(……ふう、なんとか逃げられた)

 大騒ぎになった脱衣所を脱出し、人気のない廊下の片隅に隠れるようにしてイオスは息をついた。
 姿は依然として猫の形のまま。 泥を落とされてまだ湿っている毛が不快だったが、それでも文句を言っている場合ではない。
 なんとしてでも…一刻も早く元の姿に戻らなければ。
 でなければ、裸を見られた恥ずかしさのあまりその場でうずくまってしまったと、そんな彼女の肩に自分の赤い外套をかけ、不器用に言葉を選びながらしどろもどろ慰めていたネスティの努力が浮かばれない。

 本当なら自分が慰めてやりたいところではあったが……。

(…こんな姿では何もできない…)

 ぷにっとした肉球のついた小さな手には、癒しどころか絶望感しかない。
 なんて無力で非力な姿だ。
 大切な人のために戦うことも、守ることもできない体なんて要らない。 早く戻ってちゃんとした人の姿で彼女に会いたかった。

(しかし、ミモザ・ロランジェの部屋はどこだ…?)

 ジラール邸には一時期住まわせてもらっていたことはある。
 だがの部屋に行ったことはあっても、ミモザ・ロランジェの部屋に行ったことはなかった。
 動物らしく嗅覚で探すべきかと思案しかけたところで、扉が開いたままのとある一室からミモザの声が聞こえてきて、イオスはぴんと耳を立てた。


「…うーん、やっぱり犬猫だけじゃなくって鳥とか熊とかあったほうが良かったかしら…」


 ――まだ何か企んでいるのか…!!

 独り言にしては大きすぎるそれに、イオスは再び弾丸のごとく部屋に飛び込んだ。
 突然目の前に現れた猫(しかも全身、生乾きの)に、分厚い書物を読みふけっていたミモザは眼鏡の奥の瞳をまるくさせながらも凝視してくる。
 彼女の頭の中に、何故猫が?という疑問がかすめただろう。
 しかしすぐに思い当たったらしく、フーッと威嚇して今にも飛び掛ってきそうな猫の存在に、眩しいほどにぱぁっと表情を明るくさせて笑顔になった。


「あなたイオスね! あらやだ、なかなかカワイイじゃない。
 あとで様子を見に行こうと思ってたところだったのよ〜うふふ、大・成・功☆」

(っく、この女…まったく反省してないな…!)

「スープはあなたとアルバ宛にしてたんだけど、アルバはどうだった?
 あのコならさぞかしかわい〜い犬猫になっているかと思うんだけど…」


 ターゲットはイオスとアルバだったということか。
 それだけでも大変腹立たしかったし何がどうなってスープが騎士団全員に分配されるという最悪の事態に陥ったのかも謎だが――あとで報いをうけてもらうとして、今はとにかく戻りたい。

 ”元に戻せ!”と小さな全身を使ってにゃーにゃーそのことを訴えると、ミモザはにんまり笑った。


「時間が経てば元に戻るけど、もっと手っ取り早く戻る方法があるわ」

(……なんだと?)


 時間とはどれほど? 手っ取り早く戻る方法がある?
 解決策がいくつかあるようで安堵したが、その笑顔は怪しすぎた。
 警戒しつつ怪訝そうに見上げるイオスをミモザは抱き上げて、”本当にかわいいわねぇ”とひとしきりイオスの怒りを煽ったあと。

 メイトルパ専門の女召喚師はからかうようにウインクした。


「呪いで姿を変えられた王子様が元に戻る方法なんて、たったひとつじゃない?」










「――あ、良かった! 戻ってきてくれたんだ!」

 嬉しそうに弾んだ声に、立ち直ってくれたのかと知って安堵する。

 は逃げたイオスを探してくれていたのだろう。
 来客用の一室のベッドシーツをまくりあげていた手を離し、そのままベッドに腰かけて「おいでおいで〜」とイオスに向かって両手を広げた。
 本当に動物好きな人だ。 人間のイオスに対する優しさとはまた違う、生き物に対するその優しさは何もかもを包み込んでくれるようで今の自分にとって何より安心できる。 こういう事がわかるのも動物の勘というのか。 イオスがこれまで見てきたどの動物たちも、彼女が自分に危害を加えるような存在ではないとこうした本能で察するのだろう。

