルートヴィッヒに、は首を傾げた。
 彼が葛藤と本音と建前と胸の内を巡る様々な物に囚われ、すっかり憔悴しきった表情を見せ始める頃になるとそこでようやく、あっ、と思いだしたように声を上げて。

「そういえば、ルートヴィッヒさんとはこれで挨拶したことがなかったですね」
「ん? あ、ああ、そうだな」
「ではどうぞ!」


 ………何故、彼女は両腕を広げた格好になっているんだ。


「…何をしているんだお前は…」
「いえ、せっかくだからルートヴィッヒさんともご挨拶をと思いまして」


 ご あ い さ つ 。


 それはもしや、「ご挨拶」と呼ぶあれなのだろうか……何の変哲もなく聞き慣れた五文字が音速で、ルートヴィッヒの頭の中を駆け抜けた。
 日本にはない風習で、外国では当たり前の習慣でもあるその言葉の意味を改めて思い出していれば、「失礼しまーす」とが腰に手をまわして抱きついてくる――ふわり、となんとも形容しがたい柔らかい感触が伝わって、ルートヴィッヒは内心悲鳴を上げてしまった。

「な、な、な」
「わ、やっぱりルートヴィッヒさんって大きいですね…腰なのに手が回りきらないです」
「な、ななななななにを」
「でも良かった…嫌われてるかと思ってたんですけど、菊先生が暴走しないか心配してくれていただけだったんですね」

 頬を寄せられた胸元からぽつりとそんな言葉が聞こえて、ルートヴィッヒは我に返った。
 淡青の瞳が、鮮やかな色と模様の着物をまとう少女を見下ろす――安堵に緩んだ彼女の黒い瞳が真っ直ぐにルートヴィッヒを見上げていて、その眼差しに視線を絡ませた途端、胸の奥底がぎちりと奇妙な音をたてたのを聴いた。

…」
「これからも、菊先生やあたしとも仲良くしてくださいね。 ルートヴィッヒさん」

 お日さまのようにあたたかい笑顔に、ルートヴィッヒの中でぶつりと何かが切れた。


 ―――思考が瞬時に、白に染まりきる。
 込み上げる物を飲み下す余裕もなく深く呼吸をしてから華奢な肩を強く掴み、彼女のつま先が浮くほど抱き寄せればひどく驚いた声が心臓のすぐ傍で響いた。

 初めて抱きしめた身体は小さく、細く、脆い、硝子細工を連想させる。
 けれどそれすらも心地よく、抱いた身体をわずかに離し、食い入るように黒い瞳と視線を絡ませる―――端正な面立ちの男から熱に浮かされたような眼差しを受けての体がわずかに強張り、ゆっくりと距離を縮めてくるそれにこれから自分に降り注ぐであろう行為を予感し、脅えるようにぎゅう、と目蓋を強く閉じて暗闇に逃げ込んでしまった。

「……」

 その様子に、ふ、と口元が緩んだ。
 肩を掴んでいた手を放し、彼女の前髪を掻き上げる。すくった先からさらりと零れおちる感触は撫で心地が良い。
 ずっと撫でていたい気持ちになりながら、髪をすくわれて露になった額にそっと唇を落として身体ごと離れると、「期待外れ」「予想外れ」とでも言いたげな黒瞳がぱちぱちと大きな瞬きを繰り返してルートヴィッヒを見上げていた。

「え、ぇ、あれ?」
「家に戻るぞ、フェリシアーノが騒いで周囲に迷惑がかかる」

 そう告げてから来た時と同じように手を引いて、灯りのついた日本家屋へ向かう。
 家に近づくにつれ「菊ー! 二人がいないよー! きっとルートヴィッヒが草葉の陰に連れ込んだんだああああ!」などとものすごく人聞きの悪いことを吹聴しては走り回っている音が聞こえる……しかし、一瞬とはいえ途中で理性を飛ばしてしまっただけに誤解だと完全否定が出来ないところが少々痛いが。

「まったく、少しは静かにできんのかあいつは…」
「あ、あの、ルートヴィッヒさん」

 騒がしく賑やかな家の中に重くため息を吐きながら呟いた時、が、繋がった手を握り返す力をこめてルートヴィッヒを呼んだ。

 そして。




「あの、さっきの、……もう一回してください……」




 明るく賑やかな家に戻る前に、もう一度。

額の上なら (恋心を混ぜた) 友情のキス

あとがき
APH練習作。
ルートはむっつりだよな真剣考える秋乃です。
本家のバレンタインのあれ見る限り(笑)まともに恋なんかしたことなさそうな気はするのですが…
それを考えたらこの話のルートは最後のほうちょっと余裕持たせ過ぎた。笑。途中までヤキモキしてたのにな…!
でもクリスマスプレゼントにサンタからERO本もらってしまってたみたいなので、いいか!(笑)
ヒロインの性格が定着しない…。元気っこにしようかおしとやか?な子にしようか悩む…どっちも好き。
2008.6.23