 まだ乾きかけの体をおそるおそるの足にすり寄せる。
 それが嬉しかったのかはイオスを抱き上げてそのままベッドに寝転ぶと、金色の毛並みを撫でて、肉球の感触をしっかり堪能する。 ぷにっと弾む小さな猫の手の感触にめろめろだ。

「ネスがね、あなたを家に連れて来てもいいんだって。
 まさかそう言ってくれるとは思わなかったけど…でもこれで飼い主が見つからなくても安心ね。 あたしも仕事があるからずっとこの家にはいられないけど、ネスの家ならメイドさんとかいっぱいしるし、きっと良くしてくれるわ」

 ”ご飯が毎日モンプチかもよ〜ひゃっほーい”と、はイオスの体を掲げた。
 もんぷち、が何の名前なのか分からなかったのでイオスは首を傾げるしかない。

「それにネスの家なら仕事帰りでも気軽に立ち寄れるし、あたしも毎日でも会いにいけるしね」


 ――つまり、ネスティに毎日会うということか。


 それは駄目だ、それはネスティの策略だぞ!
 …と、にゃーにゃー鳴いて訴えてみたがイオスの想いはに一切届かない。
 それどころか「そうよねー嬉しいよねー」とえらく満足顔である。

(っく、このままでは…)

 早く元の姿に戻らねば最悪の展開しかない。
 まずは自由を取り戻さねば、との手からなんとか逃れようと手足をばたつかせるがどうにもならなかった。
 こんな無力さを思い知ったのはいつぶりだろうか。 懸命にもぞもぞバタバタと暴れるイオスの姿にはけらけらと楽しそうに笑ってから彼をベッドに降ろし――ふと、赤い瞳をじっと見つめてくる。


「…うん、ほんとにきれいな目だね。 宝石みたい」


 やさしい笑みを浮かべ、ぽつりとつぶやく彼女の瞳のほうが宝石のようだと思う。
 そんな浮いた台詞を言う趣味はなかったが、それでもイオスを見つめる彼女の瞳は好奇心に溢れ、生き生きとした輝きがとてもきれいだった。
 もっと近くで見たくて顔を寄せても、は悩むように目を伏せてしまう。

「んー…名前、考えなくちゃね。
 飼い主さんが見つかるまでは名前がないと不便だし…そうだなぁ」

 彼女の大きな瞳が再び、すぐ隣の位置にいるイオスへ向けられる。
 その目に射抜かれるような心地になるのは、自分が彼女のことを好きだからか。
 猫の姿になっても彼女に見つめられてどきどきするなんて。


「…あなたはイオスに似てるね。
 イオスって名前をつけたら、イオスは怒るかな?」


 楽しそうにまた笑うそれに「そんなことはない」と言うように、イオスはニャアとひとつ鳴いた。
 人間のイオスとこうして離れた距離にいても、ささやかな日常のなかで彼女が自分のことを思い出してくれることがうれしい。



「イオスや、ルヴァイドたちにもあなたを見せてあげたいなぁ…」



(―――


(――――僕は、君のそばにいるんだ…)


 込みあげる感情に、胸が詰まる。
 彼女への想いに溢れるこれは猫の器なんかでは収まりがきかない。
 人間の器でも精一杯なのに――ああ早く、君に名前を呼んでもらいたい。 どうすれば君は僕のことを見てくれるのか。


 ミモザ・ロランジェの言葉が、ふわりと脳裏を過ぎる。



”王子様でもお姫様でも。
 魔女にかけられた呪いはいつだって、愛する人の口づけで解けるのよ――”



「ん? どうしたの?」



 さよならを告げるようにニャア、とひと鳴きしたあと。


 猫のイオスはの胸の上に降りて、ちょん、とその唇にキスをした。









 一瞬、光の海に投げ込まれたような錯覚をした。


 見ている世界が白くなる。
 すぐそばにいるの姿がさえ、見えない。
 けれど温もりが彼女の居場所を教えてくれた。 ちかちかと眩む視界のなか、手探りで彼女の手を掴むと、驚いたような声が聞こえた。
 言葉にならないそれに、彼女がどれほど驚いているのか目に浮かんで自然と笑みがこぼれる。

「な、な、な」
「―――」

 イオスの全身を覆った光は、やがて落ち着きを取り戻す。
 高い、と感じていた天井は慣れた目線に戻っており、腕も指も、体も足も人間のもの。
 口づけで薬の効果が消えるなど半信半疑だったがあながち間違いでもなかったらしい。 イオスは完全に人の姿を取り戻したのだ。

 視線を下げると、はイオスに覆いかぶさられた状態で呆然としている。
 驚きのあまり今にも気を失ってしまいそうな表情を隠しもないそれが可笑しくてイオスはつい口元を歪めると、無防備な耳元にそっと唇を寄せて囁く。


「呪いを解いてくれてありがとう、…愛しい姫」

「い、イオスーーーーーーーーーーー!???!???!!!」


 普段言わないような台詞を言ってみたものの、の絶叫にかき消されてしまった。

 ”やはりこういうのは素面で言うべきじゃないな”と呆れたように息を吐いて自分の姿を見下ろすと、思ったとおり、裸だった。
 服は騎士団の自室に全て落ちていたのだからそうだとは思ったが…幸い、しかいなくて良かった。
 公衆の面前の元の姿に戻っていたらと想像するとぞっとした。
 いきなり裸の男に押し倒されたにとってはこれこそ恐怖以外の何物でもないと思うが…、すまない。 と心の中で何度か謝った。

「な、なんで! なんで猫が、イオ…ぎゃあ! ハダカーーー!! ゼンラーーー!!」
「不可抗力だ。 それに、お互い様だ」
「なんなのなんなの、今日はなんていう日なの? 仏滅? あたしの守護仏、全滅?!」

 腰にシーツを巻きつけながら「ホトケってなんだ?」と聞き返すイオスだが、はそれどころではないらしいい。
 イオスの裸(上から下まで)をがっつりと目撃してしまい、ベッドの上で悶絶している。
 さて、いかにしてこの混乱を沈め、彼女にどう説明したものだろう…イオスはの隣に座ると、重々しくため息を吐いた。

、これには色々と事情があるんだ…」
「じ、事情? 事情ってな……………………………(ガン見)」
?」

 ようやく我に返った
 だが、彼女はイオスを――いや、正確にはイオスの頭部を凝視した。
 かつて今まで、彼女にこんなに熱く見つめられたことはあっただろうか…否、ない。

 ”今度は一体何がついているんだ…”と、おそるおそるイオスが頭を掻いてみると。
 もふっ、とした奇妙な感触。



 ―――確実に、ついてる。



「イオス…あんた…まさかそんな…」
「……う、嘘だ…」
「……ねこみみが! それに、尻尾もあるぅー!!(↑↑↑↑)」


 の叫びが再びジラール邸の客室の天井に響き渡る。(後半テンション上がってなかったか?)

 しかし彼女の言葉を信じたくなくて、イオスはがばっとベッドを飛び降りた。
 すぐそばにある鏡面台にばん!と手をついてのぞきこむ――そこには度重なる心労のせいで心なしかやつれた彼の金髪の中から、ひょっこり生えた猫耳が。

「…い…イオス?」
「…………」
「おーい、イオスー、戻ってこーい」
「あの女……よくもやってくれたな…」

 一瞬遠ざかった意識が急激に怒りの色に切り替わる。
 屈辱のあまりイオスの全身がわなわなと震え、端整な顔のこめかみに青筋が浮かんだ。
 それだけにはとどまらず、ついにはメルギトスの放った源罪(カルマ)のごとくゴゴゴゴッと音をたてて負のオーラを周囲に漂わせ始めると、「ジラール邸に血の雨が降る…!」と空気を読んだが、この場をなんとか取り繕うように笑顔になって。

「だ、大丈夫よイオス! かわいいから!
「………、しにたい」
「(逆効果ァァァ!) そこは思いとどまってぇぇぇ!!!」
「最低最悪だ…よりにもよって君の前でこんな――」

 確かに猫の姿から戻りはしたが、こんな中途半端に戻るだなんて聞いていない。
 これならまだ猫の姿のほうがマシだ。
 黙っていたのか計算外なのか図りかねるが、またもミモザにしてやられたのには違いない。
 騎士団は犬猫の集団と化し、子供に追い回され、溝に落ちて溺れ、には(おそらく心の底から)かわいいと言われ……ここ数年の中で特に散々な一日となっただろう。(途中、多少は良い思いもしたが)

 目眩を覚えたまま、走馬灯のごとくぐるぐると脳裏に今日一日のことが過ぎていく。
 怒り過ぎたのか息苦しくなってきて、息を吐く間隔が徐々に狭まり――。

(…なん、だ)

 そこで、違和感。
 ――呼吸が、いつまで経っても一定の間隔に落ち着かないことに、ここでようやく気がついた。
 怒りのあまり昂ぶっているのかと思っていたが、冷静に考えてみればこれは何かが違う……自然と荒くなる呼吸と、上昇を続ける体温。 酔ったみたいにぐるぐると視界が回ったかと思えば、その場に立っていられなくなって、ガタン!と鏡面台にもたれるようにしてイオスの体が崩れ落ちた。

 それに「ええっ?!」驚いたのはだけでなくイオスも同じで。
 足に力が入らず立てないことが信じられなくて、座り込んだまましばし呆然としてしまう。

「な…っ」
「え、だ、大丈夫っ?!」

 も慌ててイオスに駆け寄ると、ぺたんと隣に座り込んで動揺を隠せないイオスの横顔を覗き込んだ。
 その瞬間――イオスの中で甘い匂いがぶわりと広がり、全身の肌が粟立った。
 言いようもない感覚に四肢の力が抜けていくようだ。 これは何の匂いだ。 ただただ、甘い、そのにおい――思わず惹き寄せられるように視線が動くと、と視線が交じり合う。

「…、君の…?」
「ど、どうしようイオス。 なんで猫になってたのか分かんないけど、具合が悪いならギブソンやお医者さんに診てもらったほうがいいんじゃ……」

 息の仕方を忘れたように早いペースで呼吸を繰り返すイオスを、は心配そうに見やる。
 体が辛いのかと背中をやさしくさする手に――背筋が、ぞくりと痺れた。
 皮膚の表面がざわざわする。 触れられる手がたまらなく心地良いのに、もどかしくもあり、先ほどまであった平静さがごっそり削られて混乱した。 なんだこれは。 どうして、こんな――イオスは訳も分からずすがるように、彼女の小さな両肩を衝動的に掴んでいた。

「え?」
「っ…――、」

 の甘い匂いが嗅覚を通して脳に伝わり、イオスの理性を根底から揺さぶってくる。
 なんて良い匂いなんだろう。 もっと、この匂いで自分の中を満たしたい……ぜぇぜぇと落ち着かない荒い息のまま理性の薄い赤い瞳がの姿を正面から捉えると、両肩を掴む手に力をこめてその体をぐいと引き寄せた。

「わっ!」

 猫と同じ耳が、彼女の驚いた声を鮮明に拾う。
 隙間がないくらいぴたりと密着してあわあわと両手をさ迷わせているそれにの戸惑いを感じるが、あえて無視をしてイオスは彼女の肩に顔を埋めた。
 そして深く、息をする。
 そうすると甘い匂いがよりいっそう濃厚になり頭の中が一気に白んだ――何も考えられなくなるほど思考回路が漂白されていく――気を抜くと意識を持っていかれるのではないかと思うほど染め上げられていくその感覚は、なんと気持ちのよいことか。
 たまらず夢中になっての髪や首すじに顔を押し付け、すぅっと深く息を吸い込む。
 から香る甘い匂いがイオスの全身を蕩かしていく。
 たまらず吐き出した熱い吐息がの肌に触れて、それが彼女を更なる混乱の中に突き落とした。

「ちょ、ちょっ、ままま待って、何してるの?! 何で匂い嗅ぐの?!」
「いい匂いがするんだ……君の、匂いが」


 それはひどく――甘くて。

 もっと。 もっと欲しいのだと、熱に浮かされた意識が訴えてくる。


「なんでこんなに君はいい匂いがするんだ…?」
「えええええぇぇぇぇっ! な、なにそれ、やっ、は、はずかしいって…!」

 友人とはいえ、ここまでされればさすがにイオスの行動が異常なのだと気付くだろう。
 頬や耳を赤く染めて戸惑いながら、イオスの髪を掴んで抵抗をするが彼女にはまだ遠慮があるのかあまり効果のない抵抗だった。
 その隙にイオスはの髪に、額に、耳元に、首筋に顔を押し付けて彼女の匂いを堪能する。
 イオスより小さくて柔らかい体を強く抱きしめ、<>という名の香りに酔いしれた。


 自分は何をしている?
 何をしようとしている?
 熱に浮かされた思考では、その答えを計ることはできない。




 ああ、けれど、溢れてやまないこの想いが、甘い匂いがイオスを狂わせるのだ。



、……っ」
「え――、わあぁっ!?」

 小さな両肩をそのまま押しやって、イオスはの上に馬乗りになってまたがった。
 なすすべもなく絨毯の上に倒れこんだの全身を舐めるような視線で見下ろしたあと、荒い息のまま再び、その細い首筋にそっと顔を埋める。
 あまい、あまい、の匂いだ。
 風呂に入ったばかりだからか、その匂いはいつもより強くて余計に息があがる。
 奥底で暴れる衝動を抑えようとフーッと息を吐くも発散されることはなかった。 だらしなく口を開いて息を荒げるその姿はまるで獣のよう。 日常にはない隠微な雰囲気を漂わせる獣へと変わり果てた彼は低く掠れた声音で、赤く染まった耳元に懇願する。

「君がもっとほしい…」
「なっ、なに――、…っ」

 耳から首筋をたどり、襟を緩め、目の前で誘うように匂い立つ柔肌に唇を押し当てる。

 驚愕に引きつった悲鳴がから発せられたがそれでも止められず、そのまま柔らかく肌を吸いあげた――ああ、彼女を喰らおうとしている今の自分は本当に獣だ。 頭の片隅に唯一残った理性がそんなことを呟くも、今のイオスには遠すぎて聞こえなかった。

 緩めた襟をさらに広げて、わざと音をたてながら彼女の肌を旨そうに味わう。

「…ん、…んん、…はぁ、」
「ゃ、…やだ、からかうのはやめ…ッ…」

 目の前で胸元の肌を吸われ、の顔がこれまで以上に真っ赤になる。
 反射的に振り上げられる細い腕。 しかし、その反応を読んでいたかのようにイオスの片手で彼女の手首を押さえたまま頭上に縫い付けて動きを封じると、は驚きに目を瞠った。

「い、イオス…」
「動くな」

 邪魔をするなとでも言いたげに見下ろす赤い瞳に、の喉がごくりと鳴った。
 ……きっと、彼女は、こんな自分を知らない。
 自分も、こんな目で彼女を見下ろす日がこようとは夢にも思わなかった。


 きっと、餓えた獣のような目で彼女を見下ろしている――。


「…
「ぁ…」

 ――顎に手をかけ、くいと上に引き上げる。
 頭上で手首を縫いとめられて身動きがとれないまま、無防備にさらされた白い喉。
 唇で味わったものを今度は舌で吟味しようと、イオスの舌はべろりと肌を滑ってゆく。 美しい彼の相貌のせいで毛づくろいをする猫とは程遠い厭らしさに、じわじわと煽るようなその愛撫に、やがての口から熱帯びた息がもれだした。

「んんッ、…ぃ、イオ、っ」
「君は、匂いだけじゃなくて、肌も――…」

 肌が甘いと感じるなんて、味覚を狂わせるほど神経が昂ぶっているのだろうか。
 喉を滑る舌が鎖骨へ伝い落ちると、は唇を震わせながら、それでもイオスの名を呼びかけて止めようとする。
 だが、イオスのなかに<止まる>という選択肢はなかった。
 彼女はもう、異変をきたしたイオスから逃れられないのだ。
 その姿が追い詰められた獲物のようで――くっ、と声もなく笑みが浮かぶ。 じわりと満たされていくこれは支配欲か、それとも。

「…大丈夫だ、。 …何も怖くない」

 違う。 意に沿わずこんなことをされて、怖くないはずがない。
 なのに口から出てくるものは、昂ぶるばかりで落ち着かない荒い息と。
 彼女が少しでも力を抜いてくれれば、このまま体を許してくれればと企む自分勝手な言葉だけ。 見惚れるほどに美しい微笑を浮かべながら熱くなった彼女の頬を撫でやると、はびくりと肩を震わせて、情欲に揺らめく赤い視線から逃げるようにぎゅっと目を閉じた。


 ああ、脅える目が、震える肩が、なんていとしいのだろう。
 怖いことはない。
 君の全てがいとしいから、君にやさしくありたいんだ。
 君が苦しくなるようなことは――決して、しないから。 だから。


(我ながら身勝手な願いだ。 けれど)


 こんなにも恋焦がれている。
 だからこれはいつか訪れる心地よい関係の<終わり>で。
 どちらにせよ自分はこれからもずっと君の友人でいられるはずがないのだと、言葉にならぬ想いが脳裏をよぎった。

(この狂おしい想いが叶うなら…ああ、もういいのか。 いま、叶っているのだから)

 考えることを放棄した思考に残る、剥き出しになった本能がそんなことを心中に呟いて。
 体を割り込ませて開かせた彼女の強張った脚の間に、手を置く。
 手のひらにしっとりとなじむ内腿をするりと撫であげて、びくんと跳ねる体がやはりどうしようもなく愛おしく、潤んだ瞳でイオスを見上げるの涙がこぼれそうな目許にそっと口づけた――ああ、自分の舌はもうだめだ。 涙まで甘く感じるなんて終わってる。



(―――、ちがう)



 けれどその味に、夢から急に引きずり出されたように思考がクリアになる。



(―――、僕はの信頼を裏切ってまで、こうなりたいわけじゃない)




 それは奇麗事だ。
 本当はこのまま彼女を抱いて、自分だけのモノにしてしまいたいと望んでいる。

 それほどまでに彼女に恋焦がれて。
 それほどまでに彼女を渇望している。
 これでは呪いをかけられた王子ではなく、姫に焦がれた魔法使いだ。
 想いを伝えることもできず。 殺すこともできず。 他の男の物になるくらいならばと呪いをかけて眠りに落とした、身勝手な魔法使い――。



(…、違う)



 そもそも自分は、魔法使いではないのだ。
 呪うという行為の馬鹿馬鹿しさも、かけられる側の迷惑も、とうに身にしみている。
 彼女にこんな思いをさせるぐらいならこの腕に抱いてさらったほうがよっぽどマシなのではないか。



 だから、さっさと目を覚ますべきなのは自分だ――――!



「――――……っすま、ない……」
「…ぇ…」
「僕は…どうかしていた…」

 神経を揺らす甘い匂いと心地よいぬくもりからわずかに離れるだけで、相当の気力がいった。

 体中で持て余す熱は落ち着くことなくを求めている。
 今すぐにでも彼女を抱き寄せてその膝裏を抱え、やめてと泣き叫ぶ声を無視して欲望のまま貪りたくなる衝動が絶えず渦を巻いているのがわかる。

 それを唇を噛み締めることで堪え、イオスはさらにからふらりと距離をとった。
 ゆっくりと離れていくイオスを泣きそうな目で見つめるに――出来る限りやさしく、微笑む。
 それは繕うように引きつったような微笑みで、こんな笑い方ではは安堵に笑ってくれないだろうがそれでも――もう、大丈夫なのだと。 少しでも彼女に安心してほしかった。

「怖い思いをさせて、すまない…」
「……」
「落ち着くまで、少し時間をくれないか…これは時間が経たないと収まらないらしい…」

 息を弾ませたまま、ひどく気だるげに床に座り込む。
 もうどんな姿だろうが構わない。 猫耳だろうが犬耳だろうが好きにしてくれ。
 けれど彼女を傷つけようとする、この狂暴な衝動だけは一刻も早く収まってくれ――思わず祈るような心地で膝に顔を伏せて熱が引くのを待っていれば、不意に、すぐそばでの気配がした。

「…?」

 わずかに顔を起こして見上げると、はゆっくりとイオスの目の前に座った。
 途端に、むせ返るほどの甘い匂いがイオスの理性をガツンと砕きにかかる。
 彼女の匂いをこうまで濃厚に嗅ぎ取ってしまうのは猫の姿のせいなのか――転生したら絶対猫にはなりたくないなとうんざりしながら顔を伏せ、顔を上げられないまま”はなれて”と手でやわらかく彼女を制すれば、はそっと、制したイオスの指を握り締めた。


「……?」

「…な、なんだかよく分からないけど……その、ごめんねイオス…」


 はイオスの異常を察していて、それで許してくれるのだろうか。
 いっそ怒鳴ってくれれば異性として意識してもらえた気にもなるのに怒りもしないなんて、あんなことがあっても友人関係からの脱却が出来ていないのだと言われていることに等しい。

「……君はお人よし過ぎるな…」

 だが、想いも伝えていないのに友人からの脱却したいなどと願うほうが身勝手か。
 そんな自分へと呆れた風につぶやいたイオスが可笑しかったのか、は「そうかな?」と小さく笑った。
 いつも見てきたその笑顔を向けられて、”完全に嫌われたわけではない”と心の底から安堵の息を吐く。

「怖がらせたお詫び…」
「え?」
「…なんでもするから、考えておいてくれ…」

 とにかく、嫌われていないなら本当に良かった。
 あのまま続けていれば、イオスはを失って、誰より自分が後悔しただろう。
 ああけれど、今日は本当に疲れたな…ルヴァイド様たちは無事なのだろうか。 と、力なく目を伏せて、徐々に落ち着きつつある熱と呼吸をさらに追い出すように深いため息を吐いた、そのとき。



「イオスー! ちゃーん! 無事かしらー?!
 言いそびれたんだけど、あの薬草スープにはヘンな副作用があって……」



 諸悪の根源が、満面の笑みで部屋に踏み込んできた。












「……で、中途半端に戻ると、だ。
 動物だった名残で発達した嗅覚により、神経系が刺激されて興奮すると」


 しかも想いを寄せる特定の異性の匂いに、特に敏感になる、と。


「そうなのよ! 口づけで戻るというのも、薬の効果で×××になった○○○○が、***の■■になって×××××…さすがメイトルパの希少種の薬草、素晴らしいわ〜!
 これは新しい発見よイオス。 あなたの犠牲は無駄じゃなかった!」

「僕はお前の家にある書を全て燃やしたほうが、世の中のためだと思うぞ」


 騎士団員全員分の解毒薬を詰めた箱を両手に抱え、イオスとミモザを訓練場の門をくぐった。

 空はすでに赤く染まり、今日という一日が早くも終わろうとしている。
 今回の出来事は、自由騎士団の黒歴史として密やかに語り継がれていくことだろう。
 民のためにと設立を果たした栄光ある騎士団の初代でこんな歴史が生まれるなどもってのほかだが、”召喚師の贈り物は容易に口に入れるべからず”といった教訓を、今後のために活かせるならばまさしく尊い犠牲には違いない。

 イオスの身に降りかかった災難…もとい事故(と、ミモザは言い張ったがまぎれもなくこれは悪意のある呪いだ)の話を聞いて、はすぐさま犬猫の姿となったルヴァイドたちを見に――いや、彼らの身を案じて先に行ってしまった。

 動物好きの彼女なら、きっと今頃大喜びでルヴァイドたちと戯れているだろう。
 嬉しそうな笑顔を思い返すと、この一件で荒んだ心も癒えるというもの。
 ”僕はやっぱり、彼女に弱いな…”と若干惚気のような感想をこっそり胸の内にもらしながら、訓練場の広場に到着すると案の定、の楽しそうな笑い声が夕焼けの空に響いた。


「きゃああぁぁぁ、かわ、かわっ、かわいいいぃぃぃ〜〜〜〜!!!!(↑↑↑↑)」


 まだ犬の姿のままのルヴァイドとシャムロックが、ぎゅうっとに抱きしめられている。
 彼らは酷く困惑した様子で、それでいて抵抗し疲れたのかぐったりとしてされるがままになっていたが、尻尾はぱたぱたと揺れていたのでそれほど嫌がっているわけではないようだ。

「あ、イオス! ね、ね、この子たちがルヴァイドとシャムロックでしょ?」
「ああ」
「うわー! ルヴァイドはキリっとしててかっこいいしシャムロックはもふもふだ〜〜ほら、顔をもっとよく見せて!」

 アルバもの周囲をちょろちょろと動き回って構ってほしそうにしている。
 そんなたくさんの犬猫の集まりには興奮してばかりだ。
 ついにはルヴァイドとシャムロックの顔をぐいっと引き寄せて、頬ずりをし、そして。

「あらら」
「……っ!」

 キスをした。
 慕ってくれる動物への親愛の証にキスをすることもあると聞くが、は躊躇いなくそれをやってのけたのだ。( 一方で、二匹の犬は尻尾をぴんっと立たせたまま硬直してしまっている)

「な、。 なにを…っ」
「ん? なにヘンな顔してんのイオス」

 いくら犬の姿だからとはいえ、ルヴァイドとシャムロックだということには変わりはないのに……ミモザは何が面白いのか、イオスの顔を見てにやにや笑っている。

「残念ねー、自分だけかと思ったのに」
「……うるさい。 無駄口を叩いてないで彼らを早くもとの姿に―――、っ!!?」

 カッと目を刺すほどの眩しい光が一帯を包みこみ、イオスの言葉はそこで止まってしまう。

 見覚えのある光だ。
 光の直撃を受けたの驚く声と、光に戸惑って吠え惑う騎士団員たちの賑やかさに、「まさか」と嫌な予感が込み上げてイオスは目を凝らした。


 薄っすらと晴れていく光のなかに、二人の男の姿が――。


「…む、元に戻ったぞ」
「本当だ。 だが、解毒薬を飲んでいないのにどうして…」


 人間の姿に戻った、ルヴァイドとシャムロックがそこにいた。
 イオスと同じく犬耳のついた状態で中途半端な戻り方ではあったが、イオスにとってそれでも喜ばしいことには変わりはない。

 ……そのはずなのに、素直に喜べないのはミモザの言葉が脳裏に過ぎったからで。





”魔女にかけられた呪いはいつだって、愛する人の口づけで解けるのよ――”






「いやぁぁ全裸ーーッ?!!」





 またもや男の裸を目の前で目撃してしまったの叫びが、
 夕暮れ間近の美しい空に消えていった。

パニックアニマルアワー 3

あとがき
300万HIT・8周年ありがとうございます!
朝岡芹さんよりリクエスト
「2か4で甘いお話。イオスが猫に。微エロ」でお届けいたしました。
微エロ…?逆ハーっぽくなってしまいましたが、大丈夫だったでしょうか…?(^^)
匂いにはぁはぁしててもイオスなら許してもらえそうですね。(え) くっつかせてあげればよかったかなぁと。
ルヴァイドはドーベルマン?、シャムロックはゴールデンレトリバーのイメージww

■ 朝岡芹さん へ■
お祝いとリクエストありがとうございました。
大変遅くなってしまいましたが、楽しんで書かせていただきました。ネコMOEEEEE!!!!!!!
ミモザにことごとく一服盛られてかわいそうですがネコ耳MOEEEEEEEEE!!!!!!!!!!
せっかくなので自由騎士団を犬猫に変えてしまいましたが、でもルヴァイドとシャムロックと
アルバは犬系男子だと信じております…。

本気になったイオスはエロさが半端ないと思います。
だがそこがいい。
2014.8.17